西洋哲学とは? わかりやすく解説

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西洋哲学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/17 02:54 UTC 版)

この項目では、西洋哲学(せいようてつがく、: Δυτική φιλοσοφία: Western philosophy)、すなわち西洋で発展した哲学について解説する。

特質

西洋哲学の特質はギリシャ哲学ヘブライ信仰キリスト教信仰)をその基調に持つ点である[1]

紀元前6-7世紀に哲学が発生した地域としてギリシャ(ソクラテスら)、北インド(釈迦)、黄河流域(孔子ら)を挙げることができる。世界をひとつの普遍的秩序において捉え、神話に囚われない自由な理性的思考に至った点で、それらの地域は共通する[2]。その上でギリシャに見られた特質とは、哲学的思考がユークリッド幾何学のような論理体系を生み出すほどに鋭い「論理性」を求めたことである[3]。プラトンは「哲学の論理(ディアレクティケ)」と「弁論術(レトリケ)」を区別している。一方、中国では論理性は修辞の中に取り込まれ、インドでは修辞を排した論理性の追求は古代に見られなかったとされる[4]

神話が提起した問題提起を哲学が引き継ぐという現象は、いずれの地域でも見られた[5]。しかし西洋哲学は、中世においてさらに高次の神話というべきキリスト教と相対することになった。ギリシャ哲学は厳密な論理的手法を特徴としていたため、両者の緊張は他に例を見ない強烈なものとなった[6]

キリスト教の神は世界と人間を余す所なく徹底的に支配するという点で、従来の神の概念を超越し、普遍的秩序の原理すら内在化させた高次の神であった。それゆえ、特に中世初期には著しかったように、哲学(理性)が信仰に従属するという構図も成り立ちえた[7]。 西洋哲学がキリスト教神話から独立の地位を得はじめるのは、スコラ哲学全盛の12-13世紀頃である。ルネサンスを、神話から哲学への二度目の再移行と見るならば、これも強い緊張と長い期間を要するものだった[6]

東洋哲学との比較

西洋哲学と東洋哲学を比較した場合、西洋は「学」としての哲学、東洋は「教」としての哲学という見方ができる[8]。すなわち西洋哲学は、学問として論理的観点に立ち、世界の本質の理論的解明を目指している[9]。一方東洋哲学は、釈迦にせよ孔子にせよ、「いかに生きるか」という人生に対する実践的関心が思索を方向づけている[10]

実在」の捉え方にも、西洋哲学と東洋哲学の違いが見られる。西洋哲学では、形而上世界/形而下世界、実在界/現象界といった二元論的思考様式が伝統的に見られる[11]。具体的にはプラトンのイデア、アリストテレスの純粋形相などが挙げられる。いずれも真実在は自然の外部、自然を超越した場所に求められる[12]。一方東洋哲学では、真実在は個々人の内奥に求められる[12]。具体的には華厳経の「三界唯一心、心外無別法」、禅宗の「脚下照顧」などが挙げられる。仏教でいう浄土/穢土、涅槃界/煩悩界という別はあくまで観察者の心の反映とされる[13]

歴史

古代

西洋哲学は、紀元前6世紀古代ギリシャに淵源を遡ることができる。古代ギリシア哲学の時代は、慣習的には529年で終わったと考えられている。この年、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の命令により、アカデメイアをはじめとするアテネの非キリスト教的な学堂が閉鎖されたためである[14]

ソクラテス以前の哲学

タレスは西洋哲学において最初の哲学者とされている。

前古典期のギリシャ哲学はソクラテス以前の哲学と呼称され[15]紀元前4世紀まで続いた。この時代の著作は断片的なかたちでしか残存していないため研究が難しく、多くの場合、後世の著作からの引用に基づいて再構成する必要がある[16]

この時代の哲学における最大の革新のひとつは、総体としての宇宙(コスモス)に理論的説明を与える試みがなされたことである。こうした取り組みはそれ以前のギリシア神話的な、ウラノスガイアのような神々の役割を強調する世界観とは対象的なものであった。ソクラテス以前の哲学者は、伝統的な神話的世界観に挑戦した最初期の人物であり、世界がどのようにして成立し、なぜそのように機能するのかを説明するために、実証的な理論を提供しようとした[17]

この時代の哲学者は、存在する事物の起源(アルケー)を、存在者の基盤となる第一原理に求め、これをピュシス(自然)と呼んだ[15]タレス(c. 紀元前624年 – 545年)はしばしば最初の哲学者と考えられており、第一原理は水であると考えた。アナクシマンドロス(c. 紀元前610年 – 545年)はより抽象的な論理を展開し、第一原理は人間の認知を越えた「無限なもの(アペイロン)」であるとした[18]。また、アナクシメネス(c. 紀元前585年 – 528年)は第一原理を空気と考えた。これらの学者はいずれもミレトス出身であったため、彼らをミレトス学派と呼ぶ。また、ピタゴラス派の学者は、万物の起源を数にもとめた[15]

ヘラクレイトス(c. 紀元前540年 – 480年[19])は万物から一が生じるとともに一から万物が生じると論じ、緊張・対立のなかで諸物が生成し消滅する課程そのものが調和として機能している状態こそが世界の構造(ロゴス)であるとして、これを燃える火や流れる川に例えた[15][20]。一方で、パルメニデス(紀元前515年頃 – 450年頃)は思惟される現実と感覚される現実を区分するとともに感覚的現象として「ある」ものは虚構にすぎず、その根拠には思惟によってのみ認知可能である、常にあり続ける不変不動な存在があると論じた[15][21]。パルメニデスは事物の自然を求める思索に終止符を打った。それ以降の哲学者として、彼の思想を追求して運動の存在を否定したゼノン、根元存在の不変性は認めつつもそれらは多であるとし、複数の根元存在の相互関係として自然を論じたエンペドクレスアナクサゴラスデモクリトス弁論術を重視したプロタゴラスゴルギアスソフィストが現れた[15]

古典期の哲学

ソクラテス(紀元前469年–399年)とプラトン(紀元前427年–347年)の哲学は、ソクラテス以前の哲学を基礎としつつも、焦点と方法論において重要な変化をもたらした。ソクラテス自身は著作を遺しておらず、彼の影響は主として同時代人に与えた衝撃、とりわけ彼の哲学的探究の手法によるものに起因している。しばしばソクラテス式問答法の形式で行われたこの手法は、ある主題を探究するために簡単な質問から始め、背後にある考えや前提を批判的に省察するというものである。ソクラテス以前の哲学者とは異なり、ソクラテスは形而上学的理論にはあまり関心を持たず、むしろ道徳哲学に集中した。彼の多くの対話は、正義勇気知恵といった徳を検討しながら、善く生きるとは何を意味するかという問いを探究する。ソクラテスは優れた倫理の教師とみなされているが、特定の道徳的教条を提唱したわけではなかった。ソクラテスは聞き手が自ら考え、自らの無知を認識することを促そうとした[22]

プラトンとアリストテレスは西洋哲学の創始者であるが、それぞれ異なる見解を有していた。

ソクラテスについて知られていることの多くは、彼の弟子であったプラトンの著作に由来している。プラトンの作品は、さまざまな哲学者同士の対話という体裁を取っており、そこに示される思想がソクラテスのものか、あるいはプラトン自身の理論であるかを判断することを難しくしている。プラトンのイデア論は、実在の真の本性は、・正義・といった抽象的で永遠なるイデアにあると主張する。いわく、感覚によって捉えられる物質的で変化する世界は、これらのイデアの不完全な模倣にすぎない。イデア論は、その後の形而上学および認識論の観点に影響を与え続けた。プラトンは心理学の先駆者ともみなされる。彼は魂を知的部分・激情的部分・欲望的部分の3つの部分に分け、それぞれが異なる精神的現象を担い、さまざまな仕方で相互作用すると考えた。プラトンはまた、倫理学政治哲学にも貢献した[23]。さらにプラトンは、しばしば世界初の高等教育機関とみなされるアカデメイアを創設した[24]

アリストテレス(紀元前384年–322年)は、アカデメイアの学生として哲学者の道を歩み始め、やがて自然哲学・形而上学・論理学・倫理学など、さまざまな主題に関する論著として思想を体系化した。アリストテレスはこれらの分野で多くの専門用語を導入し、それらは現代でも使われている。彼はプラトン的な形(イデア)と物質の区分を受け入れながらも、この2つが独立して存在するとは考えなかった。アリストテレス哲学は形相質料を相互依存的な概念として位置づけ、両者の相違はその後の哲学者により議論された普遍論争の中心的論点となった。形而上学においては、アリストテレスは存在のカテゴリーを提示し、存在の異なる側面を分類・分析するための枠組みとした。また、自然における変化と運動について論じるために四原因説を提唱した。たとえば、自然界の諸物は目的因に応じて何らかの目的ないし目標に向かって進む。アリストテレス倫理学英語版は、善く生きることとは徳を身につけ、幸福(エウダイモニア)に到達することにあると強調する。論理学においては、アリストテレスは正しい推論にあたっての規則を定式化し、その後の哲学にも影響を与え続ける形式論理の基礎を構築した[25]

ヘレニズム哲学・ローマ哲学

アリストテレス以来、古代哲学においてはエピクロス主義ストア派懐疑主義といったさまざまな哲学運動が勃興する。これらヘレニズム哲学の諸学派は、倫理学・自然学・論理学・認識論などに重点を置いた。ヘレニズム哲学の時代は紀元前323年のアレクサンドロス3世の死をもって始まり、その主たる影響力を共和政ローマの崩壊した紀元前31年ごろまで保った[26]

エピクロス主義は、デモクリトスによる自然は不可分の原子から成るという思想を洗練させた。倫理学においては、快楽を最高善と見なしたが、感覚的快楽にふけることや贅沢が長期的な幸福をもたらすという考えは退けた。彼らは心を平穏な状態に保つこと(アタラクシア)こそが幸福への道であるという、単純な形でない快楽主義を唱えた[27]。ストア派は快楽主義的な見解を退け、欲望や嫌悪といった情動は、理性と徳に即して生きることを妨げる障害であると考えた。彼らはこれらの欲望を克服するために自己統御を重んじ、超然的態度(アパテイア)を推奨した[28]

懐疑主義は、判断と意見が人間の精神的安定に与える影響に着目した。懐疑主義者は、教条的な信念は心の動揺を引き起こすと論じ、確実性が得られない事柄については判断の留保(エポケー)が必要であると主張した。懐疑主義者には、あらゆる信念に対してエポケーを適用すべきであると主張し、あらゆる知識は信じがたいという立場に至る者もいた[29]

新プラトン主義は、古代後期の3世紀に勃興し、6世紀に隆盛した。新プラトン主義はプラトンとアリストテレスの思想の多くを継承しつつも、それらを創造的に変容させた。新プラトン主義の中心的信条においては、あらゆる存在の原因として言語を越えた超越的存在としての「一者」ないし「善」を仮定する。一者からは知性(ヌース)が流出し、知性が一者を観照することによって魂が生じる。さらに、魂は物質的世界を生成する。新プラトン主義の影響力のある論者として、プロティノス(204年–270年)およびポルピュリオス(234年–305年)がいる[30]

中世哲学

西洋哲学における中世は、おおむね5世紀に始まり14世紀に終わる[31]。この時代の哲学とそれ以前の哲学的伝統の中心的差異として、宗教思想への傾倒がある。キリスト教徒である皇帝ユスティニアヌス1世によりアカデメイアをはじめとする学堂は閉鎖され、知的活動の場は教会に集中した。正統派的教条からの逸脱は危険を伴うようになり、このことから一部の研究者はこの時代を「暗黒時代」と呼称する[32]。中世哲学の中心的主題としては、普遍の問題・神の本性・神の存在証明・理性と信仰の関係性などがある。中世初期の哲学はプラトン哲学の影響をきわめて強く受けていたが、その後アリストテレス哲学が支配的となった[33]

アウグスティヌス(354–430年)はプラトン主義に強い影響を受けており、その観点からキリスト教神学における中心概念および問題を解釈・説明した。彼は、万物の根元である神は善にして不可知であるという新プラトン主義的な見解を受容しつつ、慈しみ深く、また全知・全能である神によって創られた世界に、いかにして悪が存在しうるのかという問題に取り組んだ。神は人に善悪を選び取る自由意志、さらにはそれにともなう責任を認めている、というのがアウグスティヌスによるこの問題の説明である。彼は神の存在証明・時間の理論・正戦論といったその他の分野においても重要な貢献を遺している[34]

ボエティウス(477–524年)は、ギリシア哲学に深い関心を寄せ、アリストテレスの著作を多数翻訳するとともに、それをキリスト教の教義と統合・調停しようと試みた。ボエティウスは普遍の問題に取り組み、プラトンとアリストテレスの見解を調和させる理論を展開した。いわく、普遍は心のなかには物を伴わないかたちで存在し、また別の意味では物的対象のなかにも存在する。この見解はその後の中世における普遍論争の議論に影響を与え、唯名論者が普遍を心のなかにのみあるものであると唱える契機ともなった。ボエティウスは三位一体の問題についても探求し、神がどのようにして父・子・聖霊として同時に存在しうるかについて取り組んだ[35]

スコラ学

中世後期の哲学においては、スコラ学が支配的地位を占めた。スコラ学はアリストテレス哲学に強い影響を受けた、系統的かつ方法論的な思索によって特徴づけられる[36]。この時代にアリストテレスへの関心が高まった理由としては、西洋世界において忘却されていた彼の著作の多くを保存・翻訳・注釈していた、アラビア・ペルシアの影響を受けたことが大きい[37]

アンセルムス(1033–1109年)は、しばしばスコラ哲学の父と見なされる。彼は理性と信仰は相補的であり、それぞれを完全に理解するためには双方が必要であると考えた。アンセルムスは特に、神の存在論的証明で知られる。彼は神を「思考しうる限り最大の存在」と定義し、そのような存在は心のなかだけでなく、現実にも存在しなければならないと論じた。なぜなら、もし神が思考内にしか存在しないとすれば、実在する存在の方がより偉大であるため、それは「最大の存在」ではなくなるからである[38]ピエール・アベラール(1079–1142年)もまた、理性と信仰の調和を強調し、両者は同じ神的源泉に由来する以上、矛盾することはありえないと主張した。アベラールはまた、普遍は心的構築物にすぎないとする唯名論でも知られる[39]

トマス・アクィナスはスコラ学の包括的体系を構築した。

トマス・アクィナス(1224–1274年)は、最も影響力のある中世哲学者のひとりとされる。アリストテレス主義を基盤としつつ、形而上学・神学・倫理学・政治哲学を含む包括的なスコラ哲学体系を構築した。その多くの洞察は主著の『神学大全』に集約されている。 アクィナスの主要な目標のひとつは、信仰と理性がいかに調和しうるかを示すことであった。彼によれば、理性はキリスト教的真理を支持し強化するが、理性だけではすべての真理には到達できず、啓示に基づく信仰がなお不可欠となる。これは特に、世界の永遠性の問題や、神と被造物との関係のような主題において重要である。 形而上学において、アクィナスは、あらゆる存在者は本質と存在という2つの側面を持つと考えた。人は本質を理解しても、その存在を理解するとは限らない。しかし、神の場合にはその本質がそのまま存在と一致しているため、神は唯一無二の存在であるとされた[40]。 倫理学において、アクィナスは道徳的原理は人間の本性に根ざすと考えた。人間は理性的存在であるがゆえに、善を追求する自然な傾向を持つ[41]自然神学では、彼は神の存在を示すための五つの道英語版を提示している[42]

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266–1308年)は、アクィナスの諸学説に批判的に取り組んだ。形而上学において、スコトゥスはアクィナスが主張した本質と存在の実在的区別英語版を否定し、この区別はあくまで形相的なものにすぎないと論じた。さらにスコトゥスは、それぞれの個別的存在者は特有の本質を有していると主張した。あるものを同様の他のものと区別する本質をこのもの性英語版と呼ぶ[43]

オッカムのウィリアム(1285–1347年)は、最後のスコラ学者のひとりとして知られている。彼は、同一現象に対する競合する説明の中からどれを選ぶべきかを定める方法論的原理としてオッカムの剃刀を提示した。この原理はもっとも単純な説明について論じるもので、仮定する存在者が最小となる説明が、最良の説明であるとする。オッカムはこの原理を、普遍を否定する唯名論の支持に適用し、普遍が独立に実在すると仮定する実在論よりも、心の中の概念にすぎないとする唯名論の方が単純であると主張した[44]

ルネサンス哲学

ルネサンスは14世紀中葉から17世紀初頭まで続いた。ルネサンスはイタリアで発祥した文化的・知的運動であり、次第に西ヨーロッパの他の地域に広がっていった。ルネサンスの中心的側面として、古代ギリシア哲学への興味および人文主義の勃興、科学的探究への変遷といったものがある。これは、主として宗教とスコラ的伝統に重きを置いていた中世からの大きな転換を示している。もうひとつの顕著な変化は、知的活動が以前ほど教会と密接に結びついてはいなかった点である。すなわち、この時代の多くの学者は聖職者ではなかった[45]

この時代における古代ギリシア哲学への再注目の重要な側面として、プラトンの思想への熱意の再燃がある。ルネサンス時代のプラトン主義はキリスト教神学の枠組みで営まれたものであり、しばしばどのようにしてプラトン哲学がキリスト教の教義に適用されるか説明することが目的とされる。たとえば、マルシリオ・フィチーノ(1433–1499年)は、魂がプラトン的なイデア界と感覚世界を繋ぎ止めていると主張した。プラトンによれば、愛はより高次の理解へ至る梯子とみなされうるが、フィチーノはこれを知への愛という意味として解釈し、これを神へ近づく道として捉えた[46]

ルネサンス期の古代ギリシア哲学への再注目はプラトン主義に限ったものではなく、懐疑主義・エピクロス主義・ストア派などにも及んだ[47]。これらの思想の再興はルネサンス人文主義の勃興と密接に関わっている。人文主義は、人間社会と文化を研究する学問領域を高く評価する人間中心的世界観であり、人間を個としての存在として理解する観点をもたらした。人文主義自体は第一には哲学運動であったとはいえないものの、哲学的営為に影響を及ぼす多くの社会的・文化的変化をもたらした[48]。こうした変化は、政治哲学への関心の高まりも伴っていた。ニッコロ・マキャヴェッリ(1469–1527年)は、安定と安全を確保することこそが統治者の責務であると唱えた。マキャヴェッリは、統治者は国家全体の利益のためであれば、たとえ厳しい状況で力や冷酷な手段を用いる必要があっても、効果的な統治を行うべきだと考えた。一方で、トマス・モア(1478–1535年)は、共同所有・平等主義・公共奉仕によって特徴づけられる理想的社会を構想した[49]

ルネサンス期には、自然哲学と科学思想のさまざまな発展が見られ、のちの科学革命の基盤が築かれた。その中には、科学的探究において経験的観察を重視する態度や、観察の理解に数学的説明を用いるべきだとする考え方が含まれていた[50]フランシス・ベーコン(1561–1626年)は、ルネサンスと近世・近代との過渡期に位置する思想家とみなされる。彼は『ノヴム・オルガヌム』において、アリストテレスの影響力ある論理学体系に代わる新たな論理と科学的方法の確立を目指した。そこでは、多数の個別観察から一般法則を導き出す帰納の役割などが論じられている[51]。また、ガリレオ・ガリレイ(1564–1642年)も過渡期における重要な思想家であり、太陽ではなく地球が宇宙の中心であるとするコペルニクス的転回に対して決定的な役割を果たした[52]

近世哲学

近世哲学の時代は17世紀から18世紀にかけて続く。この時代の哲学者は慣例的には経験論者合理論者に区分される。しかし、現代の歴史学においてはこの区分は厳密な二分法というよりは、むしろ程度の問題であると認識されている。両者に共通するのは、哲学において明晰で厳密かつ体系的な探究方法を確立しようとする志向であり、この方法への関心は、同時期の科学革命における進展とも軌を一にしていた。経験論と合理論の違いは、それぞれの支持する方法にある。経験論は、知識の基礎を感覚経験に求めるのに対し、合理論は、特に無矛盾律充足理由律といった原理にもとづく理性、さらには生得的知識英語版への信念を重視する。方法論の重要視そのものはルネサンス期にも萌芽が見られたが、完全に突出するのは近世以降のことである。近世後期には、こうした革新を用具として伝統的権威に挑戦し、進歩・個人の自由・人権などを推進する啓蒙運動が台頭した[53]

経験論

ジョン・ロックは経験論の父とみなされることがある。

近世における経験論は、主にイギリス哲学英語版と紐づけられる。ジョン・ロック(1632–1704年)は、しばしば「経験論の父」とみなされる。『人間知性論』において、ロックは生得的知識という考えを退け、すべての知識は経験によって得られるものであると主張した。彼によれば、誕生時の人の心は白紙状態(タブラ・ラーサ)であり、観念はすべて感覚経験を通じて形成される。さらにロックは、知覚対象の性質を第一性質と第二性質に区分した。第一性質とは、外的な対象そのものに内在し、観察者とは独立して存在するとされる性質であり、二次性質とは、対象が観察者に特定の感覚を引き起こす作用を指す[54]

ジョージ・バークリー(1632–1704年)はロックに強く影響されながら、より急進的な形の経験論を唱えた。バークリーの提唱した観念論によれば、認識において優先されるのは物質ではなく知覚および観念である。彼は、事物は心によって知覚される限りにおいてのみ存在すると主張し、知覚から独立した実在を否定する結論を導き出した[55]

デイヴィッド・ヒューム(1711–1776年)も知識は感覚経験によって得られるという、経験論的原理を支持した。しかし、ヒュームはこの原理をさらに推し進め、因果関係の確実に認識することは不可能であると論じた。いわく、原因と結果の結びつきは直接知覚できるものではなく、心は事象同士の一貫したパターンを観察し、ある出来事の後に別の出来事が生じるという期待を形成するにすぎない[56]。ヒュームをはじめとする哲学者によって提起された経験論は、とりわけ観察・実験・厳密な検証を重視する点において、科学的方法の発展に大きな影響を及ぼした[57]

合理論

ゴットフリート・ライプニッツの充足理由律によれば、あらゆる事物には理由がある。

この時代のもうひとつの支配的思想潮流として、合理論がある。ルネ・デカルト(1596–1650年)は、合理論の形成において中心的役割を果たした。デカルトは、絶対的に確実な知識を打ち立てることを目指し、既存のあらゆる信念を疑うという方法的懐疑を用いた。そして、「我思う、ゆえに我あり」という知識の基礎を見出した。彼はこの基礎に立って包括的な哲学体系を構築すべく、さまざまな合理論的原理、特に演繹に着目した。デカルトの哲学は実体二元論に根ざしており、心と体は互いに独立した存在者として共存すると論じた[58]

バールーフ・デ・スピノザ(1632–1677年)の合理論的哲学は、演繹的論証をより強く重みづけた。彼はいわゆる幾何学的方法にもとづき、少数の自明な公理から演繹により包括的な哲学体系を導いた。デカルトと異なり、スピノザは形而上学的一元論に至り、宇宙にはひとつの実体しか存在しないと主張した[59]。その他の影響力ある合理論者として、ゴットフリート・ライプニッツ(1646–1716年)がいる。ライプニッツの充足理由律は、あらゆる事物は理由ないし説明を有しているというものであり、彼はこの原理を用いてモナドロジーとして知られる形而上学体系を築いた[60]

啓蒙運動と近世後期の諸思想

イマヌエル・カントは啓蒙時代の中心的哲学者である。

近世後期には啓蒙運動として知られる文化的・知的運動が台頭した。この運動は伝統的権威に挑戦し、知識を追求するために経験論・合理論の双方に依拠した。啓蒙思想は個人の自由および、進歩と社会改良への楽観的見方を支持する[61]イマヌエル・カント(1724–1804年)は啓蒙時代の中心的思想家のひとりであり、世界を理解するうえでの理性の役割を強調するとともに、それをもとに独断論および権威への盲従を批判した。カントは包括的な哲学体系のなかで経験論と合理論を統合しようと試みた。彼の超越論哲学は、心はどのようにしてあらかじめ確立されたカテゴリ(純粋悟性概念)から実在の経験を構築するかを追求した。倫理学においては、普遍的義務であるところの定言命法にもとづく義務論を展開した[62]。その他の重要な啓蒙思想家としては、ヴォルテール(1694–1778年)、シャルル・ド・モンテスキュー(1689–1755年)、ジャン=ジャック・ルソー(1712–1778年)がいる[63]

この時代の政治哲学は『リヴァイアサン』をはじめとする、トマス・ホッブズ(1588–1679年)の著作により形成された。ホッブズは人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」であると論じた。また、市民社会の目的はこうした混乱の回避であり、それは個人が外的な脅威からの保護と引き換えに、自らの権利の一部を中央の極めて強力な権威へ譲渡する社会契約によって達成されるものであるとした[64]ジャン=ジャック・ルソーもまた政治のあり方を社会契約の概念から理論化したが、彼の人間の本性に関する考えはホッブズよりも楽観的なものであったため、両者の政治的見解は大きく異なる。ルソーの見解は、民主主義を支持するものであった[65]

19世紀の哲学

19世紀は学問の分野としての「哲学」が経験科学や数学と分離された時代であり、その思想潮流は多岐にわたる。19世紀の哲学はおおまかにはドイツ・イギリス観念論に紐付けられる、包括的で全体的な体系を構築しようとする立場と、倫理学や認識論といった、特定の領域における特定の問題に注力する立場に大別される[66]

この時代にもっとも影響力のあった思想潮流は、ドイツ観念論である。この立場の端緒を開いたのはイマヌエル・カントである。カントは、主体による概念(悟性により定まる、対象を認識するための思惟作用)にもとづく行為が、知識および経験を部分的に構築すると論じた。その後のドイツ観念論者は、カントの思想における二元論および、「物自体」の矛盾した地位に問題があると考え、これを批判した[67]。彼らは、あらゆる実在を基礎づける、単独の統一原理を探索した。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762–1814年)は、この原理を主体の行為、すなわち自己とその対立物の双方を措定する超越論的自我に見出した。フリードリヒ・シェリング(1775–1854年)は、自我への注目を退け、より抽象的な原理として意識と自然の双方の基礎である絶対者または世界霊を提唱した[68]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、絶対的観念論英語版を提唱した。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831年)の哲学は、しばしばドイツ観念論の集大成であるとみなされる[69]。ヘーゲルは、進歩の尺度を自由の実現に求める哲学的歴史像を再構築した。彼はこれを政治生活にだけでなく哲学そのものにも適用し、哲学は普遍と個の総合によって特徴づけられる自己認識を目指すと主張した。芸術・宗教・哲学を通じて達成されるこの知は、自らの精神そのものによって完結するため、絶対知と呼ぶ[70]

その後の影響力のある思想潮流としては、歴史主義および新カント派がある。ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーといった歴史主義者は、個別の出来事に関する歴史的知の妥当性と独自性を強調し、永遠真理に関する普遍的知識との対比を行った。新カント派は、カントの思想を復興し再解釈した多様な哲学運動であった[71]

イギリス観念論は、19世紀後期にヘーゲルの影響を強く受けながら展開された。フランシス・ハーバート・ブラッドリー(1846年–1924年)は、実在は存在の包括的総体であると論じ、絶対精神と同一視した。彼は、関係なる概念は不可能であるとする、ブラッドリーの後退英語版の提唱でも知られる[72]

カール・マルクス(1818–1883年)は、階級闘争に基づく社会の歴史的発展にヘーゲル思想を適用しつつも、精神を基礎とする観念論的立場を退け、経済を歴史発展の根本的原動力とする唯物弁証法を唱えた[73]マルクス主義は、特にロシアおよび中国の思想に大きな影響を与えた[74]

アルトゥル・ショーペンハウアー(1788–1860年)は、あらゆる実在の根本原理を意志に見出し、それは非理性的かつ盲目的な力であると論じた。彼はインド哲学に影響を受け、意志の表現は最終的に苦をもたらすとする悲観主義を展開した[75]。ショーペンハウアーはフリードリヒ・ニーチェに深い影響を与えた。ニーチェは自然の基本的推進力を力への意志として捉えた。ニーチェはこの概念を用いて多くの宗教的・哲学的概念を批判し、それらは純粋な精神の表現ではなく、権力を行使しようとする意志の隠れた形態であると論じた[76]

倫理学の領域では、ジェレミー・ベンサム(1748–1832年)が功利主義を提唱した。彼によれば、ある行為が正しいかどうかは、その行為がもたらす効用、すなわち快と苦に依存する。行為の目的とは、幸福を最大化し、最大多数の最大幸福を実現することである。彼の弟子であるジョン・スチュアート・ミル(1806–1873年)は、快と苦の量的差異だけでなく質的差異も考慮すべきであると論じ、この理論をさらに洗練させた[77]

19世紀末に向けて、アメリカではプラグマティズムが台頭した。プラグマティズムは、哲学的概念を、それが行為を導くうえでどれほど有用か、効果的かによって評価する。チャールズ・サンダース・パース(1839–1914年)は、一般にプラグマティズムの創始者とみなされる。彼は、観念や理論の意味とは、それがもたらす実践的・観察可能な結果にあると考えた。たとえば、ある物体が硬いというのは、実践的にはその物体が壊れにくく、突き刺しにくく、傷つきにくいことを意味する。パースは、真なる信念とは、たとえ将来修正を要するとしても、持続的に機能し続ける信念であると主張した。プラグマティズムは、この理論を心理学に援用したウィリアム・ジェームズ(1842–1910年)によって普及した。ジェームズは、観念の意味はその経験的結果から構成されるとし、経験が孤立した出来事であるとの考えを退けた。彼は、その代替として意識の流れの概念を提唱した[78]

20世紀の哲学

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、哲学分野としてのフェミニズムの発展において大きな影響力を持った。

20世紀の哲学は、一般的にはふたつの流れに区分される。すなわち、分析哲学大陸哲学である。分析哲学は英語圏で支配的となり、明晰さと言語の厳密さを重視した。分析哲学では形式論理および言語分析英語版が手法として採用され、形而上学・認識論・科学・倫理学といった領域において伝統的に研究されてきた哲学的問題が探求されている。大陸哲学はヨーロッパ、特にドイツとフランスにおいて優勢である。大陸哲学は現象学解釈学実存主義脱構築批判理論精神分析学といった哲学的諸運動を総称する呼称であり、その範囲は正確には設定されない[79]

20世紀には哲学への学術的関心が急速に高まり、文献の刊行数、学術機関に所属する哲学者の増加などにそれがあらわれている[80]。同時期には、女性哲学者の存在も増加した。しかしその進展にもかかわらず、女性は依然としてこの分野において取り上げられることが少ないままとなっていた[81]

20世紀哲学の諸潮流のなかには、分析哲学にも大陸哲学にも明確には分類されないものも存在する。プラグマティズムは、リチャード・ローティ(1931–2007年)やヒラリー・パトナム(1926–2016年)などによって発展し、認識論・政治・教育・社会科学などの新たな探究領域へと応用された[82]。20世紀の哲学を、分析哲学・大陸哲学・プラグマティズムの3つの潮流に区分して整理する研究者もいる[83]

この時代には、女性を不利な立場に置く伝統的前提および権力構造を研究・批判するフェミニズム哲学も発展した。影響力のあるフェミニズム哲学者としては、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908–1986年)、マーサ・ヌスバウム(1947年–)、ジュディス・バトラー(1956年–)などがいる[84]

分析哲学

ゴットロープ・フレーゲは、分析哲学の創始者のひとりである。

ジョージ・エドワード・ムーア(1873–1958年)は、分析哲学の創始者のひとりであった。彼は常識の重要性を強調し、それを用いて急進的な形態の哲学的懐疑主義英語版に反論した。ムーアは倫理学の領域でとりわけ影響力をもち、行為は善を促進すべきであると主張した。彼は「善」という概念は他の概念によって定義することはできず、何が善であるかは直観によって知られうると論じた[85]

ゴットロープ・フレーゲ(1848–1925年)もまた、分析哲学の先駆者とされる。彼が展開した近代形式論理は、論理学の領域を超えて後続の哲学者たちに大きな影響を与えた。フレーゲは、算術が論理に還元できるという論理主義の主張を証明しようとする試みにおいて、これらの成果を用いた[86]バートランド・ラッセル(1872–1970年)は、フレーゲの試みをさらに野心的な形で進め、算術だけでなく幾何学や解析も対象とした。これらの試みは多くの成果を生んだものの、論理以外の追加の公理を要するため、完全な成功には至らなかった。言語哲学において、ラッセルの確定記述英語版の理論は大きな影響を与えた。この理論は、「現在のフランス王」のように、実在する対象を指さない表現がどのように理解されうるかを説明するものである[87]

ラッセルはまた、論理的原子論英語版を展開し、それは彼に師事したルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889–1951年)によってさらに洗練された。ウィトゲンシュタインの初期の著作である『論理哲学論考』によれば、世界は多数の原子的事実から構成されている。世界と言語は同じ論理的構造をもつため、命題によってこれらの事実を記述することが可能となる。この理論は大きな影響を与えたが、ウィトゲンシュタインはのちにこの考えを放棄した。彼はむしろ、言語はそれぞれ独自の規則と慣習をもつ多様な言語ゲームから成ると論じた。この見解によれば、意味は事実への指示によってではなく、使用によって決定される[88]

論理実証主義は、これらの思想と並行して展開され、また、経験論の強い影響を受けていた。この運動は主としてウィーン学団と関連し、論理的分析と経験的検証に焦点を当てた。その代表的成員の一人であるルドルフ・カルナップ(1891–1970年)は、検証原理英語版を擁護した。この原理によれば、感覚経験または論理法則によって検証できない命題は無意味である。カルナップはこの原理を用いて、形而上学という学問領域全体を退けた[89]。しかしこの原理は、カルナップに師事したウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(1908–2000年)によって、「経験主義のドグマ英語版」であると批判された。クワインの哲学の中心思想の一つは自然主義英語版であり、彼いわくこれは自然科学こそが世界を理解するための最も信頼できる枠組みを提供するという主張である。クワインはこの見解を用いて、数学的対象は科学に不可欠であるため、実在すると論じた(クワイン=パトナムの不可欠性議論英語版[90]

後期ウィトゲンシュタインの哲学は、日常言語学派の一部でもある。日常言語学派は、哲学的概念や問題を日常言語の分析によって理解しようとするものであり、ジョン・L・オースティン(1911–1960年)の言語行為理論が初期の重要な貢献である。この領域の影響力ある人物としては、ギルバート・ライル(1900–1976年)、ピーター・フレデリック・ストローソン(1919–2006年)などがいる。言語の役割を重視する潮流のことを言語論的転回と呼称する[91]

分析哲学の領域においては、リチャード・マーヴィン・ヘア(1919–2002年)およびジョン・マッキー(1917–1981年)が倫理学で、ジョン・ロールズ(1921–2002年)およびロバート・ノージック(1938–2002年)が政治哲学で影響力を持った[92]

大陸哲学

マルティン・ハイデッガーは、現象学・解釈学・実存主義に貢献した。

現象学は、初期の大陸哲学運動のひとつとして影響力をもった。現象学は、主観的視点から人間経験を純粋に記述することを目指し、この記述によって認識論・存在論心の哲学・倫理学などの諸領域にわたる哲学的問題を分析し評価しようとした。現象学の創始者はエトムント・フッサール(1859–1938年)であり、彼は、経験が展開するそのままの姿を純粋かつ偏りなく記述するために、あらゆる先行する信念を停止すること(エポケー)の重要性を強調した[93]

フッサールに学んだマルティン・ハイデッガー(1889–1976年)はこの方法を、彼が基礎的存在論英語版と名付けたアプローチへと取り入れた。ハイデッガーは、人間による実在の前理解が、世界の経験および関与のあり方をどのように形成するかを探究した。彼は、純粋な記述のみでは現象学には不十分であり、誤解の可能性を明らかにし回避するためには解釈が伴われなければならないと論じた[94]。この考えはハンス・ゲオルク・ガダマー(1900–2002年)によって継承・発展された。ガダマーは、人間の前理解は動的であり、解釈の過程を通じて発展すると考えた。彼はこの過程を地平融合英語版として説明し、それは解釈者の現在の地平と、解釈対象の地平との相互作用によって成り立つとした[95]

ハイデッガーの哲学におけるもうひとつの重要な側面は、人間の世界に対する気遣いに注目する点であった。彼は、この気遣いが不安本来性英語版のような現象とどのように結びついているかを探究した。これらの思想は、ジャン=ポール・サルトル(1905–1980年)に影響を与え、サルトルはそこから実存主義の哲学を展開した。実存主義者は、人間は本質的に自由であり、その選択に責任を負うと考える。また、人生にはあらかじめ定められた目的が存在しないため、そのような指針のない状況で進路を選択する行為は不安を引き起こしうると主張する。世界は本質的に無意味であるという考えは、アルベール・カミュ(1913–1960年)のような不条理主義者によって特に強調された[96]

批判理論は、20世紀前半にフランクフルト学派から勃興した。これは社会哲学の一形態であり、社会と文化に対する省察的評価と批判を提供することを目的とする。伝統的理論とは異なり、その目的は理解および説明にとどまらず、とくに支配や抑圧から人々を解放し、解放をもたらす実践的変化を促すことにある。批判理論の中心的テーマとしては、権力・不平等社会正義イデオロギーの役割などが挙げられる。著名な人物には、テオドール・アドルノ(1903–1969年)、マックス・ホルクハイマー(1895–1973年)、ヘルベルト・マルクーゼ(1898–1979年)がいる[97]

20世紀後半の大陸哲学は、真理・客観性・普遍的説明・理性・進歩といった多くの伝統的哲学概念や前提に対する批判的態度によって特徴づけられる。この見解はしばしばポストモダニズムと呼ばれる。ミシェル・フーコー(1926–1984年)は、知と権力の関係を検討し、知は常に権力によって形成されると論じた。ジャック・デリダ(1930–2004年)は、脱構築の哲学を展開し、現前と不在、主体と客体といった対立に依拠する哲学的テクストの内部に潜む矛盾を暴こうとした。ジル・ドゥルーズ(1925–1995年)は、精神分析理論を参照しつつ、欲望・主体性・同一性・知識といった伝統的概念を批判し、再構想した[98]

日本での受容

江戸時代末期において、西洋の学問の輸入は専ら自然科学分野に限定されていた。実質的に初めて西洋哲学を日本へもたらしたのは西周である。西は江戸幕府よってオランダへ派遣された際、ミル功利主義コント実証主義を学び、日本へ紹介した[99]。明治政府樹立後に輸入された西洋哲学も、実務的な政治思想・社会思想、実学的な功利主義・実証主義の哲学であり、これは日本の近代化を実現するため社会制度の整備が急がれたという背景によるものである[99]

明治10年代以降、自由民権運動が高揚し、国家の根拠と理念が問い直されるようになった。中江兆民ルソーの『社会契約論』を訳解し、唯物論と結びついた実証的な社会変革の論理によって自由民権運動に影響を与えた[100]井上哲次郎は西洋哲学と東洋哲学を融合した普遍的・根源的原理に基づく哲学を志向した[100]

脚注

  1. ^ 岩田 (2003) p.150
  2. ^ 野田 (1984) p.64
  3. ^ 野田 (1984) p.65
  4. ^ 野田 (1984) p.68
  5. ^ 野田 (1984) p.69
  6. ^ a b 野田 (1984) p.70
  7. ^ 野田 (1984) p.72
  8. ^ 小坂 (2008) p.22
  9. ^ 小坂 (2008) p.19
  10. ^ 小坂 (2008) p.20
  11. ^ 小坂 (2008) p.24
  12. ^ a b 小坂 (2008) p.26
  13. ^ 小坂 (2008) p.25
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  15. ^ a b c d e f 加藤信朗「ギリシア哲学」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%93%B2%E5%AD%A6コトバンクより2025年10月16日閲覧 
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  19. ^ ヘラクレイトス」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9コトバンクより2025年10月16日閲覧 
  20. ^ 藤沢 1968, pp. 91–94.
  21. ^ 藤沢 1968, pp. 95–99.
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  100. ^ a b 須藤ほか (2007) p.454

参考文献

関連項目


西洋哲学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 10:18 UTC 版)

心霊主義」の記事における「西洋哲学」の解説

心霊主義は、人間の「死後存続」を信じ思想である。17世紀末の哲学者ゴットフリート・ライプニッツ1646年 - 1716年)は、彼の基本的理念によって死後存続についてひとつの完璧な教理築いた心霊主義理論ベースには、ライプニッツモナド単子)論があるのであるライプニッツは、宇宙不滅心霊的原子である「霊魂」(モナド)の無数から成り立っており、それぞれのモナドの完全さ程度異なり、より完全な状態に向かって発展しようとする傾向持っている考えた生物のような複合体モナド集合体であり、霊魂である主要モナド支配受けている。そして、ある状態から他の状態への「飛躍」は自然的ではなく生と死連続したものだと考えたまた、霊魂神の似姿であり、人間の霊魂は他の星でより完全な意識持って存続する信じられるとした。ただし、宇宙および神は無限であるから認識意識)は完成することはない。そして幸福とは、新し喜び新しい完全に向かう「絶えざる進歩」の内にあると考えた哲学者シャルル・ボネ1720年 - 1793年)は、自らの生物学基づいてライプニッツ思想発展させ、生物目に見え不滅な原状回復」を内蔵しており、その順次成長し顕現するが、これは肉体の死ののちも同様であるとした。人間肉体死後宇宙新し事態適応した新し生存再生できる考えた(「転生」(パリンゲネシア)の説)。 哲学者イマヌエル・カント1724年 - 1804年)は死後の世界性質ではなく、その真理を「証明する可能性について見解示したカントは、合理的形而上学死後存続問題になんら根拠のあることを教えないが、我々は知的ではなく道徳的直観によって、先天的に定められた「無条件命令」を自らの中に見出す述べている。その道徳律を最もよく規定する原理は、「自分意志行動とをあらゆる理性的な人間のそれと一致させることに努める」ことである。カントはその理性相互間の調和を「目的王国」と呼んだが、完成この世では不可能に感じられ経験的に不可能である。完成には我々の限りない存続による限りない人格進展しかなく、従って霊魂不死なければならないとした。 19世紀全体として不死進歩との考え結び付けるカント根本的立場を受けついだ。カントを受けついだ死後存続解釈は、大きく二つ分けられる。ひとつは、カントおよびライプニッツ真正思想忠実に守り生前人格死後引き継がれる人格的死後存続という形で考え一派である。もうひとつは、カントバールーフ・デ・スピノザ1632年 - 1677年)の思想補い、むしろ絶対精神認め、それの発展個々存在者貫き、かつ個々存在者によって徐々に完成されるとする態度である。後者立場は、「永遠な人類」という純粋に此世的な不死思想に結びついた。レーノーの『地と天』(1854年)では、人間の生は、天体から天体へと移り以前過失償う生涯連続であり、完成することのない試練と罰と完成への進展である。霊魂段々と向上し、その歩み神聖な計画と、世界世界調和機能に従うものであるとした。 初期社会学者フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ1772年 - 1837年)は、著作家庭農業組合』(1822年収録の「宇宙開闢説」などで、天体道徳知性を持つ、霊魂ある一個生物であり、そこに生きるものは天体には劣るが永遠霊魂持っている述べている。個体が死ぬと霊魂は隣の空間あの世)に移り、それから元の天体住民生まれ変わって戻ってくるという往復を81000年の間に810繰り返し合計1620回の生涯があると計算した。うち27000年は地球で、54000年はあの世で暮らすことになる。フーリエは、個人はその多く生涯の間にだんだんと向上する考えた地球死滅すると、地球霊魂はそこに生きる霊魂連れて新し天体移り個々霊魂個性失って天体霊魂溶け込むという。この壮大な上昇過程最終的にどうなるかは述べられていない

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