ベアトリーチェ・デステ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/02 21:56 UTC 版)
ベアトリーチェ・デステ Beatrice d'Este |
|
---|---|
ミラノ公妃 | |
![]() |
|
在位 | 1494年 - 1497年 |
|
|
出生 | 1475年6月29日![]() |
死去 | 1497年1月2日(21歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
結婚 | 1491年1月17日 パヴィア、ヴィスコンティ城 |
配偶者 | ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ |
子女 | マッシミリアーノ フランチェスコ2世 |
家名 | エステ家 |
父親 | フェッラーラ公エルコレ1世・デステ |
母親 | エレオノーラ・ダラゴーナ |

![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2023年1月)
( |
ベアトリーチェ・デステ(Beatrice d'Este, 1475年6月29日 - 1497年1月2日)は、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの妃。イタリア・ルネッサンス期を代表する女性として知られている。フェッラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、イザベラ・デステの妹、アルフォンソ・デステの姉にあたる。
生涯
15歳で、バーリ公ルドヴィーコ・スフォルツァと婚約し、1491年1月に結婚した(ベアトリーチェとルドヴィーコの結婚と同時に、ベアトリーチェの弟アルフォンソとルドヴィーコの姪のアンナ・マリーア・スフォルツァ(ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの妹)との結婚式も行われた)。
彼女はきちんとした教育を受け、ニッコロ・ダ・ゴッレジョ、ベルナルド・カスティリョーネ、ドナト・ブラマンテ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョヴァンニ・アントニオ・アマデーオといった学者・詩人・芸術家らを要するきらびやかな宮廷の中にいた。ダ・ヴィンチは結婚の祝いとして、彼女の肖像画を贈っている。
1492年には、夫のため大使としてヴェネツィアへ赴いた。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァが死ぬと、ルドヴィーコの公位継承をめぐりフォルノヴォの戦い(1495年)が起こるが、フランス王シャルル8世と公の間にヴェルチェッリの和議が結ばれ、ベアトリーチェはこの出来事に貢献して政治的な才能を見せた。
1497年1月、第3子となる三男を死産したのち、死去した。
子女
外部リンク
- ベアトリーチェ・デステ - 歴史人物辞典(中世、ルネサンス期の主にイタリアの歴史人物辞典。)
固有名詞の分類
- ベアトリーチェ・デステのページへのリンク