パトロン・コレクターとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:35 UTC 版)
「安宅英一」の記事における「パトロン・コレクターとして」の解説
戦後の日本のクラシック音楽界では、何らかの意味で英一の世話を受けなかった人はいないと謂われるほど大きな支援を続けた。英一自身は、それを大げさに吹聴されることを好まず、影の教育者に徹した。東京芸大に創設した安宅賞は英一の死後、長男の昭弥(2015年死去)、孫の一弥(アタカコーポレーション社長)が引き継いだ。 安宅コレクションは、安宅英一の個人コレクションというイメージが強いが、英一はコレクションを主導しただけで、所有権はすべて安宅産業が有していた。コレクションは、近代日本画の速水御舟の作品を収集していた演出家、文芸評論家の武智鉄二が、戦後、武智歌舞伎を立ち上げそれを運営するに当たって、費用を捻出するために自身の所有する御舟の作品を売却し始めたことをかねてから親交のあった英一が知り、作品の散逸を恐れて個人での資金負担が難しいため、安宅産業の役員に相談して、御舟の作品購入のために会社が乗り出す仕組みを考案。1951年の取締役会で、企業利益の社会還元と社員教養の向上のため、美術品収集を会社事業の一環として行うことを正式に決議したことに始まる。こののち英一は、御舟の作品のほか東洋陶磁の蒐集に心血を注いだ。 コレクションの成長を後押ししたのが、美術に造詣の深い日本経済新聞社の円城寺次郎であった。円城寺は社内における立場が微妙な英一をそれとなく支援するため、日経は円城寺の肝いりで安宅コレクション展を度々開催した。英一に仕えた伊藤郁太郎(大阪市立東洋陶磁美術館初代館長)によれば、英一は円城寺の目を意識しながら努めて物を蒐めていった節があるという。 安宅産業破綻によって、速水御舟の作品は1976年に、山種美術館を運営する山種美術財団に有償一括譲渡された。また東洋陶磁のコレクションは、住友銀行の主導の下に住友グループ21社が、総額152億円を大阪市文化振興基金に寄付。市はその寄付金で約1000点のコレクションを買い取り、寄付金の積み立てに伴う運用利息で、コレクションを収蔵・展示する大阪市立東洋陶磁美術館を中之島公園に建設した。
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