昭和天皇より賜った御嘉賞とは? わかりやすく解説

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昭和天皇より賜った御嘉賞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

沖縄戦」の記事における「昭和天皇より賜った御嘉賞」の解説

5月18日沖縄守備する32軍の戦況昭和天皇上奏され、翌日御嘉賞お言葉が第32軍宛に電報発信された。 「第三十二軍カ来攻スル優勢ナル敵ヲ邀へ軍司令官核心トシ挙軍力戦連日克ク陣地確保シ、敵ニ多大出血強要シアルハ洵ニ満足ニ思フ。」 昭和天皇からのお言葉は、長参謀長から各部隊披露され士気鼓舞した首里撤退32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍攻勢強めていることを重く見て、運玉攻略されれば一気首里防衛線は崩壊する憂慮していた。その為、5月21日に八原は軍参謀召集し今後の方針として下記の各案の利害得失協議した首里陣地籠り最後の決戦を行う案。軍の構想平素からこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存将兵未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫され首里陣地内に配置すればアメリカ軍の砲爆撃好餌となってしまう。 知念半島撤退案。知念半島四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力収容するのが困難であり、既集積物資少ない。 喜屋武半島撤退案。海正面30〜40mの断崖防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力収容も可能で、第24師団軍需品集積されている。 八原の作戦案に対し、各兵団長が意見述べ、第62師団長藤岡武雄中将などは首里決戦案を主張したが、協議結果地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続案を採ることとなり、軍主力後退29日、その前に軍需品負傷者後送をただちに行うことと決した喜屋武半島での持久案をもっとも強く主張したのは八原で、作戦協議も八原主導進められたが、この案は戦火逃れて南部島尻地区避難している住民の安全をほとんど顧みない作戦であった。しかし、あがってきた作戦案に対し参謀長の長は総攻撃失敗以降は八原の作戦異論を挟む事はなかったし、牛島今まで同様に八原らの作戦案を5月22日黙って決裁した。 アメリカ軍進撃は、5月末から降り出した豪雨一時停滞していたが、23日には、第96師団制圧したコニカルヒルから、第7師団の第184・第32歩兵連隊首里包囲するため前進した遭遇した日本軍敗残部隊多く、両連隊幾度となく攻撃しかけたが、撃退され連隊進撃阻止できなかった。しかし第32歩兵連隊が、首里沖縄南部を結ぶ幹線道路接す重要な高台地に達すると、日本軍残存砲兵戦力総力挙げて激し砲撃と、第24師団歩兵第89連隊敢闘により、多数損害を出させて撃退している。24日には第6海兵師団偵察部隊那覇進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日アメリカ軍の手落ちた。 コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーン突破した海兵隊首里近づき首里包囲網完成されつつあった26日に、海軍偵察機日本軍大規模な移動発見した。その報告聞いたバックナー司令官は、日本軍意図察して徹底した追撃厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲空爆砲撃徹底攻撃加えたが、全く撤退予測しておらず効果的な追撃ができなかったこと、5月末から降り出した激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退阻止することはできず、第32軍の30,000名が南部新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里包囲しつつあった第24軍第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害大きかった奇跡的な陣地移動であった牛島司令官第32軍首脳は、5月27日豪雨夜陰紛れて徒歩首里撤退し南風原町津嘉山の壕へ向かった。さらに30日未明には新しい司令部となる摩文仁移動した。 わずかばかり守備隊残った首里陣地アメリカ軍の手落ちたが、難攻不落要塞だった首里陣地も、アメリカ軍艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵遺体散乱していた。その光景見たバックナーは「牛島首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」「もう戦い終わった、後は掃討戦だ(中略)敵は二度と戦線確立することはできない」とか、またもや楽観的な意見述べ参謀らも日本軍秩序だった撤退できない思っていたが、これは全く根拠がない事が、日本軍損害被りながら見事に首里撤退し南部新たな戦線構築したことで明らかになった。アメリカ軍日本軍組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった南部への撤退に際しては、日本側で混乱起きている。大田実少将率い海軍沖縄根拠地隊は、5月26日小禄陣地離脱して真榮平移動したが、これは「第32主力移動援護をした後に6月2日以降撤退せよ」という第32命令を、命令書の表現曖昧であった誤解したものであった誤解判明大田28日夜に小禄の旧陣地復帰したが、6月4日には進撃速度上げたアメリカ軍海軍部隊の守る小禄海軍飛行場陣地まで進撃してきた。海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊再編成したもので本来の戦闘部隊少なく余剰となった航空機関砲陸戦用に改造するなどの努力はしたもの装備劣悪であった比較戦力のある4個大隊陸軍指揮下に入れて首里戦線送った後、本隊陸軍守備軍と別行動をとり、小禄地区篭って抗戦していた。接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦タンカー海岸砲砲撃して沈めるなどの戦果挙げていたが、5月26日誤解による撤退の際に残存重火器破却しており、兵力もわずか2,000人と戦力低かった。それでも大田死守決意し6月5日には第32軍司令部対し海軍包囲せられ撤退不能のため、小禄地区にて最後まで戦う」と打電している。牛島大田南部への後退命令再度発し、自ら懇切な親書認めた大田決意固く翻意は無理であった大田6月6日各所訣別打電をしており、中でも海軍次官宛の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という打電今日でも有名である。 小禄侵攻した第6海兵師団日本海軍部隊激し抵抗受けて大きな損害被ったが、6月11日には2個連隊により海軍部隊陣地包囲した小祿防衛戦10日間も続きアメリカ軍死傷者は1,608名にも上った大田率い海軍陸戦隊武器対空陣地破壊され航空機から外され機銃で、それも兵士3名につき1挺という貧弱なものであったが、アメリカ軍死傷率は首里攻防戦大きく上回るもので、まともな装備であったら、さらにアメリカ軍甚大な損害与えていたもの評価されている。大田6月11日牛島司令官宛てに「敵戦車群は我が司令部洞窟攻撃中なり、根拠地隊は今11日2330玉砕す、従前厚誼謝し貴軍の健闘を祈る」と打電した後に、海軍司令部壕内で13日部下参謀5名と共に自決した小禄制圧した第6海兵師団大田司令部の特別捜索行い数百自決した日本兵遺体横たわる地下壕内の中央の部屋大田と5名の上将校遺体発見して、この司令部地下壕があった丘を『提督の丘』と名付けている。また、小祿では6月12日13日沖縄戦初め159名の日本兵がまとまった集団として投降し捕虜となっている。

※この「昭和天皇より賜った御嘉賞」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「昭和天皇より賜った御嘉賞」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。

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