パトロンとしての活動とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > パトロンとしての活動の意味・解説 

パトロンとしての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:44 UTC 版)

ルネ・ダンジュー」の記事における「パトロンとしての活動」の解説

ギリシャ語ラテン語・イタリア語カタルーニャ語出来たほか、絵画小説・詩制作楽器演奏作曲植物栽培にも熱心な文化人で、エクス=アン=プロヴァンスアンジェでは文学サロン主宰し自身でも幾つかの作品ものしたガルダンヌ牧歌的生活を書いた田園詩『ルニョーとジャンヌトン』、騎馬試合開催テキスト騎馬試合の書』、人間感情擬人的に表現した騎士道物語『愛に溺れた心の書』などが残されていて、詩人的なきらめき感じられる文人君主の域を出ない凡庸な作品と評価されている。 また、15世紀ヨーロッパ南北共に転換期迎えイタリアでルネサンス到来、フーベルト・ファン・エイク・ヤン・ファン・エイク兄弟らの活動北方ルネサンスも始まる時期プロヴァンスにおけるルネ芸術擁護も重要と捉えられている。バーテルミー・デックなど芸術家多数宮廷召し抱え画家ニコラ・フロマンなど宮廷の外で活動する芸術家もおり、ルネ晩年エクス芸術家40人、契約80件以上、マルセイユ芸術家17人、契約48件、アヴィニョンでは200人以上も関与していたことが明らかになっている。1444年頃にデック絵画エクスの受胎告知』を、1453年にアンゲラン・カルトン(英語版)が祭壇画聖母マリア戴冠』を、1476年ニコラ・フロマン祭壇画燃え祭壇画』を制作15世紀プロヴァンスフランス美術史輝いた時代1つ数えられるデックはフランドル・イタリアの美術交流関わり、ほとんど生涯分かっていないが、善良公に仕えディジョン幽閉中のルネ出会ったとされ、1440年以後ルネ宮廷へ入った推測される。この時装飾写本ルネ・ダンジュー時祷書』を制作したといわれ、1444年の『エクスの受胎告知』を通して北方絵画様式プロヴァンス伝えたことになっている。またイタリア・フランドル芸術家人的作品交流盛んになる中、デック仲介役として絡みナポリ行って画家ニッコロ・アントニオ・コラントニオ北方様式教えたことが明らかになり、コラントニオの弟子アントネロ・ダ・メッシーナ作品受胎告知のマリア』も『エクスの受胎告知』に類似点見られることからデック作品見た推測されるプロヴァンス画家たちにもメッシーナ反映見られるため、これらの点からフランドル・プロヴァンス・イタリアの交流環状成して互いに文化的影響与え、それが形成されたのはデックルネの関係があったからとされている。 特にアヴィニョンではニコラ・フロマン庇護者となった。彼は1460年から1470年頃にル・マン司教座聖堂参事会員シモン・グルバンに『使徒行伝の謎』を発注した1476年フロマン三連祭壇画燃え祭壇画』を制作絵画注文城館装飾紋章手掛けるなど、ルネお気に入りとして重用された。エクス大聖堂英語版)(サン・ソヴール大聖堂)に現存している祭壇画プロヴァンス絵画代表する14世紀傑作1つあげられ、『旧約聖書』でモーセ燃えの炎の中から響く神の声聞いたという逸事踏まえ中央パネルが幼いイエス抱いて木に座る聖母マリアと下から見上げモーセ左右パネルにはそれぞれルネ・ジャンヌ夫妻描かれている。周囲タラスコン城、マグダラのマリアなど聖人配置されている。 ルネがたびたび催した祭り領民との精神的な結びつき産業振興意図されていた。1474年5月ペスト憂慮してエクス3日開催された『聖体祭』は2日歌・ダンス芝居などで踊り騒ぐ無礼講3日目一転して祈りの日になり、ルネ祭り通してペストパニックに陥っている人々恐怖和らげ合わせて祭壇衣装制作作物売買など祭り経済活性化図ったこうした意図騎馬試合にも見られ1448年サント=マリー=ド=ラ=メールにおけるミサでは祈り領民共有する目的があったとされる

※この「パトロンとしての活動」の解説は、「ルネ・ダンジュー」の解説の一部です。
「パトロンとしての活動」を含む「ルネ・ダンジュー」の記事については、「ルネ・ダンジュー」の概要を参照ください。


パトロンとしての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 14:38 UTC 版)

ロレンツォ・デ・メディチ」の記事における「パトロンとしての活動」の解説

ボッティチェリリッピなどの芸術家フィチーノミランドラ人文主義者多数保護し芸術・学芸のパトロンとして祖父コジモ並んで後世まで模範仰がれた。古典教養も豊かで祖父コジモの代に創立されプラトン・アカデミー主宰。自ら詩作批評行い、その文才現代でも評価されている。青春美しさ儚さ歌った謝肉祭の歌」の一節知られる美術のみならず建築彫刻においてもパトロンとして知られイタリア中に芸術・学問の庇護者メチェナーテ(古代ローマのマエケナスに由来する)として名声博したまた、ロレンツォ特異な点として、美術家国外派遣挙げられる。彼はフィレンツェ主要な美術家を、ローマヴェネツィアナポリミラノ積極的に派遣した。これはロレンツォ外交政策一端ではあったが、これにより、フィレンツェルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。 このロレンツォ特徴は、コジモ違い資金がなかったことも影響している。 ロレンツォ時代は、ルネサンス正に開いた盛期ルネサンス」と重なる。しかし、ロレンツォ後のフィレンツェ衰退しルネサンス中心ローマへ移っていく事となる。 若き日ミケランジェロ彫刻才能見出し自宅に住まわせて面倒をみた。

※この「パトロンとしての活動」の解説は、「ロレンツォ・デ・メディチ」の解説の一部です。
「パトロンとしての活動」を含む「ロレンツォ・デ・メディチ」の記事については、「ロレンツォ・デ・メディチ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「パトロンとしての活動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「パトロンとしての活動」の関連用語

パトロンとしての活動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パトロンとしての活動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのルネ・ダンジュー (改訂履歴)、ロレンツォ・デ・メディチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS