パトロンとしての活動
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「ルネ・ダンジュー」の記事における「パトロンとしての活動」の解説
ギリシャ語・ラテン語・イタリア語・カタルーニャ語が出来たほか、絵画と小説・詩の制作、楽器の演奏・作曲、植物栽培にも熱心な文化人で、エクス=アン=プロヴァンスやアンジェでは文学サロンを主宰し、自身でも幾つかの作品をものした。ガルダンヌの牧歌的生活を書いた田園詩『ルニョーとジャンヌトン』、騎馬試合開催のテキスト『騎馬試合の書』、人間の感情を擬人的に表現した騎士道物語『愛に溺れた心の書』などが残されていて、詩人的なきらめきは感じられるが文人君主の域を出ない凡庸な作品と評価されている。 また、15世紀ヨーロッパは南北共に転換期を迎え、イタリアでルネサンスが到来、フーベルト・ファン・エイク・ヤン・ファン・エイク兄弟らの活動で北方ルネサンスも始まる時期にプロヴァンスにおけるルネの芸術擁護も重要と捉えられている。バーテルミー・デックなど芸術家を多数宮廷に召し抱え、画家ニコラ・フロマンなど宮廷の外で活動する芸術家もおり、ルネの晩年にエクスで芸術家40人、契約80件以上、マルセイユで芸術家17人、契約48件、アヴィニョンでは200人以上も関与していたことが明らかになっている。1444年頃にデックが絵画『エクスの受胎告知』を、1453年にアンゲラン・カルトン(英語版)が祭壇画『聖母マリアの戴冠』を、1476年にニコラ・フロマンが祭壇画『燃える柴の祭壇画』を制作、15世紀プロヴァンスはフランス美術史上輝いた時代の1つに数えられる。 デックはフランドル・イタリアの美術交流に関わり、ほとんど生涯が分かっていないが、善良公に仕えディジョンで幽閉中のルネに出会ったとされ、1440年以後ルネの宮廷へ入ったと推測される。この時装飾写本『ルネ・ダンジューの時祷書』を制作したといわれ、1444年の『エクスの受胎告知』を通して北方絵画様式をプロヴァンスへ伝えたことになっている。またイタリア・フランドル芸術家の人的・作品交流が盛んになる中、デックが仲介役として絡み、ナポリへ行って画家ニッコロ・アントニオ・コラントニオに北方様式を教えたことが明らかになり、コラントニオの弟子アントネロ・ダ・メッシーナの作品『受胎告知のマリア』も『エクスの受胎告知』に類似点が見られることからデックの作品を見たと推測される。プロヴァンスの画家たちにもメッシーナの反映が見られるため、これらの点からフランドル・プロヴァンス・イタリアの交流は環状を成して互いに文化的影響を与え、それが形成されたのはデックとルネの関係があったからとされている。 特にアヴィニョンではニコラ・フロマンの庇護者となった。彼は1460年から1470年頃にル・マンの司教座聖堂参事会員シモン・グルバンに『使徒行伝の謎』を発注した。1476年にフロマンは三連式祭壇画『燃える柴の祭壇画』を制作、絵画注文や城館の装飾と紋章を手掛けるなど、ルネのお気に入りとして重用された。エクス大聖堂(英語版)(サン・ソヴール大聖堂)に現存している祭壇画はプロヴァンス絵画を代表する14世紀傑作の1つにあげられ、『旧約聖書』でモーセが燃える柴の炎の中から響く神の声を聞いたという逸事を踏まえ、中央パネルが幼いイエスを抱いて柴の木に座る聖母マリアと下から見上げるモーセ、左右のパネルにはそれぞれルネ・ジャンヌ夫妻が描かれている。周囲はタラスコン城、マグダラのマリアなど聖人も配置されている。 ルネがたびたび催した祭りは領民との精神的な結びつきと産業振興が意図されていた。1474年5月にペストを憂慮してエクスで3日間開催された『聖体祭』は2日間歌・ダンス・芝居などで踊り騒ぐ無礼講、3日目は一転して祈りの日になり、ルネは祭りを通してペストでパニックに陥っている人々の恐怖を和らげ、合わせて祭壇・衣装制作、作物売買など祭りで経済活性化を図った。こうした意図は騎馬試合にも見られ、1448年のサント=マリー=ド=ラ=メールにおけるミサでは祈りを領民と共有する目的があったとされる。
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パトロンとしての活動
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「ロレンツォ・デ・メディチ」の記事における「パトロンとしての活動」の解説
ボッティチェリ、リッピなどの芸術家やフィチーノ、ミランドラら人文主義者を多数保護し、芸術・学芸のパトロンとして、祖父コジモと並んで、後世まで模範と仰がれた。古典の教養も豊かで祖父コジモの代に創立されたプラトン・アカデミーを主宰。自ら詩作や批評を行い、その文才は現代でも評価されている。青春の美しさと儚さを歌った「謝肉祭の歌」の一節が知られる。 美術のみならず、建築、彫刻においてもパトロンとして知られ、イタリア中に芸術・学問の庇護者メチェナーテ(古代ローマのマエケナスに由来する)として名声を博した。また、ロレンツォの特異な点として、美術家の国外派遣が挙げられる。彼はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣した。これはロレンツォの外交政策の一端ではあったが、これにより、フィレンツェのルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。 このロレンツォの特徴は、コジモと違い資金がなかったことも影響している。 ロレンツォの時代は、ルネサンスが正に華開いた「盛期ルネサンス」と重なる。しかし、ロレンツォ後のフィレンツェは衰退し、ルネサンスの中心はローマへと移っていく事となる。 若き日のミケランジェロに彫刻の才能を見出し、自宅に住まわせて面倒をみた。
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