昭和天皇の養育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
1908年(明治41年)4月に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。 当時の裕仁親王は、赤坂にある東宮御所から、車での送迎で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。戦後、中曽根康弘が運輸大臣であった時に昭和天皇への内奏で、司馬遼太郎の小説『殉死』に書かれている逸話は本当かと尋ねたところ、おおむねその通りであるとの返答を得たという。 明治45年(1912年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ。
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