首都高速道路と東京オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 09:26 UTC 版)
「山田正男」の記事における「首都高速道路と東京オリンピック」の解説
首都高速道路と東京オリンピックについては、下記のエピソードが語られることがある。「オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。(中略)そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。「”空中作戦”はどうか」いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。」 しかし、山田自身は 「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と語っている。 また山田の部下だった鈴木信太郎・元東京都技監は「たまたまオリンピックが決定したので、はじめからオリンピックの為であるとは絶対なかったといえる」と語っている。 実際に、「路線の経過地の選定にあたっては市街地の土地利用を考慮し原則として家屋の密集地を避け、つとめて不利用地、治水利水上支障のない河川又は運河を使用する」と決定されたのは、1957年(昭和32年)7月 に 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」において定められたものであるし、現在のルートの原型は、1957年(昭和32年)11月に東京都都市計画高速道路調査特別委員会が首都高速道路網計画として策定している。また、1959年(昭和34年)2月には、日本道路公団が、首都高速道路2号線等の一部である西戸越~汐留間を「一般有料道路 東京都市高速道路」として工事着手している。これらはいずれも、1959年(昭和34年)5月26日の東京オリンピック開催決定より以前の出来事である。 なお、山田の下記の著書には「空中作戦」という言葉は出てこない。「空中作戦」について触れている図書としては、「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀(鹿島出版会)と、「首都高速の謎」清水草一(扶桑社)があるが、いずれも上記プロジェクトX放送の後の刊行である。
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