野田又夫とは? わかりやすく解説

野田又夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/03 09:32 UTC 版)

野田 又夫 のだ またお
生誕 1910年12月10日
日本大阪府
死没 2004年4月22日
日本京都府京都市
時代 20世紀の哲学
地域 日本哲学
学派 京都学派
研究分野 哲学(近代西洋哲学)
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野田 又夫(のだ またお、1910年12月10日 - 2004年4月22日[1])は、日本哲学者京都大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。

経歴

出生から修学期

1910年(明治3年)、大阪府で生まれた。旧制大阪府立高津中学校(大阪府立高津高等学校の前身)で学び、この時の同期生には森三樹三郎(大阪大学名誉教授)がいた。1927年(昭和2年)、同中学校を卒業し[2]旧制大阪高等学校へ進学。3年間を過ごしたのち、京都帝国大学文学部哲学科へ進学した[3]

大学では、旧制大阪高等学校時代から同窓の保田與重郎日本浪曼派で知られる)らと共に雑誌を発行し、それを西田幾多郎に持っていくなどして西田と交流していた。野田が京都帝国大学に在学した時期は「京都学派」が興隆した時期であり、西洋哲学の研究評伝集・弘文堂「西哲叢書」で最年少の執筆者としてデカルトを担当した。

哲学者として

1933年、旧制大阪高等学校教授となった。1947年、母校の京都帝国大学文学部助教授となった。1958年、同教授に昇格。1974年に京都大学を定年退官し、その後は甲南女子大学教授として教鞭をとった。

2004年4月22日肺炎のため京都市内の自宅で死去[1]

受賞・栄典

研究内容・業績

専門は西洋哲学で、デカルト研究で知られている。ラッセル協会設立発起人の一人[1][3]。国際的な哲学史の編集も手がけた。国際的に権威のあるアメリカの哲学雑誌『モニスト英語版』(The Monist)の編集委員も長く務めた[3]

京都学派としての位置づけ
  • 京都学派西田幾多郎田辺元九鬼周造らのもとで学び、文献学に基づいた客観的、実証的な哲学研究を行い、岩波新書版『パスカル』『デカルト』は多数版を重ねている。西田幾多郎を源流とする京都学派の伝統を引き継ぎつつも転換し、新しい戦後の京都哲学の流れを作ったとされる[4]
  • 研究姿勢は、東洋思想を基点とする西田哲学などの京都学派とは異なり、デカルトパスカルなどの近世から近代期の西洋哲学を厳密に理解し直すスタイルを貫き、哲学研究者を多く育成した。

著作

著作集
  • 『野田又夫著作集』(全5巻)白水社 1981-82
  1. 『デカルト研究』
  2. 『哲学論考』
  3. 『思想史研究』 上
  4. 『思想史研究』 下
  5. 『随想』

訳書

Web上の関連テキスト

脚注

  1. ^ a b c “野田又夫京大名誉教授が死去”. 京都新聞. (2004年4月24日) 
  2. ^ 野田又夫『出身県別 現代人物事典 西日本版』p969 サン・データ・システム 1980年
  3. ^ a b c 野田又夫『哲学の三つの伝統 他十二篇』岩波書店、2013年12月17日。 
  4. ^ 京都ゆかりの哲学者 野田又夫の草稿見つかる・「京都学派」を転換、戦後の潮流つくった足跡を裏付け




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