首里城正殿の大龍柱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 14:56 UTC 版)
首里城正殿の正面の石階段の両脇にあるものを「大龍柱」、手すりの奥にあるもう一対のものを「小龍柱」と呼ぶ。 歴史書『球陽』によると、初代の大龍柱は1508年の尚真王の時代に建造されたという。交流があった中国福建省の青石を用いて作られたという言い伝えがあり、実際に1985年の調査で、首里城周辺で見つかった産地不明石材が中国産の輝緑岩であることが明らかになった。首里城の龍柱は火災や戦火によって3度破壊されており、2代目は1667年(尚質20年)に再建された。3代目は沖縄島南部産の島尻層泥岩を用いて1712年(尚益3年)に再建されたが、琉球処分の際に1879年(尚泰31年/明治12年)より駐屯していた熊本鎮台分遣隊によって胴体が切られるなど一部が損壊され、1945年(昭和20年)5月27日に沖縄戦で首里城とともに完全に破壊された。 3代目の龍柱に関しては、1879年より首里城に駐屯していた熊本鎮台分遣隊が1896年に引き上げる際、憲兵隊長の郷里に持ち帰るために一柱を切断したところ、憲兵隊長が急死し、「呪いだ」として持ち帰らずにそのままになったという逸話が残る。また「一旦持ち帰って、また元に戻された」という説もあり、どちらが確かなのか解っていない。また、切断された方とつり合いを取るためにもう片方の龍柱も切断し、どちらも短くなったという説もある。龍柱の研究者である西村貞雄は、龍柱は切断されたのではなく継ぎ目から外されたのであり、元に戻したものが継ぎ目から徐々に欠けていき、つり合いを取るためにもう一方もやむを得ず切断されたのが明治末頃、と推測している。 最新の首里城の大龍柱(4代目)は1992年(平成4年)に首里城とともに再建されたもので、後の2019年の首里城火災に被災するも残存した。後日焼損した奉神門前の広場に設置した小屋に移され、2020年10月23日より修理作業が開始された。 また、沖縄県立博物館・美術館には3代目の大龍柱(旧国宝・首里城正殿の一部)の一部(龍の頭の部分)が公開されており、琉球大学博物館・風樹館にも3代目の大龍柱の破片と推測されるものが所蔵されている。那覇市歴史博物館では、3代目の写真が公開されているなど、首里城の3代目の大龍柱に関する物が沖縄のいくつかの場所にある。また、風樹館が所蔵する大龍柱の破片と推測されるものの1つは石質的に3代目の大龍柱の物ではなく、それ以前の大龍柱の破片の可能性があるが、福建省産の石材と一口に言っても種類がいくつかあり、詳しいことは2018年現在も調査中である。
※この「首里城正殿の大龍柱」の解説は、「龍柱」の解説の一部です。
「首里城正殿の大龍柱」を含む「龍柱」の記事については、「龍柱」の概要を参照ください。
- 首里城正殿の大龍柱のページへのリンク