首里手か那覇手か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 20:57 UTC 版)
以前は糸洲安恒は首里手の代表格として紹介されていたが、最近では屋部憲通や本部朝基など直弟子が語る糸洲安恒像が著書や新聞記事の復刻・発見等を通じて紹介され、むしろ那覇手(東恩納寛量以前の那覇手)の影響が強かったことが明らかになりつつある。 屋部憲通は、糸洲死去直後の新聞記事で「翁は初め松村翁に学んだのだが後年多くの感化を受けたのは那覇の長浜と云ふ人であった。翁の流儀は即ち那覇六分首里四分と云ふ方である」と語っている。また、本部朝基も著書『私の唐手術』で同様の意見を述べている。松村宗棍の手では立ち方はナイファンチ立ちのみでそれをどちらかに捻ったものである。しかし、糸洲の手は猫足立ちが採用され、さらにはナイファンチ立ちもサンチン立ちの様に内側に締めあげている。
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