ポール・セリュジエとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > フランスの画家 > ポール・セリュジエの意味・解説 

ポール・セリュジエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/21 06:54 UTC 版)

ポール・セリュジエ
生誕 Paul Sérusier
(1864-11-09) 1864年11月9日
フランス帝国パリ
死没 1927年10月7日(1927-10-07)(62歳没)
フランス共和国モルレー
国籍 フランス
運動・動向

ナビ派

ポン=タヴェン派
テンプレートを表示
タリスマン(1888年) オルセー美術館蔵)

ポール・セリュジエ: Paul Sérusier, 1864年11月9日 - 1927年10月6日[1]/10月7日[要出典])は、フランスパリ出身のポスト印象派の画家。ナビ派の一員として知られている。

生涯

パリに生まれた。父親は香水作りの会社を経営する実業家で、パリの名門高校で哲学や古典語などを学んだ。しばらく父親の友人の会社で働いた後、1885年にパリの私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンに入学し[2]、陽気な性格は教師や学生たちに愛された。後にナビ派のメンバーとなる画家、モーリス・ドニ(1870-1943)とはこの学生時代から友人となった。

1888年の夏をブルターニュの芸術家村、ポン=タヴァンで過ごした。当時ポン=タヴァンには、エミール・ベルナールポール・ゴーギャンを中心とする画家のグループがいた。セリュジエはゴーギャンの指導を受けた[3]。パリに戻り、ゴーギャンの指導を受けて描いた「タリスマン」という絵画を示し、ゴーギャンから学んだアイデアについて友人たちと熱心に議論した。1889年の夏にもポン=タヴァンに滞在し、セリュジエのとまったPouldu村の宿屋は「ポン=タヴァン派」の拠点となった。

ピエール・ボナールモーリス・ドニアンリ=ガブリエル・イベルスポール・ランソンとともに「ナビ派」と呼ばれる画家のグループが作られ、後にアルマン・セガンエドゥアール・ヴュイヤールケル・グザヴィエ・ルーセルらが加わった。1891年にゴーギャンがタヒチに移った後、グループの結束は緩み、それぞれの画家が独自の画風にかわっていくことになった。1892年にはセリュジエもポン=タヴァンへは行かず、ブルターニュのユエルゴアで過ごした。その後パリで俳優で演出家のリュニェ=ポー(Lugné-Poe)の舞台美術の仕事もした。

作品

関連項目

脚注

  1. ^ Paul Sérusier French painter Encyclopædia Britannica
  2. ^ Arthur Wesley Dow, Joseph Masheck, Composition: A Series of Exercises in Art Structure for the Use of Students and Teachers University of California Press, 1998. ISBN 0-520-20749-1
  3. ^ Bennard B Perlman: Robert Henri: His Life and Art, page 17. Courier Dover Publications, 1991. ISBN 0-486-26722-9

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ポール・セリュジエ」の関連用語

ポール・セリュジエのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ポール・セリュジエのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのポール・セリュジエ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS