首里防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:26 UTC 版)
5月6日、沖縄県は梅雨が始まった。沖縄守備隊の奮闘により、アメリカ軍は、日本本土への侵攻作戦を梅雨と酷暑期の過ぎた9月以降に延期せざるを得なくなった。日本軍の総攻撃は失敗に終わったが、アメリカ軍からの逆襲もなく部隊再編を急いだ。第32軍は再度持久戦に徹するよう指示をだした。22連隊は、幸地から146高地において、アメリカ軍の攻撃を破砕するように命じられた。雨により、衛生環境が著しく悪化し、傷病兵が増加した。また、沖縄本島の非舗装道路は、交通を害し、補給は停滞した。日本軍の地下壕内にも雨水が侵入してきた。 5月7日、米第7師団第17連隊に、22連隊が守備する幸地(米称ゼブラヒル)の攻略命令が下った。同日、22連隊は「一兵でも多くの敵を倒し、大損害を与えるべし。」との命令を受けた。米軍の火炎戦車が幸地に侵入してきたが、一通り火炎を放射して反転していくところを背後から猛烈に砲撃して撃破した。 5月8日、第1大隊と第3大隊が交代するよう準備されたが、敵の攻撃の前に第1大隊(小城大隊)、第3大隊(田川大隊)が共同で守備に就いた。前日から雨が降り続く中、アメリカ軍の攻撃は続き、手榴弾戦、白兵戦が繰り返された。すでに不眠不休の激戦が続いており、第1大隊は交代を心待ちにしていたが叶わなかった。 アメリカ軍は疲労と損害に耐えかねた第7師団が第96師団と交代し、次々と新手を繰り出しており、その状況をうらやましく見えたと22連隊記録に記述されている。戦局の好転こそなし得なかったが、22連隊の奮戦が、アメリカ陸軍最精鋭師団の鋭鋒を挫いたのである。この日、ドイツは降伏し、アメリカ軍は日本軍に拡声器で宣伝を続けた。戦場におけるこのような苦難を忍ぶにあたって、拠り所となっていたのは、圧倒的に不利な状況下であっても必ず勝利を繰り返し、幾多の武勲に輝く歩兵第22連隊の伝統であった。第1大隊は戦績を認められ、22連隊長から感状を授けられた。 5月9日、22連隊は2日連続の米軍の攻撃を受け、さらに損害を受けた。幸地南西にある高地頂上をアメリカ軍に占領された。22連隊は増援を要請したが、本来戦闘職種ではなく、武器もほとんど手にしたことのない航空機の整備兵が補充されてきた。 5月10日、22連隊は、昨日から幸地南西で激しい争奪戦を繰り返していた。10日夜には、夜襲を敢行したが、損害を増やしただけに終わった。22連隊は消耗し、完全包囲される恐れがあったため、弁ヶ岳北東に後退していった。22連隊の戦力は、第1、第2大隊をあわせて200名以下、第3大隊は壊滅し、第10中隊長渡邊裕二大尉(士56期 秋田県出身)以下10数名となった。アメリカ軍はハウ高地から幸地にかけて野戦築城を施し守備を固めた。しかし切り通しから140高地と呼ばれる陣地は依然、22連隊が死守していた。この守兵の中には、日支事変以来のもっとも頼もしい歴戦の下士官が数名おり、彼らはいつもと同じように敵の攻勢を撃退し続けていた。 『日本軍の歩兵は銃剣術を鍛えてました。だから防御していて敵が目の前に迫っても「早く来ないか。来たらやってやる!」と自信があるわけです。だから八百名の大隊が四、五十名になって八百名と同じ陣地を持っていても米軍を寄せつけない。米軍も怖がって突っ込んで来ないという状態で、兵隊がどんどん少なくなって戦線を縮小しないと隙間だらけで危ないから、ちょっと配置を変えようとすると「ここで、死なして下さい!」と動かない、それはもう立派なものでした。昼間は連日戦ってその間中、撃たれっ放しです。敵が攻めてくるのは午前一回午後一回です。それで疲れ切っているのに夜は壕を掘り、弾を取りに帰り、負傷者を後ろに下げてやったり、戦死者を仮埋葬で埋めたりと、やることはいっぱいあるわけです。そういう状態で飯も食えません。そこへ私たちの居た部落の女子青年団の人達がおにぎりを作ってカマスに入れて第一線まで運んでくれました。第一線の後ろは無事かというと、そうではありません。道路のめぼしい交差点は全て、日本軍が移動出来ないように一晩中弾を撃ってきます。日本軍の射撃なんかとても目じゃないというほど、どの交差点にも間をおいて集中射撃が加えられます。そういう所をかい潜って女の子達がおにぎりを届けてくれました。そのおかげで、一日一食ですけれど、ご飯を食べて三週間以上同じ陣地で頑張ったのです。他の陣地が全部やられて22連隊第1大隊が、鉛筆芯の先の尖った所みたいな形で頑張っていたとき、32軍司令部が押さえられそうになって危ないから戦線を縮小するから下がれということで下がりました。その時のことです。私(小城大尉)の壕の地下に前の部隊の負傷兵が寝かされているというので何段も階段を下りて地下二階くらいのところまで行ってみると、そこに負傷兵が寝ていました。私(小城大尉)が下りて行って「俺の大隊は、ここから下がるから米軍が来るぞ。君たちも下がりなさい。」と言ってよく見ると、豚の脂を燃やした灯のかたわらに女の子が一人だけで、負傷兵が三、四人を看護していました。そして、その女の子は「私はここに残ります。」と言うのです。私としてはもはや何も言うことができませんでした。海軍の沖縄根拠地隊司令官の大田少将が、大本営へ最後の電報を打ったときに、沖縄県民はこんなによく戦った、戦後格別の御配慮をお願いしたい、と言っておられますが、その通りでした。』と、歩兵第22連隊第1大隊長小城正大尉が戦後述べている。 将兵がもっとも必要としたのは水だった。水は慢性的に不足しており、非常にのどが渇いているため乾パンを飲み込むのも大変だった。22連隊の陣地のひとつ140高地は、戦後、石嶺地区市営住宅の給水塔となっている。
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