エクスでの隠遁生活とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > エクスでの隠遁生活の意味・解説 

エクスでの隠遁生活(1880年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 15:22 UTC 版)

ポール・セザンヌ」の記事における「エクスでの隠遁生活(1880年代)」の解説

セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ対象物確固とした存在感なおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。 そして、セザンヌは、モネルノワールピサロとの友情保ちながらも、第4回印象派以降には参加していない。1879年4月ピサロ対し、「私のサロン応募のことで論争起こっている折から、私は印象派展覧会参加しない方がよいのではないか考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている。印象派グループ中でもモネルノワールと、ドガとの対立鋭くなり、ドガ出品する第4回1879年)、第5回1880年印象派展を、モネルノワールボイコットするという事になっていた。セザンヌは、こうしてサロン応募優先したが、この年サロンにも落選したセザンヌは、同時期から、制作所をパリから故郷エクス戻した第3回印象派展の後、1895年最初個展を開くまで、パリ画壇からは知られることなく制作続けた1878年から1879年にかけて、エクスエスタック滞在することが多くなった。この頃妻子存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し1878年4月から8月頃毎月送金半分減らされゾラに月60フラン援助頼んだ画材タンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多くポール・ゴーギャンフィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌ研究したまた、ショケピサロガシェなどもタンギーの店でセザンヌ作品買ったゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人認められる作品を描くための正確な定式発見したでしょうか。[……]どうか彼にホメオパシー神秘的な与えて眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たち報告しパリまで来てください。」という手紙送っている。また、ゴッホは、後に、アルル移った時、「前に見たセザンヌ作品が、否応なく心に蘇ってくる。プロヴァンス荒々しい面を力強く示しているからだ。」と書いている。 1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏過ごしエクスの父の家とマルセイユ妻子のいる家とエスタック自分の家行き来しサロンシーズンが始まる3月にはパリ出てパリアパルトマン借りたりムランポントワーズといった近郊の町下宿したりする、という生活を繰り返していた。パリ訪れた時は、ゾラセーヌ川沿いのメダン英語版)に買った別荘招待されることも度々であった1882年、『L・A氏の肖像』という作品初めサロンフランス芸術家協会1881年美術アカデミーから引き継いで開催していたもの)に入選した。この時、彼は、サロン審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメ弟子という形にしてもらい、審査員弟子1人入選させることができるという特権使って入選させてもらったという。 1886年ゾラ小説作品英語版)』を発表したゾラはこの小説の中でセザンヌマネモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公芸術的失敗描いた同年4月ゾラから献本されたこの本をエクス受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙送った。この小説きっかけとなり、セザンヌゾラ友情断たれてしまったというのが、セザンヌ研究第一人者ジョン・リウォルド(英語版)の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌ助言反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロ(フランス語版)をめぐる恋愛関係2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている. しかし、2014年これまで絶交した思われていた年より後年交友を示す手紙新著『大地』へのお礼と「君がパリ返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見される至り断絶説再考求められている。 同年1886年4月28日17年同棲していたオルタンス・フィケと結婚した同年10月、父が88歳で死去した。父から相続した遺産40フランであり、経済的には不安がなくなったサント・ヴィクトワール山などをモチーフ絵画制作続けたが、絵はなかなか理解されなかった。1889年パリ万国博覧会旧作首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年ブリュッセル20人展招待され3点油彩画送ったが、余り反響はなかった。しかし、前衛的な若い画家批評家の間では、セザンヌ対す評価高まりつつあった。ポール・ゴーギャンアルベール・オーリエエミール・ベルナールモーリス・ドニポール・セリュジエギュスターヴ・ジェフロワジョルジュ・ルコント、シャルル・モリス(フランス語版)などである。 ルコントは、1892年著書印象主義者芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩均一性にもかかわらず彼の絵画には力強さみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻一つの章をセザンヌ割いている。ギュスターヴ・カイユボットが、1894年亡くなった時、ルーヴル美術館入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派絵画コレクション政府遺贈したところ、アカデミー画家ジャーナリズムから批判浴びて大問題となり、政府一部のみの遺贈受け入れることで決着したが、このこともセザンヌ知名度を増すことになった1890年頃からは、年齢糖尿病のため、戸外制作困難になり、人物画重点を移すようになった。 『サント・ヴィクトワール山1887年頃、67 × 92 cmコートールド・ギャラリー。 『カード遊びをする人々』1890-92年、65 × 81 cmメトロポリタン美術館。 『男性水浴図』1892-94年、26 × 40 cmエルミタージュ美術館。 『リンゴの籠のある静物』1890-94年。シカゴ美術館。 『黄色椅子セザンヌ夫人』1893-95年、81 × 85 cm個人コレクション

※この「エクスでの隠遁生活(1880年代)」の解説は、「ポール・セザンヌ」の解説の一部です。
「エクスでの隠遁生活(1880年代)」を含む「ポール・セザンヌ」の記事については、「ポール・セザンヌ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「エクスでの隠遁生活」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エクスでの隠遁生活」の関連用語

エクスでの隠遁生活のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エクスでの隠遁生活のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのポール・セザンヌ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS