首里戦線前衛陣地の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。日本軍の抵抗が少なかった為、第10軍の現地指揮官の中には日本軍の抵抗が既に崩壊してると感じている者もいて、そのような現地の空気を反映してか、海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と冗談まじりに報告したほどであったが、ニミッツは報告書の訂正を求めている。ニミッツはペリリューの戦いや硫黄島の戦いでの苦戦の経験から、日本軍の島嶼防衛の戦法を熟知しており、日本軍は艦砲射撃を浴びながら海岸線を防衛することを避けて、内陸部でアメリカ軍に出血を強いる戦法をとってくると確信していた。 第32軍は飛行場付近の平地の防衛を実質的に放棄していたが、賀谷與吉中佐に率いられた第62師団独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)をアメリカ軍の進撃を遅滞させる目的で配置している。賀谷支隊はわずか1,000名の戦力で数万のアメリカ軍と対峙することとなったが、指揮官の賀谷はこの戦いに際して部下将兵に「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ」「自分と自分の部下の命、国を護るため最善を尽くさなければならない、大敵といえども恐れず、最善を尽くすことのみを考えよ」と訓示している。賀谷支隊の将兵は「酒と女には弱いが戦には強い」と指揮官の賀谷を慕っており、日中は既設の陣地に入って進撃してくるアメリカ軍と戦い、夜に移動して後方の新しい陣地に入って翌朝に進撃してくるアメリカ軍を足止めするといった戦術を粘り強く続けた。賀谷支隊は5日朝に第62師団の主陣地隊まで戻ったが、半数の将兵を失いながら、アメリカ軍の戦車10輌撃破と600名の敵兵を倒したと報告しており、同時に第62師団主力に「砲兵主力の協力さえあれば、米軍恐れるに足らず」との戦訓も報告し、師団の士気を大いに高めている。このように、沖縄戦南部の戦いの序盤は賀谷支隊が孤軍奮闘し、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜5日まで野嵩および新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止して、十分に進撃遅滞の任務を全うしている。 アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、海岸線での防衛戦を避け内陸で上陸軍を待ち構えていた日本軍に丘陵地形で進撃を止められた。その前哨基地は、ピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)にあったが、4月5日にはアメリカ軍がピナクルに達した。同高地を防衛する独立歩兵第14大隊第一中隊(谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、構築した地下陣地を活用し圧倒的なアメリカ軍の攻撃を7〜8回撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、谷川中隊の生存者はわずか30名と為り撤退、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い(英語版))。 アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を擲弾筒などによる砲撃と機銃掃射で後退させ、戦車を孤立させたのちに戦車を肉弾攻撃し撃退している。沖縄戦において、重火器を含む総合的な火力では、圧倒的優勢であったアメリカ軍だったが、こと近距離の歩兵戦では、日本軍に火力で遅れをとることもあった。日本軍の歩兵部隊が小隊規模で擲弾筒を装備していたのに対して、アメリカ軍歩兵は中隊規模でも同様な支援火器はなく、また分隊レベルの支援火器が日本軍は軽機関銃であったのに対し、アメリカ軍はブローニングM1918自動小銃であり、弾倉が20発の容量と少なく、また銃身交換が容易にできず、射撃の持続性で軽機関銃に劣っていた。日本軍が沖縄戦で主に使用した九九式軽機関銃の1分間の発射速度は約800発で、M1918自動小銃やアメリカ軍の主力機関銃ブローニングM1919重機関銃の約2倍の発射速度であり、九九式軽機関銃の甲高い発射音はアメリカ軍兵士に女性の叫び声のように聞こえて恐れられた。そして、第32軍には、フィリピンに送られるはずだったこの九九式軽機関銃や九二式重機関銃が第10軍より大量に支給されており、第32軍の各師団は通常の編制より火器の装備密度が高かった。この豊富な火力によりアメリカ軍の歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用され、アメリカ軍は速射砲や機銃陣地の火力支援を受け、その前面で爆薬で戦車に決死攻撃をかける日本兵が潜む塹壕を「蜘蛛の穴」と呼んで警戒することとなった。 4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった。 ジョン・リード・ホッジ少将率いる第24軍団の第7歩兵師団と第96歩兵師団の2個師団は、日本軍の激しい抵抗に苦戦し、4月8日〜12日までに合計2,880名の死傷者を出したが 宇地泊高地、嘉数高地、和宇慶高地を結ぶラインに構築された日本軍の首里前面の防衛線に達していた。4月19日にホッジ軍団長は、第10軍直轄予備隊である第27歩兵師団を増援に追加した配下の3個師団に対して、嘉数と和宇慶高地を速やかに攻略し、首里の中枢まで一気に進撃する作戦を命じた。 19日は夜が明けるやアメリカ陸海軍の航空機650機がナパーム弾で日本軍の陣地を爆撃、戦艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻が艦砲射撃を加えた。限られた区域にこれほど激しい砲爆撃がくわえられたことは太平洋戦争では初めてであったが、その後さらに重砲による19,000発の砲撃が加えられた。第24軍団はこの集中砲爆撃で日本軍陣地を破壊できたものと確信していたが、実際は巧妙に構築された日本軍の陣地にほとんど損害はなかった。強固な日本軍の陣地の中でも、第96歩兵師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となっていた(嘉数の戦い)。第96歩兵師団は隣接して進撃する第27歩兵師団から戦車の支援を受けながら、嘉数高地および隣接して一体の陣地を形成している西原高地に猛攻を加えたが、日本軍の激しい砲撃と機関銃の射撃で歩兵に死傷者が続出し足止めされ戦車が孤立すると、巧みに隠され配置されていた一式機動四十七粍速射砲の集中砲撃を受け、反撃する間もなく次々と撃破された。特に嘉数村落附近が最大の激戦となり、日本軍は速射砲の他に、10㎏の爆薬を詰めた段ボール大の木箱を抱えた日本兵が戦車に体当たりしてきた。19日の1日だけで日本兵の体当たり攻撃で6輌のM4中戦車が撃破されたが、この体当りでキャタピラを破壊されて擱座した戦車に日本兵が群がり、ハッチを開けて車内に手榴弾を投げ込み戦車兵を全て殺傷したため、爆薬箱を抱えた日本兵はアメリカ軍戦車にとって大きな脅威となった。結局この日に嘉数高地を攻撃した30輌の戦車の内22輌が完全撃破され、無事に帰還したのは8輌に過ぎなかった。 和宇慶高地を攻撃した第7歩兵師団も日本軍の猛攻にほとんど進撃できず、この日唯一前進した第27歩兵師団の歩兵も、前進できたのは日本軍がいなかった低地帯のみで、日本軍の抵抗線に差し掛かると前進は止められた。結局この日のホッジ軍団長の作戦は失敗に終わり、第24軍団全体では720名の死傷者を出す大損害を被って撃退される結果に終わった。 この後も嘉数高地を強行を続けた第96歩兵師団は多大な出血を強いられる事になった。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、主陣地を守備した第62師団が激しい抵抗をしている。4月21日にホッジ軍団長は第27歩兵師団副師団長ウィリアム・B・ブラフォード准将に嘉数高地攻撃の指揮を委ねたが、21日~22日にかけて日本軍は激しい砲撃を加え、陣地を出て夜襲をかけてきたため、逆にブラフォードは第24軍団に予備1個大隊の増援を頼み、戦線を辛うじて維持した。 19日の総攻撃失敗以降、アメリカ軍は嘉数以外への日本軍陣地にも艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続していた。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」 での陣地攻撃により、善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っていた。 第62師団は歩兵旅団を2個統合して編成された師団で、師団砲兵も持たず、日本軍の師団の中では三流と評されていたが、大陸打通作戦で実戦経験を積み、特に山岳戦の経験が深い精強な師団となっていた。師団将兵らの合言葉は「見敵必殺、玉砕御免」で、地下壕内の陣地で頑強に戦い、アメリカ軍3個師団を相手に善戦し大損害を与えていた。牛島は第62師団に感状を授与し、中でももっとも善戦した第63旅団の旅団長中島徳太郎少将は中将に昇進している。22日まで日本軍はアメリカ軍に1日あたり1mの進撃も許さなかったが、19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っており、日本軍の防衛線は全線で綻び始めていた。第32軍司令部は、アメリカ軍が南部から再上陸し、防衛線の背後を突いてくるという懸念から、喜屋武半島の第24師団と知念半島の混成旅団ら軍主力を、警戒のため現地に留めていたが、八原は22日に、軍主力を首里防衛線に投入することを決断し、第24師団と独立混成第44旅団に北上を命じた。23日には戦線整理として、第62師団に撤収と陣地変換を命じている。 その頃、ホッジは嘉数高地を一気に攻略するため、配下の3個師団から精強な4個大隊を選りすぐり、それに戦車、火炎放射戦車、自走砲、自走榴弾砲を支援につけ特別部隊を編成しブラフォードを指揮官とした。この部隊は指揮官の名前から『ブラフォード特攻隊』と呼ばれ、24日の朝から遮二無二嘉数高地を目指したが、日本軍は戦線整理のため既に撤退しており、ブラフォード特攻隊は大した抵抗も受けずに24日中に嘉数を確保した。 撤退した第62師団はまた速やかに防衛線を構築しており、今までを上回る激戦が各地で戦われた。特に撤退した第62師団の3個大隊と増援の第24師団の歩兵第32連隊が護る前田高地が激戦地となった。4月26日に嘉数高地で痛撃を受けていた第96歩兵師団が猛烈な支援砲撃の後に前田高地への攻撃を開始したが、日本軍の防衛陣地は完璧に構築されており、日本軍は丘の前面には陣地を置かず、アメリカ兵が丘を登り切ったところで猛烈な攻撃を加えてきたため、死傷者が続出し丘の麓に撃退された。「為朝岩」(米軍名ニードルロック)にもアメリカ兵が人間梯子をかけて登頂しようとしたが、日本軍の機関銃に狙い撃たれ、登りきることはできなかった。4月29日には日本軍が反撃に出てきて、アメリカ軍は戦車と火炎放射器で数百名の日本兵を殺傷したが、アメリカ軍の損害も大きく、前田高地を攻撃してきた第381連隊は戦闘能力60%を失い、死傷者も1,021名に上っており、中には通常40人の定員に対し、4人しか残っていない小隊もあるほどだった。あまりの損害にホッジ軍団長は第96歩兵師団を慶良間諸島・伊江島を転戦してきた第77歩兵師団と交代させた。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、そこまで兵器をもっていく気力さえ失っていた。その後第77歩兵師団も大きな損害を被りながら5月6日にようやく前田高地を占領した。前田高地の戦闘でもっとも活躍したのはデズモンド・T・ドス衛生兵で、信教上より武器を持つことはなかったが、常に最前線で負傷兵の救護に当り多くの将兵の命を救ったため、名誉勲章(メダル・オブ・オナー)を授与されている。 第27歩兵は城間北部の高地の攻略を目指していたが、城間北部の日本軍防衛線の中枢となる堅牢な地下要塞(アメリカ軍はアイテム・ポケットと呼称)の攻略に手間取っていた。アイテム・ポケットはアメリカ軍の激しい砲爆撃にもびくともしていなかったが、第27歩兵師団の第165連隊は多数の死傷者を出しながら、アイテム・ポケットを包囲し四方八方から攻撃してようやく4月26日に攻略した。第27歩兵師団副師団長グリンナー准将は第165連隊のケーリー大佐の進撃速度の遅さと、その杜撰な指揮ぶりに憤慨し、ホッジ軍団長にケーリーの連隊長解任を申し出し許可された。第27歩兵師団も第96歩兵師団と同じように、この後、沖縄本島中部で日本軍の掃討にあたっていた第1海兵師団と交代している。 これらによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は第24師団と独立混成第44旅団主力も順次防衛線に配置され、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。
※この「首里戦線前衛陣地の戦い」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「首里戦線前衛陣地の戦い」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。
- 首里戦線前衛陣地の戦いのページへのリンク