エクスでの隠遁生活(1880年代)
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「ポール・セザンヌ」の記事における「エクスでの隠遁生活(1880年代)」の解説
セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。 そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。1879年4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた。セザンヌは、こうしてサロン応募を優先したが、この年のサロンにも落選した。 セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ。 画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼にホメオパシーの神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている。また、ゴッホは、後に、アルルに移った時、「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる。プロヴァンスの荒々しい面を力強く示しているからだ。」と書いている。 1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家とマルセイユの妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダン(英語版)に買った別荘に招待されることも度々であった。 1882年、『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロン(フランス芸術家協会が1881年、美術アカデミーから引き継いで開催していたもの)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメの弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという。 1886年、ゾラが小説『作品(英語版)』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルド(英語版)の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロ(フランス語版)をめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている. しかし、2014年にこれまで絶交したと思われていた年より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見されるに至り、断絶説の再考が求められている。 同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。 サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。1889年にパリ万国博覧会で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年、ブリュッセルの20人展に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、アルベール・オーリエ、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ギュスターヴ・ジェフロワ、ジョルジュ・ルコント、シャルル・モリス(フランス語版)などである。 ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている。ギュスターヴ・カイユボットが、1894年に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派の絵画コレクションを政府に遺贈したところ、アカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着したが、このこともセザンヌの知名度を増すことになった。 1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった。 『サント・ヴィクトワール山』1887年頃、67 × 92 cm。コートールド・ギャラリー。 『カード遊びをする人々』1890-92年、65 × 81 cm。メトロポリタン美術館。 『男性水浴図』1892-94年、26 × 40 cm。エルミタージュ美術館。 『リンゴの籠のある静物』1890-94年。シカゴ美術館。 『黄色い椅子のセザンヌ夫人』1893-95年、81 × 85 cm。個人コレクション。
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