当時の反応
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「アムンセンの南極点遠征」の記事における「当時の反応」の解説
アムンセンはホバートで多くの祝電を受け取ったが、その中でもアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトやイギリス国王ジョージ5世のものがあった。国王は、アムンセンが戻って来て最初に訪問した港がイギリス連邦の中にあったことに特別の喜びを表した。ノルウェーではその知らせが新聞の大見出しを飾り、国中で国旗が振られた。遠征隊参加者全員が、ホーコン国王がこの遠征を記念して創設したノルウェーの南極メダル (Sydpolsmedaljen)を贈られた。しかし、アムンセンの伝記作者ロランド・ハントフォードは、「喝采の陰の冷遇」を記録している。アムンセンの戦術に関して困惑の名残があった。ノルウェーのある新聞はアムンセンが新しいルートを発見しており、マクマード・サウンドからのスコットのルートを侵害していなかったことで、安心感を表明していた。 イギリスでは、アムンセンの勝利に対する新聞の反応が抑制されたものとなったが、概して肯定的だった。アムンセンの成功に財政的関わりがあった「デイリー・クロニクル」と「イラストレイテド・ロンドン・ニュース」の熱狂的な報道は別として、「マンチェスター・ガーディアン」は、如何なる非難の声もノルウェーの勇気と決断力で拭い去られると書いていた。雑誌「ヤング・イングランド」の読者は「勇敢な北国人」を妬まないよう推奨し、「ザ・ボーイズ・オウン・ペーパー」はイギリスの少年は全てアムンセンの遠征報告書を読むべきだと示唆した。「タイムズ」の通信員は、スコットが返事を出せないような時期になるまでアムンセンが情報を送れなかったことを柔らかく窘め、「不必要であったればこそ、スコット大佐よりも南極遠征で協力を歓迎した者はいなかっただろう。アムンセン船長がその誠実さを疑ったと言える者はおらず、彼は南極点に達したと言っているので、彼を信じなければならない」と記していた。 王立地理学会の指導層は少なくとも個人としてより敵対的な感情を表明した。彼らにとってアムンセンの成功は「汚いトリック」の結果だった。マーカムはアムンセンの主張が詐称ではないかと示唆した。「我々はテラノバの帰還まで真実を待たねばならない」と言っていた。1912年後半、王立地理学会会長のジョージ・カーゾン卿が「犬達に万歳三唱」を冗談めかして求めた後で、アムンセンが学会に軽視されていると感じると訴えた。シャクルトンはアムンセンの勝利を中傷する場に居らず、「おそらく今日最も偉大な極圏探検家」と言っていた。キャスリーン・スコットは夫の死の知らせを聞く前に、アムンセンの旅は「大変素晴らしい成功であり、...それを称賛しなければならないという苛立ちがあったとしてもである」と譲歩していた。
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当時の反応
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2年前の1874年4月15日に開催された第1回印象派展は酷評でもって迎えられ、ルノワールの作品もまた批判を受けている。筆のタッチと色彩の効果を重視する反面、輪郭がぼやけ、背景と一体化したかのように見える画風は当時の一般的な美術の基準では未完成品でしかなかった。このときの酷評が原因なのだろう、ルノワールは本作品のタイトルを単に『エチュード』、つまり『習作』(タブローにとりかかる前に制作される練習のための作品)とし、第2回印象派展に出品した。このときもまた様々な否定的な批判を受けたが、その中でも特に有名なのが歴史ある日刊紙『フィガロ』の美術担当記者アルベール・ヴォルフ(英語版)による酷評である。アルベール・ヴォルフは本作品について次のように述べている。 女性のトルソというのものは、死体の腐敗した状態を示すような、緑や紫の染みで作られた肉の寄せ集めではないことを、どなたかルノワール氏に説明してあげた方がよいだろう 対して作家アルマン・シルヴェストル(英語版)のように好意的な意見も散見された。アルマン・シルヴェストルは本作品を次のように評した。 ルノワール氏は、実に心地よい薔薇色の諧調で裸体を描いている。私はまったくもって、彼の裸婦習作が好きだ。・・・これは色彩家の作品である なお、ルノワール本人は本作品を単なる習作と考えていなかったことは、第3回印象派展に本作品と同じ手法で描かれた『ぶらんこ』と『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出品していることから明らかである。この点にルノワールの画家としての自信の萌芽を見ることができる。
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当時の反応
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サロンに出品された『ユピテルとテティス』は様々な議論を巻き起こした。新古典主義の巨匠でありアングルの師であるジャック・ルイ・ダヴィッドはひどく狼狽して「私はもうどうやって絵を描くのかわからなくなってしまった」と言い、ある批評家はテティスは甲状腺腫に苦しんでいると非難した。さらに画家ミシェル・マルタン・ドロランは「漫画」と評した。 本作品は美術アカデミーに提出された性格上、当時のアカデミーの評価が公式な記録として残されている。記録は若き日のアングルを才能ある画家として認めている。にもかかわらずアングルが彼らの望む作品を描こうとしないことに苛立ちを隠せないでいる。 アングル氏の『テティスとユピテル』は、彼の才能から期待し得る筈の成果を全く示していない。この芸術家が、絵画の誕生の時代にむしろ接近して行って、芸術のすべての偉大な巨匠の最も美しい作品が教えてくれる諸原理を身につけようとしないのは、まことに嘆かわしいことである。(中略)この作品は、部分的には巧みな腕前を示しているところもあるが、構図はもっと優れた効果のものとなり得た筈であり、全体として、凹凸と奥行きに欠けている・・・ この評価が言わんとしていることは美術評論家ピエール=ジャン=バティスト・ショサール(フランス語版)が1806年の『玉座のナポレオン』に浴びせた批判と同じである。ショサールは「いまいましい」という言葉とともに初期フランドル派の巨匠ヤン・ファン・エイクを引き合いに出して次のように言った。 アングルは絵画を400年も昔の幼稚な時代まで退行させようとしている これらの評価の背景の1つに、ヤン・ファン・エイクが現在ほどには高く評価されていなかったことが挙げられる。またアングルの絵画に特徴的な細部への徹底したこだわりと完璧なまでの仕上げに対し、奥行きを感じない平面的な空間表現は、美術アカデミーの基準では技術の未熟さを意味するに他ならなかった。こうしたアングルの《プリミティブ》で《ゴシック》な傾向はすでにローマ留学前の『玉座のナポレオン』などの作品で明らかなのであって、本作品は1806年の酷評を受けた後もアングルが信念を曲げなかったことを意味している。 しかしながら、これらの批判は彼を落胆させた。アングルはローマに留学する前にジュリー・フォレスティエと婚約していたが、1807年には早くも婚約を解消している。さらに留学期間が終了し、その翌年に『ユピテルとテティス』の制作を終えた後もアングルは帰国しようとしなかった。彼がフランスに戻ったのは本作品から13年後、『ルイ13世の誓願』(Le Vœu de Louis XIII)が熱烈に歓迎された1824年のことである。もっとも、『ルイ13世の誓願』の成功は必ずしもアングルの芸術が人々に理解されたことを意味していない。『ユピテルとテティス』がフランス政府によって買い上げられた1834年は、サロンに出品した『聖サンフォリアンの殉教』(Le Martyre de saint Symphorien)が不評に終わった年でもある。この評価に憤慨したアングルはフランスを離れ、ローマに舞い戻るのだった。
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当時の反応
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「女優ジャンヌ・サマリーの肖像」の記事における「当時の反応」の解説
第3回印象派展に出品された『女優ジャンヌ・サマリーの肖像』は、小説家エミール・ゾラから「展覧会の成功はマダモワゼル・サマリーの顔、金髪で微笑んでいる顔」であると称賛を得る一方で、特に主題の非現実的なレンダリングに関して多くの人を困惑させた。ジャンヌ・サマリー自身はルノワールが彼女の期待に反して、女優としての社会的および職業的名声ではなく夢のような側面を強調し、ルノワールが観客として彼女をどう見ていたかを知って落胆した。
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当時の反応
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この事件と同じ1951年、同学会を中心に京大生が企画・開催した「綜合原爆展」は盛況を呼び、京都市民から好意的に迎えられていた(「質問状」でも天皇の原爆展参観を要望している)。しかしこの事件に関して京大生や同学会に対する好意的反応は少数派であり、「京大を廃校にせよ」「貴方たちは狂人ですか」といった非難が集中した。例えば京都新聞は11月13日付で「天皇への無礼と京大の責任」との論説で学生側を強く非難し、常軌を逸した「不敬事件」のごとく記した。
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