1400年から1800年まで
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「ノイハウス (オーステ)」の記事における「1400年から1800年まで」の解説
1404年にオッター2世大司教は、アウエ川右岸に Nygehus(=新しい家)という名の新しい城砦を築いた。これによりノイハウスが初めて文献に記録された。この城も近隣の住民によって1420年に破壊された。Nyehus は、Brug(城砦)と記述されてはいるが、エルベ=ヴェーザー地方の他の城砦と同様に、それは防御柵と水堀を巡らせた、木材とレンガで造られたやや大きな木組み建築に過ぎなかった。周辺の湿地の住民たちは、1423年に正式に同盟を結んだ。この同盟は、ビュルカウ教区、オペルン教区、ベルム教区、ビュルスドルフ教区とラント・ケーディンゲン全域を取り囲んでいた。この時初めて「キルヒシュピール」(ドイツ語: Kirchspiel) という記述がされている。キルヒシュピール・ビュルスドルフに教会があったかどうかは証明できないが、想像することも困難である。教会は15世紀に破壊されたと考えることもできる。この頃教会組織がケーディングブルーフに編入されているからである。 大司教バルドゥイン2世は、激昂したマルシュの住民に対して前任者がケーディンゲン住民の脅威となる砦を建設することはしないと約束したにもかかわらず、1435年に「城館」と呼ばれる建物を建設した。この建物は村の中央のアウエ川沿いに建設されており、城館であったか城砦であったかは議論の余地がある。この城は、15世紀および16世紀にハーデルン、ヴルストナー、ケーディンゲンの住民によってたびたび破壊され、18世紀以降再建されることはなかった。かつての城山は現在大きな戦争記念碑を持つ城館公園に囲まれ、その跡をはっきりと識別することができる。 様々な戦闘が伝えられているが、ラント・ビュルカウ周辺で最も重要な戦いは、キルヒシュピール・ビュルカウ、オッペルン、ケーディングブルーフ、ベルムがその自由を求めてブレーメン大司教クリストフ・フォン・ブラウンシュヴァイク(ドイツ語版)およびその支援者とハーデルナー・ラントで戦った戦闘であった。ハーデルンの領主ザクセン=ラウエンブルク公マグヌス(ドイツ語版、英語版)は、キルヒシュピールの試みを支援した。こうした支援にもかかわらず、大司教はラント・ビュルカウを征服することに成功した。1516年に反抗したキルヒシュピールの課税に関する協定が大司教とザクセン=ラウエンブルク公との間で締結された。これは懲罰ではなく、古い協定の復活に過ぎなかった。しかし公はこの協定を遵守せず、大司教領およびノイハウス城を荒らし回った。この城は速やかに復興されたが、大司教は常に資金不足で、大司教領のいくつかの部分を借金の担保にしなければならなかった。1540年頃、ノイハウス城とそこから得られる収入のすべてが、4000グルデンの借金と引き換えにヨハン・フォン・ミュンヒハウゼンに抵当に入れられた。特別税によって1544年にはこの借金は返済されたが、シュマルカルデン戦争により1547年6月9日にプロテスタントの司令官マンスフェルト伯アルブレヒトによって戦闘することなく占領された。およそ1年後にブレーメン大司教軍がこの城館を再び占領した。 この城館は、ブレーメン大司教の最も重要な前線基地の1つであった。その力を強化するために、この城はアムト・ノイハウス の行政本部となり、大司教の官僚(初めはフォークト、その後アムトマンあるいはドロステと称した)が配属され、中世のあらゆる反抗に耐え抜いた。地域の境界は、北は北海、東はラント・ケーディンゲンおよびキルヒシュピール・オーステン、南はベルデ・ラムシュテット、西はラント・ハーデルンであった。ここには以下の各教区が含まれた: キルヒシュピール・ベルム、ビュルカウ、カーデンベルゲ、ゲーファースドルフ、ケーディングブルーフ、オーベルンドルフ、オッペルン。 戦略上重要で、そのために紛争の元となるオーステ川河口の境界に近いベルム砦に隣接しているため、ノイハウスで穏やかな時代が始まったのは17世紀末になってからであった。 街道: 1847年にシュターデからリッツェビュッテル(現在はクックスハーフェン市内)までの郵便路が完成された。これは、現在の連邦道(ドイツ語版、英語版) B73号線の前身である。それ以前は週に2便か3便程度であった郵便馬車が、毎日走行できるようになった。1850年頃にはカーデンベルゲとオッテルンドルフが結ばれた。マルシェン街道は多額の経費をかけて建設され、維持された。1860年頃にゲーファースドルフを経由してフライブルク/エルベへの街道が加わり、1871年頃にイッツェンビュッテルやケーディングスブルーフを経由してビュルカウへの街道が整備された。 鉄道: 1872年にアムト・ノイハウスと、クックスハーフェナー鉄道・蒸気船・港湾会社 AG との間で、1900 m 区間の路線と駅を建設するためにノイハウスが10万ターラーを出資する案に関する書簡が交わされた。しかし実際にはカーデンベルゲとオッテルンドルフとの区間が建設されただけで、ノイハウスからは 2.5 km 離れていた。この路線は、1881年11月11日に営業が開始された。 1853年以降、夏には週に3便蒸気船ライゼンデがハンブルクからノイハウスに運航し、ここからはさらにハドラー・ラントへ馬車が通じていた。 18世紀にノイハウスは行政の中心地となった。1740年から宿駅が設けられた。ノイハウス港はこの地域で最も重要な交易ハブの1つとなった。当時は水上交通の方が陸上交通よりも容易であったため、この港が旅の出発点となった。 1853年の首長言行録に「ハノーファーのアムト、エルベ川河口沿いのブレーメン公領ラントドロスタイ(代官区)・シュターデは人口12,500人。アムト所在地はオーステ川沿いの市場町にある。この町は美しく造られており、税関、税務署、および2つの埠頭を持つ港を持ち、住民は商売、造船、水運、漁業、農業、赤なめしおよび白なめし、リネンおよびウール織りを主な生業としており、人口は1,520人である」と、記されている。
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