西洋哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 15:02 UTC 版)
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この項目では、西洋哲学(せいようてつがく)、すなわち西洋で発展した哲学について解説する。
特質
西洋哲学の特質はギリシャ哲学とヘブライ信仰(キリスト教信仰)をその基調に持つ点である[1]。
紀元前6-7世紀に哲学が発生した地域としてギリシャ(ソクラテスら)、北インド(釈迦)、黄河流域(孔子ら)を挙げることができる。世界をひとつの普遍的秩序において捉え、神話に囚われない自由な理性的思考に至った点で、それらの地域は共通する[2]。その上でギリシャに見られた特質とは、哲学的思考がユークリッド幾何学のような論理体系を生み出すほどに鋭い「論理性」を求めたことである[3]。プラトンは「哲学の論理(ディアレクティケ)」と「弁論術(レトリケ)」を区別している。一方、中国では論理性は修辞の中に取り込まれ、インドでは修辞を排した論理性の追求は古代に見られなかったとされる[4]。
神話が提起した問題提起を哲学が引き継ぐという現象は、いずれの地域でも見られた[5]。しかし西洋哲学は、中世においてさらに高次の神話というべきキリスト教と相対することになった。ギリシャ哲学は厳密な論理的手法を特徴としていたため、両者の緊張は他に例を見ない強烈なものとなった[6]。
キリスト教の神は世界と人間を余す所なく徹底的に支配するという点で、従来の神の概念を超越し、普遍的秩序の原理すら内在化させた高次の神であった。それゆえ、特に中世初期には著しかったように、哲学(理性)が信仰に従属するという構図も成り立ちえた[7]。 西洋哲学がキリスト教神話から独立の地位を得はじめるのは、スコラ哲学全盛の12-13世紀頃である。ルネサンスを、神話から哲学への二度目の再移行と見るならば、これも強い緊張と長い期間を要するものだった[6]。
東洋哲学との比較
西洋哲学と東洋哲学を比較した場合、西洋は「学」としての哲学、東洋は「教」としての哲学という見方ができる[8]。すなわち西洋哲学は、学問として論理的観点に立ち、世界の本質の理論的解明を目指している[9]。一方東洋哲学は、釈迦にせよ孔子にせよ、「いかに生きるか」という人生に対する実践的関心が思索を方向づけている[10]。
「実在」の捉え方にも、西洋哲学と東洋哲学の違いが見られる。西洋哲学では、形而上世界/形而下世界、実在界/現象界といった二元論的思考様式が伝統的に見られる[11]。具体的にはプラトンのイデア、アリストテレスの純粋形相などが挙げられる。いずれも真実在は自然の外部、自然を超越した場所に求められる[12]。一方東洋哲学では、真実在は個々人の内奥に求められる[12]。具体的には華厳経の「三界唯一心、心外無別法」、禅宗の「脚下照顧」などが挙げられる。仏教でいう浄土/穢土、涅槃界/煩悩界という別はあくまで観察者の心の反映とされる[13]。
領域
日本での受容
江戸時代末期において、西洋の学問の輸入は専ら自然科学分野に限定されていた。実質的に初めて西洋哲学を日本へもたらしたのは西周である。西は江戸幕府よってオランダへ派遣された際、ミルの功利主義とコントの実証主義を学び、日本へ紹介した[14]。明治政府樹立後に輸入された西洋哲学も、実務的な政治思想・社会思想、実学的な功利主義・実証主義の哲学であり、これは日本の近代化を実現するため社会制度の整備が急がれたという背景によるものである[14]。
明治10年代以降、自由民権運動が高揚し、国家の根拠と理念が問い直されるようになった。中江兆民はルソーの『社会契約論』を訳解し、唯物論と結びついた実証的な社会変革の論理によって自由民権運動に影響を与えた[15]。井上哲次郎は西洋哲学と東洋哲学を融合した普遍的・根源的原理に基づく哲学を志向した[15]。
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脚注
参考文献
- 岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波書店(岩波ジュニア新書)、2003年。ISBN 978-4005004416。
- 野田又夫『哲学の三つの伝統』紀伊國屋書店、1984年。
- 小坂国継『西洋の哲学・東洋の思想』講談社、2008年。 ISBN 978-4062148511。
- 須藤訓任ほか 編『哲学の歴史 第9巻』中央公論新社、2007年。 ISBN 978-4124035261。
関連項目
西洋哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 10:18 UTC 版)
心霊主義は、人間の「死後存続」を信じる思想である。17世紀末の哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646年 - 1716年)は、彼の基本的理念によって死後存続についてひとつの完璧な教理を築いた。心霊主義の理論のベースには、ライプニッツのモナド(単子)論があるのである。ライプニッツは、宇宙は不滅の心霊的原子である「霊魂」(モナド)の無数から成り立っており、それぞれのモナドの完全さの程度は異なり、より完全な状態に向かって発展しようとする傾向を持っていると考えた。生物のような複合体はモナドの集合体であり、霊魂である主要モナドの支配を受けている。そして、ある状態から他の状態への「飛躍」は自然的ではなく、生と死も連続したものだと考えた。また、霊魂は神の似姿であり、人間の霊魂は他の星でより完全な意識を持って存続すると信じられるとした。ただし、宇宙および神は無限であるから、認識(意識)は完成することはない。そして幸福とは、新しい喜びと新しい完全に向かう「絶えざる進歩」の内にあると考えた。 哲学者シャルル・ボネ(1720年 - 1793年)は、自らの生物学に基づいてライプニッツの思想を発展させ、生物は目に見えず不滅な「原状回復の芽」を内蔵しており、その芽は順次成長し顕現するが、これは肉体の死ののちも同様であるとした。人間は肉体の死後、宇宙の新しい事態に適応した新しい生存に再生できると考えた(「転生」(パリンゲネシア)の説)。 哲学者イマヌエル・カント(1724年 - 1804年)は死後の世界の性質ではなく、その真理を「証明する」可能性について見解を示した。カントは、合理的形而上学は死後存続の問題になんら根拠のあることを教えないが、我々は知的ではなく道徳的直観によって、先天的に定められた「無条件命令」を自らの中に見出すと述べている。その道徳律を最もよく規定する原理は、「自分の意志と行動とをあらゆる理性的な人間のそれと一致させることに努める」ことである。カントはその理性相互間の調和を「目的の王国」と呼んだが、完成はこの世では不可能に感じられ、経験的にも不可能である。完成には我々の限りない存続による限りない人格の進展しかなく、従って霊魂は不死でなければならないとした。 19世紀は全体として、不死と進歩との考えを結び付けるカントの根本的立場を受けついだ。カントを受けついだ死後存続の解釈は、大きく二つに分けられる。ひとつは、カントおよびライプニッツの真正の思想を忠実に守り、生前の人格が死後も引き継がれる、人格的死後存続という形で考える一派である。もうひとつは、カントをバールーフ・デ・スピノザ(1632年 - 1677年)の思想で補い、むしろ絶対精神を認め、それの発展が個々の存在者を貫き、かつ個々の存在者によって徐々に完成されるとする態度である。後者の立場は、「永遠なる人類」という純粋に此世的な不死思想に結びついた。レーノーの『地と天』(1854年)では、人間の生は、天体から天体へと移り、以前の過失を償う生涯の連続であり、完成することのない試練と罰と完成への進展である。霊魂は段々と向上し、その歩みは神聖な計画と、世界と世界の調和の機能に従うものであるとした。 初期の社会学者フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(1772年 - 1837年)は、著作『家庭と農業の組合』(1822年)収録の「宇宙開闢説」などで、天体は道徳や知性を持つ、霊魂ある一個の生物であり、そこに生きるものは天体には劣るが永遠の霊魂を持っていると述べている。個体が死ぬと霊魂は隣の空間(あの世)に移り、それから元の天体の住民に生まれ変わって戻ってくるという往復を81000年の間に810回繰り返し、合計1620回の生涯があると計算した。うち27000年は地球で、54000年はあの世で暮らすことになる。フーリエは、個人はその多くの生涯の間にだんだんと向上すると考えた。地球が死滅すると、地球の霊魂はそこに生きる霊魂を連れて新しい天体に移り、個々の霊魂は個性を失って天体の霊魂に溶け込むという。この壮大な上昇過程が最終的にどうなるかは述べられていない。
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