ボードゥアン3世 (エルサレム王)とは? わかりやすく解説

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ボードゥアン3世 (エルサレム王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 15:08 UTC 版)

ボードゥアン3世フランス語: Baudouin III, 英語: Baldwin III, 1130年 - 1163年2月10日[1])は、エルサレム王(在位:1143年 - 1163年)である。父親はエルサレム王フルク5世、母親はメリザンド英語版である。ボードゥアンはまだ幼いころに王位を継承したため、治世初期は母親のメリザンド王妃が摂政として政治を取り仕切っていたが、成長後にメリザンドとボードゥアンは対立。内戦を経て、ボードゥアンはメリザンド派を討伐し、親政を開始した。ボードゥアンの治世において、エルサレム王国ビザンツ帝国と以前にも増した強固な同盟を締結した。また第2回十字軍の折には王国はダマスカス征服を試みたが、これは失敗に終わった。ボードゥアンは王国南部の重要な要塞アスカロンファーティマ朝より奪還し占領することに成功したものの、王国北部のシリア地方で勢力を拡大していたヌールッディーン率いるザンギー朝に対しては苦戦を強いられた。彼は継嗣を残すことなく亡くなり、エルサレム王位は弟のアモーリーに継承された。


  1. ^ Barber 2013, p. 217.
  2. ^ "549年/1154年に、父親のエデッサ征服が十字軍のきっかけとなったヌール・アル・ドゥルン・ゼンギは、その結果としてダマスカスを占領した。その後、彼はエルサレム王国に対する戦争の遂行に専念する国家をつくりあげた。同時に、ボードゥアン3世は貴族に対する権力を主張し、王国を対抗者らにとってより危険なものとした。"(Petry, Carl F. (1999). The Cambridge History of Egypt, Cambridge University Press, p. 213)
  3. ^ "...ボードゥアン3世は新たな行動の自由を得て、548年/1153年にアスカロンを征服した。"(Petry, Carl F. (1999). The Cambridge History of Egypt, Cambridge University Press, p. 213)
  4. ^ Boehm, Barbara Drake; Holcomb, Melanie (2016). Jerusalem, 1000–1400. Metropolitan Museum of Art. p. 155. ISBN 978-1-58839-598-6. https://books.google.com/books?id=Ay30DAAAQBAJ&pg=PA155. "Portion of a Transenna Panel […] CTS-SB-09460" 


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