当時の史料に見る事件の概要
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「喜連川騒動」の記事における「当時の史料に見る事件の概要」の解説
同時代の幕府による記録によれば、喜連川尊信の家臣二階堂主膳助と高四郎左衛門との間に党派争いが起こり、結果として高四郎左衛門は大嶋に流罪、尊信は隠居させられた、という。 東京大学史料編纂所が作成した「史料稿本」には、『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明日記』『寛政重修諸家譜』『足利家譜(喜連川)』を出典とし、『及聞秘録』を参考とした以下の綱文(慶安1年12月22日2条)がある。 是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す また、これと関連する可能性があると思われる史料には以下のようなものがある。 『寛政重修諸家譜』の喜連川家、尊信の項 慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎左衛門某と争論し、互にその党を結ぶ。三月十八日二人を評定所にめし問る。事決するのうち、四郎左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某伊賀金右衛門某をば、山名主殿矩豊青木二郎左衛門直澄にめし預からる。のち四郎左衛門言葉屈し雌伏せるにより、十二月二十二日其党二人とともに大嶋に配流せらる。尊信も厳命により致仕す。 「江戸幕府老中奉書 慶安元年9月7日付」(阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙) 「喜連川右兵衛(尊信)を押し籠めにしているのだが、そこから脱走してしまうので、今ついている家来ではなく、誰か適切な人物を一人よこしてほしい」(要約) 「江戸幕府老中奉書 慶安元年11月18日付」(阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙) 「喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。藩主の息子である梅千代(4代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ」(要約)
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