ボードゥアン2世_(ラテン皇帝)とは? わかりやすく解説

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ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/10 16:32 UTC 版)

ボードゥアン2世・ド・クルトネー
Baudouin II de Courtenay
ラテン皇帝
ボードゥアン2世の璽
在位 1228年 - 1261年
別号 ナミュール侯

出生 1217年
ラテン帝国コンスタンティノープル
死去 1273年
シチリア王国ナポリ
配偶者 マリー・ド・ブリエンヌ
子女 フィリップ
家名 クルトネー家
父親 ピエール2世・ド・クルトネー
母親 ヨランド・ド・フランドル
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ボードゥアン2世・ド・クルトネーフランス語: Baudouin II de Courtenay, 1217年 - 1273年)は、ラテン帝国最後の皇帝(在位:1228年 - 1261年)、ナミュール侯。初代皇帝ボードゥアン1世の妹のヨランドと皇帝ピエール2世・ド・クルトネーの子。父方の祖父のピエール1世フランスルイ6世の末子である。

生涯

兄でラテン皇帝であったロベールが1228年に死去し、同年、皇帝位を継承した。若年で即位したため、治世当初は妻の父のジャン・ド・ブリエンヌを摂政としていた。この頃になるとラテン帝国は、東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国ブルガリアの侵攻を受けて衰退し、ボードゥアン2世は帝国の存命を図るために西欧諸国に援助を求めるという有様であったという。また、1242年夏頃にはモンゴル軍の侵攻を受けて敗北を喫し、ラテン皇帝の威信は更に低下した。しかし、西欧諸国の援助は得られず、1261年、時のニカイアの共同皇帝ミカエル8世パレオロゴスの攻撃を受けて帝国の首都コンスタンティノポリス陥落し、ボードゥアン2世はイタリアに亡命した。これにより、ラテン帝国は完全に滅亡し、東ローマ帝国が復活したのである。

その後はシチリアシャルル1世・ダンジューの許へ亡命し、死の直前の1273年、シャルルにラテン帝国の帝位継承権を与えて死去したという。

子女

1229年にエルサレム王であったジャン・ド・ブリエンヌの娘マリーと結婚した。

参考文献

  • 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年。 
  • Louda, Jiří; Maclagan, Michael (1981). Lines of Succession. Little, Brown & Company 
先代
マルグリット
ナミュール侯
1237年 - 1259年
次代
アンリ3世



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