ベアトリーチェ・ディ・シチリアとは? わかりやすく解説

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ベアトリーチェ・ディ・シチリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/26 21:14 UTC 版)

ベアトリーチェ・ディ・シチリア
Beatrice di Sicilia

出生 (1252-01-09) 1252年1月9日
シチリア王国ナポリ
死去 (1275-11-17) 1275年11月17日(23歳没)
ナポリ王国アンドリア
配偶者 フィリップ1世・ド・クルトネー
子女 カトリーヌ
家名 アンジュー=シチリア家
父親 シチリアナポリカルロ1世
母親 ベアトリス・ド・プロヴァンス
宗教 キリスト教カトリック
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ベアトリーチェ・ディ・シチリア(イタリア語:Beatrice di Sicilia, 1252年1月9日 - 1275年11月17日)またはベアトリス・ダンジュー(フランス語:Beatrice d'Anjou)は、名目上のラテン帝国皇帝フィリップ1世・ド・クルトネーの妃。シチリアナポリカルロ1世ベアトリス・ド・プロヴァンスの娘。

生涯

1267年5月27日に締結されたヴィテルボ条約のもと、ボードゥアン2世はラテン帝国の権利の多くをカルロ1世に移譲した[1]。カルロ1世はコルフ島アルバニアのいくつかの町の領有を認められ、アカイア公国の宗主権と、ヴェネツィアの領有する島およびレスボス島ヒオス島サモス島アモルゴス島を除くエーゲ海諸島の統治権を与えられた。また、この条約においてボードゥアン2世の嗣子フィリップ1世・ド・クルトネーとベアトリーチェの結婚が決められた。もしこの結婚で子供が生まれなかった場合には、フィリップの権利はカルロ1世が継承することも決められた[1]。ベアトリーチェはこのとき15歳ほどであった。

1273年10月15日フォッジャにおいてベアトリーチェとフィリップの結婚式が行われた。ベアトリーチェは21歳、フィリップは30歳であった。ボードゥアン2世はその数日後に死去した。フィリップとベアトリーチェはラテン皇帝および皇后として宣言された。夫婦は円満で、一人娘のカトリーヌ1274年11月25日に生まれた。

ベアトリーチェは短期間病にふせった後、1275年11月17日に死去した。

脚注

  1. ^ a b John V.A. Fine, Jr., The Late Medieval Balkans (1987), p. 170.



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