当時の報道
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ここでは、主に中日・巨人・試合放送したテレビ局と系列が異なる機関による当時の報道から、当時の社会的注目を中心に掲載(以下同名の段落について同じ)。次のものからも、試合そのものはもとより球場内外の整理・警戒(警備、市中関係の状況を参照)、選手たち等への注目が報じられている。なお、広島県で1994年アジア競技大会が開催中でのことであった。 日本経済新聞 1994年10月7日付の紙面によると「6日のヤクルト戦直後、長嶋監督は『130試合で決着だ。こんな試合ができる選手は幸せですよ』とコメントした」とあるが、この記事をまとめた記者は「監督ほどの英雄ぞろいでない選手たちは『幸せ』な気持ちで決戦に臨めるだろうか」と述べた。 翌日付の紙面では、1面コラム「春秋」で「巨人と中日。(中略)(大リーグがストライキ中である)熱心な米国の野球ファンもうならせる堂々たる試合を見せてほしい」と述べ、日本のプロ野球にとどまらない社会的注目の対象であるようなことを述べた。同日付の日経スポーツ面は「栄光かゼロかきょう大一番」という見出しで「客観的に見れば中日が有利と言えそうだ」とした。なお、この記事は「槙原を先発で起用し、勝負どころで桑田を救援で使った方が得策といえよう」とも述べている。 同日付の日経(夕刊)では「DG決戦 待ち切れない ナゴヤ球場異例の11時開門」と球場周辺に人が密集して危険な状況にあったため繰上げて開門したという社会事象、場内整理の大変さとして報じた。 毎日新聞 10月8日付の夕刊は「DG決戦ナゴヤ燃ゆ」との見出しで、「入場券を手に入れられなかったファンは、道路に立つダフ屋に、必死に声を掛けていた」「署員百十人が夜通しで(繁華街等の)警戒にあたる」など、やはり社会事象、警備等の問題として報じた。 朝日新聞 10月8日付の同紙は、総合面で「まなざし熱い舞台裏」と、監督・球場・テレビ局・関連セールの状況を報じた。試合を放送するフジテレビジョンの関係者が過去のプロ野球での最高視聴率を「一気に更新したい」と意気込んでいる旨の内容もある。 地方紙 例えば山形新聞においては、10月8日付の1面コラム「談話室」が「特別なファンでなくとも注目せざるを得ない」と述べて、1973年の巨人と阪神の優勝争いと関連づけた話を記載し、同日付夕刊が1面コラム「口笛」で「(前略)徹夜いとわぬ長蛇のファン。見ごたえある試合をどうぞ」と述べるなど関心の高さが見られた。 スポーツ紙 日刊スポーツ(ニッカン)、スポーツニッポン(スポニチ)ともに、10月8日付のトップは数面にわたってこの試合についての記事で占められていた。1973年阪神対巨人の最終決戦に関連づけて、同年当時の関係者として、ニッカンは1面で川上哲治(1973年当時 巨人監督)の、スポニチは2面で森祇晶(同 巨人選手、1994年当時の西武監督)、田淵幸一(1973年当時 阪神選手)のコメントを掲載した。
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当時の報道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 21:33 UTC 版)
下記の記事はすべて翌日、10月9日付の記事 日本経済新聞 社会面で「球場警備に総勢千人を繰り出す厳戒体制のなか(中略)最後の打者となった小森内野手が三振に倒れると、ナゴヤ球場は異様なムードに包まれた」「試合中は、三塁側にも中日ファンが詰め掛け(以下略)」と当日の警備体制、社会的な雰囲気を報じた。 毎日新聞 社会面で「興奮頂点『ナゴヤ』が揺れた」との見出しで、著名人(薬師寺保栄他)、一般のファンの声を幾つも紹介した。また、「『常勝・巨人軍』がよみがえったのではないことを多くの人は知っている」と述べている。 朝日新聞 社会面で、他の一般紙に比べて小さい扱いながら「130試合目、敵地で歓喜」などと報じた。また、スポーツ面では、イチローの観戦も報じたほかに(イチローの所属チーム(オリックス・ブルーウェーブ)の10月9日の試合予定もある)、「レベルの低さが熱セ招く」「中日が逆転優勝すると思ったんだけどな」などと論じた。 地方紙 地方紙でも、山形新聞は社会面で、「苦しみぬいた末の優勝に涙の巨人ファン」等、巨人ファンの喜ぶ様子を中心に、松坂屋本店で用意されたくす玉も割られることなく、祝勝用の樽酒の一部を涙酒として振る舞われた様子も報じた。 スポーツ紙 スポーツ紙は、ニッカン、スポニチなど、試合経過・結果を詳細に報じたことはもとより、球場やそのまわりの状況についても報じた。ニッカンは「厳戒ナゴヤにトラブルなし」という小見出しで無事に試合が終わったことを特筆した。
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当時の報道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:09 UTC 版)
「箕島対星稜延長18回」の記事における「当時の報道」の解説
翌日の新聞は、この試合を大きく取り上げ、「試合展開は、いまだ見聞きしたことのない大試合ともいえた」(朝日新聞)「カクテル光線に照らされて筋書きのない、それでいてものすごい迫力のあるドラマ」(読売新聞)「すさまじい迫力に満ちた試合」(毎日新聞)と試合を讃えた。朝日新聞は、運動面とともに社会面でもこの試合を取り上げ「第四試合の星稜ー箕島戦は延長十八回、奇跡につぐ奇跡が続き、甲子園球場を埋めた三万四千余の観衆が目を疑う劇的な死闘となった」、全国区レベルの注目度であることを伝えた。 星稜の地元の地方紙の北國新聞は17日の朝刊では一面トップのほか、運動面では10面、11面にまたがって、そして社会面では、甲子園に乗り込んだ応援団の様子や、地元石川県での県民の応援ぶりを伝えた。
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当時の報道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 06:15 UTC 版)
戦時中に、以下の記事が報道された。 番号媒体日付主な内容1東京日日新聞昭和12年11月30日 向井少尉と野田少尉が敵兵をどちらが早く百人斬りするか競争している。無錫から初めて現在65対25(常州でのインタビュー記事)(常州にて29日、浅海、光本、安田) 2東京日日新聞昭和12年12月4日 2日午後6時丹陽入城までに・・・常州出発から丹陽までに数字を更新して86対65。向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右手首に軽傷(丹陽にて3日浅海、光本) 3東京日日新聞昭和12年12月6日 「句容入城にも両少尉が最前線に立って奮戦」、89対78(句容にて5日浅海、光本) 4東京日日新聞昭和12年12月13日 紫金山攻略戦の際に106対105、野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」10日正午対面しドロンゲームとして新たに150人斬り競争を始めた。11日昼中山陵を眼下に見下す(紫金山麓にて12日浅海、鈴木)-向井、野田の両名が並んでともに撮られた記念写真が紙面に載る。 5鹿児島毎日新聞昭和12年12月16日 東京日日新聞の後追い記事 6鹿児島毎日新聞昭和12年12月18日 東京日日新聞の後追い記事 7大阪毎日新聞昭和13年1月25日 野田少尉が中村硯郎あてに百人斬りを自慢する手紙が届いた。その中で、南京入場までに105人斬ったがその後253人を斬ったこと、『百人斬りの歌』が作られていることが紹介されている。 8鹿児島朝日新聞昭和13年3月20日 野田少尉が鹿児島に帰還。374人を斬ったと語った。 9鹿児島新聞昭和13年3月21日 野田少尉が374人を斬ったと語った。地元の児童、生徒に百人斬りの競争談をなした。 10鹿児島朝日新聞昭和13年3月22日 野田少尉の父伊勢熊氏が息子の戦果(374人斬り)を紹介。(野田少尉、両親、五女とよ子氏の写真が掲載) 11鹿児島新聞昭和13年3月26日 野田少尉が神刀館で百人斬りの講演を行った。 12東京日日新聞昭和14年5月19日 向井少尉が野田少尉と別れてから約束の500人斬りを果すため、奮闘中。今までに305人斬った。
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