首里城焼失と再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
1660年、旧暦の9月27日に失火により首里城が全焼した。1671年に再建されるも、資金難により再建に11年もの歳月を有したり、1663年に行われた国王の冊封儀礼が、王府機能の移転先である大美御殿で行われることになるなど、王政に多大な影響を与えることとなった。 首里城の焼失は、薩摩による税収に加え明清王朝交替の影響で進貢貿易の不振に喘いでいた矢先に起こった。羽地は、こうした窮状の下にある中で首里城の再建を実現すべく、薩摩に渡り首里城再建を口実に経済的支援に関する請願を行っている。請願の内容は主に、首里城再建のための材木船3艘の建造や、百姓たちに課せられる薩摩への出米を再建終了まで免除してほしいなどといった、造船や運送、そして薩摩が琉球に課している税の減免についてであった。しかしながら、当時の薩摩においても天災や江戸への軍役負担、藩邸の火災などにより藩財政が悪化していたために、造船や運送については許可されたものの税の減免は許可されなかった。薩摩での請願活動が認められたのか、1663年正月には再建のための総責任者となっているが、その半年後に冊封使が来琉したために、再建事業はいったん中止となった。 財政難により再建が遅れたものの、1666年以降の羽地の改革により3年の内に再建にこぎ着けた。再建された首里城は前のものよりも良い出来栄えであり、これは羽地によるリーダーシップと百姓による尽力による賜物であると、羽地自身が自負を示している。 『羽地仕置』には役人たちの参上に関する規定の他、「玄関」や「廊下」といった首里城内部に関する文章も存在している。これについては、難事だった首里城の再建を視野に入れた諸政策を羽地が推進し、その結果や内容を文書に反映したものであると考えられている。
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