作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 08:09 UTC 版)
『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、伊藤初代との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している。 竹西寛子は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している。 奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きなモチーフになっているとし、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している。 そして芸人が徳川時代に「河原者」と蔑まれた反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、古くから芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている。 北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人フォークロア」をよく踏まえているものとして敷衍し、漂流者の芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら、「異界」への入り口の象徴である〈峠〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉がトンネルを抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の疑似体験」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の時空を生きながら道連れになっている」と解説している。 また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の袴の裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味をユングの『コレー像の心理学的位相について』 を引きつつ説明している。 彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた「コレー像」に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である。「コレー像は未知の若い少女として登場」し、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」 とされている。 — 北野昭彦「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」 三島由紀夫は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「処女の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的なデッサンによつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれていると考察しつつ、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している。 処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。しからば処女といふものはそもそも存在しうるものであらうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情といふのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ。ここにいたつて、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の形代(かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる。 — 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」 勝又浩は、物語の導入部の天城峠の茶屋で〈到底生物とは思へない山の怪奇〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『雪国』で主人公が〈トンネル〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈暗いトンネル〉を抜けることは「タイムマシンとしての儀式」を暗示させるとして、こういった川端文学の幻想的な一面が泉鏡花や永井荷風とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「稗史的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「まれびと」だとしている。 天下の一高生が、たまたま鬼の番するトンネルを潜り抜けて、遠い島から来た舞姫に邂逅して魂を浄化する物語と読むのが鏡花風だが、世を拗ねた一人のインテリが田舎の旅芸人に関心を持って、現代都市では失われた古きよき時代の純朴な娘を発見して旅情を慰めるというのが荷風式、そして川端文学の場合は、異界はむしろ主人公の側にある。「私」は、トンネルの向こうの人々にとっては神秘的なまれびとであって、彼は訪れる先々で歓迎されるが、そのことによって、健気に生きる人々を祝福し、彼自身は、その民俗的約束に従って、村々の不幸を、汚濁なるものを身に受けて村を去って行かなければならない。それ故『伊豆の踊子』には、その結末に至ってもう一度老人が登場するのであろう。 — 勝又浩「人の文学――川端文学の源郷」 そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から合掌で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや、川端の処女作から諸作に至るまで見られる心霊的な要素を鑑みながら、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって人界を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している。 橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向ってはしけから一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している。 そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している。 川嶋至(細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子(伊藤初代の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している。 ちなみに、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている。 「伊豆の踊子」の時、「非常」に受験生の好意を書いたのは忘れてゐた。細川氏(川嶋至)に二つをならべてみせられて、私はこれほどおどろいた批評もめづらしいが、それよりもさらに、これは二つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、二度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、と私は考えさせられるのである。ふしぎである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」 林武は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿『湯ヶ島での思ひ出』での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されているとしている。 事実、川端は多くの作品で、少女あるいはそれに近い女に少年のイメージを探し求めている。それ故、清野少年の俤を心に抱く川端が、大正七年の伊豆での初旅の途中、実在の踊り子に清野少年のイメージを探し求め、大正十一年の「湯ヶ島での思ひ出」執筆時に、清野少年登場の序曲的存在としての踊り子の部分において、「踊子」に清野少年のイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ではない。即ち、両性混入による「踊子」の一方からの中性化である。 — 林武「『伊豆の踊子』論」
※この「作品評価・研究」の解説は、「伊豆の踊子」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「伊豆の踊子」の記事については、「伊豆の踊子」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 23:38 UTC 版)
『城のある町にて』は基次郎の存命中に発表された作品の中では最も長く、比較的明るい作品である。三島由紀夫はこの作品を、基次郎の小説の中で最も好きな作品だとしている。 飯島正や浅野晃は、『城のある町にて』の描写の各所に映画的なカメラアングル(角度を変えて移動、ズームで近づく)が見られるとし、遠くに見える花火が上がるところなどなどを挙げている。そして映画的な手法はダンテの『神曲』など古典にも胚胎していることなどを語りながら、基次郎の場合はそれよりもカラフルであり、色彩映画的だとしている。 柏倉康夫は、『城のある町にて』の風景描写の特性を、「最初は無音だった梶井のパーンニング・ショットに、やがて音がついてくる」とし、蝉やコオロギの声、往診から帰ってくる医者のオートバイの音に反応する子供たちの〈ハリケンハッチのオートバ〉という喚声など、その「音の伴奏が風景を一段と生彩のあるもの」にしていると評している。 そしてその基次郎の「感性」が感知するものは単に、「目に見える静止した光景」だけではなく、「その光景が時間の経過とともにみせる、ごく微妙な変化」こそが、時や自然の移り変わりに敏感な基次郎の「心」を最も深く捉えたものであり、基次郎がこの土地で「視覚、聴覚、触覚のすべてを働かせ、さらには想像力を動員して、周囲をとことん堪能する術を会得しつつあった」と解説している。 また、観察に没頭するだけでなく、法師蝉の鳴き声を〈文法の語尾変化〉のように聴き分けた瞬間から変貌する情景、以下のような子供たちの場面で、基次郎が「感覚の微妙なずれから生ずる、現実の歪曲」を楽しみ、それが「幻視者梶井の面目」だとし、「感覚の一部が肥大して、それだけが機能する」という基次郎の特異な感性がこの作品にも看取され、「現実を一層興味深いものにしている」と評している。 取竿や虫籠を持った子どもたちがあちこちする動きが、ふとした拍子に舞台上の無言劇のように見え、そう感じたとたんに、無類に面白いものに思えてくるといった箇所である。このとき峻の耳には、子どもの叫び声も、降るような蝉しぐれも聞こえていず、子どもたちの動作だけが、まるで音を消したテレビ画面のように見えている。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 そして柏倉は、基次郎が惹かれる〈単純で、平明で、健康な世界〉の象徴である、井戸の水で洗濯に励む若い女たちの瑞々しい描写の場面や、京都の鴨川の河原のスケッチから鑑みられる基次郎の「観察者」としての立ち位置を、「結核という病のせいで、現実世界に関与できないという諦念と悲哀、そのためにいつしか現実を距離をおいて眺める地点」だと考察している。 美しく健全なこうした生活は、かつては梶井のものでもあった。しかし胸を患い、その不安を退けるために、頽廃的な世界へ足を踏み入れてしまった者にとっては、もはや何くわぬ顔で自分のものとして生きるのが不可能な世界であることを、梶井はいやでも自覚させられている。それだからこそ、なお一層うらやましくも心ひかれる世界なのだ。梶井は一個の観察者としてじっと目を注ぎつつ、それが不可能と知りつつ、その営みを共有しようとする。単純で平明な、生活にしっかりと根をおろした女たちのありさまが、かけがえもなく貴いものに思われるのだった。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 なお、印度人の三流手品や、観客をからかう下品な笑いや不遜な態度に腹を立てた峻(基次郎)が、次第に心を鎮めて〈不愉快な場面を非人情に見る、――さうすると反対に面白く見えて来る――その気持がものになりかけて来た〉という心構えを習慣づけていることについて柏倉は、基次郎が愛読していた夏目漱石の『草枕』の中の、「おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いて有体に落ち付いて、他人らしく之を検査する余地さへ作ればいゝのである」という意識の転換からの影響ではないかと考察し、その〈非人情〉の境地は「詩的な態度を維持することにほかならない」としている。 阿部昭は、『城のある町にて』で梶井が表現した〈今、空は悲しいまで晴れてゐた〉という文章について、今日ではこういう類の表現法は珍しくはなく、誰もが簡単に書くであろうが、その巷に溢れている類似の文章には、もはや「梶井が希求した精神」が見失われ、「通俗化した修辞のパターンだけが普及した」ものになってしまったと考察している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「城のある町にて」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「城のある町にて」の記事については、「城のある町にて」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 02:19 UTC 版)
『幸福号出帆』は、過去の栄光に生きる芸術家の醜悪さ、混血児、密輸、オペラの世界など、様々な要素を盛りだくさん描いた娯楽小説であるが、反響は少なく、ほとんど論究がなされていなかった作品であるが、近年になって、フランス文学の影響や、『鏡子の家』との関連性で、その価値が問い直されている作品である。なお、三島自身は『幸福号出帆』について、〈完全に失敗した新聞小説であるが、自分ではどうしても悪い作品と思へない〉と述べている。 遠藤伸治は、三島を「方法意識の明確な作家」とした上で、「彼が新聞掲載のエンターテイメント小説に関して、どのような小説技法や戦略を意識し、実践したのかを究明することは、三島文学におけるエンターテイメント性の問題につながる」と提起している。 鹿島茂は、三島が「大衆小説という隠蓑」を利用し、西欧の近代小説から学んだ様々な技法や理念を密かに『幸福号出帆』で「実験」していたとし、そこで有効性を確認した技法や様式は、次作の純文学作品『鏡子の家』をパースペクティブに入れて実験されたものだったと指摘している。しかしそれはそのまま移行し利用されたのではなく、『鏡子の家』では「それと一目では見抜けぬほどソフィスティケイト(洗練)されたもの」になり、「『幸福号出帆』は、『鏡子の家』に対して、プルーストの『楽しみと日々』が『失われた時を求めて』に対するのと同じような関係」を持ち、前者の実験がなければ、後者は生まれなかった関係だと鹿島は解説し、「舞台に使われているのが、晴海や月島、勝鬨橋など、共通しているのも、両者の類縁性を感じさせる」と述べている。 藤田三男は、主人公の兄妹について、「兄妹は近親相姦的な、ほとんど性愛によって結ばれた関係とも思えるほどに親密である。そこに三島由紀夫が終戦直後に妹美津子を失い、その死を『敗戦より痛恨事』とした思いの深さを重ねることができる」と述べている。そして、ヒロインの三津子が兄・敏夫との「絶対的な関係」を失いかけると、自分の「純潔」を他の男に与えると、兄に宣言することに触れ、「この異形の兄妹愛がこの物語の〈幸福〉のキイワードである」と解説している。 鈴木靖子は、『幸福号出帆』の主人公の兄妹愛と、三島の短編『水音』で綴られている兄・正一郎と妹・喜久子の、〈この兄妹の愛は恋愛に近いもので、二人の間を妨げてゐるものは、羞恥と怖れに他ならぬと思はれた〉という関係と同じであるとし、「敏夫と三津子の近親相姦的危険な兄妹愛は、真の兄妹であると信じて疑わないところに成りたっているのである。だから、最後に明かされる〈敏夫は歌子の子であった〉という事実を、兄妹が知ることがないかぎり二人は、甘美な危険な〈愛〉を生き続けることができるのである」と解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「幸福号出帆」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「幸福号出帆」の記事については、「幸福号出帆」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 08:25 UTC 版)
『軽王子と衣通姫』は、発表当時は一般読者などから好評だったようであるが、文壇からは「時代ばなれの歴史小説」「皇室関係のことを忌憚なく書いた好奇好古の作品」と受け取られてほとんど注目されなかった作品である。 本多秋五は、『軽王子と衣通姫』が発表当時に文壇から注目されなかったことに言及しつつ、『三島由紀夫選集』にも収録されなかったことを不思議がり、「これは芥川の歴史小説に伍して毫も遜色のない天晴な作品であった」と高評価し、以下のように解説している。 「軽王子と衣通姫」は、時代錯誤の作品であったとしても、それは故意に時代錯誤を意図した戦後の作品であった。そこには恋愛のまじり気ない陶酔の絶頂にあらわれる死の願望が語られている。これは三島的主題である。なんの人生経験のない少年三島由紀夫が、空想の絵の具で空想のものがたりを彩った夢想浮遊小説「苧菟と瑪耶」にそれは糸ひくものといえる。これはずっと後の話になるが、深沢七郎の『楢山節考』の原稿を、あの新人募集の選者として三島が夜中によんでいて、ぞっと背筋が寒くなった、と選考座談会で語っているのをみて、それはそうだろう、三島はあれで虚をつかれたのだろう、と思ったことがあったが、それは私の間違いであった。「軽王子と衣通姫」のなかで、三島は古代の「神」という観念にふくまれる恐怖をとらえている。 — 本多秋五「物語 戦後文学史」 田坂昂は、父帝の寵姫であり叔母である姫と密通する禁を犯すのは罪ではあるが、罪であるがゆえに逆に「極めて美しいこと」=「無垢の喜悦」であるという構造となっており、その論理をアイロニカルにもう一歩進めれば、「禁を犯すことの喜悦」は、「禁あればこそたのしさもあるという逆説を生む」とし、さらにそれを極限的に進めれば、禁を犯してしまえば、そこにあるのは「死」だけであるという構造にいきつくと論考している。そして、こういった論理構造を含みながら展開する『軽王子と衣通姫』の主題は、三島のいう「欠乏の自覚としてのエロスの論理」に繋がってゆくと田坂は解説している。 また田坂は、軽王子の生きた時代が、神代が人の世に移り変って、「死と愛への神の支配がやうやく疑はれて来た」時代であり、「祭事や軍事が恋と共に心の中に親しく住うた」時代ではなくなり、王子の心には「人の世の虚しさと死への希い」だけがあると考察し、母皇后の託宣を、「柔らかな甘美な死」への誘いの声と王子が聞いたことに関して、夜見の国(黄泉の国)が「妣(はは)の国」を意味し、「怖ろしい国であるが、また懐かしい国でもある」ということに触れながら、そこから呼びかけてくる声は、『仮面の告白』の「根の母の悪意ある愛」の声と同じ場所から聞こえてくるものだと論考し、それは、「存在の母たちの国からの声」であり、「死とはその国へかえりゆくこと」だと解説している。 そして、その王子の時代に、戦後社会における、「悲劇的な死の希みが絶たれている」という三島の苦い感慨が寓意的に重ね合わされ、託されていると田坂は考察しながら、『軽王子と衣通姫』は「“悲劇的なもの”を可能にした時代への挽歌」とみることができると解説している。そして、王子が最後に剣で咽喉を貫く直前の言伝には、「悲劇を理会しあった過ぎし時代への記憶に殉じ、もはや悲劇的な死を死にえなくなった時代に矜りたかく別れを告げて黄泉の国へ旅立っていった者の声がきかれる」と田坂は述べている。 またそこには、敗戦と同時に訪れた「しらじらしい虚無感」で、「日常生活の復帰と支配の時代」が一層耐えがたいという、戦後社会へのアイロニーが重ねられ、「愛をものりこえ、この世に夢みるなにもなくなった時代への訣別の声をひびかせながら死んでいった軽王子のように、ただ王者の矜りをもって死ぬことだけが残されている」と三島が語っているのようだと田坂は考察しながら、『軽王子と衣通姫』は一見「反時代的」だが、「意外にも時代の影を陰画的に宿している」作品だとし、「戦中の虚無感と敗戦によるもう一つの虚無感との、いわば虚無感の自乗のなかで、三島氏の身に迫ってきた戦後の人生の重さとの格闘がはじまりつつあった」と論考している。 小埜裕二は、この田坂の論を敷衍し、さらに三島の評論『日本文学小史』や、『軽王子序詩』を分析しながら、『軽王子と衣通姫』には「戦後の天皇に対する三島の切実なある思いも込められている」と推測できるとし、「戦争参加における〈死の甘美な夢想〉から即日帰郷および敗戦といった〈弛緩した日常〉に移ることにより生じた自己の空洞を埋めるために」、三島が自身を「貴種流離譚の主人公」として創作した作品だと考察している。 そして小林和子は、その小埜の論を踏まえながら、「昭和天皇の人間宣言」という戦後の現実や、「自らが王子たちのような陶酔のなかで死にゆくことも叶わなくなった現実」の中で三島は、軽王子と衣通姫に思いを託し、〈激しく急湍のやうに生きて年若くみまかつた美しい〉王子や姫に英霊たちを重ねて、彼らへの思いを胸にし、自らは、皇后(純粋な生と死に対して羨望を秘め、亡き天皇への「常住の愛」を抱いている)のように生きてゆくことより他ないことを、この作品の中で描こうとしたのではないかと論考している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「軽王子と衣通姫」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「軽王子と衣通姫」の記事については、「軽王子と衣通姫」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 08:49 UTC 版)
『真夏の死』は発表当時に、創作合評などで「小説らしい小説」、「時間と人間と事件」の「三つの関係を直覚的につかんでいる」として好評され、同時代的にも総じて高く評価された作品である。本格的な論究としては、主人公・朝子に仮託された三島の内面主題を考察するものが多い。 野口武彦は、三島が世界旅行から帰国したばかりで、エーゲ海の耀きの明るさの「陰画」のような海と〈死〉の影がさした『真夏の死』を書いたことに触れ、三島にとり「終戦の日」が「終末にして始まりの年の〈夏〉」のイメージとして刻印されているとし、「三島由紀夫氏の内面世界にあっては、〈夏〉は〈死〉を触媒にして永遠の季節にまで明るく凍結してしまった」と考察している。そして『真夏の死』というタイトルは、「夏の訪れる死」という意味でなく、「〈夏〉と〈死〉とはこの作家の辞書のなかでは、たとえ同義語ではないにもせよ、完全な等価物なのである」と野口は論じている。 さらに野口は、三島が戦争末期の青空の夏雲に見た「死神の姿」が作品の描写の中で告白されているとし、作品として「戦後社会の平凡な死の事件をいわば形而上化して見せること」で、改めて三島が自らの「〈死〉の主題」を「再確認」していると考察し、『真夏の死』をその後の三島の後継作品の系譜の「予感的作品」として位置づけている。 『真夏の死』で緻密に語り進められている心理の綾目、「死」の追憶がいつか「死」の待望へと、微妙に、さりげなく転調されてゆく心の経緯は、その実何を隠そう、『愛の渇き』・『青の時代』・『禁色』などの一連の仕事で戦後作家としての確固たる地位を築いた三島氏が、さてその戦後世界の内部で自己の本来の主題をいかに追尋するかの原型を獲得したことを表白する一箇の里程標だったのである。戦後の平穏無事な日常世界、平和と物質的繁栄が堅固な支配を確立したかに見える日本の市民社会に「死」の強烈なレントゲン光線を透過して見せ、そこに立ちあらわれる異形の者たちを妖しくも美しくも発光させること――そうした三島氏の文学的主題がいまここに明瞭な輪郭をとるにいたるのである。 — 野口武彦「三島由紀夫の世界」 田坂昂は、ヒロイン・朝子が最後の場面で、海岸の波打際に立って見つめる夏空の印象的な描写について、それは単なる風景描写だけではなく、「作者本然の心象風景」だとし、それは『仮面の告白』で見られた夏の海や沖の雲も想起される風景であり、「三島文学の最も根源的な方法と内容、形態と構造」を語っているようにみえると論考しながら、〈何事かを待つてゐる〉朝子は三島自身でもあるとし、朝子がもう一度味わいたいと無意識のうちに待っている〈死の強ひた一瞬の感動〉は、戦争末期におぼえた作者・三島自らの〈死の恐怖と甘美〉の忘れることのできない記憶と通いあうのではないかと考察している。 そして、夏空の中に一度あらわれた〈怖ろしい大理石の彫像〉は、三島が戦時にみた怖ろしい〈死の魔神の姿〉であり、朝子一家をおそった〈真夏の死〉が日常生活の支配的な時代のなかで薄れながらも記憶の中に呼び覚まされるのは、三島にとっての「敗戦真近の酷烈な死」を湛えた夏の記憶の蘇りを象徴していると解説し、ボードレールの『人工楽園』の一節〈夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる〉がエピグラフに掲げられている『真夏の死』を支配しているのは、〈怖ろしい風姿〉の「死の魔神から放射される死の視線」だと評している。 「真夏の死」とは、いかにも象徴的題名である。夏と死と、しかも背景は海である。「花ざかりの森」以来くりかえしあらわれてくる三島文学の原イメージ。そして日本の敗戦が夏であったことは、これまたなにかの暗号でもあるかのようだ。夏と海のイメージがあらわれてくるときは、この作者の最深の情念が死の魅惑にゆすぶられているときである。そこにはしばしば敗戦の年の夏のイメージがダブらされているにちがいない。たとえば、「夏といふ言葉そのものが、死と糜爛の聯想を伴つてゐた。かがやかしい晩夏の光りには糜爛の火照りがあつた。」というような表現には、作中の朝子の内面をこえて、戦争末期の苛烈な空襲の火に焦土と化した廃墟のうえに充満する「死と糜爛」の終末の日のような光景の記憶の投射がみられるように思えるからだ。 — 田坂昂「三島由紀夫論」 西本匡克は、磯田光一が三島文学における基本的テーマの一つとして指摘した「現実の〈人生〉が不完全かつ曖昧なもので、華麗な〈死〉においてこそ〈美〉と〈完成〉が具現する」という考察を踏まえながら、戦争中の動乱の中に召集を受け、「死を賭けた戦いの情念」や、医師の誤診による「即日帰郷という運命」に出逢った三島が、「御国の為に命を投げ出す純粋なあの時の心境」を再び見つめようとしたのが、『真夏の死』の主題ではないかと論考し、「日本の敗戦」という事実を知った時のあの「挫折感」は、青年の三島にとってあまりにも大きすぎたのであると解説している。 そして西本は、戦後の繁栄と平和な日常生活が安定して確立しだした1952年(昭和27年)の執筆当時の「小市民社会」の中、敗戦の夏の日の「沸き立つ入道雲」の中、世界旅行中の「ギリシャのエーゲ海」の中、海をバックに逆なでするような『真夏の死』の「逆構成の知的場面」の中に、三島が「〈死〉をダブルイメージ化して形象化」したと考察しながら、それは、極限状態における「生の実在感」であり、死を描くことによって「生の現象的な意味」を探ろうとしたものだとし、「死によって、生を可能ならしめるという論理は、三島そのものの気質と体験の見事な結晶」であると論じ、『真夏の死』の脱稿日が1952年(昭和27年)の「8月15日」であることも指摘している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「真夏の死」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「真夏の死」の記事については、「真夏の死」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 06:24 UTC 版)
『雨のなかの噴水』は三島の作品の中では目立たないものではあるが、完成度の高い洒落た短編(コント)として多くのアンソロジーに採用されている作品である。 佐渡谷重信は、巧みに描かれた少年の「一人よがりな心理的側面」や、少女の涙と噴水の対比、雨の中の風景が相まって「ロマンチックな味」が醸し出されていると評し、「最後に雅子の涙が英雄的別れ話と無関係であったというオチによって人生というものはこうしたコミュニケーションの欠落によって支えられていることを教えている」と解説している。 佐藤秀明は、噴水が「皇太子ご成婚記念噴水塔」であることから、男女の別れ話と噴水の意味との皮肉の効果について言及している。また、明男の別れの言葉が聞えなかった雅子の態度を「意図的」なものとして捉え、彼女の可愛らしさに「したたかな奥行き」を看取し、「光彩している陸離たる人生を夢見た明男だったが、人は不如意を知ることで大人になるという主題がここにはある」と解説している。 川村湊は『雨のなかの噴水』について、三島の『潮騒』のような「典型的な青春小説」や、『春の雪』のような古典的な恋愛小説の長編とは、また違った趣の、「しゃれた都会的なコントやスケッチのような青春や恋愛」を扱った短編の一つだとしている。そして、安岡章太郎の『ガラスの靴』や『ジングルベル』と同じように、「繊細で、脆いガラスの器のような青春の日々の一齣が映されている」作品だと評している。 川本三郎は、現代作家の描く男の子や少年像は従来のものよりも、「複雑で屈折」し、子どもながらすでに「大人の社会の悲しみ」を知って、「心のなかに闇を抱えこんで」いるとし、その理由は、現代社会における子どもの生活環境が厳しくなったことや、子ども(少年)が「保護すべき対象」だというイメージが作家自身からなくなり多様化しているからだと前置きしつつ、子ども時代は、それがたとえ苦い思い出だったにせよ、「安定した距離」を持ちながら懐かしく、その時代が大人と連続性がありながらもその一方で、「子どもと大人は連続性を断ち切られている」という見方や、少年を他者、未知なるものとして捉える見方もあると論考し、『雨のなかの噴水』も、「〈子ども=未知なるもの〉というイメージの濃い作品」だと評している。 そして川本は、作家にとって子ども(少年)は、「未熟的、未成形」ゆえに興味深く、また、「多様に変幻し、浮遊し、大人の常識の意表を突く」からこそ想像力を掻き立てられる存在だとし、『雨のなかの噴水』は、「そういう子どもに刺激された大人の想像の戯れから生まれた作品」だと解説しながら、三島が、冷静に子ども(少年)を「実験動物を眺めるように」観察し、「不可解な他者」として見つめ、そこでは「大人と子どもの連続性」は明確に断ち切られ、「大人は誰でもかつて子どもだった」ゆえに「大人は子どもの喜びや悲しみ」が理解出来るという「安易な連続性」が否定されていると考察している。 『雨のなかの噴水』の中には、高みをめざす噴水の力の動きを詳細に描写している以下のような一節があるが、松本徹はその一節を、「三島の重要なモチーフ」とし、「噴水に喩えて、絶えざる挫折を描いている」としている。 一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまひを正して、静止してゐるかのやうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で 順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を支へてゐる力の持続は、すばらしい。 — 三島由紀夫「雨のなかの噴水」
※この「作品評価・研究」の解説は、「雨のなかの噴水」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「雨のなかの噴水」の記事については、「雨のなかの噴水」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:07 UTC 版)
『愛の渇き』は、その「完成と充実」の高さの評価は大方一致しており、松本徹は、三島の「24歳の若書きといったところが、文章の端々に見られないわけでは」ないとしながらも、「古典的ともいってもいい緊密な構成を持ち、最後に訪れる破局の力強さは、文句のつけよう」がないと解説している。そして、当時の文壇では、「自分を厳しく描き、女を魅力的に描いてこそ、作家として一人前」だという暗黙の了解事項があったと松本は前置きしつつ、ヒロイン悦子のような嫉妬の激しい女を描いた三島は、「それに十二分に応えた」と評している。 吉田健一は『愛の渇き』について、三島の作品の中でも、「最も纏ったものの一つである」、「この作品は、我々に小説というものそのものについて考えさせる気品を備えている」と評している。そして三島がそこで試みているのは、「一つの持続を廻っての実験」であり、ヒロインの悦子が「幸福を求めている」ことは、「彼女が退屈しているということと同じなのである」と提示しながら、それを描くことは容易ではなく、「退屈の正体」である「忍耐」に費やされる力が烈しければ烈しいほど、その表現は「退屈」を生々したものとして感じさせることができ、悦子を廻る村の一家の生活は、彼女の「幸福に対する欲求を絶えず堰き止めて、自分が生きているという意識を一層烈しく掻き立てるための装置」となっていると吉田は解説している。 そして吉田は、〈何かの抵抗がなければ芸術作品は生れない〉というヴァレリーの言葉を引きつつ、「抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできない」とし、その点で作者・三島は、「一人の女が生きて行く上で完璧な条件」を実現したことになると解説して、「しかしそれを完璧にしているのは悦子自身の性格の強さなので、それだけ彼女は特異な存在なのであるが、この人物とその環境の取合せから起る生命の実感があまりに新鮮なので、個人的な特色などというものを我々は忘れてしまうのである」と、その構成の巧みさを説明している。 松井忠や富岡幸一郎は、現実世界から「拒まれた者」であった『仮面の告白』から、『愛の渇き』では、現実世界を「拒む者」へ移行していることを指摘し、富岡は、その悦子の行為と認識の距離に二律背反を見て、秋元潔は、「精神と肉体の葛藤」があることを考察している。 『愛の渇き』を初期の作品で最も完成度が高い長編だと評する田坂昂は、悦子は「外界にたいしては無限に受容的」であり、彼女の存在自体が「虚無であり無神」であり、その内部で育てた「幸福の観念」は、「幸福の固定観念」〈ロマネスクな固定観念〉にまで成長して、それにひたすら縋って悦子は生きていると解説している。そして「目的のない情熱」(虚無の情熱)こそが、「戦国のある武将の血をうけついだ末裔としての無意識の矜り」を持つ悦子の「幸福」であり、それは「実存的脱自にまでゆきつく漂白された情熱」だとし、三郎の背中を〈深い底知れない海のやうに思ひ、そこへ身を投げたいとねがつた〉悦子には、「超人間的世界への渇望」、「死への希み」にまで繋がるものがあると考察しながら、悦子が、鍬の刃先が自分へ向かって落ちてくる危険を空想する場面と、悦子の周りの「退屈な日常生活」を鑑みながら、『愛の渇き』には、戦中と戦後の状況変化をとらえているところがありはしないか」と述べている。 柴田勝二は、『愛の渇き』と、モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ(フランス語版)』を比較し、テレーズの「受容性」に対し、悦子の現実の受容性は自意識が強く、「自身と外界の違和を意識的に封じ込める」という対自的イロニストの面があることを考察し、そのアイロニーで外界に応じながらも、悦子は三郎には惹かれるという分裂した空無な存在であり、その空無化した情念が、『テレーズ・デスケイルゥ』の影響下にある自由間接話法的な文体で表現されていると解説している。 花﨑育代は、悦子が〈何も希はない〉、〈渇いてなぞゐはしなかつた〉人物として描かれ、第一章の冒頭付近から頻繁に出てくる〈何事もない〉という言葉が、最後の一行にも出てくることに触れ、これは、花田清輝が言及していた「絶望者といふものの凄惨な在り方」としての悦子の「平静さ」 の分析となるものを孕んでいると解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「愛の渇き」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「愛の渇き」の記事については、「愛の渇き」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 05:47 UTC 版)
雑誌『人間』に掲載された当時の評判としては、川端康成の友人でもあった横光利一がしきりに『煙草』を褒めていたとされる。しかしながら、この賞讃は三島の耳には届いていなかった様子で、他の文壇人からの論評も特になかった。そのため三島は、〈評判はといふと、まるで問題にもされなかつた〉とがっかりしている。 ただし、村松定孝は当時『煙草』を初めて読んだ時の衝撃を、「年少者に先きを越された歯がゆさ」、「しまったと狼狽した気持」だったと振り返り、「俺だって、こういうものを嘗ては書いてみたいとおもったこともあるのに、時代も不向きだというおもわくから捨ててしまって、……一生の不覚だったと、もう居ても立ってもいられないくらい取り乱した」と吐露している。 本多秋五には村松定孝が受けたような衝撃的な感動はなく、作者の三島が何を狙っているのか判定できなかったが、「素直な、虚偽の分子のない作品と思えた」と述べている。そして本多は、筑摩書房に三島が原稿を持ち込んだ時に臼井吉見がいくらか評価し、中村光夫が全く見向きもしなかったエピソードに触れつつ、戦後まだ無名だった三島に対してそうした見方が一般的だったろうとした上で、「無名の大学生三島の『煙草』を、あえて『人間』に推薦した川端康成は、さすがに新人発見の名人だけのことが、どこかあったのである」と述べている。ちなみに、川端はこの三島の『煙草』を推薦した2年後の1948年(昭和23年)5月号から、自身も大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)時代の同性愛的初恋の思い出を綴った作品『少年』を同誌で連載開始している。 三島没後の作品研究としては、「生命力の反逆の兆し」を看取しようとしている田中美代子の評価をはじめ、「学習院を背景とした精神的自伝」だとして、「大人への精神構造の変換と、同性愛が一本の煙草に微妙に象徴されている」と評価する長谷川泉や、「戦後耽美派」としての三島の側面から論考している山内由紀人と評価などがある。 山内由紀人は、三島の本格的な小説の出発点を1940年(昭和15年)11月執筆の『彩絵硝子』だとみて、「『彩絵硝子』の世界が戦後になってさらに洗練され、一つの文学的結実をみせたのが『煙草』」であるとしている。そして、『煙草』には「戦後耽美派」としての三島の側面が「最も理想的なかたちであらわれている」と評価した上で、「デカダンスな雰囲気、淫蕩的な気分と同性愛的な匂い、そして変身願望。ストイックな文体で描かれるその世界」が、のちの中井英夫の作品世界に通底しているとしながら、三島が述べた〈純然たる現代小説は、むしろ『彩絵硝子』から『煙草』への線上にある〉という言葉を補記して解説している。 その他の高橋新太郎は、末尾の段落の火事の眺めの描写表現を、「夢か現か定かならぬ境位の表現は、きわめて象徴的でもあり、美しい」と評価し、校内の森を散歩する場面にみられる〈静謐〉の感覚など、この頃の三島の初期作品(『花ざかりの森』など)に共通してみられる「〈静謐〉への志向」に注目している渡部芳紀の解説もある。 なお、『煙草』には異稿があり、伊村との後日談などが書かれた続きの原稿が存在している。その異稿には、春以後に伊村とすれちがうこともあったが伊村は手を上げ合図する程度の挨拶となり、「私」が4年生になった(伊村は高等科3年)ある初夏の日、森の中で伊村が1人のセーラー服の女学生と一緒にいるところを見てしまい、烈しい嫉妬に苦しめられる心理が描かれている。 ※上節と同様、三島自身の言葉の引用部は〈 〉にしています(他の作家や評者の論文からの引用部との区別のため)。
※この「作品評価・研究」の解説は、「煙草 (小説)」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「煙草 (小説)」の記事については、「煙草 (小説)」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:18 UTC 版)
「青の時代 (小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『青の時代』は、三島の他の大作や問題作と比べると注目度は低く、小ぶりなものとなっているために相対的に評価はあまり高くなく、三島自身も失敗作だと認めている作品である。肯定的な論としては、「貴重な同時代の証言であり記念碑なのである」という日野啓三の評価や、「充実した〈生〉を喪失した戦後青年の自意識が自己の贋物性を自覚する過程」を書く作品意図を看取しつつ、「戦後の一時期の知的青春の姿」を鮮明に描いていると述べる磯田光一の評があるが、総じて、作品の完成度からの観点の評価は辛いものが主で、少年期から戦後の間を結ぶ6年間の空白と、それによる前半と後半の分裂を指摘する声が多い。 当時の文壇の評価も低めで、中村光夫は、前半の生い立ちの描き方はいいが、後半になると、「剥製みたい」と評し、臼井吉見も「同情よりも、ひどくひやかし半分にやっつけてしまってるという感じがする」と述べている。本多秋五は、「中途半端な作品」としている。 西尾幹二も、前半における「心理小説の典型」を思わせる生い立ちの分析が「性格悲劇」の序章として「ヴィヴィッド」で「新鮮」に描かれているにもかかわらずに、その明晰さが後半において徹底されておらず、「戦後青年の虚無感」という一般的な主題が混じり込んでしまっているとし、本来の主題であった「贋物の英雄譚」という「抽象的情熱」が埋没してしまい、「完璧な観念小説になり得ていない」と解説している。しかし、この作品の中に、「ふんだんに投げこまれているアフォリズムの切れ味」の良さが魅力的であると西尾は評し、三島が余裕を持って「縦横にシニシズムをたのしんでいる作品」だと評している。松本徹も、作品の出来不出来を越えて、その「野心的な若々しさ」が魅力的だとしている。 守谷亜紀子は、『青の時代』の当時の評価に否定的なものが多いのは、同じ「光クラブ事件」を題材とした北原武夫の『悪の華』や、田村泰次郎の『東京の門』などが、戦争の傷痕を負い、破滅的な人生に向う主人公の悲劇を「痛ましく」同情的に描いているのに比し、『青の時代』の主人公は、「滑稽で喜劇的」に描かれている箇所が見受けられるためだとし、北原武夫や田村泰次郎がもっぱら、「時代の悲劇性」に重点を置いているのに対し、三島は、時代性によらない人間の「本質的な〈生〉の問題性」を主題にしていると解説している。そして守谷は、三島が、悲劇性を帯びた自明のストーリーから「〈悲劇〉としての印象」をあえて取り去り、反対の意味を表現したり、逆に、資料にある卑俗性の挿話を真摯にアレンジしたりして、その底の真意や相対性を示そうとしている「アイロニー性」の構造を論考しながら、『青の時代』は、「人間性そのものまでも虚偽とする世界観が、悲劇と喜劇の混合の内に」描かれていると解説している。 柴田勝二は、『青の時代』でモデルが消化しきれていないという評価が多いのは、「山崎晃嗣という素材」に対して三島が、「取り込みつつ否定する二面的な距離の取り方をしている」からだとし、三島が山崎という「時代を生きつつ時代に生かされてしまった人間」を作中で造型する際、「この時代との密着を超克する方向性」をあえて付与しているため、「素材の生かし方が〈中途半端〉」だとする本多秋五の印象は、三島が「意図して仕組んだ属性」そのものであり、あえて「山崎に逆行する側面」を、三島が主人公・誠に「色濃く」付与していると解説している。 そして実際の山崎が「哲学的な知の権化」ではなく、「世俗的な欲望を多量に抱えた」青年であり、軍隊では物資の横流しをし、戦後の混乱で珍しくもなかった闇金融の「物欲の担い手」であったその反面で、「数量刑法学」の学究に意欲を持つという「清濁両面」の人間であったが、『青の時代』の誠には、そういった「多方面にわたる欲望を感受する体制」はなく、「物質的な欲望」が捨象されている人物造型となっている違いを柴田は指摘し、誠は山崎と異なり、「自己に複数の欲求を相互に相殺することによって、それらのいずれにも没入しまいとする人間であり、その主観の操作によって〈人々は生活を夢見てゐた〉と規定される〈1940年代の後半〉という時代と対峙しようとしている」と考察している また、前半で誠が、自発的な欲望で物事を決定しない性格に造型されている一方、「数量刑法学」の主張では、〈主観的幸福〉にこだわりを見せているといった、「観念的な主体としての〈主観〉」と、「外部の価値観を排する個的な実感としての〈主観〉」が野合されているため、『青の時代』の「不統一な印象」がもたらされていると柴田は説明しながらも、その両者は西尾幹二が言うような「別個のもの」でなく、誠は「矛盾をはらんだ存在」としてあり、「内面の指向性と無関係に外界の事象に惹かれてしまう傾向」が見られるとし、それは『愛の渇き』の悦子や、『親切な機械』の猪口と同様に、〈主観的幸福〉(主観的不孝)に敏感な傷つきやすい人間だと考察している。そして柴田は、後半での誠の行動は無目的でなく、山崎という実在人物を下敷きにすることで、「時代背景に裏打ちされた動機の層を濃密に備えている」とし、野口武彦が主張するような、「距離をもって現実世界を眺め下ろす視線に、(三島の)ロマンティック・アイロニーの表出」を見る解釈 に疑問を呈しつつ、以下のように論考している。 おそらく三島の意図は、時代の波に身を託しつつ、そこで超越的な自己を保持しようとする人物の像を仮構することにあっただろう。この時期の他の作品に当為としての「道徳律」を備えた人間を登場させているのはそのためである。けれどもそのためには『青の時代』の主人公はあまりにも外側の世界に動かされやすい人間であった。(中略)三島の内面を託された人物たちは、現実世界に距離を取ろうとしながら、我知らず外界に魅せられてしまうのであり、その不如意の分裂のなかに彼らは生きている。川崎誠の分裂が示しているものは、まさにその主観的な距離が外界の牽引によって崩壊させられるアイロニーにほかならないのである。 — 柴田勝二「跳梁する主観――『青の時代』論――」 山中剛史は、『青の時代』はアプレゲールによる「悪漢小説」でなく、主人公・誠は「金の亡者」でも、間貫一(『金色夜叉』の主人公)のような「センチメンタリズム」でもなく、そこに描かれているのは、金という紙束に何の価値すら認めていない「虚無に直面した青年の破滅譚」だとして以下のように解説している。 三島が、戦後の混乱と不安とに満ちた中での大層傷つきやすい孤独な青春を描いて、川崎にまとわせたのが合理主義という鎧であった。川崎の「合理は拘束する」という金科玉条である。他者から身を守るために誂えられたそれは、外界から身を守る代わりに己をも束縛する。外界から自己を律しようとすればするほど、ますますそれは川崎自身に自己統御のストイシズムを要求することになる。そこでは金も女も合理主義の要求する自己統御の証明としての意味しかないのであり、果ては自らの命さえも差し出すことになる。 — 山中剛史「『青の時代』――事件に定着させた自らの青春」
※この「作品評価・研究」の解説は、「青の時代 (小説)」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「青の時代 (小説)」の記事については、「青の時代 (小説)」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:46 UTC 版)
『盗賊』は発表当時にほとんど反響がなかった作品で、敗戦直後の乱世の時代には「他愛のない“お話”」の人工的な物語としか見なされずに低評であった。個別作品論もほとんど無い傾向にあり、包括的な作家論の一端として言及される場合が多い。 武田泰淳は三島の自評の言葉を受け、「決して〈無慙な結果〉ではない」とそれを否定しつつ、「稚心などという単語と、これほど無縁な作品はない」として、小説技術である「作家が自己の精神を吟味し表現する操作に関して、豊富な手がかりを提出している点では、『仮面の告白』より大切な長編だとも言える」と考察している。そして『盗賊』は「やや神経過敏のため、肉色が蒼ざめたきらいがある」とし、論理、説明、主張、警句、才智である「骨」があらわとなっているため、「骨をあらわに示さずに、肉づきだけでよく骨格を知らせる」ようなツルゲーネフの『初恋』の域には至っていないが、「骨なし小説の多すぎる日本にあっては、多少骨のきしみが耳ざわりでも、三島氏の長編の骨格の正しさを尊重し宣揚したい」と評している。 磯田光一は、戦後直後の三島の中に「青年期の異性に対する喪失感と世代に内包されていた喪失感とが交錯」していたとし、「〈金閣と共に滅びうる〉という幸福」(完璧な愛の実現)が無くなった戦後の三島にとって、『盗賊』の主人公たちは、「三島の思いえがいた理想の生の形式」であり、過ぎ去った「〈愛〉と〈死〉との饗宴」を「人工的に構築しようとした作品」だと解説している。そして磯田は、『盗賊』の創作自体が「エゴイズム、ヒューマニズムの旗印をおし立てた戦後の進歩主義思想に対する、逆説にみちた兇悪な復讐行為」であり、「エゴイズムを抹殺する楽しさを描いた作品」だとして、「戦後の進歩主義思想の根底にあった〈有効性〉の観念への果敢な挑戦」だと考察している。 川端康成は、三島が最初の長編小説で、「恋人が結婚のその日に心中するといふ心理」に陥り、その作品を『盗賊』と名づけた創作意図に触れつつ、「自殺する二人が盗み去つたもの」は、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう」とし、以下のように語っている。 私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある。 — 川端康成「序」(『盗賊』) また、川端は、三島の作家としての将来について、「人生を確実にし、古典と近代、虚空の花と内心の悩みとを結実するやう、かねて望んでゐる」と述べながら、「『盗賊』のやうに青春の神秘と美とを心理の構図に盗み切らうとする試みも、三島君の歩みには必然の嘆きの呼吸であらうか」と評している。 なお、これらの川端の評言は、三島の中に「半歩間違えば、あちらの世界へ行ってしまう」ようなものを、川端が直感し、「脆そうな造花」は、三島を「生に繋げる細い細い糸」と見ていたと松本徹は解説している。この川端の文章は、その後の三島の作家活動や運命を暗示していたものとして、三島の死後、数多くの三島論で引用されている。
※この「作品評価・研究」の解説は、「盗賊 (小説)」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「盗賊 (小説)」の記事については、「盗賊 (小説)」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:41 UTC 版)
渡邊一夫は、『岬にての物語』初出当時の文芸時評において、「三島氏のふしぎなくらゐ幻想に充ちた字句の用ひかたも、その配列も、実に美しいものを持つてゐた」として、時折ランボーの詩を思わせると高評価している。 野口武彦は、『岬にての物語』を「戦争期に培われた三島氏の作家心情、その美学の主導動機をじつにストレートに語った小説」だとして、三島の投影である主人公の体験に、「まぎれもないロマン派的情動の初心」を見てとり、「〈死〉―〈夏〉―〈海〉」という三島文学の主題が、その後の作品に連なっていくことを指摘している。 田坂昂は、〈美〉と〈海〉と〈死〉という要素を鑑みながら『岬にての物語』を考察し、主人公が〈神々の笑ひ〉の中に見い出した〈一つの真実〉が、『花ざかりの森』で言及される〈秀麗な奔馬の美〉と同義であるとしている。 渡辺広士は『岬にての物語』の、「自己省察から飛翔への移行」(現実から夢想への移行)の構成は、「すでに少年の習作ではなく、物語として見事に組み立てられている」とし、その導入部における自己分析の明晰さを可能にしているのは、「〈私の本来のものなる飛翔〉への信頼というプリズム」だと解説している。そして「その〈憂愁のこもつた典雅な風光〉にふさわしい古典的な文体」で海や岬の自然が描かれ、作中の少女には、同じ三島作の『苧菟と瑪耶』の瑪耶と同じように、永遠のマリヤの面影があるとし、〈青年と少女の頬笑みには甚く相似たものがあつた〉というくだりには、「兄と妹の愛」が暗示されているという神秘化があると考察している。 売野雅勇は、『美徳のよろめき』以来、三島作品に馴染んできたと語りつつ、「主人公たちの耳にも聴こえる音楽」といえば、『岬にての物語』の「一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す」として、「聴こえない音楽を聴くことが、三島由紀夫の作品を読む最大の快楽のひとつになっている。言葉の音楽である」としている。 三島作品と接してきたが、主人公たちの耳にも聴こえる音楽といえば、即座に「岬にての物語」で海岸の断崖に近い草叢を歩きながら少年が聴いた、一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す。最初に読んだときから、少年が聴いたその音を想像するよりも、聴こえない音の方に想像力が働いた。陰画を光にかざして眼を凝らすおなじ身振りで、その失われた音に意識が集中してしまう性癖のようなものがこころのうちにあるのだろうか、――あるいは、そのように意識を誘導する意図のもとに書かれたものなのだろうか。 — 売野雅勇「言葉の音楽」 村松剛は、『岬にての物語』で主人公が遭遇する事件が、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの『死の勝利』を思わせ、少女が百合の花を摘む場面も似ていることを指摘し、三島の蔵書にも『死の勝利』があることから、三島が執筆する上でその作品への意識があったと考察している。 三島の『岬にての物語』の少女は清純そのものであり、相手の男も少女と「眼の涼しさを争」う青年であり、肉慾はここにはかげもない。『岬にての物語』は、いわば南国の富裕階級の倦怠感と肉慾とを捨象した『死の勝利』だった。媚薬もマルク王も介在しない『トリスタンとイゾルデ』、という形容も可能かも知れない。 — 村松剛「三島由紀夫の世界」 筒井康隆もまた村松の指摘を踏襲し、『岬にての物語』がダンヌンツィオの『死の勝利』の文体、描写、ディテールなどの影響を受けているとして、両者がどちらも、男女の情死を扱い、心中方法も断崖から海への投身である共通点を挙げている。しかし、『死の勝利』の方は無理心中であり、「世紀末の懐疑主義や頽廃」的な作品なのに対し、『岬にての物語』の方は、「極めてロマンチックなもの」で、三島自身がモデルである少年の眼で、美しい若い男女の情死行を、「日常のようになごやかに眺めている」と解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「岬にての物語」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「岬にての物語」の記事については、「岬にての物語」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 01:38 UTC 版)
『海と夕焼』は、三島が自解で〈私にとつてもつとも切実な問題を秘めたもの〉と述べていたが、三島の死後もあまり本格的な論究がなされていない傾向にある。ちなみに三島は後年、『海と夕焼』を振り返って、「あの作品がもし、発表当時から正確に理解されていたら、それ以後の自分の生きかたも変ったかもしれない」と虫明亜呂無に語っている。 鈴木晴夫は、三島作品では〈海〉が多く描かれているが、『海と夕焼』の〈海〉は自然背景としての海ではなく、「人間の暗い情念を呼び醒ます黙示の役割を負っている」として、その〈海〉は真昼や暁の光り輝く海とは違う「神秘的な暗さ」を湛え、異郷の日本で回想して生きている老人にふさわしい〈海〉となっていると解説している。 佐藤秀明は、『海と夕焼』の〈奇蹟〉を、「現実が許容しない詩の幸福」(奇蹟を信じて疑わない〈詩〉の〈幸福〉)のことだとし、これは『詩を書く少年』での〈詩〉を紡ぎ出す時の〈幸福〉であり、「〈現実〉と相渉らない〈言葉〉の〈幸福〉」と同じだと解説している。そして、この「現実が許容しない詩」は、三島がしばしば〈人生〉と対比して〈芸術〉と呼び、〈小説固有の問題〉だと言っていたものだとして、奇蹟待望とその挫折を〈私の一生を貫く主題〉と吐露した三島が、『豊饒の海』に至るまでのあらゆる作品でこの主題を描いていることを指摘しながら、「三島の言う小説とは、人生(現実)と詩(「現実が許容しない詩」)との対立を含み、それを描いたもの」と論考している。 石井和夫は、『海と夕焼』の主題を、〈いくら祈つても分れなかつた夕映えの海の不思議〉、〈奇蹟の幻影よりも一層不可解なその事実〉にあるとして、その主題は『真夏の死』で朝子が最後に再び悲劇を〈待つ〉思いに通じるものがあると考察し、安里の語りの2年後に「文永の役」があることなども鑑みながら、安里が〈不思議〉の再来を待ち望んでいるとしている。一方、根岸一成は、安里の〈不思議〉に捉われ続ける姿に、「神の死せる世界で神を探し求めることの必然的挫折」、「絶対者不在の深淵に追いやられた虚無」を看取している。 田中美代子は、遠藤周作の『沈黙』の主題の転換(「あの人は沈黙していたのではなかつた」とした所)について三島が疑問を呈し、〈神の沈黙を沈黙のまま描いて突つ放すのが文学〉としつつも、別のエッセイで、〈「神」といふ沈黙の言語化〉こそ〈小説家の最大の野望〉だと吐露していた複雑な心理を挙げて、『海と夕焼』の主題について考察している。 近代の末世にあって、奇蹟などありえないのが当然の合理的科学的現実であるのに、なぜ人は飽かずに奇蹟を待望し、神の不在が自明なのに、神への祈りをやめることができないのか。それはただ、人間の絶望的な祈りだけが逆に神を証かす唯一の行為だという信仰の秘儀ではないのか? — 田中美代子「海と夕焼」 また田中は、この三島の〈一生を貫く主題〉が『豊饒の海』の第2巻『奔馬』の神風連の挫折にまで繋がっていくことに触れながらも、『海と夕焼』で注目する点として、「安里が、現実の失墜を経ながらも、再び現在の境遇に、慎ましいある安らぎを感じていること」を指摘し、三島作品の変遷を鑑みている。 執筆当時、三島文学は十全に開花して時代に迎えられて、作家生活は頂点をきわめていた。だが彼にとってはどんな地上の幸福も魂を癒すに十分ではありえない。呼べどこたえぬ神の似姿こそ耳もきこえず言葉も発せぬ、安里の傍らの無心な少年の存在であろう。 — 田中美代子「海と夕焼」 小埜裕二は、従来の論で〈海〉と〈夕焼〉が一対の取り合わせとして、主人公に過去の想起がなされていると捉えられていることにやや異論を唱え、2つが異なる概念を表わしているとして、〈夕焼〉は「奇蹟待望を抱かせる象徴」(キリスト教的世界観における「永遠」の象徴)で〈有限性〉を表わし、〈海〉は「奇蹟的世界へ誘いつつもそれを拒むもの」(仏教的世界観における「久遠」の象徴)で〈無限性〉を表わしていると解説している。さらに、西洋・キリスト教的世界観・有限性に対し、東洋・仏教的(禅的)世界観・無限性の時間の優位が示され、預言者が発した〈東へ行くんだよ〉という言葉もそれを暗示するものと考察している。 〈夕焼〉は終末という〈有限性〉のなかで最後の輝き(復活の後の永遠)をしめすキリスト教的世界観の象徴として理解できる。一方、仏教的世界観にはものごとには始めも終わりもないという縁起の考え方がある。マルセイユの〈海〉が示した沈黙は〈無限性〉を基とする仏教的世界観と響きあう。本作の結末においても、安里の回想終了時に〈夕焼〉が終わり「闇」とともに「梵鐘の音」が響く。その音は「久遠」へとすべてのものを導いていく。(中略)三島の解説「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議といふ主題」は、作中において「不思議」へのこだわりを消し去ろうと周到に用意された仏教的世界観の枠組みのなかで捉え返される必要がある。「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」を現出させるのも〈海〉であれば、「不思議」への思いを消し去ろうとするのも〈海〉なのである。 — 小埜裕二「三島由紀夫『海と夕焼』論:「不思議」を消し去るもの」 そして最後の少年の眠りが、「安里の回想への執着を相対化する役目」を担い、聾唖の少年の感覚がここで全て閉ざされている意味は、禅宗における「ものにこだわらない自由な精神」「無の境地」を示していると解説し、最後の場面は臨済宗の禅問答ともなっているとしている。また、少年は能のワキの役どころでもあり、シテの安里の語りは「死後の時点から生の時間を眺める夢幻能の回想形式」に似ていると小埜は述べている。 禅では忘れること捨て去ることが大切となる。とらわれのない心を禅は目指すのであり、そうした境地は仏教が説く諸行無常の教え、輪廻転生の教えが与えるペシミズムやニヒリズムを断ち切るものとなる。(中略)過去に体験した「不思議」を呼び返す山頂での安里の語りは、〈眼の少年〉に向けて語るところから始まった。〈眼の少年〉が安里に過去を引き出させるスイッチであったとすれば、〈眠る少年〉は安里を再び現在へ連れ返すスイッチとなった。 — 小埜裕二「三島由紀夫『海と夕焼』論:「不思議」を消し去るもの」 また小埜は、『海と夕焼』の翌年に『金閣寺』が発表された繋がりの意味を辿りつつ、『金閣寺』の終盤で、溝口が放火後に突然と究竟頂で死のうとすることに触れ、そこに「『海と夕焼』の語り手が安里の語りの現在の設定に際して秘かに示した奇蹟待望の祈念と同じもの」が読み取れるとしても、その三島の「延命せられた〈不思議〉の到来を願う思い」が重要な意味を帯びてくるのは後年の作品においてだとして、2作品が書かれた昭和30年頃の三島には、「〈不思議〉へのこだわりを消し去り乗り越えていく自信に満ちあふれていた」と考察している。 「不思議」の到来をもはや願わなくてもよいと言いうる枠組みを物語内部に構築しえた力業を、三島は奇蹟待望が不可避であることの告白以上に、戦後一貫して感受性の化け物をコントロールしようとしてきた努力の成果として読み手に理解してもらいたかったのではなかろうか。「不思議」へのこだわりをいかに制御するかが三島にとっての「切実な問題」であった。 — 小埜裕二「三島由紀夫『海と夕焼』論:「不思議」を消し去るもの」
※この「作品評価・研究」の解説は、「海と夕焼」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「海と夕焼」の記事については、「海と夕焼」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 07:21 UTC 版)
『夏子の冒険』は軽いタッチの恋愛コメディの娯楽小説として楽しめる作品で、冒頭から突然ヒロインが修道院入りを決意するという突飛な展開に特徴がある。少女小説や古典文学では、波乱万丈の運命に翻弄された末、ヒロインが世を儚んで修道院や尼寺へ入るという結末は珍しくはないが、『夏子の冒険』では「出家の決意」から物語が始まって結末へ向かっていくところに独自性がある。 夏子の願望は、『仮面の告白』の〈私〉や、『愛の渇き』の悦子の欲望を反復して発展させたものだと見ている千野帽子は、夏子が前半で見せていた「わけのわからないことをする人物」の魅力が中盤において、恋敵の不二子に嫉妬したりするなど、「わけのわかることをする女」となり、逆にミステリアスな不二子の方が魅力的に描かれるが、最後のどんでん返しで再び夏子が「わけのわからないことをする女」となり、「正→反→合」の作用を物語に与えていると解説している。 木村康男は、夏子が「熊狩りという冒険」に恋し、自身の情熱の対象が「〈ますらおぶり〉を喪失した男性にはないこと」に気づくという主題を解説しつつ、「恋の本質は冒険であり、冒険の終わる時に恋も終わる」としている。松本鶴雄は、「井田を見る夏子の眼に三島のロマンチシズムとイロニーが横溢している」と解説している。 十返肇は、『夏子の冒険』発表から約3年後に、「若く溌溂とした夏子の魅力」は、そのまま、作者・三島の魅力だとし、以下のように解説している。 死を決意した彼女の演ずる生への冒険を、三島由紀夫は心にくいまでにまでに巧みに描いてゆく。彼女をめぐる風変りな環境は私たちを笑はせ、彼女が燃やす恋の情熱は私たちを蠱惑する。原始的な風土の中で都会娘夏子は冒険の結果、生きる歓びを知る。若い女性の読者は、みんな自分の中に一人づつ夏子が棲んでゐることを痛感するであらう。そして、新しい青春の生き方をここに見るに違ひない。 — 十返肇「青春の生き方」 『夏子の冒険』は2000年代以降、村上春樹の『羊をめぐる冒険』(1982年)との関係性で文学的に論及されることも多く、佐藤幹夫は、村上が「熊をめぐる冒険」である『夏子の冒険』から『羊をめぐる冒険』を着想し、〈女秘書のやうなまじめな顔つきになつて拝聴〉する夏子に相当するのが、「耳のガールフレンド」だとし、〈導き〉という言葉や、今や村上の専売特許となっている〈やれやれ〉という言葉も、すでに三島がこの作中で使っていることを指摘している。 高澤秀次もまた、村上の『羊をめぐる冒険』は三島の『夏子の冒険』の「書き換え」であると唱え、大澤真幸も、高澤秀次の論を敷衍して、三島と村上の関連について論じ、「三島の自殺こそ、理想の時代の行き詰まりに対する、最も先鋭な行動である。このことを考慮すると、三島と村上のこうした繋がりは、実に暗示的である」と述べている。 大澤真幸は、夏子の〈冒険〉が、「〈植民地〉的なエキゾチシズムを誘う土地」である北海道に向けられることに着眼し、東京(の青年)に倦怠していた夏子が、修道院への旅の途上、仇討ちの青年に共鳴し、「逆説的な仕方で、冒険(理想)を発見」することを、「〈復讐〉というネガティヴな形態でのみ、理想が活きているのだ」とし、以下のように考察している。 したがって、青年が熊を倒したとたんに、夏子の青年への情熱は醒めてしまう。三島のこの小説は、すでに、理想を理想として維持することの困難を表現していると解釈することができる。この約20年後に三島は、実際に、理想の時代の破綻を自らの自殺をもって体現することになるわけだが、そこへと向かう問題意識は、この時点で、無意識の内に孕まれていたとも言えるだろう。 — 大澤真幸「不可能性の時代」 そして大澤は、村上が『羊をめぐる冒険』の冒頭の章「1970/11/25」で、三島事件を、〈我々にとってどうでもいいこと〉としてのみ言及していることについて、「無論、それは〈どうでもいいこと〉ではないからこそ言及されるのである」とし、主人公の〈彼〉が、二人の女性の死を契機に、やはり『夏子の冒険』同様、北海道への冒険に出ることを指摘しながら、以下のようにまとめている。 「我々はおだやかな、引き伸ばされた袋小路の中にいた」という表現が示唆するように、『羊をめぐる冒険』は、冒険の──理想主義的なユートピアの──不可能性をめぐる冒険である。この自己言及的・自己否定的な冒険の内容は、複雑をきわめるが、目下の文脈において重要なことは、小説のタイトルが暗示しているように、それが、幻想的でフィクショナルな冒険という形態を取っていることである。要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接にバトンを受け取るように小説を書き、三島の作品の中に孕まれていた可能性を徹底させることで、理想から虚構への移行を果たしているのだ。 — 大澤真幸「不可能性の時代」
※この「作品評価・研究」の解説は、「夏子の冒険」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「夏子の冒険」の記事については、「夏子の冒険」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 07:28 UTC 版)
『恋の都』は娯楽的な恋愛小説でありながら、その背景には、国粋主義者だった青年が敗戦によりアメリカのスパイ要員となっていたという展開にも表われているように、戦後の日本とアメリカの関係性が色濃く随所に描かれ、ヒロイン・まゆみが、ホテルに監禁された楽団員・松原を救うため、〈口髭をたくはへ、いかにも正義派的〉な〈恰幅のよい〉米国人・マシュウズの威光を借りて事件を解決し、そういった自身のことを〈日本政府みたいな遣口〉だと考え、見返りをまゆみに求めたマシュウズの出方を、〈アメリカ人一般の例に洩れず、MSA式なやり方〉と思うなど、寓意が所々にちりばめられている。 こういった『恋の都』で描かれている寓意について武内佳代は、「帝国(西洋)と植民地(東洋)の関係がジェンダーの非対称性」として表象され、その挿話には、「GHQ撤退後の戦後日本がいまだ米国の植民地であることが前景化」されているため、「まゆみの貞操の死守」はまゆみの個人的な復讐劇を超え、「戦後日本における米国支配への抵抗そのものの寓意」と読解できるとし説明している。そしてそれは、『潮騒』の中で、新治が沖縄の荒波で船の危機を救った挿話に見られる寓意と同じだと武内は考察し、まゆみが下心のある米国人たちから処女を守りつつ、見事に賃上げ交渉を成功させた時の楽団員たちの反応(まゆみへの尊敬や信頼)に明白なように、「貞操の死守という占領国への抵抗こそ、彼ら敗戦国の男性を〈喜ばせ、元気づけ〉」、胸に五郎への「弔合戦」を続けるまゆみの「イマジナリーな領土では、いまなお戦中の天皇の〈法〉は命脈を」保ち、「いまだ戦争は終わらない」とし、『恋の都』は『潮騒』よりもさらに明瞭に、「純愛と天皇の〈法〉との連繋や、そうしたものと米国支配の影と対立関係」が描かれていると解説している。 そして武内は、〈五郎さんの肉体を抱きしめるやうに〉、その思想を抱きしめてきたまゆみが、〈フランク・近藤〉という米国スパイとなってしまった五郎と再会し、五郎への純愛との葛藤の末に、そのプロポーズ(「米国人男性に自らの性を奪われること」)を承諾したのは、まゆみの心中においては「〈日本〉の敗北」をも意味し、同時に、「〈天皇陛下への絶対の愛、日本人としての絶対の矜り〉という〈生きる糧〉を喪失し、本当の〈敗戦〉を迎える」とし、まゆみが結末で〈イエスですわ〉と返事をする場面には、「米国を受け入れて〈敗北を抱きしめ〉た当時の戦後日本の趨勢をそのまま透視することができる」と解説している。また、英語混じりで承諾したまゆみの態度には、「占領国」(男)「被占領国」(女)というジェンダーの配置の比喩にすれば、「米国の救済によって存続した、矛盾に満ちた戦後天皇それ自体の表象」に換言され、その承諾を〈感情をまじへないはつきりした声〉と三島が表現し、まるで交渉に臨んでいるかのようにまゆみに仮託させているのは、「まゆみの諦念」だけでなく、「作者の諷刺的眼差しをも滲ませている」と武内は考察している。 油野良子は、右翼青年の丸山五郎がアメリカのスパイに転向するという設定が他の三島作品にはなく、後の三島文学で描かれる「純粋右翼青年の悲劇」と一見違うようではあるものの、三島が『林房雄論』の中で〈右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である〉 と言っていたことを鑑みれば、「矛盾するものではない」と解説している。 田中美代子は、アメリカ人になることで辛うじて生き延びている丸山五郎は、姿を変えてその後の『鏡子の家』の深井峻吉や『奔馬』の飯沼勲に繋がる系譜の人物であるとし、三島が占領時代を振り返り、〈しかし占領時代が、青年の精神的成長に、今から考へると、或るおづおづした、不透明な制約を加へてゐたやうにも思はれる〉 と言っていたことを見て、五郎の生き方を「精一杯のこれが抵抗だった」と考察できるとしている。 そして作中の〈大東亜塾〉のモデルであろう「大東塾」について三島が〈終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた〉、〈神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に触れた行動である〉、〈剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた〉と述べていた『一貫不惑』 に触れつつ、田中は以下のように論考している。 大東塾は、「恋の都」の宮原大東亜塾のモデルになったものと思われるが、彼(三島)にとってそれは、〈西欧に対する日本の最後の果敢な抵抗〉 としての文明史的意義を有するものであり、〈日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に触れた行動〉 と考えられたのである。追い詰められた日本人の魂の抵抗――それはいぜんとして戦後の思想史の背後に隠されたままであった。敵はむしろ祖国の内部にあった。〈大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹殺するにいたつたのである〉 — 田中美代子「三島由紀夫 神の影法師――夢の疲れ――『潮騒』『恋の都』『につぽん製』」 千野帽子は、『恋の都』の中に込められていた「国家」と「処女」の帯びる意味は、現在の日本社会では様変わりしてしまったが、『恋の都』は今でも純粋に恋愛小説として楽しめるとし、作中に盛り込まれている当時の時事ネタや、〈ハニー・紙〉というトニー谷をもじったコンサート司会者のギャグや流行語などの風俗について触れ、「〈古くなった〉と思われがちな『恋の都』が、いまとなってはなんと愛おしく見えることか」と懐古している。また、帝国ホテルで行なわれるハロウィーン仮装舞踏会の場面で、まゆみが束髪と袴の明治の女学生に扮して優勝するという皮肉に触れながら、三島がそこで、「民主化なんて、しょせん敗戦を忘れるために」、「日本の〈世間〉に米国文化を植えつけているだけではないか」という「哄笑」が文脈を無視して聞えてきそうな場面だとし、「発表時期が近いだけで一見接点のなさそうな娯楽小説『恋の都』と戯曲『鹿鳴館』を並べてみると、明治の近代化と戦後の民主化との共通するトホホ感が、浮かび上がってくるではありませんか」と解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「恋の都」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「恋の都」の記事については、「恋の都」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 04:40 UTC 版)
「女神 (三島由紀夫の小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『女神』は、一見通俗的な筋で展開するが、その深層にある主題は三島文学全体に関わる要素が含まれている作品である。当時の新聞評では、成功作とはいえないものの「作者のゆたかな空想力と才気は、だれも否定出来ないだろう」と評している。 奥野健男は、「日本的湿潤から全く隔離された、乾燥したふん囲気と論理は、矢張り新しい世代の先駆者として際立っている」と評し、作者の長所と短所がはっきりした作品だと解説している。 十返肇は『女神』の主題を、「物質のように堅牢な美の存在を確認しようとするもの」とし、それは「作者の観念の中にのみ存在する」と考察しながら、三島が、滅びゆく生命の中にではなく、生き続けてゆく生命の中に〈美〉の存在があると考えているとし、その意味で、三島の特質が顕現している作品だと解説している。 『女神』は初出誌では、激昂した周伍がピストルで俊二を叩きのめそうとして弾が暴発し、俊二を撃ち殺してしまうという筋書きとなっていたが、初版単行本刊行の際に大幅に書き換えがなされ、その改稿により、終結部が単に偶発的な外的事件によってではなく、ヒロインの「内的必然性の純化」によってもたらされることで、心理小説として、より完成度の高いものとなったと田中美代子は解説している。また田中は、三島が「まわりの選良たちを劇画化し、嘲笑するため」に、上流社会を作品の素材としたと考察し、馬場重行は、それを敷衍して、「上流社会の社交の中に自閉し、美を観念の中で変形させ、その歪んだ鏡に映る像に固執する周伍の醜さ」は、〈劇画化〉するため背景として巧みに機能していると解説している。 また田中美代子は、妻や娘を「生きた芸術作品に仕立てようとする怖ろしい審美家」の周伍には谷崎潤一郎がイメージされ、一方、彼女たちの人生を「体当たり」で「攻略しようとする破滅型」の芸術家には太宰治がイメージされるとし、男たちから独立して化身する朝子の姿には、両作家の方法論への三島の批評が重ねられていると解説しつつ、暗い家庭環境や不幸をくぐり抜け精錬・窯変して永遠の「美の彫像」となる朝子の姿には、作者である三島が分身的に移乗されていると考察している。 自然に介入し、人生を懐柔し、理想の鋳型にはめこもうとする芸術家。二人はそれぞれの仕方で夢想の城を築こうとして敗退する。それまで男たちのなすがままに教育されていた美しい生き人形は、このとき客体であることをやめ、意志をもち、敗北を踏みこえて雄々しく立ち上がる。不死鳥のやうに。……ここに三島文学の、両先輩作家へのささやかな方法論的批評が含まれているのだろう。 — 田中美代子「三島由紀夫 神の影法師――女人変幻――『沈める滝』『女神』『幸福号出帆』」 磯田光一は『女神』の主題について、周伍の芸術家の情熱を単に「非人間的」と捉えてしまうのは容易なことで、「人間性という名の無定形のものに理想の様式を与えようとする願望は、だれの心にも多少は宿っている」とし、〈文化〉は〈自然〉と対立し、「〈自然〉を否定・克服したところに成立するもの」であり、「女性美の創出と理想化も、人間の反自然的情熱の所産」だともいえると考察し、「女を“女神”になるようにつくりあげるということは、女を不可侵の存在にしてしまうことであって、じつは奇妙なことに女の本質とは矛盾してしまうことなのである」と解説している。 そして朝子が、〈パパが教へてくれたのは、心の形骸の生活の作法だけだつたんだわ。しかもそれが今の私の、唯一の支へになつてゐるなんて、本当に妙だこと〉と思うのは、その女としての「ディレンマの告白」であり、朝子は、斑鳩一と婚約者・俊二との「心理的な絆を断ち切られる体験」を経ることで、「人間の悲劇や愛慾などに決して蝕まれない、大理石のやうに固く、明澄な、香はしい存在」に化身すると磯田は説明しながら、以下のように解説している。 人間界を超えて“女神”に化身するという主題は、日常性を超えた大理石の彫像のような美に、現実の人間以上の意味を与えるということである。芸術家にはつねにそういう願望があるであろうとし、芸術作品は人間界を超えているといえばいえる。しかし「芸術」の絶対美からみれば「人生」は卑俗であるかもしれないが、逆に「人生」の側からみれば「芸術」にとりつかれた人間は社会生活の不適格者にならざるをえまい。 — 磯田光一「解説」(文庫版『女神』)
※この「作品評価・研究」の解説は、「女神 (三島由紀夫の小説)」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「女神 (三島由紀夫の小説)」の記事については、「女神 (三島由紀夫の小説)」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 00:08 UTC 版)
『白蟻の巣』は三島が書いた初の長編戯曲であるが、総じて高い評価がなされている。 福田恆存は、「三島氏の小説と同じ水準に達した作品」と高評価をし、北原武夫も、「三島君はこの作品で初めて戯曲を書いたと思うんです」と述べている。吉田貞司は、「小説に劣らぬ豪華なモラルの開花を見せてくれた」と評し、ヘンリー・スコット・ストークスは、「この作で三島の劇作家としての地位は確立された」としている。 荻久保泰幸は、〈白蟻の巣〉とは「安直な人道主義や世俗的美徳にむしばまれて真に人間的なものを喪失した状態の象徴」であり、やがてその後、世人が気づく「戦後民主主義がもたらした精神的頽廃やマルクーゼのいわゆる寛容的抑圧の象徴」でもあるとし、「戦後10年という曲がり角における反時代的考察」がなされている作品だと解説している。越次倶子は、荻久保の論を敷衍し、〈白蟻の巣〉とは日本の国の象徴であり、「戦後十年にして、白蟻の巣を見てしまったところに、予見者三島の悲劇がある」と解説している。 佐藤秀明は、寛容な刈屋義郎の内実の無気力と倦怠感を、執筆当時(昭和30年代)の三島の「空虚感」に裏打ちされたものとし、それは『鏡子の家』の鏡子が担う「空虚な中心を形成する役割」に通じ、贅沢な社交場の〈鏡子の家〉が実は敗戦後の廃墟に通じているのと同様、刈屋邸の食堂もそうだと考察している。 山中正樹は、佐藤の論を敷衍し、三島が『太陽と鉄』の中で、自身の〈言葉に蝕まれた肉体〉を、〈白蟻に蝕まれた白木の柱〉に喩えて、自身の言葉と〈特攻隊の美しい遺書〉を対比させていることを鑑みて、三島の様々な作品の〈言葉と肉体〉、〈認識と行為〉という「根本問題」に関連した主題として論究することも可能だと考察している。 また作中で、刈屋義郎が〈生ける屍〉、百島健次が〈古い死んだ鼠〉など、啓子以外の人物はすでに〈死人〉と表現されていることに、「散華することができずに生き残った」三島の〈絶望と幻滅〉が看取できるとし、刈屋夫婦が渇望しつつも拒否されている〈太陽と大地〉の意味も、三島が、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉と語っていたことから、「三島が終生求め続けていたもの」は何だったのか、〈白蟻の巣〉とは何なのかを含め、三島が敗戦から自決に至る過程において、『白蟻の巣』の位置づけを考察する方法もあると山中は解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「白蟻の巣」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「白蟻の巣」の記事については、「白蟻の巣」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 06:13 UTC 版)
『愛の疾走』は、登場人物の関係図も『禁色』の配置と類似したものが見られ、小説家の大島十之助が青年の田所修一に目を付けて、裏から観察して操ろうとするところや、大島夫人を修一の庇護者として配置させているところなどにも共通項がある。また、読物として娯楽的な趣向の中にも、三島の人生観や文学観がさりげなく書かれており、最終章には、〈かういふ天才は若死するのが普通だが、四十七歳になつてまだ生きてゐるところを見ると、何事にも例外といふものはあるらしい〉などという意味深な文も散見される。 清水義範は、「三人称」で進行する通常の章に間に、登場人物のうちの3人が「一人称」で語る章が入れ込んでいる点に着目し、その普通の小説には見られない形式を、「これだけでも、ちょっとした実験である」と述べ、その人称違いの章を、うまく書き分けるだけでもかなり難しく、それを、「破綻なく小説の中に組みこむのは至難の技である」と解説している。 また清水は、主人公2人と、彼らをモデルに小説を書こうとする作者と、作者の思い通りになりたくないと考える主人公という、「メタ・フィクション」的な複雑な二重構造について説明しながら、「どう考えてもこれは、三島由紀夫にしては軽い通俗恋愛小説なのだが、この構造を持っているところが只物ではないわけだ」と述べ、例えば、小説のヒロイン・美代が作者・大島を意識し、「くそっ、作者が私を観察してやがる、と思う登場人物の心理」を、「ゾクゾクしてしまうところ」だとして挙げて、以下のように評している。 こういう手はほかにはあまり見たことがない。うまいものです。そういうきわどい遊びをやりながら、物語は最後までよくできた恋愛物として成立している。うまいと言えば、風俗や時代性の取り入れ方も見事なものである。都会と田舎の問題、時代の変化という社会性までもが、実に巧みに組みこまれている。素直に脱帽するしかない。 — 清水義範「二重構造小説のたくらみ」 横尾忠則は、三島が随筆『ポップコーンの心霊術―横尾忠則論』の中で、幼い頃に便所で見ていた片脳油(樟脳白油、防臭殺虫液)の壜のレッテルについて回想している以下のような箇所を引きながら、この『愛の疾走』という小説が、登場人物・大島十之助が書いている小説だという「入れ子構造」になっている点に触れて、三島の「モノマニアックな趣味」が導入されているとし、そこがこの小説に「不思議なマジカルな空間を張り巡らしている」と評している。 片脳油のレッテルには、子供にとつて最大の宇宙的無限の謎を誘起する。当時はやりのデザインがあつたかもしれない。それは、人が何か手にもつてゐる図柄の中に、又、人がそれを持つてゐる図柄があり、その中に又、人がそれを持つてゐる図柄がある、といふ無限小数的なデザインである。さういふ、悲しくなるほど永遠に遠ざかり深まつてゆくものを暗示したデザインこそ、あの糞臭と片脳油の匂ひのなかで鑑賞すべきものであつたのだ。 — 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」 また横尾は、主人公の修一と美代が、小説家・大島の策略の思惑から逃げてやろうと企むところは、作者・三島自身が様々な小説を執筆中、思惑通り登場人物が動いてくれず、彼らが独自の行動をし始めるという体験を、図らずも告白してしまっているようだと考察している。そしてこの小説の「最大の見せ場」は、この「十之助の小説の題名」を、「三島由紀夫『愛の疾走』」と、三島自身が「パクって」しまうところだとし、それを、「歌舞伎の舞台で三島由紀夫扮する大泥棒の石川五右衛門が大見得を切ったように思える」と喩えて、そういった三島の遊び心やおちゃめな性格が垣間見られ、同じ小説家の大島十之助という登場人物を弄ぶところが面白いと評しながら、それは、三島の大嫌いな「想像力の欠落した私小説作家をカリカチュアライズして皮肉っている」と説明している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「愛の疾走」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「愛の疾走」の記事については、「愛の疾走」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 06:47 UTC 版)
『夜会服』は作品全体としての評価はあまり芳しくなく、娯楽小説として分類されているが、登場人物の心理の描写力は評価されている傾向がある。 松本鶴雄は、『夜会服』を「上流階級を扱った心理葛藤劇で、所々『クレーヴの奥方』を思わせる光った描写もあるが、全体はメロドラマの通俗小説」と評し、鈴木靖子は、「人物の心理的葛藤が巧みに描かれているが、カタカナ外国語が随所にみられ、括弧付きの解説が施されていて、それが文章に生硬な感じを与えているのは否めない」と述べている。 篠田一士は、登場人物の描き方や扱い方に見られる三島の「劇的才能」を評価し、特に最後の花山宮妃の登場を、「作劇術で、デウス・エクス・マキーナという、便利だが、きわめて危険な方法」と解説し、演劇の演出と関連させている。 田中和生は、「勤勉な作家」であった三島を、「敗戦後の日本が焼け跡から回復して高度成長を実現し、〈東洋の奇跡〉と呼ばれる戦後復興をなしとげたことを思わせるようなきまじめでひたむきな勤勉さだった」と表現し、それは明治期の森鷗外さながら、「敗戦後の日本に生きた三島由紀夫はおそらく自分が原稿用紙に記す一字一字が戦後日本をつくりあげていくという使命感をもっていた」と述べ、そんな三島の「勤勉さが惜しげもなく注がれた純文学としての短編や長編」の次に、21世紀において新しい読み方が期待されるのが、三島が純文学の余剰に気軽に執筆した「娯楽小説」かもしれないとして、『夜会服』もその一冊だとしている。 そして『夜会服』の〈俊男〉は、母の〈滝川夫人〉の生き甲斐である〈夜会服〉の世界(日本の近代化を象徴する場)に批判的で、〈絢子〉との結婚を機に、そこから自由になろうとしているが、「近代そのもの」から逃れることは不可能であり、〈俊男〉の「どこか虚無的でありながら近代社会における万能の力をもっているように見える男性の魅力は、日本の近代化の矛盾を体現するかたちで造形されているところ」にあり、〈俊男〉の万能は西欧文化を模倣した世界で得られたもので、彼自身がその〈夜会服〉の世界(建前としての日本)における「本音を奪われたロボット」を意味していると田中は説明し、こうした〈俊男〉の人物造形には、「三島由紀夫の自己イメージ」が投影され、三島は〈俊男〉を描きつつ、「戦後日本という〈夜会服〉の世界から出ることができず、本音を隠して建前をなぞるかのように生きざるをえない自らの存在の悲哀を深く感じていたかもしれない」と考察している。 また、そうした「現実的すぎる悲哀を和らげる場面」が、世界で翻訳されうる三島の純文学では書かないような造形方法で、西欧人たちが「醜悪で滑稽なもの」として描かれているところに散見され、彼らが一様に「欺瞞と耐えがたい特徴をそなえた人物たち」となっているのを田中は指摘し、さらにもう一つの「現実的すぎる悲哀を和らげる場面」は、物語の末尾で〈俊男〉と〈絢子〉を救い、「〈俊男〉の本音を聞き届けてくれる〈宮様〉の存在」だとし、以下のように解説している。 そこにはおそらく、戦前の二・二六事件と敗戦後の人間宣言によって昭和天皇に対して生涯屈折した感情を抱きつづけた三島由紀夫が夢想した、戦前から戦後へと変わらずにつづく近代化という建前を強いられる世界において日本人の本音を守ってくれる天皇という、理想的なイメージが投影されている。こうした本音をさらけ出した心の避難場所を愛すべき娯楽小説のなかにつくりながら、現実に三島由紀夫が辿りついたのは1970年の割腹自殺だった。「俊男」とその孤独を理解する「絢子」の「愛」が成就される『夜会服』の甘すぎる末尾がわたしたちに突きつけるのは、そうしたひとりのすぐれた作家を自死させてしまった日本の現実に欠けていたものはなにかという問いである。 — 田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」
※この「作品評価・研究」の解説は、「夜会服 (小説)」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「夜会服 (小説)」の記事については、「夜会服 (小説)」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 03:03 UTC 版)
『をはりの美学』は、日常的に女性が関心のある話題を題材にして、その〈をはり〉をユーモラスに軽い文体で綴ったもので、若い女性向けの人生や恋愛の手引書的な趣のあるエッセイであるが、その中には三島の本音が垣間見られ、随所に死に方についても語られており、「男の美学」も盛り込まれている人生論となっている。 荻久保泰幸は、「三島一流の皮肉・警句を適当に糖衣に包んだ行間に、現代社会への怒りが噴出している」のが、〈満天下の青年男女よ、一日も早く動物を卒業して、日本文化の本質にかへりたまへ〉と三島が言うところに見られるとし、さらに、「笑いやくすぐりをふりまきながらいかに生きるべきかを語っているようにみえて、実はいかに死ぬべきかを語っている」と解説している。 中野裕子は、三島が〈芝居のをはり〉の中で、〈人生のをはりと芝居のをはり〉を比較しながら、芝居の成功の後の幕が下りた舞台に立つ劇作家としての自身の感慨を〈何か人生の大きなガランとした虚無とつながつてゐる〉と語るくだりは、三島が創造した芸術作品と、実生活の虚無との関係が暗示されているとし、〈童貞のをはり〉の中で、性交の後に雌に食い殺されるカマキリの〈雄の宿命〉や、特攻隊が死の前夜に女を知る例えから〈男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ〉と語る論理は、三島が影響を受けた「バタイユ的エロティシズムの形」(生と性と死を結ぶもの)であると解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「おわりの美学」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「おわりの美学」の記事については、「おわりの美学」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 02:58 UTC 版)
『反貞女大学』は、〈反貞女〉とはどういうものであるかを、その条件などを考察して面白く説いたエッセイであるが、同時代評としては、〈貞女〉観に縛られていた「動脈硬化」的な女性たちの肩を揉みほぐすような意図として受け入れられ評価されている。 田中美代子は、三島が終始一貫し、「見えざる婦徳にしばられた貞女たちに対して、できる限りリラックスして夫の呪縛を放れ、精神的な自由を獲得し、活きいきと生活をたのしむよう」に教授していると解説している。なお、『反貞女大学』が執筆された同時期には、小島信夫の『抱擁家族』などが発表され、夫婦関係が文学的にも社会的にも話題とされていた背景があると広瀬正浩は解説している。 ちなみに三島は、産経新聞連載第32回目の「第11講 同性学{2}」に筆者によるコメントとして、〈連載の途中から突然あらはれるといふのは、気の利かないお化けみたいな出方で恐縮〉としながら、以下のように述べている。 わけても、この万事正道をゆく「反貞女大学」のうち、もつとも逆説的な「同性学」の講義の途中から入つてこなければならない方々は、めんくらつてばうぜんとされるのではないかと心配します。しかし、どうか、講師のいふことにしばらく静かに耳を傾け、教室でドタバタ足を踏み鳴らすやうなことはないやうにお願ひします。日本全部がとりすましたPTAムードへ傾いていかうとするとき、私だけは「反貞女大学」の名のもとに、何とか退屈な常識に足をとられないやう、そして笑ひながら人間の真実を語るやう、これ努めてゐる良心的講師をもつて、自ら任じてゐるのです。 — 三島由紀夫「新しく読まれる読者に」
※この「作品評価・研究」の解説は、「反貞女大学」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「反貞女大学」の記事については、「反貞女大学」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 03:06 UTC 版)
『葉隠入門』は、三島の美意識や思念を知る上で重要な随筆の一つであるが、同時代評でも「三島文学入門」の書であると林房雄が評し、村上兵衛も、三島らしい見解が表れているとみなしている。山本太郎は、「死と凝視」「生の尊厳」が書かれていると解説している。 野口武彦は、三島が『葉隠入門』の中で〈このいはゆる戦後文学の時代は、わたしに何らの思想的共感も、文学的共感も与へなかつた。ただ、わたしと違つた思想的経歴を持ち、わたしと違つた文学的感受性を持つ人がちの、エネルギーとバイタリティーだけが、嵐のやうにわたしのそばを擦過していつた〉と述べていることに着目し、「(三島が)その時代を否定するために作家として時代と関係した」と考察しながら、その唯美主義的あるいは反語、逆説的な作品世界で現実と対峙した三島が、「自己の異端者的な〈エステティック〉に固執することで時代を否定し、その否定において〈連続性〉と〈論理的一貫性〉(すなわちモラル・アイデンティティ)とを堅持した」とし、三島を「勇敢な〈否定的なものの形而上学的騎士〉だった」と、キルケゴールの表現を用いて解説している。 山本常朝の『葉隠』を、「戦国戦士の死にぞこないが、天平な世にその失われたユートピアへの哀切な憧憬を託した倫理書」だとする橋川文三は、三島が剣道五段を取得し、〈剣道七段の実力〉を目指す姿勢に、『葉隠』で説かれる作法と「三島のダンディズム」の共通性を見て、「様式化された倫理への哀切なあこがれを示すもの」とし、三島がアンケートで「あなたが欲しいもの三つ?」と問われ、〈もう一つの目、もう一つの心、もう一つの命〉と答えたことの背後に暗示される「ロマン的な変身への熱情、世界崩壊へのいたましい傾倒」を、「『葉隠』の倫理と相補関係をなすもの」だと、1964年(昭和39年)時点で考察している。 そして橋川は、三島が『林房雄論』(1963年)において示した「歴史との対決」の姿勢が、「晩年の芥川龍之介に似た場所」あるいは「明治終焉期の森鷗外」の境遇に通じるものかは予測できないとしながら、それはむしろ『葉隠』の中の「一種透徹した恐怖感」を湛えている一節を引いた方がいいとし、〈道すがら考ふれば、何とよくからくつた人形ではなきや。糸をつけてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、言語迄も云ふは上手の細工なり。来年の盆には客にぞなるべき。さてもあだな世界かな。忘れてばかり居るぞと〉という現世の幻を説いている部分との共通性を見出している。 田中美代子は『葉隠入門』を、三島が「現代社会の病根を深く洞察、診断し、身をもってその打開に心を砕いた、体験的、臨床的な処方箋」、「万人にとって最後の現実である『死』を凝視」した書物だとし、その現代文化の特徴を、「従来まで人々を人生に向かって鼓舞していた様々な幻想が(どんな理想も規範もイデオロギーも)ことごとく潰え去ったこと」、「かつてモラルの基礎を形成していた絶対の観念が失われ、人間はすべての意匠を剥ぎとられた等身大の、赤裸かの、即物的自然的な生命に直面することを強いられている」ことだと説明しながら、そのことが「現代社会を侵している救いがたいニヒリズム」の原因であり、「人生いかに生くべきか、というかつての求道的倫理的な問題」の代わりに、「日進月歩する科学的な生活改良や健康法や姑息な処世の技術」といった「瑣末な日常生活への関心」ばかりになってしまった現代は、「博学多識と、細分化された『ハウツウもの』の全盛時代」だと田中は三島の言わんとすることを敷衍しながら考察している。 さらに田中は三島が、「われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ」と言ったことを受け、実際のわれわれの「生活自体への関心」は結局、「利殖と保身と享楽の追求」に終わり、「与えられた『生の哲学』によって十全に人間性の自然を解放し、富益を求め、奢侈と飽食と放埓に身をゆだねたのちに、やがて等しく老衰と死にきわまる運命にさだめられて」、「生とはついに死に到る不治の病だとすれば、病んでいるのは『生の哲学』そのものだ」と言えなくもないと考察しつつ、「民族、国家、社会」などの一つの「共同体」が、他文化の侵蝕を受けた場合に、「人々の生活の支柱をなしていた掟や慣習がすたれ、道徳的精神的に荒廃して、その共同体は徐々に崩壊、解体してゆく」という現実を考慮すれ、人がそれぞれの、「生の充実」にいかに励んでも、「生それ自身の自壊作用をくいとめる手立てがありえない」とし、そういった近代の合理主義的人文主義偏重の危機を『葉隠入門』の中で示唆していた三島は、「敗戦後の日本人の魂の危機と『生の哲学』の行きつく果てを、いち早く予言した」と解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「葉隠入門」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「葉隠入門」の記事については、「葉隠入門」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 02:47 UTC 版)
『第一の性』は、女性にとって謎の多い男性的な原理の解明を平易な文章で、分かりやすい例を挙げて説明しているエッセイであるが、〈男らしさ〉が女性から見た理想的男性像ではなくて、元来の本質を含めての〈男らしさ〉であることを女性たちに問いかけていると中野裕子は解説している。 奥野健男は、『第一の性』を書いた三島について、「齢毎に若くたくましい男性になって行くようだ」として、以下のように語っている。 十七年前はじめて会った時は、貧血症の青白い顔をした、ハンサムではあったが、髪を七三にわけた柔弱な文学者であった。しかし無名の学生であるぼくに、おたがいに筒っぽの書生として交際しようなと、男らしいこまやかな心づかいを示してくれた。その頃は腕角力しても負けはしなかったのだが、ボデイビルや剣道や自衛隊で鍛えた最近の彼には、口惜しいけれど中年肥りのぼくはかないそうもない。自らの哲学に忠実に不屈の意志で文武両道の達人に自己をつくりあげた胸毛の三島は、精神的にも肉体的にも今や男性中の男性の「第一の性」にふさわしい爽やかさとりりしさを体顕している。 — 奥野健男「男性中の男性」 田中美代子は、三島が『第一の性』の中で、〈男は一人のこらず英雄であります〉と教授していることに触れ、この〈一人のこらず〉というところが重要だとし、それは「たとえそれが潜在化しているとしても、〈男はとにかくむしように偉い〉」のでなければならず、「彼の個人としてのプライドの問題」であり、お互いに男同士がこれを尊重しなければ、「男は男として自立しえない」ということを意味していると解説している。そして今やこの「男の英雄性」は、「女性の平等主義に踏みつけられて泥にまみれ、そのため、セクシャルハラスメントなどに内攻して、反動化しているのかもしれない」と考察している。 また田中は、三島の言うように男の〈英雄ごつこ〉は、世界の政治・経済、思想や芸術、哲学や事業を生み出した元で、それが善かれ悪しかれ、「男性の築き上げてきた文化の本質であり、ボーヴォワール女史をして、甘んじて自から女性を〈第二の性〉と呼ばしめたところのもの」だと考察しながら、それゆえ、女性が「性差別」をなくすことに躍起になり、「男性の男性なるが故に突出する奇癖や、精神的偏向を撲滅しようとばかりするのは、ある意味の暴挙というべきかもしれない」とし、『第一の性』は、そういったことの「反省」を女性に促し、「女性の理解と寛容を訴えている」と解説している。
※この「作品評価・研究」の解説は、「第一の性」の解説の一部です。
「作品評価・研究」を含む「第一の性」の記事については、「第一の性」の概要を参照ください。
作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 13:33 UTC 版)
「サーカス (小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『サーカス』は、団長の心理に焦点が当てられ、少年と少女の心理描写はないものの、その童話風の人工的な作風がサーカスの世界と相まっているため、概ね好評を得ている作品である。渡部芳紀は、「〈危機〉〈死〉、こころの〈かがや〉きへの憧憬を語った小品」と解説している。 村松剛は、三島の初稿執筆当時の「召集をまぬがれて、帰って来たばかり」の心境を顧慮し、「令状はまた来るかも知れなかったけれど、ともかくもしばらくの猶予を得たという解放感が、『中世』にくらべればスタイルの上ではるかに明るい童話風の物語へと、三島を導いたのだろうか」として、即日帰郷前に遺書として書かれた『中世』と比較考察し、また、〈少女〉には、その当時に三島が心を寄せていた三谷邦子(三谷信の妹で『仮面の告白』の園子のモデル)が投影されていると見るのが自然だとしている。 K子嬢への慕情は、前年の秋いらい彼の心の中に根を降していた。手紙のやりとりはこの段階ではまだ少かったにしても、その脳裡に影を落す少女はほかにはいなかった。『サーカス』はK子嬢を思い浮かべながら書かれた、と考えるのが自然だろう。べつの角度からいえばK子嬢という実在の恋人もまた、三島は童話中の一人物にしてしまった。『サーカス』の少女は、眼下に横たわる少年の胸に緋色の百合の紋章を見たとき、「王子」に殉じて死へと跳躍する。貧しい少年少女は「王子」「王女」として死に、そのことによって二人の恋は気高く完成されるのである。三島由紀夫が作中の曲馬団長とともに夢みたのは、生をこえたところに輝く愛の姿だった。 — 村松剛「三島由紀夫の世界」 小埜裕二は、団長の〈大興安嶺〉での経験と、最後の〈俺もサーカスから逃げ出すことができるんだ。「王子」が死んでしまつた今では〉という台詞を検討しながら、三島が即日帰郷直後に初稿を書いていたことを考え合わせ、三島の「戦争に抱いていた死のイメージと即日帰郷で取り残された体験の形象化」が団長に重ねられているのではないかとして、三島文学における『サーカス』の重要性を考察している。 興安嶺での同時代の若者の死とそれに取り残された団長の構図は、三島が戦争に抱いていた死のイメージと即日帰郷で取り残された体験の形象化ではなかつたか。(中略)即日帰郷の後、夢想の王国の破壊を「サーカス」で宣言した三島は、終戦以前から、すでに空虚な気持ちをいだいたまま、戦後のスタートをきっていたことになる。 — 小埜裕二「三島由紀夫の即日帰郷――『サーカス』論」 井上隆史は、2005年(平成17年)に発見された三島の「会計日記」が、三谷邦子が別の男性・永井邦夫(永井松三の息子)と結婚した1週間後からつけ始められ、『サーカス』の完成を記してその脱稿日で終っていることと、三島が三谷邦子と偶然再会したことを記したノートに書かれていた今後の執筆方針(自伝小説に向けて過去の幼年・少年・青年時代の自作や資料を再読して総括に着手する抱負) に着目し、この時期に「精神的危機」に陥っていた三島がそれを乗り越える打開策を探っていたことを検討しつつ『仮面の告白』の成立背景を探り、『サーカス』の初稿から決定稿への改稿の変容に、『仮面の告白』に繋がる前駆的な