首里城と鎌倉芳太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 02:21 UTC 版)
鎌倉が遺した写真なくして首里城再建は困難だったことはよく言われるが、それ以前にも一度、鎌倉は首里城を守っている。啓明会から補助金をもらって伊東忠太とともに沖縄の調査活動に乗り出した矢先の1923年(大正13年)3月末、鎌倉は当時残っていた首里城正殿が内務省により3日後に取り壊され、沖縄神社になるという新聞記事を見て驚愕し、文字通り伊東のもとに駆けつけた。与那原恵によると、小石川区茗荷谷の沖縄学生寮・明正塾から本郷の帝国大学伊東研究室まで約2キロメートルの距離を走ったという。鎌倉は伊東に記事を見せ、首里城保護を訴えた。伊東も調査に取り掛かる目先だったので直ちに内務省に赴き神社局長の大海原重吉に面会した。当時、伊東は神社建築の第一人者であり、古社寺保存の権威だったので大海原も逆らえず、すぐに沖縄県庁に「取り壊し中止」を命ずる電報を打ち、間一髪で取り壊しは回避された。伊東はさらに歴史学者の黒板勝美とともに首里城を史跡に指定させた。
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