当時の国際報道についての議論
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「南京事件論争」の記事における「当時の国際報道についての議論」の解説
当時、南京攻略戦後も、現地欧米人記者5名(ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン特派員やシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者、ロイター通信社のスミス記者、アソシエイツプレスのマクダニエル記者、パラマウントニュースリールのメンケン記者)が駐在していたが、南京占領後すぐ上海方面へ船で避難したので、ごく初期の事件以外は現地記者不在のために直接確認できないものの、この5人の記者は実際に南京戦に遭遇しており、その後、以下の様に多くの南京事件についての記事が国際社会に対して1937年12月以降翌年にかけて数多く掲載された。ただし、現地欧米人記者はすぐ上海方面へ避難したので、ごく初期の事件以外は自社の記者では直接確認できていないし、記者が避難したことなどによる取材の十分さには問題がないわけではなく、またパネイ号事件・アリソン殴打事件のようにアメリカ国民の関心がより高い報道がより大きく取り上げられるといった事実がある。 1937年12月15日、南京戦時も南京にいたA・T・スティール記者はシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を世界で初めて報道した。また12月17日「特派員の描く中国戦の恐怖 ―南京における虐殺と略奪の支配」、12月18日「南京のアメリカ人の勇敢さを語る」と報道した。1938年2月4日記事では、南京の中国人虐殺をウサギ狩り(ジャックラビット狩り)に比して「ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。 逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。そのあす多くは武器をすでに放棄していた。(略)日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。(略)日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える」と報じた。 同じく南京戦を直接見たティルマン・ダーディン特派員は12月17日に上海アメリカ船オアフ号から記事を発信し、12月18日にニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事では「・・少なくとも戦争状態が終わるまで、日本側の規律は厳格であろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である」「現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった」と報道している。 そのほか、南京戦を見たスミス記者(ロイター通信社)も、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたと報道し、同じく現地を見たメンケン記者(シアトルデイリーニュース(12月16日)・シカゴデイリートリビューン(12月17日))とマクダニエル記者(シアトルデイリータイムズ(12月17日)・スプリングフィールドデイリーリパブリカン(12月18日))も南京事件の悲惨な現実を報道した。また、イギリスのロンドンタイムズ(12月20日)でも報道されており、「日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した」ことが書かれている。 なお、アメリカの新聞が南京事件よりもパネイ号事件(アメリカの船の日本軍による沈没事件)を確かに大きくとりあげたが、まずパネイ号事件は、当時アメリカと日本との間では重大問題となっており、日本海軍・外務省も巻き込んで解決されたが、日米開戦もあわやという事件であった。そして、パネイ号事件は、アメリカ人も同時期のアジアの一部でおきた南京での虐殺事件の新聞報道よりも、アメリカの船を意図的に攻撃したのでは、との世論の高い関心を呼ぶこととなり大きく連続してアメリカでは報道された。同じく、南京事件よりもアメリカで報道されたとされるアリソン殴打事件(在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件)は、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した事件であった。 なお、前述のニューヨーク・タイムズ記者だったティルマン・ダーディン特派員は、戦後の日本からの取材にて、(1986年・ 笠原十九司の質問に答え)、日本軍が南京に向かい上海から進軍する約3か月前に、上海から南京に移り在住し、そのとき「戦闘に遭わずに南京に行くため」上海からは南の道を通ったとのべ、またその後、1989年文藝春秋誌上では、日本軍の南京進軍より約3か月前のとき(南京戦のときではない)、上海から南京までの行程では、虐殺は見ていないと説明した(「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と答えた)。 一方、欧米の報道の内容に対して疑問を深くする意見が、日本の研究者の中に存在する。「南京戦史」(偕行社)編纂者で南京戦当時独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己は、日本に敵意を持つ英米独の宣教師や新聞記者らは、日本軍の行動を針小棒大に伝聞、憶測まで伝えたとする。虐殺否定派の東中野は、南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、安全区国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみでスティールら外国人記者が見たという証言の信憑性を疑い、また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されたのではない」としている。また、東中野は当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性があると主張している。たとえば日本兵の内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)。渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の「大虐殺」の記事を、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したと推定する。 また、日本の前途と歴史教育を考える議員の会によれば、「南京事件の発生後の約2ヶ月の新聞記事を調査、その間は12月の場合は市民が大虐殺されたとか1月以降も強姦や殺人事件があったという記事はない」と主張し、同時にアメリカの船パネイ号事件の日本軍による沈没事件や、1938年1月26日に発生した在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件(アリソン殴打事件)が主であり、(アリソンへの)殴打事件よりも記事の重要度が低いなら、それ以上のこと、例えば強姦や殺人は南京には当然なかったと主張した。以上の事実から、同会の西川京子衆議院議員(2008年当時)は、ニューヨーク・タイムズもロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた。しかし、前述の通り実際には、欧米の新聞は記事の十分さや頻度は別としてこの時期に確かに南京での日本軍の違法殺人を報道しており、またパネイ号事件やアリソン殴打事件が当時のアメリカで南京事件よりも報道された経緯も前述したとおりの事情であったため、当時の欧米の新聞記事の情報の正確さへの疑問はあるものの、欧米の新聞は南京事件を確かに報道しており、決して南京事件が全くなかったとまでは、そして日本による中国軍民の違法殺人が全くなかったとまでは言い切れないとの説がある。
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