エクスの受胎告知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 06:17 UTC 版)
「バーテルミー・デック」の記事における「エクスの受胎告知」の解説
1441年から1445年の制作日付が入っている『エクスの受胎告知』は、デックの作品であると広く認められている。三連祭壇画で、現在はエクス=アン=プロヴァンス、ブリュッセル、アムステルダム、ロッテルダムに散逸して保管されている(片翼は2枚に切断されているため、4箇所となっている)。この作品はデックの義父の求めで描かれたもので、ディジョンで活動していた初期フランドル派の画家ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、彫刻家クラウス・スリューテルや、ナポリの画家ニッコロ・アントニオ・コラントニオ(英語版)の影響がみられる。 『エクスの受胎告知』は、ヤン・ファン・エイクが以前に描いたワシントンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている『受胎告知』などのように、非常に複雑な寓意に満ちた作品となっている。1456年の制作日付の入った見事な肖像画(ウィーン、リヒテンシュタイン・コレクション所蔵)と、キリストの磔刑を描いた断片(ルーブル美術館所蔵)とともに組み合わされていた祭壇画で、デックが描いた現存する唯一のパネル画と考えられている。デックがキャリア後期に残した作品はほとんどが装飾写本で、ルネ・ダンジューの求めによって制作されたものだった。 ルネはアンジュー公ルイ2世の次男に生まれ、1435年にナポリ王となったが、後にアラゴン王アルフォンソ5世に敗れ1442年に王位を追われている。ルネがナポリ王となった時に、デックもナポリに移住することになった。このことがデックの作品がナポリで有名となった理由で、コラントニオやアントネロ・ダ・メッシーナのようなナポリ在住の画家たちの作品に影響を及ぼすようになった一因である。自身の領地であるフランス南部やロワール渓谷で過ごすのを好んだルネは、詩や絵画などの才にも恵まれていた。現在ではデックの作品であると見なされている装飾写本が、過去には長い間ルネの手によるものであると考えられていた。 現存する記録によると、1447年ごろからデックは「芸術家ならびに近侍(peintre et varlet de chambre)』(または部屋付き侍従(英語版))として名前が残っている。この「近侍」は、ブルゴーニュ公フィリップ2世の宮廷でのヤン・ファン・エイク、ベリー公ジャン1世の宮廷でのリンブルク兄弟なども就いた地位で、デックはルネの個人的秘書として宮廷内でも重要な役職を与えられたのである。デックはルネとともにフランス南西部のギュイエンヌやアンジェを訪れた。1447年から1449年にかけて、デックのアトリエはルネの私室の隣にあり、このことはルネとの間に緊密な信頼関係があったことを示唆している。 デックの記録が最後に現れるのは1469年である。当時は年俸とともに3人の召使いあるいは助手、3頭の馬を支給されていた。デックが少なくとも1476年まで存命だったことは複数の証拠によって確認することができる。
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