首里城の構造とは? わかりやすく解説

首里城の構造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 05:25 UTC 版)

首里城」の記事における「首里城の構造」の解説

日本他地域の城とは異なり首里城中国の城の影響大きく受けている。門や各種建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期高麗瓦、後に琉球瓦赤瓦)が使われ各部装飾には国王象徴である龍が多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地として役割中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩積み上げられている。 首里城第二尚氏王朝時代15世紀後半から16世紀前半にかけて建設され外郭と、第一尚氏王朝時代15世紀前半ごろに建設され内郭という二重の城壁囲まれ、御庭(うなー)と呼ばれる広場面して立つ正殿北殿南殿・奉神門などの建物内郭集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つアーチ門があった。城の正門である歓会門(別名・あまえ御門うじょう))、または通用門である久慶門(別名・ほこり御門)を経て外郭内部に入ると、内郭入り口である瑞泉門(別名・ひかわ御門)に至る。瑞泉門には「龍樋という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製から流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国冊封使18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻(冊封七碑)がある。 瑞泉門を通り漏刻日時計時間計測していた漏刻門(別名・かご居せ御門)を抜けると、司法寺社宗廟関係の機関入居していた楼閣・広福門(別名・長御門)に至る。広福門の内側は、系図座・用物座(家系図城内物品管理する機関)や、御庭につながる奉神門祭祀空間である「京の内」(けおのうち)に囲まれた下之御庭(しちゃぬうなー)が広がる。ここは御庭に入る前の控えの場であり、首里城10ある御嶽のひとつ・首里御嶽(すいむいうたき)がある。「君誇御門」(きみほこりうじょう)とも呼ばれた神門をくぐると正殿などに囲まれた御庭が広がる正殿前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使迎え入れたりするための御庭(うなー)と呼ばれる広場設けられている。それを取り囲むように行政施設である北殿儀礼などに用いられ南殿、御庭への入り口となり行政施設入っていた奉神門建てられている。さらにそれを各種の門・城壁取り囲むになっている。これらの構造には、中国紫禁城との類似性指摘されている。南殿薩摩藩接待のため使われたので、ここのみ和風意匠用いられていた。 王の居住する中心部正殿せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふ)と呼ばれた中には一階二階両方御差床(うさすか)という玉座設けられ二階御差の上には清国皇帝から贈られ扁額飾られていた。沖縄戦全て失われたが、康熙帝贈った中山世土」(ちゅうざんせいど)、雍正帝贈った「輯瑞球陽」(しゅうずいきゅうよう)、乾隆帝贈った永祚瀛壖」(えいそえいぜん)の三つ扁額本人筆跡落款再現した上で復元され飾られている。正殿一階国王政務をおこなう場所で「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれており、正殿二階王妃女官らの使用する「大庫理(うふぐい)」と呼ばれる場所であった二階御差床は重要な儀式のために使うものであり、二階南東隅の「おせんみこちゃ」という部屋国王女官らが祭祀を行う場所であった南殿南側には王が日常的に執務する建物であった書院および鎖之間(さすのま)がある。書院・鎖之間庭園は琉球グスク内にある唯一の庭園で、石灰岩岩盤生かしてソテツなどを配しており中国使節からも名園評価されていた。遺構保存状態もよく、2008年8月復元公開された。2009年7月には書院・鎖之間庭園ともに日本国名勝指定された。 正殿の裏側は「御内原」(うーちばる)と呼ばれる私的な生活空間に当たり、正殿後方の後之御庭(くしぬうなー)という広場中心にいくつかの建物があったが、1990年代後半からかつて存在した建物の復元のための発掘建設工事すすんでおり、2019年2月1日御内全体新規開園ゾーンとして観光客開放された。御内原の入り口に当たる淑順門(別名・みもの御門、うなか御門)が2010年に、王の住む「二階御殿」(にーけーうどぅん)が2000年再建されているほか、王妃らの寝室があり国王以外の男性入れなかった「黄金御殿」(くがにうどぅん)、調理を行う「寄満」(ゆいんち)、王の側近である近習らが控える「近習詰所」(きんじゅうつめしょ)、王の休息の場である「奥書院」(おくしょいん)が2014年復元公開された。王女住まいであり王位継承の際には儀式の場となる「世誇殿」(よほこりでん)や女官たち生活する女官居室」は2017年竣工した。その東奥には、国王逝去の際に遺体安置する寝廟殿(古写真などの資料がないため未復元建物輪郭部のみ地面表示)を取り囲む石垣とその入り口である白銀門が再建されている。首里城の東の門である継世門(別名・すえつぎ御門)は1998年再建された。この門はもともと倭寇襲来備えて16世紀半ば造られたもので、日常生活用品城内への搬入や、国王逝去時王子がこの門から入り世誇殿で王位継承を行う儀式のために使われた。城郭東端には、「東のアザナ」(あがりのあざな)と呼ばれる物見台があり、標高140メートル城内最高地点から東シナ海太平洋両方を望むことができる。漏刻門や「西のアザナとともに時刻知らせ合図を行う場所でもあった。 本来の木造建築として復元され建物正殿および書院・鎖之間のみである。正殿再建するに当たり、沖縄本島北部山から大木を運ぶ「木曳式」などの儀式が行われたが、実際の構造材の大半台湾から輸入されタイワンヒノキか、日本本土産のヒノキアスナロである。沖縄伝統的に高級材とされていたチャーギ(イヌマキ)やオキナワウラジロガシ資源枯渇のため、前者日本本土産のものが一部でのみ使用された。他の建物ではコンクリート用いるなど外観のみの復元といえる旧来の城壁一部残っており、新し城壁建設の際に発掘され利用されたため、地表近く旧来の城壁の姿を見ることができる。これが唯一残ったオリジナル首里城遺構である。首里城復元建物群は文化財にも世界遺産にも該当しない

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