首都高速道路の建設と日本橋の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:05 UTC 版)
「日本橋 (東京都中央区の橋)」の記事における「首都高速道路の建設と日本橋の関係」の解説
「首都高速都心環状線は、1964年東京オリンピックに間に合わせるために日本橋の上空に道路高架橋を建設する計画がなされた」と言われることがあるが、実際の時系列は下記のとおりであり、オリンピック招致可決以前に日本橋川を首都高速が通ることは決まっていた。 1953年(昭和28年)4月 : 慢性的な交通渋滞の緩和を目指し、「首都高速道路に関する計画」を首都建設委員会が勧告。路線網(5路線49キロメートル)は現在のように河川や公有地の上を通過するものではなかった。 1957年(昭和32年)7月 : 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を発表。「路線の経過地の選定にあたっては市街地の土地利用を考慮し原則として家屋の密集地を避け、つとめて不利用地、治水利水上支障のない河川又は運河を使用する」とされた。 11月 : 東京都都市計画高速道路調査特別委員会が首都高速道路網計画を策定、報告。首都高速の当初の路線網はこの段階で概ね決定された。ただし、日本橋の下を首都高速が通り、6号線は江戸橋ジャンクションから小船町、浜町を経由して両国に至るルートであった。 1958年(昭和33年)4月 : 国会でオリンピック東京招致決議案を可決。 7月 : 首都圏整備委員会が首都高速道路網計画を含んだ首都圏整備計画を決定、告示。 12月 : 東京都市計画地方審議会が首都高速道路計画を一部保留して付議どおり議決し、建設大臣に答申。 1959年(昭和34年)2月18日 : 朝日新聞「都の高速道路計画反対へ 中央区議会」と報じる。 4月8日 : 首都高速道路公団法が可決、成立。 5月26日 : 東京オリンピック開催決定。 6月17日 : 首都高速道路公団設立。 8月7日 : 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。 1957年(昭和32年)段階では、「外濠と日本橋川を利用する区間については神田川との治水上の関連を慎重に検討のうえ可能ならば河床を通すこととし、もし困難な場合は高架方式又はその他の方法を検討し採用する。」とされたが、1958年(昭和33年)9月の狩野川台風による都市型水害が発生したことを踏まえ、日本橋川付近は河積を確保するために高架構造とした。首都高速道路公団理事であった西畑正倫は「名橋日本橋の風致を阻害しないよう、地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望されたが、日本橋の河積を狭めることは殆ど不可能なので、現状で折り合って戴いた。」と記している。 首都高速道路公団では線形が決定した1960年(昭和35年)12月に橋梁設計会社20社から広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。そのデザイン案では、アーチ型や梯型ラーメン橋等のものがあった。そのパースのうちのいくつかが「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」に掲載されている。 上記「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」では、「日本橋には高い道路元標や街燈があり、地元の要望等により取壊しが不可能のため、高速道路は上り下り車線を分離せねばならなかった(元標等を高速道路がオーバーする為には縦断勾配がここで山になり交通上支障となり又車線を分離しないと既存街路の採光上問題となる)」としている。 完成した首都高速について、当時は「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」等と評された。また1964年(昭和39年)7月に発行された首都高速道路開通記念切手の意匠には「日本橋付近の高速道路」が選ばれた。 「名橋「日本橋」保存会」(#外部リンク参照)副会長でもある細田安兵衛・榮太樓總本舗相談役は、日本経済新聞のインタビューにおいて「建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか」との問いに対し「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ。」と答えている。一方で細田は、対談「21世紀の日本橋を考える」において「日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かった」「この点は反省部分がありますね」と地元では反対はあったが弱かった旨語っている。 当時の報道では、「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは絶対反対、すれすれでよいから日本橋の下を通るべきだ」と地元の絶対反対との声を紹介している。 東京都建設局において首都高速道路の計画にあたっていた 山田正男は、「昭和33年のたしか12月29日だな。34年度の予算を国会に間に合わすために首都高速道路計画を早く都市計画として決めないといかん。予算編成に間に合わないと首都高速道路公団法が提案できない。そこで12月の25、6日頃でしたか、計画を決めるため都市計画審議会を開いた。そして、中央区を通過する1号線の一部だけ保留して計画を決めたんですよ。そしたら御用納めの翌日に、石島さん(引用者注:石島三郎東京都議会議員)から日本橋公会堂にお呼び出しを受けたわけです。そしてだいぶ反対派の罵詈雑言を浴びましたがね。」とオリンピック決定前における地元の反対状況を語っている。 なお、首都高速道路公団理事長(当時)神崎丈二は、対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」において「高松宮様から東京都知事をとおして、日本橋はどうにかならないものだろうか-とお話がありました」と明かしている。 首都高速道路6号線は、当初の都市計画決定では江戸橋ジャンクションから小船町、浜町を経由して両国に至るルートであったが、「芳町-浜町間を道路にすれば人家約二百軒が整理が必要となる」「移転はまっぴら」とオリンピック決定前から地元は反対していた。そのため「この大きな犠牲を極力回避するよう地元関係権利者の人達より叫ばれていた」「都の関係局が種々検討した結果、日本橋川、箱崎川等にルートを変更した」として、1970年(昭和40年)3月6日に都市計画決定を変更する告示がなされた。江戸橋ジャンクション以東の首都高速道路は、東京オリンピック終了後に、地元の反対に基づき、日本橋川の上空を通るように変更された。
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