モデナ公家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:05 UTC 版)
「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事における「モデナ公家」の解説
「オーストリア=エステ家」も参照 モデナ公国は元来エステ家が統治していたが、1803年エルコレ3世が男子を残すことなく没して断絶した。エルコレ3世はフランツ・シュテファンの四男フェルディナント大公を相続人に指名し、また娘マリーア・ベアトリーチェ・デステと結婚させていた。フェルディナントはオーストリア=エステ大公を称し、新たなモデナ公家としてオーストリア=エステ家を興すが、ナポレオン戦争のさなかにあって公位を継ぐことができないまま1806年に没し、息子フランチェスコ4世が1814年に再興されたモデナ公国の公位に就いた。しかしモデナ公国もリソルジメントの中、1860年にサルデーニャ王国に併合された。 公国を追われたフランチェスコ5世には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はフランツ・フェルディナント大公が継承した。ただし、フランツ・フェルディナントはオーストリア=エステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は甥カール1世へ、カールの皇帝即位後は次男ローベルトへと公位は継承された。なお、カール1世は上記のフェルディナント大公とマリーア・ベアトリーチェ夫妻の長女の玄孫にあたるツィタと結婚したため、ローベルト以降の子孫はオーストリア=エステ家との血統上の繋がりがある。 現在のモデナ公、オーストリア=エステ大公ローレンツはローベルトの息子であるが、ベルギー王女アストリッドと結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も有する。 モデナ公国の君主 フランチェスコ4世(1814年 - 1846年) フランチェスコ5世(1846年 - 1859年)
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