昭和天皇より賜った御嘉賞
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5月18日、沖縄を守備する第32軍の戦況が昭和天皇に上奏され、翌日、御嘉賞のお言葉が第32軍宛に電報発信された。 「第三十二軍カ来攻スル優勢ナル敵ヲ邀へ軍司令官ヲ核心トシ挙軍力戦連日克ク陣地ヲ確保シ、敵ニ多大ノ出血ヲ強要シアルハ洵ニ満足ニ思フ。」 昭和天皇からのお言葉は、長参謀長から各部隊に披露され士気を鼓舞した。 首里撤退 第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原は軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した。 首里陣地に籠り最後の決戦を行う案。軍の構想は平素からこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すればアメリカ軍の砲爆撃の好餌となってしまう。 知念半島撤退案。知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少ない。 喜屋武半島撤退案。海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。 八原の作戦案に対し、各兵団長が意見述べ、第62師団長藤岡武雄中将などは首里決戦案を主張したが、協議の結果、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続案を採ることとなり、軍主力の後退は29日、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うことと決した。 喜屋武半島での持久案をもっとも強く主張したのは八原で、作戦協議も八原主導で進められたが、この案は戦火を逃れて南部島尻地区に避難している住民の安全をほとんど顧みない作戦であった。しかし、あがってきた作戦案に対し、参謀長の長は総攻撃失敗以降は八原の作戦に異論を挟む事はなかったし、牛島も今までと同様に八原らの作戦案を5月22日に黙って決裁した。 アメリカ軍の進撃は、5月末から降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルから、第7師団の第184・第32歩兵連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった。しかし第32歩兵連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団歩兵第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している。24日には第6海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。 コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたバックナー司令官は、日本軍の意図を察して徹底した追撃を厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず効果的な追撃ができなかったこと、5月末から降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、第32軍の30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった。 牛島司令官ら第32軍首脳は、5月27日、豪雨と夜陰に紛れて徒歩で首里を撤退し南風原町津嘉山の壕へ向かった。さらに30日未明には新しい司令部となる摩文仁に移動した。 わずかばかりの守備隊が残った首里陣地はアメリカ軍の手に落ちたが、難攻不落の要塞だった首里陣地も、アメリカ軍の艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵の遺体が散乱していた。その光景を見たバックナーは「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」「もう戦いは終わった、後は掃討戦だ(中略)敵は二度と戦線を確立することはできない」とか、またもや楽観的な意見を述べ、参謀らも日本軍に秩序だった撤退はできないと思っていたが、これは全く根拠がない事が、日本軍が損害を被りながら見事に首里を撤退し、南部に新たな戦線を構築したことで明らかになった。アメリカ軍は日本軍の組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった。 南部への撤退に際しては、日本側で混乱も起きている。大田実少将率いる海軍沖縄根拠地隊は、5月26日に小禄の陣地を離脱して真榮平に移動したが、これは「第32軍主力の移動の援護をした後に6月2日以降撤退せよ」という第32軍命令を、命令書の表現が曖昧であった為誤解したものであった。誤解の判明で大田は28日夜に小禄の旧陣地に復帰したが、6月4日には進撃速度を上げたアメリカ軍が海軍部隊の守る小禄海軍飛行場陣地まで進撃してきた。海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、余剰となった航空機関砲を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備軍と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦していた。接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦とタンカーを海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げていたが、5月26日の誤解による撤退の際に残存の重火器を破却しており、兵力もわずか2,000人と戦力は低かった。それでも大田は死守を決意し、6月5日には第32軍司令部に対し「海軍は包囲せられ撤退不能のため、小禄地区にて最後まで戦う」と打電している。牛島は大田に南部への後退命令を再度発し、自ら懇切な親書を認めたが大田の決意は固く翻意は無理であった。大田は6月6日に各所に訣別の打電をしており、中でも海軍次官宛の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という打電は今日でも有名である。 小禄に侵攻した第6海兵師団は日本海軍部隊の激しい抵抗を受けて大きな損害を被ったが、6月11日には2個連隊により海軍部隊の陣地を包囲した。小祿の防衛戦は10日間も続き、アメリカ軍の死傷者は1,608名にも上った。大田率いる海軍陸戦隊の武器は対空陣地や破壊された航空機から外された機銃で、それも兵士3名につき1挺という貧弱なものであったが、アメリカ軍の死傷率は首里攻防戦を大きく上回るもので、まともな装備であったら、さらにアメリカ軍に甚大な損害を与えていたものと評価されている。大田は6月11日に牛島司令官宛てに「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり、根拠地隊は今11日2330玉砕す、従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」と打電した後に、海軍司令部壕内で13日に部下参謀5名と共に自決した。小禄を制圧した第6海兵師団は大田の司令部の特別捜索を行い、数百の自決した日本兵の遺体が横たわる地下壕内の中央の部屋で大田と5名の上級将校の遺体を発見して、この司令部の地下壕があった丘を『提督の丘』と名付けている。また、小祿では6月12日と13日に沖縄戦で初めて159名の日本兵がまとまった集団として投降し捕虜となっている。
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