ヨランド・ド・エノーとは? わかりやすく解説

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ヨランド・ド・エノー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/22 09:39 UTC 版)

ヨランド・ド・エノー
Yolande de Hainault
ラテン女帝[1](または摂政[2])
在位 1216年 - 1217年
別称号 ナミュール女侯

出生 1175年
死去 1219年8月
結婚 1193年
配偶者 ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネー
子女 本文参照
家名 エノー家
父親 エノー伯ボードゥアン5世
母親 フランドル女伯マルグリット1世
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ヨランド・ド・エノーフランス語:Yolande de Hainault, 1175年 - 1219年8月)またはヨランド・ド・フランドル(Yolande de Flandre)は、ラテン帝国女帝[1](または摂政[2]) (在位:1217年 - 1219年)。夫ラテン皇帝ピエールコンスタンティノープルに到着する前に捕まり投獄されたため、ヨランドがラテン帝国を代わりに統治する役割を担ったとみられる。また、ヨランドは1212年から1217年までナミュール女侯でもあった。

生涯

ヨランドはエノー伯ボードゥアン5世フランドル女伯マルグリット1世の娘である[3]。兄弟のボードゥアン1世アンリ1世はラテン帝国の皇帝となった[3]

1212年、ヨランドは弟フィリップ1世よりナミュール侯位を継承した。

1216年に弟のラテン皇帝アンリ1世が死去した後、ヨランドの夫ピエールが即位するまで皇帝位は空位であった。ラテン帝国に向かう途中で、ピエールは妃ヨランドを先にコンスタンティノープルに向かわせ、自らはエピロス専制侯国と戦い、そのさなかに捕らえられた。その後ピエールがどうなったかは不明だが(恐らく殺されたとみられる)、2年間ヨランドはラテン帝国を統治した。

ヨランドはビザンティン帝国の後継国家に対抗するためブルガリアと同盟を結んだ。後にヨランドはニカイア帝国皇帝テオドロス1世ラスカリスと和平を結び、テオドロス1世はヨランドの娘マリーと結婚した。ヨランドはその後まもなく1219年に死去した。

ヨランドの死後、長男フィリップが皇帝位につくことを拒否したため、次男ロベールがラテン皇帝となった[4]。この時、ロベールはまだフランスにいた。

一方ヨランド自身が1212年に継承したナミュール侯位は、ヨランドが1216年にコンスタンティノープルに向かった時に長男フィリップが継承していた。

子女

ロベール2世・ド・クルトネーとの間に10人の子女が生まれた。

脚注

参考文献

先代
フィリップ1世
ナミュール女侯
1212年 - 1216年
次代
フィリップ2世



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