作品評価・研究
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『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、伊藤初代との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している。 竹西寛子は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している。 奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きなモチーフになっているとし、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している。 そして芸人が徳川時代に「河原者」と蔑まれた反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、古くから芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている。 北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人フォークロア」をよく踏まえているものとして敷衍し、漂流者の芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら、「異界」への入り口の象徴である〈峠〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉がトンネルを抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の疑似体験」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の時空を生きながら道連れになっている」と解説している。 また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の袴の裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味をユングの『コレー像の心理学的位相について』 を引きつつ説明している。 彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた「コレー像」に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である。「コレー像は未知の若い少女として登場」し、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」 とされている。 — 北野昭彦「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」 三島由紀夫は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「処女の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的なデッサンによつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれていると考察しつつ、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している。 処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。しからば処女といふものはそもそも存在しうるものであらうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情といふのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ。ここにいたつて、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の形代(かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる。 — 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」 勝又浩は、物語の導入部の天城峠の茶屋で〈到底生物とは思へない山の怪奇〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『雪国』で主人公が〈トンネル〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈暗いトンネル〉を抜けることは「タイムマシンとしての儀式」を暗示させるとして、こういった川端文学の幻想的な一面が泉鏡花や永井荷風とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「稗史的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「まれびと」だとしている。 天下の一高生が、たまたま鬼の番するトンネルを潜り抜けて、遠い島から来た舞姫に邂逅して魂を浄化する物語と読むのが鏡花風だが、世を拗ねた一人のインテリが田舎の旅芸人に関心を持って、現代都市では失われた古きよき時代の純朴な娘を発見して旅情を慰めるというのが荷風式、そして川端文学の場合は、異界はむしろ主人公の側にある。「私」は、トンネルの向こうの人々にとっては神秘的なまれびとであって、彼は訪れる先々で歓迎されるが、そのことによって、健気に生きる人々を祝福し、彼自身は、その民俗的約束に従って、村々の不幸を、汚濁なるものを身に受けて村を去って行かなければならない。それ故『伊豆の踊子』には、その結末に至ってもう一度老人が登場するのであろう。 — 勝又浩「人の文学――川端文学の源郷」 そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から合掌で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや、川端の処女作から諸作に至るまで見られる心霊的な要素を鑑みながら、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって人界を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している。 橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向ってはしけから一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している。 そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している。 川嶋至(細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子(伊藤初代の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している。 ちなみに、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている。 「伊豆の踊子」の時、「非常」に受験生の好意を書いたのは忘れてゐた。細川氏(川嶋至)に二つをならべてみせられて、私はこれほどおどろいた批評もめづらしいが、それよりもさらに、これは二つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、二度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、と私は考えさせられるのである。ふしぎである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」 林武は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿『湯ヶ島での思ひ出』での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されているとしている。 事実、川端は多くの作品で、少女あるいはそれに近い女に少年のイメージを探し求めている。それ故、清野少年の俤を心に抱く川端が、大正七年の伊豆での初旅の途中、実在の踊り子に清野少年のイメージを探し求め、大正十一年の「湯ヶ島での思ひ出」執筆時に、清野少年登場の序曲的存在としての踊り子の部分において、「踊子」に清野少年のイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ではない。即ち、両性混入による「踊子」の一方からの中性化である。 — 林武「『伊豆の踊子』論」
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『城のある町にて』は基次郎の存命中に発表された作品の中では最も長く、比較的明るい作品である。三島由紀夫はこの作品を、基次郎の小説の中で最も好きな作品だとしている。 飯島正や浅野晃は、『城のある町にて』の描写の各所に映画的なカメラアングル(角度を変えて移動、ズームで近づく)が見られるとし、遠くに見える花火が上がるところなどなどを挙げている。そして映画的な手法はダンテの『神曲』など古典にも胚胎していることなどを語りながら、基次郎の場合はそれよりもカラフルであり、色彩映画的だとしている。 柏倉康夫は、『城のある町にて』の風景描写の特性を、「最初は無音だった梶井のパーンニング・ショットに、やがて音がついてくる」とし、蝉やコオロギの声、往診から帰ってくる医者のオートバイの音に反応する子供たちの〈ハリケンハッチのオートバ〉という喚声など、その「音の伴奏が風景を一段と生彩のあるもの」にしていると評している。 そしてその基次郎の「感性」が感知するものは単に、「目に見える静止した光景」だけではなく、「その光景が時間の経過とともにみせる、ごく微妙な変化」こそが、時や自然の移り変わりに敏感な基次郎の「心」を最も深く捉えたものであり、基次郎がこの土地で「視覚、聴覚、触覚のすべてを働かせ、さらには想像力を動員して、周囲をとことん堪能する術を会得しつつあった」と解説している。 また、観察に没頭するだけでなく、法師蝉の鳴き声を〈文法の語尾変化〉のように聴き分けた瞬間から変貌する情景、以下のような子供たちの場面で、基次郎が「感覚の微妙なずれから生ずる、現実の歪曲」を楽しみ、それが「幻視者梶井の面目」だとし、「感覚の一部が肥大して、それだけが機能する」という基次郎の特異な感性がこの作品にも看取され、「現実を一層興味深いものにしている」と評している。 取竿や虫籠を持った子どもたちがあちこちする動きが、ふとした拍子に舞台上の無言劇のように見え、そう感じたとたんに、無類に面白いものに思えてくるといった箇所である。このとき峻の耳には、子どもの叫び声も、降るような蝉しぐれも聞こえていず、子どもたちの動作だけが、まるで音を消したテレビ画面のように見えている。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 そして柏倉は、基次郎が惹かれる〈単純で、平明で、健康な世界〉の象徴である、井戸の水で洗濯に励む若い女たちの瑞々しい描写の場面や、京都の鴨川の河原のスケッチから鑑みられる基次郎の「観察者」としての立ち位置を、「結核という病のせいで、現実世界に関与できないという諦念と悲哀、そのためにいつしか現実を距離をおいて眺める地点」だと考察している。 美しく健全なこうした生活は、かつては梶井のものでもあった。しかし胸を患い、その不安を退けるために、頽廃的な世界へ足を踏み入れてしまった者にとっては、もはや何くわぬ顔で自分のものとして生きるのが不可能な世界であることを、梶井はいやでも自覚させられている。それだからこそ、なお一層うらやましくも心ひかれる世界なのだ。梶井は一個の観察者としてじっと目を注ぎつつ、それが不可能と知りつつ、その営みを共有しようとする。単純で平明な、生活にしっかりと根をおろした女たちのありさまが、かけがえもなく貴いものに思われるのだった。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 なお、印度人の三流手品や、観客をからかう下品な笑いや不遜な態度に腹を立てた峻(基次郎)が、次第に心を鎮めて〈不愉快な場面を非人情に見る、――さうすると反対に面白く見えて来る――その気持がものになりかけて来た〉という心構えを習慣づけていることについて柏倉は、基次郎が愛読していた夏目漱石の『草枕』の中の、「おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いて有体に落ち付いて、他人らしく之を検査する余地さへ作ればいゝのである」という意識の転換からの影響ではないかと考察し、その〈非人情〉の境地は「詩的な態度を維持することにほかならない」としている。 阿部昭は、『城のある町にて』で梶井が表現した〈今、空は悲しいまで晴れてゐた〉という文章について、今日ではこういう類の表現法は珍しくはなく、誰もが簡単に書くであろうが、その巷に溢れている類似の文章には、もはや「梶井が希求した精神」が見失われ、「通俗化した修辞のパターンだけが普及した」ものになってしまったと考察している。
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『幸福号出帆』は、過去の栄光に生きる芸術家の醜悪さ、混血児、密輸、オペラの世界など、様々な要素を盛りだくさん描いた娯楽小説であるが、反響は少なく、ほとんど論究がなされていなかった作品であるが、近年になって、フランス文学の影響や、『鏡子の家』との関連性で、その価値が問い直されている作品である。なお、三島自身は『幸福号出帆』について、〈完全に失敗した新聞小説であるが、自分ではどうしても悪い作品と思へない〉と述べている。 遠藤伸治は、三島を「方法意識の明確な作家」とした上で、「彼が新聞掲載のエンターテイメント小説に関して、どのような小説技法や戦略を意識し、実践したのかを究明することは、三島文学におけるエンターテイメント性の問題につながる」と提起している。 鹿島茂は、三島が「大衆小説という隠蓑」を利用し、西欧の近代小説から学んだ様々な技法や理念を密かに『幸福号出帆』で「実験」していたとし、そこで有効性を確認した技法や様式は、次作の純文学作品『鏡子の家』をパースペクティブに入れて実験されたものだったと指摘している。しかしそれはそのまま移行し利用されたのではなく、『鏡子の家』では「それと一目では見抜けぬほどソフィスティケイト(洗練)されたもの」になり、「『幸福号出帆』は、『鏡子の家』に対して、プルーストの『楽しみと日々』が『失われた時を求めて』に対するのと同じような関係」を持ち、前者の実験がなければ、後者は生まれなかった関係だと鹿島は解説し、「舞台に使われているのが、晴海や月島、勝鬨橋など、共通しているのも、両者の類縁性を感じさせる」と述べている。 藤田三男は、主人公の兄妹について、「兄妹は近親相姦的な、ほとんど性愛によって結ばれた関係とも思えるほどに親密である。そこに三島由紀夫が終戦直後に妹美津子を失い、その死を『敗戦より痛恨事』とした思いの深さを重ねることができる」と述べている。そして、ヒロインの三津子が兄・敏夫との「絶対的な関係」を失いかけると、自分の「純潔」を他の男に与えると、兄に宣言することに触れ、「この異形の兄妹愛がこの物語の〈幸福〉のキイワードである」と解説している。 鈴木靖子は、『幸福号出帆』の主人公の兄妹愛と、三島の短編『水音』で綴られている兄・正一郎と妹・喜久子の、〈この兄妹の愛は恋愛に近いもので、二人の間を妨げてゐるものは、羞恥と怖れに他ならぬと思はれた〉という関係と同じであるとし、「敏夫と三津子の近親相姦的危険な兄妹愛は、真の兄妹であると信じて疑わないところに成りたっているのである。だから、最後に明かされる〈敏夫は歌子の子であった〉という事実を、兄妹が知ることがないかぎり二人は、甘美な危険な〈愛〉を生き続けることができるのである」と解説している。
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『軽王子と衣通姫』は、発表当時は一般読者などから好評だったようであるが、文壇からは「時代ばなれの歴史小説」「皇室関係のことを忌憚なく書いた好奇好古の作品」と受け取られてほとんど注目されなかった作品である。 本多秋五は、『軽王子と衣通姫』が発表当時に文壇から注目されなかったことに言及しつつ、『三島由紀夫選集』にも収録されなかったことを不思議がり、「これは芥川の歴史小説に伍して毫も遜色のない天晴な作品であった」と高評価し、以下のように解説している。 「軽王子と衣通姫」は、時代錯誤の作品であったとしても、それは故意に時代錯誤を意図した戦後の作品であった。そこには恋愛のまじり気ない陶酔の絶頂にあらわれる死の願望が語られている。これは三島的主題である。なんの人生経験のない少年三島由紀夫が、空想の絵の具で空想のものがたりを彩った夢想浮遊小説「苧菟と瑪耶」にそれは糸ひくものといえる。これはずっと後の話になるが、深沢七郎の『楢山節考』の原稿を、あの新人募集の選者として三島が夜中によんでいて、ぞっと背筋が寒くなった、と選考座談会で語っているのをみて、それはそうだろう、三島はあれで虚をつかれたのだろう、と思ったことがあったが、それは私の間違いであった。「軽王子と衣通姫」のなかで、三島は古代の「神」という観念にふくまれる恐怖をとらえている。 — 本多秋五「物語 戦後文学史」 田坂昂は、父帝の寵姫であり叔母である姫と密通する禁を犯すのは罪ではあるが、罪であるがゆえに逆に「極めて美しいこと」=「無垢の喜悦」であるという構造となっており、その論理をアイロニカルにもう一歩進めれば、「禁を犯すことの喜悦」は、「禁あればこそたのしさもあるという逆説を生む」とし、さらにそれを極限的に進めれば、禁を犯してしまえば、そこにあるのは「死」だけであるという構造にいきつくと論考している。そして、こういった論理構造を含みながら展開する『軽王子と衣通姫』の主題は、三島のいう「欠乏の自覚としてのエロスの論理」に繋がってゆくと田坂は解説している。 また田坂は、軽王子の生きた時代が、神代が人の世に移り変って、「死と愛への神の支配がやうやく疑はれて来た」時代であり、「祭事や軍事が恋と共に心の中に親しく住うた」時代ではなくなり、王子の心には「人の世の虚しさと死への希い」だけがあると考察し、母皇后の託宣を、「柔らかな甘美な死」への誘いの声と王子が聞いたことに関して、夜見の国(黄泉の国)が「妣(はは)の国」を意味し、「怖ろしい国であるが、また懐かしい国でもある」ということに触れながら、そこから呼びかけてくる声は、『仮面の告白』の「根の母の悪意ある愛」の声と同じ場所から聞こえてくるものだと論考し、それは、「存在の母たちの国からの声」であり、「死とはその国へかえりゆくこと」だと解説している。 そして、その王子の時代に、戦後社会における、「悲劇的な死の希みが絶たれている」という三島の苦い感慨が寓意的に重ね合わされ、託されていると田坂は考察しながら、『軽王子と衣通姫』は「“悲劇的なもの”を可能にした時代への挽歌」とみることができると解説している。そして、王子が最後に剣で咽喉を貫く直前の言伝には、「悲劇を理会しあった過ぎし時代への記憶に殉じ、もはや悲劇的な死を死にえなくなった時代に矜りたかく別れを告げて黄泉の国へ旅立っていった者の声がきかれる」と田坂は述べている。 またそこには、敗戦と同時に訪れた「しらじらしい虚無感」で、「日常生活の復帰と支配の時代」が一層耐えがたいという、戦後社会へのアイロニーが重ねられ、「愛をものりこえ、この世に夢みるなにもなくなった時代への訣別の声をひびかせながら死んでいった軽王子のように、ただ王者の矜りをもって死ぬことだけが残されている」と三島が語っているのようだと田坂は考察しながら、『軽王子と衣通姫』は一見「反時代的」だが、「意外にも時代の影を陰画的に宿している」作品だとし、「戦中の虚無感と敗戦によるもう一つの虚無感との、いわば虚無感の自乗のなかで、三島氏の身に迫ってきた戦後の人生の重さとの格闘がはじまりつつあった」と論考している。 小埜裕二は、この田坂の論を敷衍し、さらに三島の評論『日本文学小史』や、『軽王子序詩』を分析しながら、『軽王子と衣通姫』には「戦後の天皇に対する三島の切実なある思いも込められている」と推測できるとし、「戦争参加における〈死の甘美な夢想〉から即日帰郷および敗戦といった〈弛緩した日常〉に移ることにより生じた自己の空洞を埋めるために」、三島が自身を「貴種流離譚の主人公」として創作した作品だと考察している。 そして小林和子は、その小埜の論を踏まえながら、「昭和天皇の人間宣言」という戦後の現実や、「自らが王子たちのような陶酔のなかで死にゆくことも叶わなくなった現実」の中で三島は、軽王子と衣通姫に思いを託し、〈激しく急湍のやうに生きて年若くみまかつた美しい〉王子や姫に英霊たちを重ねて、彼らへの思いを胸にし、自らは、皇后(純粋な生と死に対して羨望を秘め、亡き天皇への「常住の愛」を抱いている)のように生きてゆくことより他ないことを、この作品の中で描こうとしたのではないかと論考している。
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作品評価・研究
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『真夏の死』は発表当時に、創作合評などで「小説らしい小説」、「時間と人間と事件」の「三つの関係を直覚的につかんでいる」として好評され、同時代的にも総じて高く評価された作品である。本格的な論究としては、主人公・朝子に仮託された三島の内面主題を考察するものが多い。 野口武彦は、三島が世界旅行から帰国したばかりで、エーゲ海の耀きの明るさの「陰画」のような海と〈死〉の影がさした『真夏の死』を書いたことに触れ、三島にとり「終戦の日」が「終末にして始まりの年の〈夏〉」のイメージとして刻印されているとし、「三島由紀夫氏の内面世界にあっては、〈夏〉は〈死〉を触媒にして永遠の季節にまで明るく凍結してしまった」と考察している。そして『真夏の死』というタイトルは、「夏の訪れる死」という意味でなく、「〈夏〉と〈死〉とはこの作家の辞書のなかでは、たとえ同義語ではないにもせよ、完全な等価物なのである」と野口は論じている。 さらに野口は、三島が戦争末期の青空の夏雲に見た「死神の姿」が作品の描写の中で告白されているとし、作品として「戦後社会の平凡な死の事件をいわば形而上化して見せること」で、改めて三島が自らの「〈死〉の主題」を「再確認」していると考察し、『真夏の死』をその後の三島の後継作品の系譜の「予感的作品」として位置づけている。 『真夏の死』で緻密に語り進められている心理の綾目、「死」の追憶がいつか「死」の待望へと、微妙に、さりげなく転調されてゆく心の経緯は、その実何を隠そう、『愛の渇き』・『青の時代』・『禁色』などの一連の仕事で戦後作家としての確固たる地位を築いた三島氏が、さてその戦後世界の内部で自己の本来の主題をいかに追尋するかの原型を獲得したことを表白する一箇の里程標だったのである。戦後の平穏無事な日常世界、平和と物質的繁栄が堅固な支配を確立したかに見える日本の市民社会に「死」の強烈なレントゲン光線を透過して見せ、そこに立ちあらわれる異形の者たちを妖しくも美しくも発光させること――そうした三島氏の文学的主題がいまここに明瞭な輪郭をとるにいたるのである。 — 野口武彦「三島由紀夫の世界」 田坂昂は、ヒロイン・朝子が最後の場面で、海岸の波打際に立って見つめる夏空の印象的な描写について、それは単なる風景描写だけではなく、「作者本然の心象風景」だとし、それは『仮面の告白』で見られた夏の海や沖の雲も想起される風景であり、「三島文学の最も根源的な方法と内容、形態と構造」を語っているようにみえると論考しながら、〈何事かを待つてゐる〉朝子は三島自身でもあるとし、朝子がもう一度味わいたいと無意識のうちに待っている〈死の強ひた一瞬の感動〉は、戦争末期におぼえた作者・三島自らの〈死の恐怖と甘美〉の忘れることのできない記憶と通いあうのではないかと考察している。 そして、夏空の中に一度あらわれた〈怖ろしい大理石の彫像〉は、三島が戦時にみた怖ろしい〈死の魔神の姿〉であり、朝子一家をおそった〈真夏の死〉が日常生活の支配的な時代のなかで薄れながらも記憶の中に呼び覚まされるのは、三島にとっての「敗戦真近の酷烈な死」を湛えた夏の記憶の蘇りを象徴していると解説し、ボードレールの『人工楽園』の一節〈夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる〉がエピグラフに掲げられている『真夏の死』を支配しているのは、〈怖ろしい風姿〉の「死の魔神から放射される死の視線」だと評している。 「真夏の死」とは、いかにも象徴的題名である。夏と死と、しかも背景は海である。「花ざかりの森」以来くりかえしあらわれてくる三島文学の原イメージ。そして日本の敗戦が夏であったことは、これまたなにかの暗号でもあるかのようだ。夏と海のイメージがあらわれてくるときは、この作者の最深の情念が死の魅惑にゆすぶられているときである。そこにはしばしば敗戦の年の夏のイメージがダブらされているにちがいない。たとえば、「夏といふ言葉そのものが、死と糜爛の聯想を伴つてゐた。かがやかしい晩夏の光りには糜爛の火照りがあつた。」というような表現には、作中の朝子の内面をこえて、戦争末期の苛烈な空襲の火に焦土と化した廃墟のうえに充満する「死と糜爛」の終末の日のような光景の記憶の投射がみられるように思えるからだ。 — 田坂昂「三島由紀夫論」 西本匡克は、磯田光一が三島文学における基本的テーマの一つとして指摘した「現実の〈人生〉が不完全かつ曖昧なもので、華麗な〈死〉においてこそ〈美〉と〈完成〉が具現する」という考察を踏まえながら、戦争中の動乱の中に召集を受け、「死を賭けた戦いの情念」や、医師の誤診による「即日帰郷という運命」に出逢った三島が、「御国の為に命を投げ出す純粋なあの時の心境」を再び見つめようとしたのが、『真夏の死』の主題ではないかと論考し、「日本の敗戦」という事実を知った時のあの「挫折感」は、青年の三島にとってあまりにも大きすぎたのであると解説している。 そして西本は、戦後の繁栄と平和な日常生活が安定して確立しだした1952年(昭和27年)の執筆当時の「小市民社会」の中、敗戦の夏の日の「沸き立つ入道雲」の中、世界旅行中の「ギリシャのエーゲ海」の中、海をバックに逆なでするような『真夏の死』の「逆構成の知的場面」の中に、三島が「〈死〉をダブルイメージ化して形象化」したと考察しながら、それは、極限状態における「生の実在感」であり、死を描くことによって「生の現象的な意味」を探ろうとしたものだとし、「死によって、生を可能ならしめるという論理は、三島そのものの気質と体験の見事な結晶」であると論じ、『真夏の死』の脱稿日が1952年(昭和27年)の「8月15日」であることも指摘している。
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作品評価・研究
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『雨のなかの噴水』は三島の作品の中では目立たないものではあるが、完成度の高い洒落た短編(コント)として多くのアンソロジーに採用されている作品である。 佐渡谷重信は、巧みに描かれた少年の「一人よがりな心理的側面」や、少女の涙と噴水の対比、雨の中の風景が相まって「ロマンチックな味」が醸し出されていると評し、「最後に雅子の涙が英雄的別れ話と無関係であったというオチによって人生というものはこうしたコミュニケーションの欠落によって支えられていることを教えている」と解説している。 佐藤秀明は、噴水が「皇太子ご成婚記念噴水塔」であることから、男女の別れ話と噴水の意味との皮肉の効果について言及している。また、明男の別れの言葉が聞えなかった雅子の態度を「意図的」なものとして捉え、彼女の可愛らしさに「したたかな奥行き」を看取し、「光彩している陸離たる人生を夢見た明男だったが、人は不如意を知ることで大人になるという主題がここにはある」と解説している。 川村湊は『雨のなかの噴水』について、三島の『潮騒』のような「典型的な青春小説」や、『春の雪』のような古典的な恋愛小説の長編とは、また違った趣の、「しゃれた都会的なコントやスケッチのような青春や恋愛」を扱った短編の一つだとしている。そして、安岡章太郎の『ガラスの靴』や『ジングルベル』と同じように、「繊細で、脆いガラスの器のような青春の日々の一齣が映されている」作品だと評している。 川本三郎は、現代作家の描く男の子や少年像は従来のものよりも、「複雑で屈折」し、子どもながらすでに「大人の社会の悲しみ」を知って、「心のなかに闇を抱えこんで」いるとし、その理由は、現代社会における子どもの生活環境が厳しくなったことや、子ども(少年)が「保護すべき対象」だというイメージが作家自身からなくなり多様化しているからだと前置きしつつ、子ども時代は、それがたとえ苦い思い出だったにせよ、「安定した距離」を持ちながら懐かしく、その時代が大人と連続性がありながらもその一方で、「子どもと大人は連続性を断ち切られている」という見方や、少年を他者、未知なるものとして捉える見方もあると論考し、『雨のなかの噴水』も、「〈子ども=未知なるもの〉というイメージの濃い作品」だと評している。 そして川本は、作家にとって子ども(少年)は、「未熟的、未成形」ゆえに興味深く、また、「多様に変幻し、浮遊し、大人の常識の意表を突く」からこそ想像力を掻き立てられる存在だとし、『雨のなかの噴水』は、「そういう子どもに刺激された大人の想像の戯れから生まれた作品」だと解説しながら、三島が、冷静に子ども(少年)を「実験動物を眺めるように」観察し、「不可解な他者」として見つめ、そこでは「大人と子どもの連続性」は明確に断ち切られ、「大人は誰でもかつて子どもだった」ゆえに「大人は子どもの喜びや悲しみ」が理解出来るという「安易な連続性」が否定されていると考察している。 『雨のなかの噴水』の中には、高みをめざす噴水の力の動きを詳細に描写している以下のような一節があるが、松本徹はその一節を、「三島の重要なモチーフ」とし、「噴水に喩えて、絶えざる挫折を描いている」としている。 一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまひを正して、静止してゐるかのやうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で 順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を支へてゐる力の持続は、すばらしい。 — 三島由紀夫「雨のなかの噴水」
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『愛の渇き』は、その「完成と充実」の高さの評価は大方一致しており、松本徹は、三島の「24歳の若書きといったところが、文章の端々に見られないわけでは」ないとしながらも、「古典的ともいってもいい緊密な構成を持ち、最後に訪れる破局の力強さは、文句のつけよう」がないと解説している。そして、当時の文壇では、「自分を厳しく描き、女を魅力的に描いてこそ、作家として一人前」だという暗黙の了解事項があったと松本は前置きしつつ、ヒロイン悦子のような嫉妬の激しい女を描いた三島は、「それに十二分に応えた」と評している。 吉田健一は『愛の渇き』について、三島の作品の中でも、「最も纏ったものの一つである」、「この作品は、我々に小説というものそのものについて考えさせる気品を備えている」と評している。そして三島がそこで試みているのは、「一つの持続を廻っての実験」であり、ヒロインの悦子が「幸福を求めている」ことは、「彼女が退屈しているということと同じなのである」と提示しながら、それを描くことは容易ではなく、「退屈の正体」である「忍耐」に費やされる力が烈しければ烈しいほど、その表現は「退屈」を生々したものとして感じさせることができ、悦子を廻る村の一家の生活は、彼女の「幸福に対する欲求を絶えず堰き止めて、自分が生きているという意識を一層烈しく掻き立てるための装置」となっていると吉田は解説している。 そして吉田は、〈何かの抵抗がなければ芸術作品は生れない〉というヴァレリーの言葉を引きつつ、「抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできない」とし、その点で作者・三島は、「一人の女が生きて行く上で完璧な条件」を実現したことになると解説して、「しかしそれを完璧にしているのは悦子自身の性格の強さなので、それだけ彼女は特異な存在なのであるが、この人物とその環境の取合せから起る生命の実感があまりに新鮮なので、個人的な特色などというものを我々は忘れてしまうのである」と、その構成の巧みさを説明している。 松井忠や富岡幸一郎は、現実世界から「拒まれた者」であった『仮面の告白』から、『愛の渇き』では、現実世界を「拒む者」へ移行していることを指摘し、富岡は、その悦子の行為と認識の距離に二律背反を見て、秋元潔は、「精神と肉体の葛藤」があることを考察している。 『愛の渇き』を初期の作品で最も完成度が高い長編だと評する田坂昂は、悦子は「外界にたいしては無限に受容的」であり、彼女の存在自体が「虚無であり無神」であり、その内部で育てた「幸福の観念」は、「幸福の固定観念」〈ロマネスクな固定観念〉にまで成長して、それにひたすら縋って悦子は生きていると解説している。そして「目的のない情熱」(虚無の情熱)こそが、「戦国のある武将の血をうけついだ末裔としての無意識の矜り」を持つ悦子の「幸福」であり、それは「実存的脱自にまでゆきつく漂白された情熱」だとし、三郎の背中を〈深い底知れない海のやうに思ひ、そこへ身を投げたいとねがつた〉悦子には、「超人間的世界への渇望」、「死への希み」にまで繋がるものがあると考察しながら、悦子が、鍬の刃先が自分へ向かって落ちてくる危険を空想する場面と、悦子の周りの「退屈な日常生活」を鑑みながら、『愛の渇き』には、戦中と戦後の状況変化をとらえているところがありはしないか」と述べている。 柴田勝二は、『愛の渇き』と、モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ(フランス語版)』を比較し、テレーズの「受容性」に対し、悦子の現実の受容性は自意識が強く、「自身と外界の違和を意識的に封じ込める」という対自的イロニストの面があることを考察し、そのアイロニーで外界に応じながらも、悦子は三郎には惹かれるという分裂した空無な存在であり、その空無化した情念が、『テレーズ・デスケイルゥ』の影響下にある自由間接話法的な文体で表現されていると解説している。 花﨑育代は、悦子が〈何も希はない〉、〈渇いてなぞゐはしなかつた〉人物として描かれ、第一章の冒頭付近から頻繁に出てくる〈何事もない〉という言葉が、最後の一行にも出てくることに触れ、これは、花田清輝が言及していた「絶望者といふものの凄惨な在り方」としての悦子の「平静さ」 の分析となるものを孕んでいると解説している。
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作品評価・研究
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雑誌『人間』に掲載された当時の評判としては、川端康成の友人でもあった横光利一がしきりに『煙草』を褒めていたとされる。しかしながら、この賞讃は三島の耳には届いていなかった様子で、他の文壇人からの論評も特になかった。そのため三島は、〈評判はといふと、まるで問題にもされなかつた〉とがっかりしている。 ただし、村松定孝は当時『煙草』を初めて読んだ時の衝撃を、「年少者に先きを越された歯がゆさ」、「しまったと狼狽した気持」だったと振り返り、「俺だって、こういうものを嘗ては書いてみたいとおもったこともあるのに、時代も不向きだというおもわくから捨ててしまって、……一生の不覚だったと、もう居ても立ってもいられないくらい取り乱した」と吐露している。 本多秋五には村松定孝が受けたような衝撃的な感動はなく、作者の三島が何を狙っているのか判定できなかったが、「素直な、虚偽の分子のない作品と思えた」と述べている。そして本多は、筑摩書房に三島が原稿を持ち込んだ時に臼井吉見がいくらか評価し、中村光夫が全く見向きもしなかったエピソードに触れつつ、戦後まだ無名だった三島に対してそうした見方が一般的だったろうとした上で、「無名の大学生三島の『煙草』を、あえて『人間』に推薦した川端康成は、さすがに新人発見の名人だけのことが、どこかあったのである」と述べている。ちなみに、川端はこの三島の『煙草』を推薦した2年後の1948年(昭和23年)5月号から、自身も大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)時代の同性愛的初恋の思い出を綴った作品『少年』を同誌で連載開始している。 三島没後の作品研究としては、「生命力の反逆の兆し」を看取しようとしている田中美代子の評価をはじめ、「学習院を背景とした精神的自伝」だとして、「大人への精神構造の変換と、同性愛が一本の煙草に微妙に象徴されている」と評価する長谷川泉や、「戦後耽美派」としての三島の側面から論考している山内由紀人と評価などがある。 山内由紀人は、三島の本格的な小説の出発点を1940年(昭和15年)11月執筆の『彩絵硝子』だとみて、「『彩絵硝子』の世界が戦後になってさらに洗練され、一つの文学的結実をみせたのが『煙草』」であるとしている。そして、『煙草』には「戦後耽美派」としての三島の側面が「最も理想的なかたちであらわれている」と評価した上で、「デカダンスな雰囲気、淫蕩的な気分と同性愛的な匂い、そして変身願望。ストイックな文体で描かれるその世界」が、のちの中井英夫の作品世界に通底しているとしながら、三島が述べた〈純然たる現代小説は、むしろ『彩絵硝子』から『煙草』への線上にある〉という言葉を補記して解説している。 その他の高橋新太郎は、末尾の段落の火事の眺めの描写表現を、「夢か現か定かならぬ境位の表現は、きわめて象徴的でもあり、美しい」と評価し、校内の森を散歩する場面にみられる〈静謐〉の感覚など、この頃の三島の初期作品(『花ざかりの森』など)に共通してみられる「〈静謐〉への志向」に注目している渡部芳紀の解説もある。 なお、『煙草』には異稿があり、伊村との後日談などが書かれた続きの原稿が存在している。その異稿には、春以後に伊村とすれちがうこともあったが伊村は手を上げ合図する程度の挨拶となり、「私」が4年生になった(伊村は高等科3年)ある初夏の日、森の中で伊村が1人のセーラー服の女学生と一緒にいるところを見てしまい、烈しい嫉妬に苦しめられる心理が描かれている。 ※上節と同様、三島自身の言葉の引用部は〈 〉にしています(他の作家や評者の論文からの引用部との区別のため)。
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作品評価・研究
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「青の時代 (小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『青の時代』は、三島の他の大作や問題作と比べると注目度は低く、小ぶりなものとなっているために相対的に評価はあまり高くなく、三島自身も失敗作だと認めている作品である。肯定的な論としては、「貴重な同時代の証言であり記念碑なのである」という日野啓三の評価や、「充実した〈生〉を喪失した戦後青年の自意識が自己の贋物性を自覚する過程」を書く作品意図を看取しつつ、「戦後の一時期の知的青春の姿」を鮮明に描いていると述べる磯田光一の評があるが、総じて、作品の完成度からの観点の評価は辛いものが主で、少年期から戦後の間を結ぶ6年間の空白と、それによる前半と後半の分裂を指摘する声が多い。 当時の文壇の評価も低めで、中村光夫は、前半の生い立ちの描き方はいいが、後半になると、「剥製みたい」と評し、臼井吉見も「同情よりも、ひどくひやかし半分にやっつけてしまってるという感じがする」と述べている。本多秋五は、「中途半端な作品」としている。 西尾幹二も、前半における「心理小説の典型」を思わせる生い立ちの分析が「性格悲劇」の序章として「ヴィヴィッド」で「新鮮」に描かれているにもかかわらずに、その明晰さが後半において徹底されておらず、「戦後青年の虚無感」という一般的な主題が混じり込んでしまっているとし、本来の主題であった「贋物の英雄譚」という「抽象的情熱」が埋没してしまい、「完璧な観念小説になり得ていない」と解説している。しかし、この作品の中に、「ふんだんに投げこまれているアフォリズムの切れ味」の良さが魅力的であると西尾は評し、三島が余裕を持って「縦横にシニシズムをたのしんでいる作品」だと評している。松本徹も、作品の出来不出来を越えて、その「野心的な若々しさ」が魅力的だとしている。 守谷亜紀子は、『青の時代』の当時の評価に否定的なものが多いのは、同じ「光クラブ事件」を題材とした北原武夫の『悪の華』や、田村泰次郎の『東京の門』などが、戦争の傷痕を負い、破滅的な人生に向う主人公の悲劇を「痛ましく」同情的に描いているのに比し、『青の時代』の主人公は、「滑稽で喜劇的」に描かれている箇所が見受けられるためだとし、北原武夫や田村泰次郎がもっぱら、「時代の悲劇性」に重点を置いているのに対し、三島は、時代性によらない人間の「本質的な〈生〉の問題性」を主題にしていると解説している。そして守谷は、三島が、悲劇性を帯びた自明のストーリーから「〈悲劇〉としての印象」をあえて取り去り、反対の意味を表現したり、逆に、資料にある卑俗性の挿話を真摯にアレンジしたりして、その底の真意や相対性を示そうとしている「アイロニー性」の構造を論考しながら、『青の時代』は、「人間性そのものまでも虚偽とする世界観が、悲劇と喜劇の混合の内に」描かれていると解説している。 柴田勝二は、『青の時代』でモデルが消化しきれていないという評価が多いのは、「山崎晃嗣という素材」に対して三島が、「取り込みつつ否定する二面的な距離の取り方をしている」からだとし、三島が山崎という「時代を生きつつ時代に生かされてしまった人間」を作中で造型する際、「この時代との密着を超克する方向性」をあえて付与しているため、「素材の生かし方が〈中途半端〉」だとする本多秋五の印象は、三島が「意図して仕組んだ属性」そのものであり、あえて「山崎に逆行する側面」を、三島が主人公・誠に「色濃く」付与していると解説している。 そして実際の山崎が「哲学的な知の権化」ではなく、「世俗的な欲望を多量に抱えた」青年であり、軍隊では物資の横流しをし、戦後の混乱で珍しくもなかった闇金融の「物欲の担い手」であったその反面で、「数量刑法学」の学究に意欲を持つという「清濁両面」の人間であったが、『青の時代』の誠には、そういった「多方面にわたる欲望を感受する体制」はなく、「物質的な欲望」が捨象されている人物造型となっている違いを柴田は指摘し、誠は山崎と異なり、「自己に複数の欲求を相互に相殺することによって、それらのいずれにも没入しまいとする人間であり、その主観の操作によって〈人々は生活を夢見てゐた〉と規定される〈1940年代の後半〉という時代と対峙しようとしている」と考察している また、前半で誠が、自発的な欲望で物事を決定しない性格に造型されている一方、「数量刑法学」の主張では、〈主観的幸福〉にこだわりを見せているといった、「観念的な主体としての〈主観〉」と、「外部の価値観を排する個的な実感としての〈主観〉」が野合されているため、『青の時代』の「不統一な印象」がもたらされていると柴田は説明しながらも、その両者は西尾幹二が言うような「別個のもの」でなく、誠は「矛盾をはらんだ存在」としてあり、「内面の指向性と無関係に外界の事象に惹かれてしまう傾向」が見られるとし、それは『愛の渇き』の悦子や、『親切な機械』の猪口と同様に、〈主観的幸福〉(主観的不孝)に敏感な傷つきやすい人間だと考察している。そして柴田は、後半での誠の行動は無目的でなく、山崎という実在人物を下敷きにすることで、「時代背景に裏打ちされた動機の層を濃密に備えている」とし、野口武彦が主張するような、「距離をもって現実世界を眺め下ろす視線に、(三島の)ロマンティック・アイロニーの表出」を見る解釈 に疑問を呈しつつ、以下のように論考している。 おそらく三島の意図は、時代の波に身を託しつつ、そこで超越的な自己を保持しようとする人物の像を仮構することにあっただろう。この時期の他の作品に当為としての「道徳律」を備えた人間を登場させているのはそのためである。けれどもそのためには『青の時代』の主人公はあまりにも外側の世界に動かされやすい人間であった。(中略)三島の内面を託された人物たちは、現実世界に距離を取ろうとしながら、我知らず外界に魅せられてしまうのであり、その不如意の分裂のなかに彼らは生きている。川崎誠の分裂が示しているものは、まさにその主観的な距離が外界の牽引によって崩壊させられるアイロニーにほかならないのである。 — 柴田勝二「跳梁する主観――『青の時代』論――」 山中剛史は、『青の時代』はアプレゲールによる「悪漢小説」でなく、主人公・誠は「金の亡者」でも、間貫一(『金色夜叉』の主人公)のような「センチメンタリズム」でもなく、そこに描かれているのは、金という紙束に何の価値すら認めていない「虚無に直面した青年の破滅譚」だとして以下のように解説している。 三島が、戦後の混乱と不安とに満ちた中での大層傷つきやすい孤独な青春を描いて、川崎にまとわせたのが合理主義という鎧であった。川崎の「合理は拘束する」という金科玉条である。他者から身を守るために誂えられたそれは、外界から身を守る代わりに己をも束縛する。外界から自己を律しようとすればするほど、ますますそれは川崎自身に自己統御のストイシズムを要求することになる。そこでは金も女も合理主義の要求する自己統御の証明としての意味しかないのであり、果ては自らの命さえも差し出すことになる。 — 山中剛史「『青の時代』――事件に定着させた自らの青春」
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『盗賊』は発表当時にほとんど反響がなかった作品で、敗戦直後の乱世の時代には「他愛のない“お話”」の人工的な物語としか見なされずに低評であった。個別作品論もほとんど無い傾向にあり、包括的な作家論の一端として言及される場合が多い。 武田泰淳は三島の自評の言葉を受け、「決して〈無慙な結果〉ではない」とそれを否定しつつ、「稚心などという単語と、これほど無縁な作品はない」として、小説技術である「作家が自己の精神を吟味し表現する操作に関して、豊富な手がかりを提出している点では、『仮面の告白』より大切な長編だとも言える」と考察している。そして『盗賊』は「やや神経過敏のため、肉色が蒼ざめたきらいがある」とし、論理、説明、主張、警句、才智である「骨」があらわとなっているため、「骨をあらわに示さずに、肉づきだけでよく骨格を知らせる」ようなツルゲーネフの『初恋』の域には至っていないが、「骨なし小説の多すぎる日本にあっては、多少骨のきしみが耳ざわりでも、三島氏の長編の骨格の正しさを尊重し宣揚したい」と評している。 磯田光一は、戦後直後の三島の中に「青年期の異性に対する喪失感と世代に内包されていた喪失感とが交錯」していたとし、「〈金閣と共に滅びうる〉という幸福」(完璧な愛の実現)が無くなった戦後の三島にとって、『盗賊』の主人公たちは、「三島の思いえがいた理想の生の形式」であり、過ぎ去った「〈愛〉と〈死〉との饗宴」を「人工的に構築しようとした作品」だと解説している。そして磯田は、『盗賊』の創作自体が「エゴイズム、ヒューマニズムの旗印をおし立てた戦後の進歩主義思想に対する、逆説にみちた兇悪な復讐行為」であり、「エゴイズムを抹殺する楽しさを描いた作品」だとして、「戦後の進歩主義思想の根底にあった〈有効性〉の観念への果敢な挑戦」だと考察している。 川端康成は、三島が最初の長編小説で、「恋人が結婚のその日に心中するといふ心理」に陥り、その作品を『盗賊』と名づけた創作意図に触れつつ、「自殺する二人が盗み去つたもの」は、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう」とし、以下のように語っている。 私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある。 — 川端康成「序」(『盗賊』) また、川端は、三島の作家としての将来について、「人生を確実にし、古典と近代、虚空の花と内心の悩みとを結実するやう、かねて望んでゐる」と述べながら、「『盗賊』のやうに青春の神秘と美とを心理の構図に盗み切らうとする試みも、三島君の歩みには必然の嘆きの呼吸であらうか」と評している。 なお、これらの川端の評言は、三島の中に「半歩間違えば、あちらの世界へ行ってしまう」ようなものを、川端が直感し、「脆そうな造花」は、三島を「生に繋げる細い細い糸」と見ていたと松本徹は解説している。この川端の文章は、その後の三島の作家活動や運命を暗示していたものとして、三島の死後、数多くの三島論で引用されている。
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作品評価・研究
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渡邊一夫は、『岬にての物語』初出当時の文芸時評において、「三島氏のふしぎなくらゐ幻想に充ちた字句の用ひかたも、その配列も、実に美しいものを持つてゐた」として、時折ランボーの詩を思わせると高評価している。 野口武彦は、『岬にての物語』を「戦争期に培われた三島氏の作家心情、その美学の主導動機をじつにストレートに語った小説」だとして、三島の投影である主人公の体験に、「まぎれもないロマン派的情動の初心」を見てとり、「〈死〉―〈夏〉―〈海〉」という三島文学の主題が、その後の作品に連なっていくことを指摘している。 田坂昂は、〈美〉と〈海〉と〈死〉という要素を鑑みながら『岬にての物語』を考察し、主人公が〈神々の笑ひ〉の中に見い出した〈一つの真実〉が、『花ざかりの森』で言及される〈秀麗な奔馬の美〉と同義であるとしている。 渡辺広士は『岬にての物語』の、「自己省察から飛翔への移行」(現実から夢想への移行)の構成は、「すでに少年の習作ではなく、物語として見事に組み立てられている」とし、その導入部における自己分析の明晰さを可能にしているのは、「〈私の本来のものなる飛翔〉への信頼というプリズム」だと解説している。そして「その〈憂愁のこもつた典雅な風光〉にふさわしい古典的な文体」で海や岬の自然が描かれ、作中の少女には、同じ三島作の『苧菟と瑪耶』の瑪耶と同じように、永遠のマリヤの面影があるとし、〈青年と少女の頬笑みには甚く相似たものがあつた〉というくだりには、「兄と妹の愛」が暗示されているという神秘化があると考察している。 売野雅勇は、『美徳のよろめき』以来、三島作品に馴染んできたと語りつつ、「主人公たちの耳にも聴こえる音楽」といえば、『岬にての物語』の「一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す」として、「聴こえない音楽を聴くことが、三島由紀夫の作品を読む最大の快楽のひとつになっている。言葉の音楽である」としている。 三島作品と接してきたが、主人公たちの耳にも聴こえる音楽といえば、即座に「岬にての物語」で海岸の断崖に近い草叢を歩きながら少年が聴いた、一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す。最初に読んだときから、少年が聴いたその音を想像するよりも、聴こえない音の方に想像力が働いた。陰画を光にかざして眼を凝らすおなじ身振りで、その失われた音に意識が集中してしまう性癖のようなものがこころのうちにあるのだろうか、――あるいは、そのように意識を誘導する意図のもとに書かれたものなのだろうか。 — 売野雅勇「言葉の音楽」 村松剛は、『岬にての物語』で主人公が遭遇する事件が、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの『死の勝利』を思わせ、少女が百合の花を摘む場面も似ていることを指摘し、三島の蔵書にも『死の勝利』があることから、三島が執筆する上でその作品への意識があったと考察している。 三島の『岬にての物語』の少女は清純そのものであり、相手の男も少女と「眼の涼しさを争」う青年であり、肉慾はここにはかげもない。『岬にての物語』は、いわば南国の富裕階級の倦怠感と肉慾とを捨象した『死の勝利』だった。媚薬もマルク王も介在しない『トリスタンとイゾルデ』、という形容も可能かも知れない。 — 村松剛「三島由紀夫の世界」 筒井康隆もまた村松の指摘を踏襲し、『岬にての物語』がダンヌンツィオの『死の勝利』の文体、描写、ディテールなどの影響を受けているとして、両者がどちらも、男女の情死を扱い、心中方法も断崖から海への投身である共通点を挙げている。しかし、『死の勝利』の方は無理心中であり、「世紀末の懐疑主義や頽廃」的な作品なのに対し、『岬にての物語』の方は、「極めてロマンチックなもの」で、三島自身がモデルである少年の眼で、美しい若い男女の情死行を、「日常のようになごやかに眺めている」と解説している。
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『海と夕焼』は、三島が自解で〈私にとつてもつとも切実な問題を秘めたもの〉と述べていたが、三島の死後もあまり本格的な論究がなされていない傾向にある。ちなみに三島は後年、『海と夕焼』を振り返って、「あの作品がもし、発表当時から正確に理解されていたら、それ以後の自分の生きかたも変ったかもしれない」と虫明亜呂無に語っている。 鈴木晴夫は、三島作品では〈海〉が多く描かれているが、『海と夕焼』の〈海〉は自然背景としての海ではなく、「人間の暗い情念を呼び醒ます黙示の役割を負っている」として、その〈海〉は真昼や暁の光り輝く海とは違う「神秘的な暗さ」を湛え、異郷の日本で回想して生きている老人にふさわしい〈海〉となっていると解説している。 佐藤秀明は、『海と夕焼』の〈奇蹟〉を、「現実が許容しない詩の幸福」(奇蹟を信じて疑わない〈詩〉の〈幸福〉)のことだとし、これは『詩を書く少年』での〈詩〉を紡ぎ出す時の〈幸福〉であり、「〈現実〉と相渉らない〈言葉〉の〈幸福〉」と同じだと解説している。そして、この「現実が許容しない詩」は、三島がしばしば〈人生〉と対比して〈芸術〉と呼び、〈小説固有の問題〉だと言っていたものだとして、奇蹟待望とその挫折を〈私の一生を貫く主題〉と吐露した三島が、『豊饒の海』に至るまでのあらゆる作品でこの主題を描いていることを指摘しながら、「三島の言う小説とは、人生(現実)と詩(「現実が許容しない詩」)との対立を含み、それを描いたもの」と論考している。 石井和夫は、『海と夕焼』の主題を、〈いくら祈つても分れなかつた夕映えの海の不思議〉、〈奇蹟の幻影よりも一層不可解なその事実〉にあるとして、その主題は『真夏の死』で朝子が最後に再び悲劇を〈待つ〉思いに通じるものがあると考察し、安里の語りの2年後に「文永の役」があることなども鑑みながら、安里が〈不思議〉の再来を待ち望んでいるとしている。一方、根岸一成は、安里の〈不思議〉に捉われ続ける姿に、「神の死せる世界で神を探し求めることの必然的挫折」、「絶対者不在の深淵に追いやられた虚無」を看取している。 田中美代子は、遠藤周作の『沈黙』の主題の転換(「あの人は沈黙していたのではなかつた」とした所)について三島が疑問を呈し、〈神の沈黙を沈黙のまま描いて突つ放すのが文学〉としつつも、別のエッセイで、〈「神」といふ沈黙の言語化〉こそ〈小説家の最大の野望〉だと吐露していた複雑な心理を挙げて、『海と夕焼』の主題について考察している。 近代の末世にあって、奇蹟などありえないのが当然の合理的科学的現実であるのに、なぜ人は飽かずに奇蹟を待望し、神の不在が自明なのに、神への祈りをやめることができないのか。それはただ、人間の絶望的な祈りだけが逆に神を証かす唯一の行為だという信仰の秘儀ではないのか? — 田中美代子「海と夕焼」 また田中は、この三島の〈一生を貫く主題〉が『豊饒の海』の第2巻『奔馬』の神風連の挫折にまで繋がっていくことに触れながらも、『海と夕焼』で注目する点として、「安里が、現実の失墜を経ながらも、再び現在の境遇に、慎ましいある安らぎを感じていること」を指摘し、三島作品の変遷を鑑みている。 執筆当時、三島文学は十全に開花して時代に迎えられて、作家生活は頂点をきわめていた。だが彼にとってはどんな地上の幸福も魂を癒すに十分ではありえない。呼べどこたえぬ神の似姿こそ耳もきこえず言葉も発せぬ、安里の傍らの無心な少年の存在であろう。 — 田中美代子「海と夕焼」 小埜裕二は、従来の論で〈海〉と〈夕焼〉が一対の取り合わせとして、主人公に過去の想起がなされていると捉えられていることにやや異論を唱え、2つが異なる概念を表わしているとして、〈夕焼〉は「奇蹟待望を抱かせる象徴」(キリスト教的世界観における「永遠」の象徴)で〈有限性〉を表わし、〈海〉は「奇蹟的世界へ誘いつつもそれを拒むもの」(仏教的世界観における「久遠」の象徴)で〈無限性〉を表わしていると解説している。さらに、西洋・キリスト教的世界観・有限性に対し、東洋・仏教的(禅的)世界観・無限性の時間の優位が示され、預言者が発した〈東へ行くんだよ〉という言葉もそれを暗示するものと考察している。 〈夕焼〉は終末という〈有限性〉のなかで最後の輝き(復活の後の永遠)をしめすキリスト教的世界観の象徴として理解できる。一方、仏教的世界観にはものごとには始めも終わりもないという縁起の考え方がある。マルセイユの〈海〉が示した沈黙は〈無限性〉を基とする仏教的世界観と響きあう。本作の結末においても、安里の回想終了時に〈夕焼〉が終わり「闇」とともに「梵鐘の音」が響く。その音は「久遠」へとすべてのものを導いていく。(中略)三島の解説「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議といふ主題」は、作中において「不思議」へのこだわりを消し去ろうと周到に用意された仏教的世界観の枠組みのなかで捉え返される必要がある。「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」を現出させるのも〈海〉であれば、「不思議」への思いを消し去ろうとするのも〈海〉なのである。 — 小埜裕二「三島由紀夫『海と夕焼』論:「不思議」を消し去るもの」 そして最後の少年の眠りが、「安里の回想への執着を相対化する役目」を担い、聾唖の少年の感覚がここで全て閉ざされている意味は、禅宗における「ものにこだわらない自由な精神」「無の境地」を示していると解説し、最後の場面は臨済宗の禅問答ともなっているとしている。また、少年は能のワキの役どころでもあり、シテの安里の語りは「死後の時点から生の時間を眺める夢幻能の回想形式」に似ていると小埜は述べている。 禅では忘れること捨て去ることが大切となる。とらわれのない心を禅は目指すのであり、そうした境地は仏教が説く諸行無常の教え、輪廻転生の教えが与えるペシミズムやニヒリズムを断ち切るものとなる。(中略)過去に体験した「不思議」を呼び返す山頂での安里の語りは、〈眼の少年〉に向けて語るところから始まった。〈眼の少年〉が安里に過去を引き出させるスイッチであったとすれば、〈眠る少年〉は安里を再び現在へ連れ返すスイッチとなった。 — 小埜裕二「三島由紀夫『海と夕焼』論:「不思議」を消し去るもの」 また小埜は、『海と夕焼』の翌年に『金閣寺』が発表された繋がりの意味を辿りつつ、『金閣寺』の終盤で、溝口が放火後に突然と究竟頂で死のうとすることに触れ、そこに「『海と夕焼』の語り手が安里の語りの現在の設定に際して秘かに示した奇蹟待望の祈念と同じもの」が読み取れるとしても、その三島の「延命せられた〈不思議〉の到来を願う思い」が重要な意味を帯びてくるのは後年の作品においてだとして、2作品が書かれた昭和30年頃の三島には、「〈不思議〉へのこだわりを消し去り乗り越えていく自信に満ちあふれていた」と考察している。 「不思議」の到来をもはや願わなくてもよいと言いうる枠組みを物語内部に構築しえた力業を、三島は奇蹟待望が不可避であることの告白以上に、戦後一貫して感受性の化け物をコントロールしようとしてきた努力の成果として読み手に理解してもらいたかったのではなかろうか。「不思議」へのこだわりをいかに制御するかが三島にとっての「切実な問題」であった。 — 小埜裕二「三島由紀夫『海と夕焼』論:「不思議」を消し去るもの」
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『夏子の冒険』は軽いタッチの恋愛コメディの娯楽小説として楽しめる作品で、冒頭から突然ヒロインが修道院入りを決意するという突飛な展開に特徴がある。少女小説や古典文学では、波乱万丈の運命に翻弄された末、ヒロインが世を儚んで修道院や尼寺へ入るという結末は珍しくはないが、『夏子の冒険』では「出家の決意」から物語が始まって結末へ向かっていくところに独自性がある。 夏子の願望は、『仮面の告白』の〈私〉や、『愛の渇き』の悦子の欲望を反復して発展させたものだと見ている千野帽子は、夏子が前半で見せていた「わけのわからないことをする人物」の魅力が中盤において、恋敵の不二子に嫉妬したりするなど、「わけのわかることをする女」となり、逆にミステリアスな不二子の方が魅力的に描かれるが、最後のどんでん返しで再び夏子が「わけのわからないことをする女」となり、「正→反→合」の作用を物語に与えていると解説している。 木村康男は、夏子が「熊狩りという冒険」に恋し、自身の情熱の対象が「〈ますらおぶり〉を喪失した男性にはないこと」に気づくという主題を解説しつつ、「恋の本質は冒険であり、冒険の終わる時に恋も終わる」としている。松本鶴雄は、「井田を見る夏子の眼に三島のロマンチシズムとイロニーが横溢している」と解説している。 十返肇は、『夏子の冒険』発表から約3年後に、「若く溌溂とした夏子の魅力」は、そのまま、作者・三島の魅力だとし、以下のように解説している。 死を決意した彼女の演ずる生への冒険を、三島由紀夫は心にくいまでにまでに巧みに描いてゆく。彼女をめぐる風変りな環境は私たちを笑はせ、彼女が燃やす恋の情熱は私たちを蠱惑する。原始的な風土の中で都会娘夏子は冒険の結果、生きる歓びを知る。若い女性の読者は、みんな自分の中に一人づつ夏子が棲んでゐることを痛感するであらう。そして、新しい青春の生き方をここに見るに違ひない。 — 十返肇「青春の生き方」 『夏子の冒険』は2000年代以降、村上春樹の『羊をめぐる冒険』(1982年)との関係性で文学的に論及されることも多く、佐藤幹夫は、村上が「熊をめぐる冒険」である『夏子の冒険』から『羊をめぐる冒険』を着想し、〈女秘書のやうなまじめな顔つきになつて拝聴〉する夏子に相当するのが、「耳のガールフレンド」だとし、〈導き〉という言葉や、今や村上の専売特許となっている〈やれやれ〉という言葉も、すでに三島がこの作中で使っていることを指摘している。 高澤秀次もまた、村上の『羊をめぐる冒険』は三島の『夏子の冒険』の「書き換え」であると唱え、大澤真幸も、高澤秀次の論を敷衍して、三島と村上の関連について論じ、「三島の自殺こそ、理想の時代の行き詰まりに対する、最も先鋭な行動である。このことを考慮すると、三島と村上のこうした繋がりは、実に暗示的である」と述べている。 大澤真幸は、夏子の〈冒険〉が、「〈植民地〉的なエキゾチシズムを誘う土地」である北海道に向けられることに着眼し、東京(の青年)に倦怠していた夏子が、修道院への旅の途上、仇討ちの青年に共鳴し、「逆説的な仕方で、冒険(理想)を発見」することを、「〈復讐〉というネガティヴな形態でのみ、理想が活きているのだ」とし、以下のように考察している。 したがって、青年が熊を倒したとたんに、夏子の青年への情熱は醒めてしまう。三島のこの小説は、すでに、理想を理想として維持することの困難を表現していると解釈することができる。この約20年後に三島は、実際に、理想の時代の破綻を自らの自殺をもって体現することになるわけだが、そこへと向かう問題意識は、この時点で、無意識の内に孕まれていたとも言えるだろう。 — 大澤真幸「不可能性の時代」 そして大澤は、村上が『羊をめぐる冒険』の冒頭の章「1970/11/25」で、三島事件を、〈我々にとってどうでもいいこと〉としてのみ言及していることについて、「無論、それは〈どうでもいいこと〉ではないからこそ言及されるのである」とし、主人公の〈彼〉が、二人の女性の死を契機に、やはり『夏子の冒険』同様、北海道への冒険に出ることを指摘しながら、以下のようにまとめている。 「我々はおだやかな、引き伸ばされた袋小路の中にいた」という表現が示唆するように、『羊をめぐる冒険』は、冒険の──理想主義的なユートピアの──不可能性をめぐる冒険である。この自己言及的・自己否定的な冒険の内容は、複雑をきわめるが、目下の文脈において重要なことは、小説のタイトルが暗示しているように、それが、幻想的でフィクショナルな冒険という形態を取っていることである。要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接にバトンを受け取るように小説を書き、三島の作品の中に孕まれていた可能性を徹底させることで、理想から虚構への移行を果たしているのだ。 — 大澤真幸「不可能性の時代」
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『恋の都』は娯楽的な恋愛小説でありながら、その背景には、国粋主義者だった青年が敗戦によりアメリカのスパイ要員となっていたという展開にも表われているように、戦後の日本とアメリカの関係性が色濃く随所に描かれ、ヒロイン・まゆみが、ホテルに監禁された楽団員・松原を救うため、〈口髭をたくはへ、いかにも正義派的〉な〈恰幅のよい〉米国人・マシュウズの威光を借りて事件を解決し、そういった自身のことを〈日本政府みたいな遣口〉だと考え、見返りをまゆみに求めたマシュウズの出方を、〈アメリカ人一般の例に洩れず、MSA式なやり方〉と思うなど、寓意が所々にちりばめられている。 こういった『恋の都』で描かれている寓意について武内佳代は、「帝国(西洋)と植民地(東洋)の関係がジェンダーの非対称性」として表象され、その挿話には、「GHQ撤退後の戦後日本がいまだ米国の植民地であることが前景化」されているため、「まゆみの貞操の死守」はまゆみの個人的な復讐劇を超え、「戦後日本における米国支配への抵抗そのものの寓意」と読解できるとし説明している。そしてそれは、『潮騒』の中で、新治が沖縄の荒波で船の危機を救った挿話に見られる寓意と同じだと武内は考察し、まゆみが下心のある米国人たちから処女を守りつつ、見事に賃上げ交渉を成功させた時の楽団員たちの反応(まゆみへの尊敬や信頼)に明白なように、「貞操の死守という占領国への抵抗こそ、彼ら敗戦国の男性を〈喜ばせ、元気づけ〉」、胸に五郎への「弔合戦」を続けるまゆみの「イマジナリーな領土では、いまなお戦中の天皇の〈法〉は命脈を」保ち、「いまだ戦争は終わらない」とし、『恋の都』は『潮騒』よりもさらに明瞭に、「純愛と天皇の〈法〉との連繋や、そうしたものと米国支配の影と対立関係」が描かれていると解説している。 そして武内は、〈五郎さんの肉体を抱きしめるやうに〉、その思想を抱きしめてきたまゆみが、〈フランク・近藤〉という米国スパイとなってしまった五郎と再会し、五郎への純愛との葛藤の末に、そのプロポーズ(「米国人男性に自らの性を奪われること」)を承諾したのは、まゆみの心中においては「〈日本〉の敗北」をも意味し、同時に、「〈天皇陛下への絶対の愛、日本人としての絶対の矜り〉という〈生きる糧〉を喪失し、本当の〈敗戦〉を迎える」とし、まゆみが結末で〈イエスですわ〉と返事をする場面には、「米国を受け入れて〈敗北を抱きしめ〉た当時の戦後日本の趨勢をそのまま透視することができる」と解説している。また、英語混じりで承諾したまゆみの態度には、「占領国」(男)「被占領国」(女)というジェンダーの配置の比喩にすれば、「米国の救済によって存続した、矛盾に満ちた戦後天皇それ自体の表象」に換言され、その承諾を〈感情をまじへないはつきりした声〉と三島が表現し、まるで交渉に臨んでいるかのようにまゆみに仮託させているのは、「まゆみの諦念」だけでなく、「作者の諷刺的眼差しをも滲ませている」と武内は考察している。 油野良子は、右翼青年の丸山五郎がアメリカのスパイに転向するという設定が他の三島作品にはなく、後の三島文学で描かれる「純粋右翼青年の悲劇」と一見違うようではあるものの、三島が『林房雄論』の中で〈右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である〉 と言っていたことを鑑みれば、「矛盾するものではない」と解説している。 田中美代子は、アメリカ人になることで辛うじて生き延びている丸山五郎は、姿を変えてその後の『鏡子の家』の深井峻吉や『奔馬』の飯沼勲に繋がる系譜の人物であるとし、三島が占領時代を振り返り、〈しかし占領時代が、青年の精神的成長に、今から考へると、或るおづおづした、不透明な制約を加へてゐたやうにも思はれる〉 と言っていたことを見て、五郎の生き方を「精一杯のこれが抵抗だった」と考察できるとしている。 そして作中の〈大東亜塾〉のモデルであろう「大東塾」について三島が〈終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた〉、〈神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に触れた行動である〉、〈剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた〉と述べていた『一貫不惑』 に触れつつ、田中は以下のように論考している。 大東塾は、「恋の都」の宮原大東亜塾のモデルになったものと思われるが、彼(三島)にとってそれは、〈西欧に対する日本の最後の果敢な抵抗〉 としての文明史的意義を有するものであり、〈日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に触れた行動〉 と考えられたのである。追い詰められた日本人の魂の抵抗――それはいぜんとして戦後の思想史の背後に隠されたままであった。敵はむしろ祖国の内部にあった。〈大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹殺するにいたつたのである〉 — 田中美代子「三島由紀夫 神の影法師――夢の疲れ――『潮騒』『恋の都』『につぽん製』」 千野帽子は、『恋の都』の中に込められていた「国家」と「処女」の帯びる意味は、現在の日本社会では様変わりしてしまったが、『恋の都』は今でも純粋に恋愛小説として楽しめるとし、作中に盛り込まれている当時の時事ネタや、〈ハニー・紙〉というトニー谷をもじったコンサート司会者のギャグや流行語などの風俗について触れ、「〈古くなった〉と思われがちな『恋の都』が、いまとなってはなんと愛おしく見えることか」と懐古している。また、帝国ホテルで行なわれるハロウィーン仮装舞踏会の場面で、まゆみが束髪と袴の明治の女学生に扮して優勝するという皮肉に触れながら、三島がそこで、「民主化なんて、しょせん敗戦を忘れるために」、「日本の〈世間〉に米国文化を植えつけているだけではないか」という「哄笑」が文脈を無視して聞えてきそうな場面だとし、「発表時期が近いだけで一見接点のなさそうな娯楽小説『恋の都』と戯曲『鹿鳴館』を並べてみると、明治の近代化と戦後の民主化との共通するトホホ感が、浮かび上がってくるではありませんか」と解説している。
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「女神 (三島由紀夫の小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『女神』は、一見通俗的な筋で展開するが、その深層にある主題は三島文学全体に関わる要素が含まれている作品である。当時の新聞評では、成功作とはいえないものの「作者のゆたかな空想力と才気は、だれも否定出来ないだろう」と評している。 奥野健男は、「日本的湿潤から全く隔離された、乾燥したふん囲気と論理は、矢張り新しい世代の先駆者として際立っている」と評し、作者の長所と短所がはっきりした作品だと解説している。 十返肇は『女神』の主題を、「物質のように堅牢な美の存在を確認しようとするもの」とし、それは「作者の観念の中にのみ存在する」と考察しながら、三島が、滅びゆく生命の中にではなく、生き続けてゆく生命の中に〈美〉の存在があると考えているとし、その意味で、三島の特質が顕現している作品だと解説している。 『女神』は初出誌では、激昂した周伍がピストルで俊二を叩きのめそうとして弾が暴発し、俊二を撃ち殺してしまうという筋書きとなっていたが、初版単行本刊行の際に大幅に書き換えがなされ、その改稿により、終結部が単に偶発的な外的事件によってではなく、ヒロインの「内的必然性の純化」によってもたらされることで、心理小説として、より完成度の高いものとなったと田中美代子は解説している。また田中は、三島が「まわりの選良たちを劇画化し、嘲笑するため」に、上流社会を作品の素材としたと考察し、馬場重行は、それを敷衍して、「上流社会の社交の中に自閉し、美を観念の中で変形させ、その歪んだ鏡に映る像に固執する周伍の醜さ」は、〈劇画化〉するため背景として巧みに機能していると解説している。 また田中美代子は、妻や娘を「生きた芸術作品に仕立てようとする怖ろしい審美家」の周伍には谷崎潤一郎がイメージされ、一方、彼女たちの人生を「体当たり」で「攻略しようとする破滅型」の芸術家には太宰治がイメージされるとし、男たちから独立して化身する朝子の姿には、両作家の方法論への三島の批評が重ねられていると解説しつつ、暗い家庭環境や不幸をくぐり抜け精錬・窯変して永遠の「美の彫像」となる朝子の姿には、作者である三島が分身的に移乗されていると考察している。 自然に介入し、人生を懐柔し、理想の鋳型にはめこもうとする芸術家。二人はそれぞれの仕方で夢想の城を築こうとして敗退する。それまで男たちのなすがままに教育されていた美しい生き人形は、このとき客体であることをやめ、意志をもち、敗北を踏みこえて雄々しく立ち上がる。不死鳥のやうに。……ここに三島文学の、両先輩作家へのささやかな方法論的批評が含まれているのだろう。 — 田中美代子「三島由紀夫 神の影法師――女人変幻――『沈める滝』『女神』『幸福号出帆』」 磯田光一は『女神』の主題について、周伍の芸術家の情熱を単に「非人間的」と捉えてしまうのは容易なことで、「人間性という名の無定形のものに理想の様式を与えようとする願望は、だれの心にも多少は宿っている」とし、〈文化〉は〈自然〉と対立し、「〈自然〉を否定・克服したところに成立するもの」であり、「女性美の創出と理想化も、人間の反自然的情熱の所産」だともいえると考察し、「女を“女神”になるようにつくりあげるということは、女を不可侵の存在にしてしまうことであって、じつは奇妙なことに女の本質とは矛盾してしまうことなのである」と解説している。 そして朝子が、〈パパが教へてくれたのは、心の形骸の生活の作法だけだつたんだわ。しかもそれが今の私の、唯一の支へになつてゐるなんて、本当に妙だこと〉と思うのは、その女としての「ディレンマの告白」であり、朝子は、斑鳩一と婚約者・俊二との「心理的な絆を断ち切られる体験」を経ることで、「人間の悲劇や愛慾などに決して蝕まれない、大理石のやうに固く、明澄な、香はしい存在」に化身すると磯田は説明しながら、以下のように解説している。 人間界を超えて“女神”に化身するという主題は、日常性を超えた大理石の彫像のような美に、現実の人間以上の意味を与えるということである。芸術家にはつねにそういう願望があるであろうとし、芸術作品は人間界を超えているといえばいえる。しかし「芸術」の絶対美からみれば「人生」は卑俗であるかもしれないが、逆に「人生」の側からみれば「芸術」にとりつかれた人間は社会生活の不適格者にならざるをえまい。 — 磯田光一「解説」(文庫版『女神』)
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『白蟻の巣』は三島が書いた初の長編戯曲であるが、総じて高い評価がなされている。 福田恆存は、「三島氏の小説と同じ水準に達した作品」と高評価をし、北原武夫も、「三島君はこの作品で初めて戯曲を書いたと思うんです」と述べている。吉田貞司は、「小説に劣らぬ豪華なモラルの開花を見せてくれた」と評し、ヘンリー・スコット・ストークスは、「この作で三島の劇作家としての地位は確立された」としている。 荻久保泰幸は、〈白蟻の巣〉とは「安直な人道主義や世俗的美徳にむしばまれて真に人間的なものを喪失した状態の象徴」であり、やがてその後、世人が気づく「戦後民主主義がもたらした精神的頽廃やマルクーゼのいわゆる寛容的抑圧の象徴」でもあるとし、「戦後10年という曲がり角における反時代的考察」がなされている作品だと解説している。越次倶子は、荻久保の論を敷衍し、〈白蟻の巣〉とは日本の国の象徴であり、「戦後十年にして、白蟻の巣を見てしまったところに、予見者三島の悲劇がある」と解説している。 佐藤秀明は、寛容な刈屋義郎の内実の無気力と倦怠感を、執筆当時(昭和30年代)の三島の「空虚感」に裏打ちされたものとし、それは『鏡子の家』の鏡子が担う「空虚な中心を形成する役割」に通じ、贅沢な社交場の〈鏡子の家〉が実は敗戦後の廃墟に通じているのと同様、刈屋邸の食堂もそうだと考察している。 山中正樹は、佐藤の論を敷衍し、三島が『太陽と鉄』の中で、自身の〈言葉に蝕まれた肉体〉を、〈白蟻に蝕まれた白木の柱〉に喩えて、自身の言葉と〈特攻隊の美しい遺書〉を対比させていることを鑑みて、三島の様々な作品の〈言葉と肉体〉、〈認識と行為〉という「根本問題」に関連した主題として論究することも可能だと考察している。 また作中で、刈屋義郎が〈生ける屍〉、百島健次が〈古い死んだ鼠〉など、啓子以外の人物はすでに〈死人〉と表現されていることに、「散華することができずに生き残った」三島の〈絶望と幻滅〉が看取できるとし、刈屋夫婦が渇望しつつも拒否されている〈太陽と大地〉の意味も、三島が、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉と語っていたことから、「三島が終生求め続けていたもの」は何だったのか、〈白蟻の巣〉とは何なのかを含め、三島が敗戦から自決に至る過程において、『白蟻の巣』の位置づけを考察する方法もあると山中は解説している。
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『愛の疾走』は、登場人物の関係図も『禁色』の配置と類似したものが見られ、小説家の大島十之助が青年の田所修一に目を付けて、裏から観察して操ろうとするところや、大島夫人を修一の庇護者として配置させているところなどにも共通項がある。また、読物として娯楽的な趣向の中にも、三島の人生観や文学観がさりげなく書かれており、最終章には、〈かういふ天才は若死するのが普通だが、四十七歳になつてまだ生きてゐるところを見ると、何事にも例外といふものはあるらしい〉などという意味深な文も散見される。 清水義範は、「三人称」で進行する通常の章に間に、登場人物のうちの3人が「一人称」で語る章が入れ込んでいる点に着目し、その普通の小説には見られない形式を、「これだけでも、ちょっとした実験である」と述べ、その人称違いの章を、うまく書き分けるだけでもかなり難しく、それを、「破綻なく小説の中に組みこむのは至難の技である」と解説している。 また清水は、主人公2人と、彼らをモデルに小説を書こうとする作者と、作者の思い通りになりたくないと考える主人公という、「メタ・フィクション」的な複雑な二重構造について説明しながら、「どう考えてもこれは、三島由紀夫にしては軽い通俗恋愛小説なのだが、この構造を持っているところが只物ではないわけだ」と述べ、例えば、小説のヒロイン・美代が作者・大島を意識し、「くそっ、作者が私を観察してやがる、と思う登場人物の心理」を、「ゾクゾクしてしまうところ」だとして挙げて、以下のように評している。 こういう手はほかにはあまり見たことがない。うまいものです。そういうきわどい遊びをやりながら、物語は最後までよくできた恋愛物として成立している。うまいと言えば、風俗や時代性の取り入れ方も見事なものである。都会と田舎の問題、時代の変化という社会性までもが、実に巧みに組みこまれている。素直に脱帽するしかない。 — 清水義範「二重構造小説のたくらみ」 横尾忠則は、三島が随筆『ポップコーンの心霊術―横尾忠則論』の中で、幼い頃に便所で見ていた片脳油(樟脳白油、防臭殺虫液)の壜のレッテルについて回想している以下のような箇所を引きながら、この『愛の疾走』という小説が、登場人物・大島十之助が書いている小説だという「入れ子構造」になっている点に触れて、三島の「モノマニアックな趣味」が導入されているとし、そこがこの小説に「不思議なマジカルな空間を張り巡らしている」と評している。 片脳油のレッテルには、子供にとつて最大の宇宙的無限の謎を誘起する。当時はやりのデザインがあつたかもしれない。それは、人が何か手にもつてゐる図柄の中に、又、人がそれを持つてゐる図柄があり、その中に又、人がそれを持つてゐる図柄がある、といふ無限小数的なデザインである。さういふ、悲しくなるほど永遠に遠ざかり深まつてゆくものを暗示したデザインこそ、あの糞臭と片脳油の匂ひのなかで鑑賞すべきものであつたのだ。 — 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」 また横尾は、主人公の修一と美代が、小説家・大島の策略の思惑から逃げてやろうと企むところは、作者・三島自身が様々な小説を執筆中、思惑通り登場人物が動いてくれず、彼らが独自の行動をし始めるという体験を、図らずも告白してしまっているようだと考察している。そしてこの小説の「最大の見せ場」は、この「十之助の小説の題名」を、「三島由紀夫『愛の疾走』」と、三島自身が「パクって」しまうところだとし、それを、「歌舞伎の舞台で三島由紀夫扮する大泥棒の石川五右衛門が大見得を切ったように思える」と喩えて、そういった三島の遊び心やおちゃめな性格が垣間見られ、同じ小説家の大島十之助という登場人物を弄ぶところが面白いと評しながら、それは、三島の大嫌いな「想像力の欠落した私小説作家をカリカチュアライズして皮肉っている」と説明している。
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『夜会服』は作品全体としての評価はあまり芳しくなく、娯楽小説として分類されているが、登場人物の心理の描写力は評価されている傾向がある。 松本鶴雄は、『夜会服』を「上流階級を扱った心理葛藤劇で、所々『クレーヴの奥方』を思わせる光った描写もあるが、全体はメロドラマの通俗小説」と評し、鈴木靖子は、「人物の心理的葛藤が巧みに描かれているが、カタカナ外国語が随所にみられ、括弧付きの解説が施されていて、それが文章に生硬な感じを与えているのは否めない」と述べている。 篠田一士は、登場人物の描き方や扱い方に見られる三島の「劇的才能」を評価し、特に最後の花山宮妃の登場を、「作劇術で、デウス・エクス・マキーナという、便利だが、きわめて危険な方法」と解説し、演劇の演出と関連させている。 田中和生は、「勤勉な作家」であった三島を、「敗戦後の日本が焼け跡から回復して高度成長を実現し、〈東洋の奇跡〉と呼ばれる戦後復興をなしとげたことを思わせるようなきまじめでひたむきな勤勉さだった」と表現し、それは明治期の森鷗外さながら、「敗戦後の日本に生きた三島由紀夫はおそらく自分が原稿用紙に記す一字一字が戦後日本をつくりあげていくという使命感をもっていた」と述べ、そんな三島の「勤勉さが惜しげもなく注がれた純文学としての短編や長編」の次に、21世紀において新しい読み方が期待されるのが、三島が純文学の余剰に気軽に執筆した「娯楽小説」かもしれないとして、『夜会服』もその一冊だとしている。 そして『夜会服』の〈俊男〉は、母の〈滝川夫人〉の生き甲斐である〈夜会服〉の世界(日本の近代化を象徴する場)に批判的で、〈絢子〉との結婚を機に、そこから自由になろうとしているが、「近代そのもの」から逃れることは不可能であり、〈俊男〉の「どこか虚無的でありながら近代社会における万能の力をもっているように見える男性の魅力は、日本の近代化の矛盾を体現するかたちで造形されているところ」にあり、〈俊男〉の万能は西欧文化を模倣した世界で得られたもので、彼自身がその〈夜会服〉の世界(建前としての日本)における「本音を奪われたロボット」を意味していると田中は説明し、こうした〈俊男〉の人物造形には、「三島由紀夫の自己イメージ」が投影され、三島は〈俊男〉を描きつつ、「戦後日本という〈夜会服〉の世界から出ることができず、本音を隠して建前をなぞるかのように生きざるをえない自らの存在の悲哀を深く感じていたかもしれない」と考察している。 また、そうした「現実的すぎる悲哀を和らげる場面」が、世界で翻訳されうる三島の純文学では書かないような造形方法で、西欧人たちが「醜悪で滑稽なもの」として描かれているところに散見され、彼らが一様に「欺瞞と耐えがたい特徴をそなえた人物たち」となっているのを田中は指摘し、さらにもう一つの「現実的すぎる悲哀を和らげる場面」は、物語の末尾で〈俊男〉と〈絢子〉を救い、「〈俊男〉の本音を聞き届けてくれる〈宮様〉の存在」だとし、以下のように解説している。 そこにはおそらく、戦前の二・二六事件と敗戦後の人間宣言によって昭和天皇に対して生涯屈折した感情を抱きつづけた三島由紀夫が夢想した、戦前から戦後へと変わらずにつづく近代化という建前を強いられる世界において日本人の本音を守ってくれる天皇という、理想的なイメージが投影されている。こうした本音をさらけ出した心の避難場所を愛すべき娯楽小説のなかにつくりながら、現実に三島由紀夫が辿りついたのは1970年の割腹自殺だった。「俊男」とその孤独を理解する「絢子」の「愛」が成就される『夜会服』の甘すぎる末尾がわたしたちに突きつけるのは、そうしたひとりのすぐれた作家を自死させてしまった日本の現実に欠けていたものはなにかという問いである。 — 田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」
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『をはりの美学』は、日常的に女性が関心のある話題を題材にして、その〈をはり〉をユーモラスに軽い文体で綴ったもので、若い女性向けの人生や恋愛の手引書的な趣のあるエッセイであるが、その中には三島の本音が垣間見られ、随所に死に方についても語られており、「男の美学」も盛り込まれている人生論となっている。 荻久保泰幸は、「三島一流の皮肉・警句を適当に糖衣に包んだ行間に、現代社会への怒りが噴出している」のが、〈満天下の青年男女よ、一日も早く動物を卒業して、日本文化の本質にかへりたまへ〉と三島が言うところに見られるとし、さらに、「笑いやくすぐりをふりまきながらいかに生きるべきかを語っているようにみえて、実はいかに死ぬべきかを語っている」と解説している。 中野裕子は、三島が〈芝居のをはり〉の中で、〈人生のをはりと芝居のをはり〉を比較しながら、芝居の成功の後の幕が下りた舞台に立つ劇作家としての自身の感慨を〈何か人生の大きなガランとした虚無とつながつてゐる〉と語るくだりは、三島が創造した芸術作品と、実生活の虚無との関係が暗示されているとし、〈童貞のをはり〉の中で、性交の後に雌に食い殺されるカマキリの〈雄の宿命〉や、特攻隊が死の前夜に女を知る例えから〈男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ〉と語る論理は、三島が影響を受けた「バタイユ的エロティシズムの形」(生と性と死を結ぶもの)であると解説している。
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『反貞女大学』は、〈反貞女〉とはどういうものであるかを、その条件などを考察して面白く説いたエッセイであるが、同時代評としては、〈貞女〉観に縛られていた「動脈硬化」的な女性たちの肩を揉みほぐすような意図として受け入れられ評価されている。 田中美代子は、三島が終始一貫し、「見えざる婦徳にしばられた貞女たちに対して、できる限りリラックスして夫の呪縛を放れ、精神的な自由を獲得し、活きいきと生活をたのしむよう」に教授していると解説している。なお、『反貞女大学』が執筆された同時期には、小島信夫の『抱擁家族』などが発表され、夫婦関係が文学的にも社会的にも話題とされていた背景があると広瀬正浩は解説している。 ちなみに三島は、産経新聞連載第32回目の「第11講 同性学{2}」に筆者によるコメントとして、〈連載の途中から突然あらはれるといふのは、気の利かないお化けみたいな出方で恐縮〉としながら、以下のように述べている。 わけても、この万事正道をゆく「反貞女大学」のうち、もつとも逆説的な「同性学」の講義の途中から入つてこなければならない方々は、めんくらつてばうぜんとされるのではないかと心配します。しかし、どうか、講師のいふことにしばらく静かに耳を傾け、教室でドタバタ足を踏み鳴らすやうなことはないやうにお願ひします。日本全部がとりすましたPTAムードへ傾いていかうとするとき、私だけは「反貞女大学」の名のもとに、何とか退屈な常識に足をとられないやう、そして笑ひながら人間の真実を語るやう、これ努めてゐる良心的講師をもつて、自ら任じてゐるのです。 — 三島由紀夫「新しく読まれる読者に」
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『葉隠入門』は、三島の美意識や思念を知る上で重要な随筆の一つであるが、同時代評でも「三島文学入門」の書であると林房雄が評し、村上兵衛も、三島らしい見解が表れているとみなしている。山本太郎は、「死と凝視」「生の尊厳」が書かれていると解説している。 野口武彦は、三島が『葉隠入門』の中で〈このいはゆる戦後文学の時代は、わたしに何らの思想的共感も、文学的共感も与へなかつた。ただ、わたしと違つた思想的経歴を持ち、わたしと違つた文学的感受性を持つ人がちの、エネルギーとバイタリティーだけが、嵐のやうにわたしのそばを擦過していつた〉と述べていることに着目し、「(三島が)その時代を否定するために作家として時代と関係した」と考察しながら、その唯美主義的あるいは反語、逆説的な作品世界で現実と対峙した三島が、「自己の異端者的な〈エステティック〉に固執することで時代を否定し、その否定において〈連続性〉と〈論理的一貫性〉(すなわちモラル・アイデンティティ)とを堅持した」とし、三島を「勇敢な〈否定的なものの形而上学的騎士〉だった」と、キルケゴールの表現を用いて解説している。 山本常朝の『葉隠』を、「戦国戦士の死にぞこないが、天平な世にその失われたユートピアへの哀切な憧憬を託した倫理書」だとする橋川文三は、三島が剣道五段を取得し、〈剣道七段の実力〉を目指す姿勢に、『葉隠』で説かれる作法と「三島のダンディズム」の共通性を見て、「様式化された倫理への哀切なあこがれを示すもの」とし、三島がアンケートで「あなたが欲しいもの三つ?」と問われ、〈もう一つの目、もう一つの心、もう一つの命〉と答えたことの背後に暗示される「ロマン的な変身への熱情、世界崩壊へのいたましい傾倒」を、「『葉隠』の倫理と相補関係をなすもの」だと、1964年(昭和39年)時点で考察している。 そして橋川は、三島が『林房雄論』(1963年)において示した「歴史との対決」の姿勢が、「晩年の芥川龍之介に似た場所」あるいは「明治終焉期の森鷗外」の境遇に通じるものかは予測できないとしながら、それはむしろ『葉隠』の中の「一種透徹した恐怖感」を湛えている一節を引いた方がいいとし、〈道すがら考ふれば、何とよくからくつた人形ではなきや。糸をつけてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、言語迄も云ふは上手の細工なり。来年の盆には客にぞなるべき。さてもあだな世界かな。忘れてばかり居るぞと〉という現世の幻を説いている部分との共通性を見出している。 田中美代子は『葉隠入門』を、三島が「現代社会の病根を深く洞察、診断し、身をもってその打開に心を砕いた、体験的、臨床的な処方箋」、「万人にとって最後の現実である『死』を凝視」した書物だとし、その現代文化の特徴を、「従来まで人々を人生に向かって鼓舞していた様々な幻想が(どんな理想も規範もイデオロギーも)ことごとく潰え去ったこと」、「かつてモラルの基礎を形成していた絶対の観念が失われ、人間はすべての意匠を剥ぎとられた等身大の、赤裸かの、即物的自然的な生命に直面することを強いられている」ことだと説明しながら、そのことが「現代社会を侵している救いがたいニヒリズム」の原因であり、「人生いかに生くべきか、というかつての求道的倫理的な問題」の代わりに、「日進月歩する科学的な生活改良や健康法や姑息な処世の技術」といった「瑣末な日常生活への関心」ばかりになってしまった現代は、「博学多識と、細分化された『ハウツウもの』の全盛時代」だと田中は三島の言わんとすることを敷衍しながら考察している。 さらに田中は三島が、「われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ」と言ったことを受け、実際のわれわれの「生活自体への関心」は結局、「利殖と保身と享楽の追求」に終わり、「与えられた『生の哲学』によって十全に人間性の自然を解放し、富益を求め、奢侈と飽食と放埓に身をゆだねたのちに、やがて等しく老衰と死にきわまる運命にさだめられて」、「生とはついに死に到る不治の病だとすれば、病んでいるのは『生の哲学』そのものだ」と言えなくもないと考察しつつ、「民族、国家、社会」などの一つの「共同体」が、他文化の侵蝕を受けた場合に、「人々の生活の支柱をなしていた掟や慣習がすたれ、道徳的精神的に荒廃して、その共同体は徐々に崩壊、解体してゆく」という現実を考慮すれ、人がそれぞれの、「生の充実」にいかに励んでも、「生それ自身の自壊作用をくいとめる手立てがありえない」とし、そういった近代の合理主義的人文主義偏重の危機を『葉隠入門』の中で示唆していた三島は、「敗戦後の日本人の魂の危機と『生の哲学』の行きつく果てを、いち早く予言した」と解説している。
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『第一の性』は、女性にとって謎の多い男性的な原理の解明を平易な文章で、分かりやすい例を挙げて説明しているエッセイであるが、〈男らしさ〉が女性から見た理想的男性像ではなくて、元来の本質を含めての〈男らしさ〉であることを女性たちに問いかけていると中野裕子は解説している。 奥野健男は、『第一の性』を書いた三島について、「齢毎に若くたくましい男性になって行くようだ」として、以下のように語っている。 十七年前はじめて会った時は、貧血症の青白い顔をした、ハンサムではあったが、髪を七三にわけた柔弱な文学者であった。しかし無名の学生であるぼくに、おたがいに筒っぽの書生として交際しようなと、男らしいこまやかな心づかいを示してくれた。その頃は腕角力しても負けはしなかったのだが、ボデイビルや剣道や自衛隊で鍛えた最近の彼には、口惜しいけれど中年肥りのぼくはかないそうもない。自らの哲学に忠実に不屈の意志で文武両道の達人に自己をつくりあげた胸毛の三島は、精神的にも肉体的にも今や男性中の男性の「第一の性」にふさわしい爽やかさとりりしさを体顕している。 — 奥野健男「男性中の男性」 田中美代子は、三島が『第一の性』の中で、〈男は一人のこらず英雄であります〉と教授していることに触れ、この〈一人のこらず〉というところが重要だとし、それは「たとえそれが潜在化しているとしても、〈男はとにかくむしように偉い〉」のでなければならず、「彼の個人としてのプライドの問題」であり、お互いに男同士がこれを尊重しなければ、「男は男として自立しえない」ということを意味していると解説している。そして今やこの「男の英雄性」は、「女性の平等主義に踏みつけられて泥にまみれ、そのため、セクシャルハラスメントなどに内攻して、反動化しているのかもしれない」と考察している。 また田中は、三島の言うように男の〈英雄ごつこ〉は、世界の政治・経済、思想や芸術、哲学や事業を生み出した元で、それが善かれ悪しかれ、「男性の築き上げてきた文化の本質であり、ボーヴォワール女史をして、甘んじて自から女性を〈第二の性〉と呼ばしめたところのもの」だと考察しながら、それゆえ、女性が「性差別」をなくすことに躍起になり、「男性の男性なるが故に突出する奇癖や、精神的偏向を撲滅しようとばかりするのは、ある意味の暴挙というべきかもしれない」とし、『第一の性』は、そういったことの「反省」を女性に促し、「女性の理解と寛容を訴えている」と解説している。
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「サーカス (小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『サーカス』は、団長の心理に焦点が当てられ、少年と少女の心理描写はないものの、その童話風の人工的な作風がサーカスの世界と相まっているため、概ね好評を得ている作品である。渡部芳紀は、「〈危機〉〈死〉、こころの〈かがや〉きへの憧憬を語った小品」と解説している。 村松剛は、三島の初稿執筆当時の「召集をまぬがれて、帰って来たばかり」の心境を顧慮し、「令状はまた来るかも知れなかったけれど、ともかくもしばらくの猶予を得たという解放感が、『中世』にくらべればスタイルの上ではるかに明るい童話風の物語へと、三島を導いたのだろうか」として、即日帰郷前に遺書として書かれた『中世』と比較考察し、また、〈少女〉には、その当時に三島が心を寄せていた三谷邦子(三谷信の妹で『仮面の告白』の園子のモデル)が投影されていると見るのが自然だとしている。 K子嬢への慕情は、前年の秋いらい彼の心の中に根を降していた。手紙のやりとりはこの段階ではまだ少かったにしても、その脳裡に影を落す少女はほかにはいなかった。『サーカス』はK子嬢を思い浮かべながら書かれた、と考えるのが自然だろう。べつの角度からいえばK子嬢という実在の恋人もまた、三島は童話中の一人物にしてしまった。『サーカス』の少女は、眼下に横たわる少年の胸に緋色の百合の紋章を見たとき、「王子」に殉じて死へと跳躍する。貧しい少年少女は「王子」「王女」として死に、そのことによって二人の恋は気高く完成されるのである。三島由紀夫が作中の曲馬団長とともに夢みたのは、生をこえたところに輝く愛の姿だった。 — 村松剛「三島由紀夫の世界」 小埜裕二は、団長の〈大興安嶺〉での経験と、最後の〈俺もサーカスから逃げ出すことができるんだ。「王子」が死んでしまつた今では〉という台詞を検討しながら、三島が即日帰郷直後に初稿を書いていたことを考え合わせ、三島の「戦争に抱いていた死のイメージと即日帰郷で取り残された体験の形象化」が団長に重ねられているのではないかとして、三島文学における『サーカス』の重要性を考察している。 興安嶺での同時代の若者の死とそれに取り残された団長の構図は、三島が戦争に抱いていた死のイメージと即日帰郷で取り残された体験の形象化ではなかつたか。(中略)即日帰郷の後、夢想の王国の破壊を「サーカス」で宣言した三島は、終戦以前から、すでに空虚な気持ちをいだいたまま、戦後のスタートをきっていたことになる。 — 小埜裕二「三島由紀夫の即日帰郷――『サーカス』論」 井上隆史は、2005年(平成17年)に発見された三島の「会計日記」が、三谷邦子が別の男性・永井邦夫(永井松三の息子)と結婚した1週間後からつけ始められ、『サーカス』の完成を記してその脱稿日で終っていることと、三島が三谷邦子と偶然再会したことを記したノートに書かれていた今後の執筆方針(自伝小説に向けて過去の幼年・少年・青年時代の自作や資料を再読して総括に着手する抱負) に着目し、この時期に「精神的危機」に陥っていた三島がそれを乗り越える打開策を探っていたことを検討しつつ『仮面の告白』の成立背景を探り、『サーカス』の初稿から決定稿への改稿の変容に、『仮面の告白』に繋がる前駆的な小説方法を考察している。 井上は、初稿では、出奔する少年と少女と、サーカスの火事という2つの結末があることで焦点がぼやけてしまっていることを意識した三島が、「悲劇的な死という一つの結論にすべてが収斂するように、ストーリーを組み立てなおした」とし、決定稿は初稿に比べて「格段に素晴らしい出来栄え」となったと評しつつ、そうした書き直しを通じて三島が「一定の秩序に従い、物事を一つの焦点に向けて引き絞らなければならない場合がある」ことを学んだとして、『サーカス』の位置づけを解説している。 「サーカス」を完成させた段階で、三島は次のように考えたのではないでしょうか。幼年時代の、さらにはそれ以降の資料を再読し、これを一定の秩序に従って書き直すことによって、自分の存在全体を正面から捉え直すような自伝小説を書きはじめたい。そうすることによって、精神的な危機を乗り越えることが出来るのではないかと。 — 井上隆史「新資料から推理する自決に至る精神の軌跡 今、三島を問い直す意味―『仮面の告白』再読―」 田中裕也も、初稿から決定稿に至る改稿について、井上隆史の考察と同様に『仮面の告白』の構想の影響を論考している。また、その改稿の変化には、戦後のGHQによる検閲を三島が考慮したのではないかともしている。 中元さおりは、小埜裕二の論の時点ではまだ初稿と決定稿との異動が詳らかでなかった点などに言及しつつ小埜の見解とは違った視点で考察し、即日帰郷直後に書かれた初稿での少年少女の汽車での出奔場面には、即日帰郷を告げられて入営検査の場所(本籍地の兵庫県)から父親・平岡梓と逃げるように東京行の汽車に乗って帰った時の緊迫感や、「移動の行為と重なるもの」だとし、夜間空襲(日本本土空襲)にさらされる戦時下の東京で「破滅思想」を秘かに抱きながらも、小説を書いていくという三島の「新たな生」への志向性が反映されたものだと論じている。 そして中元は、決定稿では2人が死ぬ結末に変化することについて、『仮面の告白』との関連や〈殺される王子〉のモチーフとの接点を考察する井上隆史や田中裕也の論などを敷衍しつつも、『サーカス』の2種の稿自体に内在する「官能性」の変容の問題をより重視して、決定稿では2人の「生」への逃走劇が省かれ、その出奔が「死」への要因として組み込まれて、少年と少女の直接的な「異性愛的な官能性」からリアリズムを排して「虚構性」が高まり、団長の観念的な物語の同性愛的な視点に変容していることを解説しながら、「虚構性を担保することで、同性愛的な官能性を一つの叙情性に富んだ美的世界として完成させようとする(三島の)意識」が推察されるとしている。 田中美代子は、初稿からの決定稿の全体経緯を検討しつつ、「サーカス団をめぐる、妖しくも心蕩かすくさぐさの挿話」の中から、決定稿が「ひときわ選りすぐられた、哀愁あふるる、その顚末記となった」として、その破局に至る作品主題について、同世代の特攻隊の痛ましい死を見ていた戦争末期の三島の状況と照らし合わせて、「祖国の屋台骨がゆらぎ、その瓦解を目前に」していた頃や、敗戦間近から〈冒瀆〉され出した特攻隊への思いを、〈一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない〉 と綴った終戦4日後の三島の随筆との関連で考察している。 悍馬から振り落とされる少年、大天幕の一角から落下する綱渡りの少女、サーカス団の終りを演出する団長とその腹心、その来歴、その憧憬、全存在を賭けて破滅へとなだれゆく至上の興奮、……このとき観客もまた声を合わせ、〈きちがひじみた嗚咽をあげて喝采〉する。(中略)挙国一致の、祭りさながらの大悲劇。それは、目交いに繰り広げられつつある、祖国壊滅のシナリオでなくて何だったか?(中略)少年たちはある日垣間見た天空の奈落を、次々と蒼穹に吸い込まれていった仲間たちを、忘れることはできないだろう。それがあってこそ、〈たゞ我々の所在の只ならぬことを知り、自己が軈て容易ならぬ開花を遂ぐべき植物の予感に似たものを感じた〉 のであり、〈我々は非業な、冒瀆的な、自己に決定権をもたらしめる詩人のメカニズムについて思考しはじめた〉 のだから。それは断じて敗北の論理ではない、と彼(三島)は主張する。〈たゞその行ふ処によつてのみ生き、その行ふ所以によつて行ふ自己に於て廻転し輪廻する宇宙図を、(非業にも!)意図した〉 のであったから。 — 田中美代子「三島由紀夫 神の影法師――『サーカス』と特攻隊――『サーカス』『昭和廿年八月の記念に』『重症者の兇器』」
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『行動学入門』は三島の評論・随筆の中では、雑誌読者向けに書かれた軽めのものであるが、その中で要約的に語られている「行動のむなしさと、行動のむつかしさ」の感慨は、その後に起こる三島事件への「決定的な予言の役割をはたしている」と虫明亜呂無は三島の「あとがき」の言葉に着目しつつ解説し、三島が初期作品(『仮面の告白』)以来からの小説で主題にしてきたものを「より複雑な人生体験と苦汁と絶望に裏打ち」させながら、「いかにして自分は行動に至ったか」ということが吐露されていると考察している。 この随筆の中で三島は、行動の目的が最大の効果を得て、〈最高の有効性〉を発揮する時まで待機・忍耐し、〈全身全霊〉を賭けて最後の瞬間に行動と意思が最高度にならなければならないとし、行為者(主体)の充溢感と有効性との合致に、理想の〈純粋行動〉を希求しているが、その有効性の性質には、個人だけでない集団や、全体、世論が絡んでくる問題を孕み、もしも合法的な行動だけしか是認されないとすると、現代社会では、行動は単に冒険やスポーツの世界にしかなくなり、それにより〈純粋行動〉が侵蝕され、真の意味での〈行動〉ではなくなるというジレンマも同時に示し、〈純粋行動〉の性質に犯罪性が帯びてくることを語っている。そのため高橋博史はこの随筆を、「ありうべき行動の姿を語ろうとして、同時にその不可能性をも語ることとなった文章」だと解説している。
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中河与一は、幽霊や魂というような「不可知の世界」についての事実談のようなものを書いていた神秘主義者・カミーユ・フラマリオンの心霊学の書を、川端が愛読していたことに触れ、そのフラマリオンの影響が川端において重大なものであったと考察しながら、川端の『弓浦市』や『無言』には特にそれがあるとし、そういう部類の作品には、「不思議と優れたものが多い気がする」と評している。 生涯にわたり「心霊」と「性愛」というモチーフを憑かれたように追い求め、それを「幽艶凄美を極める恋愛怪談」の数々に結晶化させた「稀有な作家」だと、川端を評する東雅夫は、『弓浦市』を「幽玄なる怪異譚」だとし、その後に発表された『片腕』、『不死』、『白馬』などと共に、作者・川端が到達しえた「妖美の極み」が思うさまに堪能できる作品だと解説している。また同年に発表された『無言』と共に『弓浦市』には、「実話怪談系のサイコ・ホラー」とも一脈通ずる、川端の「怪談嗜好」があり、それが晩年にいたるまで衰えていなかったことが見られる作品だとして、「一驚に喫する」ものだと推奨している。 長谷川泉は、『弓浦市』が川端の若き日の恋人・伊藤初代の思い出と『伊豆の踊子』の思い出が融合したものとし、舞台地が伊豆大島の波浮港がイメージされると考察している。 原善は、金井景子が「弓浦市」という空間を実態のない「箱庭化された日本」「架空の日本」だと論じたことを、焦点が「日本」の方に偏ってしまい肝心の「架空」という本質に絞られていないとして、「(川端にとっては)日本のみが架空なのではなく、テクストという架空の時空間が問題」だと考察している。そして『弓浦市』という小説は、「記憶という形の虚構=小説が、事実ではなくともかえってリアリティを与えてしまう在りようを通して、小説の持つ意味を追求するメタ小説」だと論じている。 森本穫は『弓浦市』が、「狂気と隣り合わせた異様な世界」を読者の前に提示しているとし、その世界とは、私たちが日常生活の中で忘れている「冥(くら)い裂目」のような、「もう一つの空間」であると解説している。そして、1人の婦人の言葉によって、読者も主人公・香住と共に、「虚と実のあわいの空間」に誘われてゆくとし、婦人の語る過去の出来事が「妄想から描き出した夢」であろうと容易に推測できるにもかかわらず、その真実らしいディテールにより、読者は次第に「あやしい時空に引き込まれてゆく」と考察している。また森本は、「五十を少し出て」いるが、歳よりも若く見える婦人の「残り火のような妖艶さをにじませた雰囲気」や、突然ひらめくように「狂気」が顔を覗かせる瞬間(「台所で刃物を研いで……」の一節など)が、全体にみなぎっているとし、こういった緊張感も、『弓浦市』を「ただならぬものにしている点」で、見逃せないと評している。 そして作品の眼目として、婦人が帰った後に、「弓浦市」がどこにもない地だと判り、婦人の話が「妄想」だと断定されたその瞬間から、主人公の香住が、「なかったはずの遠い過去の時間を、ほとんど生きはじめる」ところだと森本は解説し、作品の最後の一節と、川端が『十六歳の日記』(1925年)の「あとがき」で語った次のような一節の類似性を指摘している。 私がこの日記を発見した時に、最も不思議に感じたのは、ここに書かれた日々のやうな生活を、私が微塵も記憶してゐないといふことだつた。私が記憶してゐないとすると、これらの日々は何処へ行つたのだ。どこへ消えたのだ。私は人間が過去の中へ失つて行くものについて考へた。 — 川端康成「あとがき」(『十六歳の日記』) 森本はこれに関連し、婦人が「思い出」のことを神の恩寵(「神さまのお恵み」)であるとする言葉も重要だとし、主人公・香住が最初は婦人に対し、「その国の生者と死者のやうな隔絶」を覚えていたのが、終結部では、むしろ婦人の描き出した「虚妄の世界」に共鳴していることを挙げ、それは明らかに現実とは次元を異にする「時空を超越したかのような別世界」だと論考しながら、こういった「底知れぬ沼のような不気味な世界」に読者を放り出したまま、鮮やかに作品が閉じられる『弓浦市』は、「みごとというほかない」と評している。 鈴村和成は、『弓浦市』を「見えない結婚」をアレゴリカルに描いた作品だと評し、実在しない「弓浦市」の思い出話を婦人の「幻想が妄想」と片づける同席の客たちとは違い、主人公の作家(川端とほぼ等身大)は「自分の頭もおかしい」と思わずにいられない点に触れながら、主人公は、自分自身は忘却しているが、「他人に記憶されている」過去を、「どれほどあるか知れない」と考える、と説明し、「弓浦市」での「結婚」の申し込みは、一笑にふされるのではなくて、一種の心霊の領域に移されると解説している。そして、婦人にはこの「結婚」は見えているが、主人公の作家には見えないとし、この「透視」のレベルでは、「弓浦市」の実在はもう問われず、婦人が見て、作家には見えないという、「見える、見えないの境目」に、「弓浦市」が立つことになると論考している。
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川端の作品としては、女性がほとんど出てこない点で地味な印象の作品だが、碁という「静」の世界の激しさと静けさを、強く張り切った冷徹な筆で綴り、勝負の世界に生きて、〈一芸に執して、現実の多くを失つた人〉の、その純粋な人生の結末を的確に描いている。『名人』は、東洋の「芸」に一途であった名人と、名人に「敬尊」を抱く川端の、同じ〈芸道〉に生きる者同士の「鬼気」、「幽気」が相通じて成った作で、その念は1953年(昭和28年)に書かれた『呉清源棋談』などにも流れている。 川嶋至は、川端が秀哉名人を語る際に、〈芸〉という言葉を多用していることに着目し、それは川端が自身と同様、名人の中に「〈芸〉に苦悩する姿」を見出し、「文芸にすべてを投入して生きるみずからの生命をもかえりみていたにちがいない」としている。そして川嶋は、秀哉名人の引退碁を観戦中の川端は、「名人のうちに、この世ならぬ〈真実〉で〈無垢〉な、没我の境にある純粋な人間の姿を発見したのである」と解説している。 作品冒頭に置かれた秀哉名人の死は、川端氏にとって、世に稀なひとりの純粋な人間の姿が消滅したことを意味していた。現実の世にある純粋のかたち、それは純粋ゆえに脆弱でこわれやすい。(中略)川端氏を「名人」創造に駆りたてたものは、芸道に努力精進する厳しい人間の姿ではなく、秀哉名人が天性有する芸道への没我の純粋性なのである。世俗の一切の拘束を忘れ、みずから努力することなく自然に碁一筋の道に没入できる名人の純粋さは、小説家としての川端氏の常に求めてやまぬものであった。(中略)観念的な純粋の世界は、現実の世界に引き下ろせば、氷解し霧散しなければならない。文字によって創造された、川端氏の観念的な非現実の世界も、同様の運命を辿る。それは川端氏のもっともよく知るところであろう。その氏は、現実の生身を有しながら、純粋の観念の世界に遊ぶ名人を発見した驚きは大きかった。 — 川嶋至「川端康成の世界 第六章 現実からの飛翔―『雪国』と『名人』―」 今村潤子は、『名人』には名人の死顔に対する、〈一芸に執して、現実の多くを失つた人の、悲劇の果ての顔〉という感慨がモチーフとなっていると解説し、長年をかけて創作された『名人』へのエネルギーを生み出したものは、川端文学のテーマの一つである「魔界」の主題とも無関係ではないとしている。また、『名人』が、「戦争」「敗戦」という社会状勢や背景の中で、執筆・改変・完結していった経緯から、そこに主題の根底があることが、小林一郎により指摘されている。 今村は、川端が秀哉名人の敗北を、「一つの時代の終焉(死)としてはっきり描き、更に意識の底で日本の敗戦と強く係わらせて捉えている」とし、現代の合理主義を代表する人物である大竹七段に、〈いにしえの人〉である秀哉名人が、あえて現代的な対局法で勝負に臨み、名誉や命を賭けて生涯の最後を飾ろうとした姿や戦いぶりを、〈一つの血統が滅びようとする最後の月光の如き花〉(「嘘と逆」)、〈残燭の焔のやうに、滅びようとする血がいまはの果てに燃え上がつた〉(「末期の眼」) 姿として川端が捉え、確信していたと解説している。 しかしながら、合理主義の新しい戦法の〈卑怯で陋劣〉〈狡い〉手に負けても、〈一筋の乱れもなく戦つた〉名人には、敗着(敗戦)そのものへこだわりは薄く、勝負には負けても「芸術として棋面」を創ろうとしたその姿勢に、「精神の高雅さ」を見る川端の『名人』の描き方は、決して悲観論に終わっていないと今村は考察し、「真に芸に生きた人の雄姿」である名人の生涯最後の勝負碁における負けや戦いぶりは、「新しい合理主義が日本に持ち込まれても、日本の古い伝統の中に潜む美は微動だにしない」という矜持に繋がっていると解説している。 そして、名人の敗着を折からの日本の敗戦と重ね合わせ、名人の碁を「日本の古い伝統芸術の象徴」とした川端は、その名人の生き方に、「戦後の日本人の在り方の一つの理想像」を示して描いていると論考し、またその「名人の自己投企の純粋性」は、川端文学のモチーフでもある「魔界」にも通じ、それを川端は「美の勝利」として捉えていると今村は述べている。 羽鳥徹哉は、東洋に古くから伝わる「芸道」としての碁が、近代合理主義戦法に敗れる姿に、川端が秀哉名人への挽歌、「古い日本への挽歌」として捉えようとしたと解説し、山本健吉も、「もう秀哉名人のような、古風な“芸道”の人として対局に臨む人はなくなった」 と、囲碁でも将棋でも、スポーツと同じように単に「選手権を争う仕合」と化した時勢に触れつつ、合理の世界と非合理の世界の関係から生じる「“いにしえ”の世界の崩壊」であったと解説している。 また山本は、川端が名人と大竹七段の生活態度や性格を対比的に描きながらも、碁盤の世界は、そういったものから離れた「打合う黒と白とによってだけ構成される抽象的な世界」であることを表わしているとし、その上で、なおかつそこに「人が移調された人生の象徴を読み取った」と考察している。
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『古都』は、京都という古き伝統が残る地を舞台とし、各地の名所や年中行事絵巻を楽しめる作品でもあり、映画化やドラマ化も多くなされ知名度はあるが、他の代表的川端作品の『雪国』や『山の音』などに比べると、文学的にはあまり本格的論及の対象とはなっていない傾向がある。失われてゆく日本の美をとどめておきたいという、川端自身の創作意図の観点から論じられることが多く、構造的な読みは他の川端作品よりは少ない。 三谷憲正は、「すみれ」の可憐さをもつ女性として登場した千重子が、〈北山杉〉の素直さをも同時に合わせ持つイメージとして物語が進行してゆくが、千重子が〈北山杉〉の林の中で、苗子と胎内の双生児のように抱き合った後には、次第に〈楠〉の力強さを身につけてゆくと解説している。 また『古都』は『竹取物語』との類縁を指摘されることもしばしばあり、三谷はそれに関し、千重子の養父「太吉郎」(takitiro)の名は「竹取翁」(taketori okina)のアナグラムであるという学会発表の会場からの指摘を記している。さらに高橋真理は、このアナグラムを敷衍し、「竹取翁」(taketori okina)から、「太吉郎」(takitiro)をマイナスすると、イコール「苗子」(naeko)であることを指摘し、「この二人の人物にまたがるようにtieko(「千重子」)の名はある」と考察している。 田村充正は、姉と生き別れ、両親を失った苗子の姿には、幼い頃に両親を失い、おぼろげな姉の記憶しかない川端自身の境遇が投影され、苗子が思慕する会ったことのない姉とは、川端の姉・芳子への「秘められた思慕」であり、姉に会いたかったという苗子の「心情のほとばしり」は、そのまま川端の「心情の真実」であろうと考察し、それが『古都』を「既成のモチーフの借用だけで作られたのではない、川端にとって創作の必然を秘めた作品」にしていると解説している。 川端は、『古都』刊行後に執筆した随筆で、〈山が見えない、山が見えない。近ごろ、私は京都の町を歩きながら、声なくさうつぶやいてゐることがある〉、〈山の木はなくなり、山は削りくづされて分譲地になつてしまはないか。自然の美の尊びも、町づくりの美も踏みやぶつてゆく、今の日本人はすさまじい勢ひ、おそろしい力である〉と記して、都市景観の破壊的変化を危惧し、後に東山魁夷『京洛四季』に寄せた序文でも同様のことを述べ、〈京都は今描いといていただかないとなくなります〉と東山にしきりに勧め、〈みにくい安洋館」が建ちはじめて、〈町通りから山が見えなくなつたのである。山の見えない町なんて、私には京都ではない〉という歎きを記している。 野口祐子はこういった川端の危機感を踏まえて、川端が『古都』を四季で構成したのは、安易な方法ではなく、時代への批判精神であり、そこで試みたのは、高度経済成長期の日本に対する「ささやかな抵抗」であるとし、川端が東山へ送った言葉を自ら行なった創作が『古都』であったと解説しながら、「『古都』の、時代から遊離したかのごとく感じられる古風な京都イメージと登場人物、そして円環的時間間隔と物語性の欠落は、川端の京都を古都として描き残そうとする使命感のなせるわざだったと言えるだろう」と論じている。 呉悦は、『古都』の書かれた当時の急速な近代化の日本社会を鑑み、川端がその流れに反して、主人公の少女たちを「単純」「純潔」に表現し、「少女特有の恥じらい」を溢れさせているとし、他の登場人物も古い土地で代々伝わる家業を守り暮らしている設定であり、その主題の中には、徐々に失われてゆく伝統風景や自然の生命、人間社会への厭世と裏腹の人間愛、近代化の波による過去に対する懐かしさなどが入り混じっていると解説している。そして戦後、世の中の価値観の変動を目の当たりにした川端が述べていた以下の随筆の言葉を引きながら、川端が〈現実を信じない〉結果、「日本の伝統的故郷に対する愛を徹底的に」描き出すことに情熱を傾けたのが『古都』だと論じている。 戦争中、殊に敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がないといふ、私の前からの思ひは強くなつた。感じる力がないといふことは、感じられる本体がないといふことであらう。敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるひは信じない。 — 川端康成「哀愁」 そして呉悦は、川端が『古都』において、「懸命に理想的世界を作り、純粋な人物を登場させているにも関わらず、人物は悲哀に富んだ人生を辿ることから、川端の現実社会に対する失望、不信感が窺える」とし、作中に漂う哀愁や、〈運命〉という言葉の繰り返しは、「変えられない運命に左右される時の作者の感嘆」であり、その後幻想的な世界観の『片腕』を描き、現実からかけ離れた道を辿っていったのは、西欧近代化の波と伝統との葛藤が強まった川端の、「日本の伝統を必死に守ろうにも守りきれなかったという現実に対する無力感の現れ」ではないかと考察しながら、新感覚派の旗手として西欧思想を取り入れ欧米に学んだ後に日本伝統回帰を経て、不思議な作品を創出し、最後は自殺してしまった川端自身の運命について言及している。 山田吉郎は、川端が巨木を愛していたことから北山杉との関連などに触れつつ、『古都』の物語の深層に「霊界との交信」を看取し、川端の主治医だった栗原雅直が『古都』の双子について、「やはりナルシシスムとは言うものの、見ぬ母への空想的な愛情要求の変形としてとることができ、見る自分と見られる自分という鏡の世界、二重身の問題との関連をもつもの」と論じたことに示唆を受けつつ、以下のように心霊的、霊界通信的な要素と絡めて姉妹2人を考察している。 本質的なことは、川端が『古都』という作品において、知らず知らずのうちに霊界との交感をおこなっていたということである。北山杉の村には現世と隔絶した霊界の磁場が張られ、その内奥に〈未生〉および〈死後〉の世界がひそんでいた。その霊界からあらわれたかのような苗子は、主人公千重子を北山杉の村へといざない、千重子に〈未生の時〉をかいま見せるのである。こうした現世と霊界との交感を、川端は眠り薬に侵されたうつつない薄明の世界で、何ものかに促されるように書いていったのである。 — 山田吉郎「『古都』の精神構造」 また山田は、作中に見られる〈魔界〉の要素として、北山杉の村に向うバスの中で、手錠をかけられている若い男が千重子に声をかける場面などを指摘している。
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『Kの昇天』は、他の梶井基次郎の作品に比べるとフィクション的な要素で構成されているため、『檸檬』『城のある町にて』『ある心の風景』『冬の日』といった代表的な私小説・心境小説的作品のようには、正面から本格的に論究される作品として取り上げられることが比較的少ない傾向にあるが、月を扱った作品や幻想文学の一種としてアンソロジーで取り上げられることが多く、人気の高い短編でもある。 池内紀は、西洋では夢遊病者や月に吠える人を「月光のなせるわざ」とされ「月の光は理性を狂わす」といった言い回しがあることに触れつつ、K君が月へ徐々に登っていく描写について、「歩一歩と、まるで黒い小悪魔に引かれるように、あるいは生の深淵に口をあけた黒い穴に向うよう」と評し、『Kの昇天』を「名作短篇の見本のような作」と賞揚している。 川本三郎は、エドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』などドッペルゲンガーを主題にした作品が19世紀から出現した影響で、日本でも大正期にリアリズム小説に対し幻想小説が増え、芥川龍之介などがドッペルゲンガーの主題を扱っていることに触れつつ、基次郎の『Kの昇天』も「世紀末文学に通じる美しく病める感受性」が看取できる作品だと評している。 鈴木沙那美は、『Kの昇天』を「K君の溺死の原因をめぐる語り手の推理の小説」であると同時に、「ドイツロマン派風の神秘で染めあげられた作品」であるとして、その「二重の意味」で「魂のミステリーとでもいうべきもの」に仕立てられていると解説している。 島村輝は、鈴木沙那美の指摘を敷衍し、語り手の〈私〉にとって〈あなた〉という存在は「探偵」の役割が担わされたものであるとし、「探偵」の〈あなた〉に向って「容疑者」の〈私〉が話す「釈明」や「弁明」に相当する作品構造に内包されているミステリー的要素を鑑みながら、〈私〉がK君の〈溺死〉の意味を〈昇天〉として語ることによって、〈私〉自身がそこにどう関わっているのかという「別の何かを《告白》しようとしている」と考察している。 そして島村は、〈私〉がK君に話しかけた瞬間、K君の目線には〈私〉が逆光の影絵に見えていた位置であることから、その第一印象の錯覚により、K君にとっての〈私〉は、「自分(K)の影が受肉した姿」となり、N海岸の出来事を振り返る〈私〉がそのことに気づいたとして、それにより「〈Kの溺死〉は〈私〉にとって紛れもない〈Kの昇天〉と意味付け」られ、「Kの影」である〈私〉が健康を回復し〈此方〉に適応して実体化していく代りに、K君は〈月の方〉に登ったと考察している。 大切なのは、「私」がそれを「昇天」と意味付けたとき、それに関わった「私」の役割を、自分で意味付けているということだ。「Kの昇天」という「物語」の中で「此方」という「現実」の真っ直中へ帰っていった「影」としての自分を意味付けることによって、殆どKと重なりあるような道を辿ってきた「私」は、自分の分身としての「Kの昇天」を冷徹に描き出し、彼を月世界に葬った。(中略)「影がK君を奪つたのです」という言葉によって、「私」は、「影」である自身が「Kの昇天」に深く関与していることを物語ってしまっている。しかも「私」はそのように「Kの溺死」を描き出すことで、今自分が「現実」の中で生きていく道を歩んでいることを、高らかに宣言しているのである。 「私」は「あなた」に、「Kの昇天」を語ることによって、現在の自分についての見事な《告白》と《弁明》を、「あなた」に対しても、自分自身に対してもなしとげたのだということができるだろう。それはまた、通説とは逆に、「新潮」からの依頼原稿のプレッシャーから解放された梶井の新たな生へ向かう心を映し出してもいるはずである。 — 島村輝「梶井基次郎『Kの昇天―或はKの溺死』(読む)」 水島佑は、島村輝が論じるように〈私〉がKと異なる世界で生きることになるという考察に異議を唱え、〈私〉が不眠という精神的不安定を抱え、Kと出会う前から〈影〉を意識していた複数の描写を指摘し、Kに話しかける前に、12回もKを〈人影〉と表現していることや、想像から確信へと転換していく〈私〉の語り口調の特色に着目しつつ、〈私〉もK同様に「現実とは異なる世界を持っている」とし、手紙の返信という形式が物語末尾で破綻する構図を看取し以下のように評している。 この作品は、冒頭で手紙の返信という形を提示しながらも、最後はKの死に立ち会ったかのような臨場感のある語りへの変化することや、その途中途中で、「私」がこの物語を語るために作りあげた「あなた」という人物に対して同意を求めるような、非常に意識的な一言が挟み込まれていること、語り手である語りが不安定であることが実に巧妙に描かれているということが、一つの魅力であるとわたしは考える。 — 水島佑「梶井基次郎『Kの昇天(或はKの溺死)』:「私」の二重性について」 柏倉康夫は、『泥濘』の終章でのドッペルゲンガー体験では、主人公・奎吉が〈漠とした不安〉を感じ、すぐに意識が自分自身に戻っているのに対し、『Kの昇天』のKは意識的に何度もその状況を作り、〈影のなかの自己〉を出現させることにより、自己を抜けようとしている違いがあることを鑑みつつ、Kの目的を、「意識のトリックによる現実の変様などではなく、別の世界、身体が消滅し魂だけが存在する理想世界への離脱」であると解説している。 そして柏倉は、『Kの昇天』を「透明感をそなえた悲愴な作品」と評し、それがシューベルトの歌曲などの影響を受けて「ドイツロマン風の神秘感」を醸し出しながらも、横溢するその「透明感」は基次郎独自のものであり、「(基次郎が)死に対して抱く不安と憧れの照射のせいである」とし、地上を離れることがなかった『泥濘』の「影法師」からの主題の変化を考察している。 「Kの昇天」では、主題はあきらかに影法師から、喪失されていく自我の方に移っている。そしてこの変化の裏には、いうまでもなく病気の進行が働いている。雑誌編輯や友だちと一緒にいるときは忘れてはいても、ふと気づく胸のラッセル音や痰にまじる血に、いやでも死を思わずにはいられない。肉体は滅んでも魂は昇天するというこの作品には、切ない梶井の願いが反映していると言えないだろうか。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」
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作品評価・研究
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『冬の日』は、梶井基次郎の特質的なものが全面的に押し出されている作品で、自身の避けがたい死の宿命を正面から見据え、その絶望感と深い闇から自覚的に自己の崩壊を描くことにより、文学者としての方法をも掴み取ろうとしている作品で、『冬の日』以後では作品の傾向が変化していることが看取され、一つの転換点的な作品として位置づけられている。 そして、それまで描かれてきた感覚的な世界に、より客観的な自己認識に立った心象が加味され、比喩や象徴を多用した詩的世界が醸し出されており、他の作品(『泥濘』『Kの昇天』)にも出現したドッペルゲンガー的な表現も見られ、幻視的な要素が深まっている。 三好達治は、『冬の日』の季節描写の言葉の一つ一つが「極度に吟味されて注意深く排列されてゐる」と指摘し、その「一見して即ち眼を射る」描写のぎりぎりまでに切りつめられた修辞は、「一種象徴的な域にまで迫らうとするかの如き意気込みにさへ見える」と解説している。そして『冬の日』を基次郎の作品の中で「最も愛するものの一つに数へて憚らない」とする三好は、種々の詩的表現の数々を仔細に見つつ、以下のように評している。 ぎこちなさをも時に敢てしようとする位、やや露骨な位に直接で、その直接な切羽つまつた詩的衝動は、肉体の危機をこらへて絶望と闘ひ戯れる堯の、しきりに場面と挿話とを交替するこの単調にして変化に富んだ一篇に、一貫した主題となつてゐる。(中略)梶井の詩的衝動は、堯の悲痛を訴へ叙するに熱心である傍ら、また屡々、優雅な余暇を楽しむやうに、しきりに微物への観察を試みるそのいくらか道草めいた点に於ても、副産物的な彼の余情を展開してゐる。 — 三好達治「梶井基次郎」 なお、三好は『冬の日』前篇の時点で感動し、この作品の掲載された『青空』24号に手紙を添えて、見ず知らずの室生犀星に送ったが、室生もこの作品を褒め、基次郎に讃辞の手紙を出している。阿部知二もこの作品に、『方丈記』や松尾芭蕉の散文を連想し、「こんな作品は、昔からの日本文学の最高の伝統の列のうちに加わるであらう」と評して、基次郎に讃嘆の手紙を送った。阿部が藤沢桓夫にも基次郎の話をすると、藤沢は、「羽賀井一心斎のようだね」と基次郎を評したという 。 武田泰淳は、基次郎のその後の作品『冬の蠅』で、死にかけている冬の蠅の微妙な変化を室内で凝視し、〈死んだやう〉という言葉が何度も繰り返されている「ピアノ弾奏者の微妙な指さき」のような絶妙な描写と、『冬の日』における銀座の街中での、〈何をしに自分は来たのだ〉というリフレインが3回重ねられる場面が醸し出す効果の違いに触れながら、以下のように高評している。 「何をしに自分は来たのだ」が、三回くりかえされている。この問いは、言うまでもなく、死んだようではあるが、まだ死んでいない生物、自分に対する問いかけである。「やがて自分は来なくなるだらう」と言う予感が、くりかえし浜べへ押し寄せた問いを、ふたたび遠い海の胎内へおくりかえす。(中略)ジッととまって動かない蠅の方は、むしろ外界から遮断されて、うちへうちへともぐって行く彼の視力が、室内でとらえた対象であるから、くりかえしの手法も、おのずから異なっているのである。くりかえさずにはいられない、彼の必死の想い。どうしても表現したい彼のモティーフが、二つ全く同じなのに、やはりかすかな視角のずれにも敏感に、ちがった反応をする。こうした彼の手法は、まことにすぐれているではないか。 — 武田泰淳「微妙なくりかえし」 柏倉康夫は、フランス人が『冬の日』を読んだ際に、主人公の自我(soi)と外界の風景の関係性があいまいと感じ、風景描写がいつのまにか心理描写や心象的な幻視になっていたりするところが、フランスの小説の表現方法と異なり、ボードレールの散文詩と似た印象を持つことに触れつつ、『冬の日』の象徴的な文体の特性について解説している。 「ある心の風景」のなかの一節、「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」という梶井自身による定義は、「冬の日」の叙景文においても真実であって、ここには不可視のものを見たいという内心の強い欲求が表現されている。視線はいわば肉体の檻をのりこえて、風景のなかにのびて行く。そしてその視線がとらえるものは、もはや実景とも幻視ともつかぬものである。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 また柏倉は、主人公・堯が自身の吐いた血痰を客観的に眺めようとする態度には、基次郎が三好達治に、自分の喀血を葡萄酒だとして見せた態度を相通じるものとし、その深い絶望そのものと言える血の〈一塊の彩り〉が、ある美しさを伴って表現されているのは、〈生きる熱意〉を失くした主人公が、距離感を持って現実を見直すことで意識が変化し、現実との関係にわずかな「ズレ」が生じることにより、凝視する風景から「幻の光景」が生み出されると解説している。 そして柏倉は、絶望から堯が見る様々な幻視やドッペルゲンガー(自己の二重化)は、堯が密かに待望し、それにより生きる力を得られるとし、「幻視の火によって燃えあがった生命」はその火が消えた時、前よりも一層「死」を身近に引き寄せてしまうが、そうした「死の危険」を賭してまで「光と闇の両極の間に、さまざまな幻の光景を見ようとする」堯にとって、それが「唯一の生きている証」となり、「文学の成立する条件」になると考察している。 季節の推移に呼応するように、主人公の心身は次第に衰えて行く。はじめは「崩壊に屈しようとする自分を堪へてゐた」主人公堯も、第六章ではついに、「冬の日に、もう堪へることが出来なくなつた」と告白せざるをえなくなる。「冬の日」は、こうした自己の崩壊を冷静に見つめ、それを報告した書でもある。梶井にとって、死がどうやら避けることのできない宿命であり、幻視はこの宿命を逃れる唯一の手段であるとともに、それを引き寄せる麻薬であるのは明らかであった。「冬の日」を書きつつ、それを悟ったのだった。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 遠藤誠治は、基次郎が『冬の日』の前篇を発表した『青空』24号に同時掲載された同人北川冬彦のシュールな短詩「馬」(軍港を内蔵してゐるという一行詩)をしきりに激賞していたことに着目し、その「内蔵」という語が下宿窓のドッペルゲンガーの場面に生かされていると考察している。 そして北川の「馬」の構図を基次郎が、〈物質の不可侵性を無視することによつて成り立つてゐる〉と評していたことに触れつつ、その概念が『冬の日』の作中の〈風景は俄に統制を失つた。そのなかで彼は激しい滅形を感じた〉や、〈薄暮に包まれてゐるその姿は、今エーテルのやうに風景に拡がつてゆく虚無に対しては、何の力でもないやうに眺められた〉という一節に関連していると遠藤誠治は考察し、〈滅形〉という言葉と〈虚無〉の「侵透力」について注意を促している。 また遠藤誠治は、基次郎が『筧の話』の草稿の中でも、〈影〉について〈物質の不可侵性を無視して風景のなかに侵透〔ママ〕してゆく〉と書き、同じ草稿や友人・近藤直人への書簡(大正15年6月12日付)で、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の「霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」の句を引いていたことなどに触れ、『冬の日』に散見される芭蕉の影響を論考している。また、堯が歳末の街でつぶやく〈何をしに自分は来たのだ〉の緊迫感と、芭蕉の句「何に此師走の市にゆくからず」の「何に此」に込められた「五文字の意気込」(『三冊子』での芭蕉の言葉)が通底していることから、「梶井は銀座の旅人であった」としている。 〈物質の不可侵性を無視する〉のが〈透視〉とすれば〈霧時雨〉のかなたを想像するのは〈幻視〉と呼んでもよい。梶井は芭蕉の句にも〈透視〉的な要素のものと、〈幻視〉的な要素のものとがあることに気づいていたようである。(中略)芭蕉がその『冬の日』に於て開拓した新風が〈蕉風〉とすれば、梶井がその「冬の日」に於て開拓した新風は、〈リヤリスチック シンボリズム〉であった。〈芭蕉精神の近代的表現〉なのであった。 — 遠藤誠治「梶井基次郎における芭蕉受容:―「冬の日」を中心に―」 遠藤祐は、芥川龍之介が評論『文芸的な、余りに文芸的な』において論じた「芸術家」(芸術)と「生活者」(人生)の相剋に触れ、梶井基次郎という作家もまた生涯を通じて、その二つが「離れ難い問題」であったとし、三好達治が基次郎の生涯について、「以前は必ず眼を蔽ひたいやうな悲痛な感じを伴つてしか思ひ浮べることができなかつた」と語っていたことを鑑みつつ、その「悲痛な感じ」が「(基次郎の)内心の奥深いところにあった〈芸術家〉と〈生活者〉とのもつれあい」から起因するものと考察して、その「痛ましさ」が絶頂に達している作品が『冬の日』だとしている。 また遠藤祐は、習作『瀬山の話』、『檸檬』からの作品の変遷を見ながら、基次郎が事物や風景を凝視し、「自身がそのものになり切ってしまう」ような「純粋感覚」の境地に立ち、次第にその二重の感覚性(ドッペルゲンガー的なもの)を自覚的に感受しようとしてきた流れを解説しながら、その「生の破綻をのり越えるための必然な営み」が、『冬の日』では、自身の死が逃れられない現実として迫って「虚無」として確実に認識される状況となり、「死と生とをめぐって、その何れにも牽引と反撥とを感じている」として、「死へ傾倒していく生の事実」を認めざるをえない複雑な構造性が『冬の日』にはあると考察している。 そして作中で堯が、〈冷静といふものは無感動じやなくて、俺にとつては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見てゐることだ〉と語る一節を引きながら、そこには、この作品を書き綴っていた最中の基次郎の「切実な感慨が託されている」と遠藤祐は述べている。 逃れ出るべき外界が信じられないとすれば、残されているのはたゞ現実の自己に即してその状況を見守ることの他にない。(中略)それは甚しく苦しい作業だったに違いない。しばしば語られたこの作の書き難さもそこに原因があったのであろう。彼にあってはほとんどの作品が何かに魅せられることを契機として書き出されていると見えるのだが、もし『冬の日』において彼を魅したものを求めるとすれば、それは他ならぬ彼自身の存在であったということになるであろう。 — 遠藤祐「『檸檬』より『冬の日』まで : 梶井基次郎における内心の展開の一面」
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ボードレールの影響を受けた『蒼穹』は、梶井基次郎の短編の中でも短い小品だが、比較的評価の高いものの一つである。ドイツのロマンチックの作家・ジャン・パウルの趣にも似ているとも評されている。また、マラルメの影響もみられ、主題の骨格はマラルメの詩「蒼空」などに似ており、細かい言いまわしは、ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』中の「お菓子」などから学んだ形跡がみられる。 鈴木貞美は『蒼穹』について、「〈安逸の悲哀〉のなかをたゆたっていた魂が、空の高みに吸い込まれてゆく幻想を、視覚と身体感覚のリアルな描出によって」書かれているとし、「青空に虚無の闇」を見てしまう〈不幸〉を、「清澄なニヒリズム」と評している。 三島由紀夫は梶井の文章の特徴を、「志賀直哉の影響を受けながら、志賀氏のやうな現実に対する関心を、むしろ積極的に捨てて、その詩人的側面を強く示し、作品の一つ一つを象徴詩のやうな高さ」に高めているとし、『蒼穹』の自然描写が、「写実的な描写のやうでありながら、彼(梶井)の鋭い神経の感じた内的風景であり、実に誠実に微妙に観察してゐながら、その観察を超えて自然の事物が一つ一つの象徴的色彩をおびて」表現され、そこには単なる自然描写を超えた、「精神の深淵をのぞかれるもの」が表出されていると解説している。 そして三島はこういった「文体の効果」を見せる梶井を「日本文学に、感覚的なものと知的なものとを綜合する稀れな詩人的文体を創始した」とし、その優れた自然描写は、「西洋文学における人物描写に勝るとも劣らない独立した価値をもつ」と考察して、『蒼穹』を「一篇の散文詩」であると賞讃しながら、梶井について、「この人は小説家になれるやうな下司な人種ではなかつたのである」としている。 「蒼穹」は、青春の憂鬱の何といふ明晰な知的表出であらう。何といふ清潔さ、何といふ的確さであらう。白昼の只中に闇を見るその感覚は、少しも病的なものではなく、明晰さのきはまつた目が当然見るべきものを見てゐるのである。健康な体で精神の病的な作家もゐれば、梶井基次郎のやうに病気でゐながら精神が健康で力強い作家もゐる。同じ病気でも、梶井には堀辰雄にない雄々しさと力のあるところが好きである。 — 三島由紀夫「捨て難い小品」 平井修成は三島由紀夫の『蒼穹』評を、正鵠を射ているとして敷衍し、「全体が風景描写でしかないようなこの〈散文詩〉を通じて、作者(梶井)の精神が読者(三島)の前に立ち現れた」点に着目しながら、「外界を“風景”として捉えるとは自己了解の一つの方法である」という命題の典型的な例が『蒼穹』であると解説している。 平井は『蒼穹』の風景描写が、「自我の全体性との濃密な関わりを持っている」ことを考察しつつ、梶井の『ある心の風景』の一節の、〈視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるひは全部がそれに乗り移ることなのだ〉を引いて、そうした現象が生じる場合、それが「現象の主体である精神に何をもたらすのか」を論考し、主人公が最後に〈不幸〉を感じながらも、その「内的なもの」が外化、対象化されているところから、『蒼穹』を、「風景を眺めること――真に主体的に風景を眺めることが、人間に救済をもたらす、その機制を描いた物語」だと解説している。
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『のんきな患者』は梶井基次郎の最後の小説ということだけでなく、それまでの作品と異なる作風や文体に変わり、本格的な客観小説を目指していることから、基次郎の人生の終盤までの変遷と共に作家論的な観点から論じられることが多く、処女作の『檸檬』に次いで論考自体も多くなされている作品である。『のんきな患者』以前の一連の詩的な作品群を高く評価する作家などからは、作品評価が低くなる傾向にあり、作者の健康状態の限界から未発展に終わってしまった感もあるため、賛否の別れる作品である。また、基次郎がタイトルに付した〈のんき〉の意味を巡っての解釈がなされてもいる。 田中西二郎は、基次郎から『のんきな患者』の生原稿を送られ最初に読んだ時に、それ以前と異なる作風で題材や文章に拡がりがあるものの、『闇の絵巻』のような「珠玉の名編」を期待していたため少しがっかりした。さらに、作中に「結核患者に対する社会の扱いに抗議的な感想」が含まれていることについて、「内容はだれでも思っている事でしかない。これは、プロレタリア文学全盛の風潮に便乗しているのではないか」と思い、編集部内でも『のんきな患者』は不評だったという。 正宗白鳥は、『中央公論』掲載で基次郎の名を初めて知ったため「懸賞小説の応募原稿」のように思いつつ読み進めていたが、従来の文壇意識や小説的作法に捉われていない作風などに「親しみ」を感じ、肺病患者の苦しみや生涯を描きつつも「書き方が因循でない」「筆がのんびりしてゐる」と高評価している。またエピローグの基次郎の「詠嘆」についても「私も同感である」としている。 人間は健康な時よりも、病気をした時に却つて人間生存の真相が痛切に考へられるもので、此作者が病人の心を通して世相を見たところに 我々の心に触れるものがある。「病人達が何としてでも自分のよくなりつゝあるといふ暗示を得たい」ためのいろいろな迷信にも、宗教団体が勢力拡張のため病人を仲間に引込まうとする努力にも、この世に生きようとする人間の強い本能が感ぜられる。 — 正宗白鳥「文藝時評(東京朝日新聞)」 直木三十五も『読売新聞』の文芸時評で、横光利一、川端康成、堀辰雄の作品と並べて『のんきな患者』を取り上げ、「シャッポをぬいだ」と高評し、宇野浩二に会った際にもしきりに「いい作だ」と褒めていたという。宇野浩二は、もしも基次郎が生きて『のんきな患者』を出発点として本格的小説の方向に進むことができていたら、「同時代のどの作家よりも、真に芸術的な小説を作られたであらう」と好評している。 北川冬彦は、『檸檬』などのそれまでの散文詩的作品を高く評価していることから、『中央公論』にも従来のような短い作品を連作のように掲載すればよかったとし、「何かテーマを大きく出そう」として途絶した感のある『のんきな患者』については評価を低くしている。 三島由紀夫も『檸檬』『城のある町にて』『蒼穹』で発揮された基次郎の類いまれな詩人的文体を高く評価しているため、『のんきな患者』には不評で、「死の直前、本当の小説家にならうとして書いた『のんきな患者』をほめる人もあるが、私には、(梶井)氏は永久に小説家にならうなどと思はなかつたはうがよかつたと思はれる。この人は小説家になれるやうな下司な人種ではなかつたのである」としている。 瀧井孝作は、それまでの散文詩的な作品も「鍼の如し」でいいが、『のんきな患者』も「格がどつしりと落付いて悠然と厚味がついてゐたので、これは大したものになつたと敬服した」とし、「れもんの各短篇は、余りに文学的なと云ふやうなものだが、のんきな患者は、余りに人間的なと云ふ方へ一歩も二歩も踏出してゐる」と好評している。 小林秀雄は、創作集収録の梶井作品の諸作に対して、小林自身としては稀な「親近な感じ」を受けたとし、「感情の親近性は氏の作品にしかと表現されて存する」としながら、新作の『のんきな患者』を読み、なおかつ、それまでの作品を再読して、「氏の作の憂鬱冷徹な外皮の底に私がさぐり当てたものは、やはり柔らかい感情であつた、人なつこく親密な情感と云つてもいゝ程の柔軟な感情の流れであつた」と評している。そして〈のんき〉に込められた作者の意図について以下のような示唆している。 「のんきな患者」、これは正月号雑誌の小説中でも佳作であるがこの作に就いて私は述べまい、ただ私は人々が氏の前作を読みどんな思ひで氏がのんきといふ文字を使ひたくなつてゐるのかを知つて欲しいと思ふ。「冷静といふものは無感動ぢやなくて、俺にとつては感動だ、苦痛だ」 と氏はどこかで書いてゐた。「ある意力ある無常感」 と、どこかで書いてゐた。又は氏に寝られぬ夜がどのくらゐ訪れたか。でももう充分だ。私は氏の健康を祈りたい。 — 小林秀雄「文藝時評 梶井基次郎と嘉村礒多」 菱山修三は、「はらはらしたり、急に微笑を感じ出したり」しながら、「(作品を透し)無の底を割つた魂と魂とが相触れ合ふ」という読書の醍醐味を『のんきな患者』に感じ、その「苦患と愉楽の両極」に惹かれたとし、描かれる「不幸」が「確実性を持つて写されてゐる」と高評している。そして読後の自身の気持をピラト(キリストの死後、自らの掌上に一面の血を見た人物)に喩え、「梶井基次郎の負傷はそのまま私の負傷でした」と語っている。 また菱山は、基次郎がプルーストを読んで、その「摂取すべき核心的なもの」を摂取しているとし、誇張ではなく「ボオドレエルの耽美とフロオベルの清澄とプルウストの優雅とが」、『のんきな患者』全体の文脈の基調をなし、特に第3章で見られる「数々の無類の挿話」によって綴られた「確実性に満ちた回想の描写」は、「最も結晶化した文章」だと評しながら、その第3章の性格により、それまでの『冬の日』『冬の蠅』などと趣を異にしているが、それらの作品に続く「その後の著しい発展を物語るもの」もこの第3章からうかがえるとしている。 井上良雄は、或る左翼の評論家が『のんきな患者』を、「これまた肉体的敗北によつて、一切の積極性を奪はれてしまつたインテリの姿で、そこには写真の乾板のやうな鋭い受動性が見出されるばかりだ」と低い評価をしたことに異を唱え、「実は梶井氏のレアリズム程、積極的なレアリズムといふものはない」として、その態度は単に物を眼で視て受動的に対象を映すのではなく「乗り移るレアリズム」であり、「対象を白熱的に生活」し、「肉体が視る――といふよりも行動する」という「実践的な生活人のレアリズム」、真の意味の「プロレタリア・レアリズム」だと反論している。 若し観想的な文学に対して実践的な文学といふものがあるなら、梶井氏の作品こそそれだと、私は今憚りなく云ふことが出来る。(中略)客観主義と主観主義の対立といふ、観想的な人間にとつては乗り越え難い閾も、自ら対象世界の中での実践的な生活人である近代プロレタリアートにとつてのみ、始めて無意味となり得るのだ。これはプロレタリア文学の理解にとつて根本的であると私は信ずる。プロレタリアートのレアリズムは、どの様な意味でも単に観想的な「視る」レアリズムであつてはならない。梶井氏の積極的レアリズムこそ、近代プロレタリアートのものなのだ。 — 井上良雄「梶井基次郎を継ぐもの」 柏倉康夫は、「肺結核患者の肉体的苦しさとその心理、そして患者たちと家族の運命」を描こうとした『のんきな患者』で基次郎が主題としたのは、「死と隣り合わせに生きていながら、一見〈のんきに〉構えているしかない」という基次郎自身を含めた「庶民の現実」だと解説し、最後にその現実を強調させるために基次郎が統計の数字を紹介しているが、その「真の狙い」はそうした格差などを糾弾するためでなく、「不治の結核が皆を同列に並ばせて死のゴールまで引っ張ってゆくという感慨にあった」としている。 しかし柏倉は、この統計のくだりが、田中西二郎が抱いたように「プロレタリア文学全盛の風潮に便乗しているのではないか」と思われてしまうのも仕方ない部分であるとし、「少なくとも普通の小説作法では、この後で主題は患者個々の生活の描写をこえて、社会的格差の批判への発展するのが筋」であるが、基次郎は「死の平等を前にしての詠嘆で作品を閉じた」と考察している。 伊藤央郎は、〈のんき〉の意味を、吉田(基次郎)の知識人的な階級意識を自己認識しているものだとし、それは迷信的療法や暗示に縋る下町庶民の切実さや〈肺病に対する手段の絶望〉への必死さに対する己との距離感を自覚していることの表れでもあるとし、「同じ病を背負った他者と、彼等が生きる〈世間〉を知ろうとすることは、また同じ病を生きる自身の〈現実〉をも確認するということ」であり、その「自己認識」が作品の結末に繋がり、〈のんき〉な患者の自身も「〈世間〉の中で同じように苦しみつつ生を求める、〈庶民〉であった」という事実に辿り着いたことを終結部で示そうとしていると考察している。 そしてその「帰結」の認識は、大阪の〈町人の子〉という出目に劣等感を抱きつつも、エリート街道を迷いもなく突き進むことにどこか躊躇を感じ、かといって〈町人の子〉に戻ることもできなかった基次郎が、その矛盾と放蕩の中で〈見すぼらしくて美しい〉 庶民文化に慰められ、〈丸善の客〉という自分と〈町人の子〉の自分との狭間に触れ動きながら様々な作品を模索し綴って来た意識の終着だと伊藤は考察している。 それはつまり『のんきな患者』で、梶井は自己の死を半ば覚悟しつつ、なお生を求めて「生活」の中で生きる庶民に共感し、自分もまたそうした「現実的な一生懸命な」「生活」の中でその生を生き切ろうと意志したということである。それが梶井の、結果的には最後の、「意志」であった。そしてそのように、近づく死を覚悟してまでも市井の病者の、「死に急ぎつつある」「現実」の方に入っていこうという「意志」の在り方は、正に「ある意力ある無常感」(『ある崖上の感情』昭和三年)であり、僕はそのような梶井の「意志」がある点において、『のんきな患者』という作品を肯定するものである。 — 伊藤央郎「梶井基次郎『のんきな患者』論」 河原敬子は、基次郎が〈結核〉という語を友人への書簡で初めて明確に用いたのが、1929年(昭和4年)12月で、この〈結核〉または〈肺病〉という自明の病名を記したのが全書簡中でわずか3通、日記では全く用いていないという意外性から、それまでの基次郎がいかに自身の病名を忌避し「遠ざけたい心理」があったかを考察しながら、『のんきな患者』執筆の頃から自身の病を真正面から見据え〈リアリズム〉を志向した背景に、こうした「過去の自分の作品を超えるリアリズム文学を構築しようとする強い意欲」の変化があったとしている。 そして河原は、基次郎が自身を含めた他者を客観的に描き、「従来の梶井作品に頻出した比喩化や象徴化ではなく、あるがままの現場の再現という手法」や、抽象的な統計の数字から、「〈豪傑〉も〈弱虫〉も全て死ぬしかないという死についての真実」を具象化し洞察することによって実現された新たな〈リアリズム〉を解説しながら、そこには、『冬の日』『冬の蠅』(同じく結核を題材)での「観照という存在の根元に突き入る心象風景」はないが、それに代わって、「病者の生身として肉付けされた吉田が母親を中心にそこから世間の他者とも関係を持ち、生き抜こうとする彼らの思いへの認識」が重ねられ、「大阪・天下茶屋という平俗性に満ちた土地に暮す梶井が同じ地平に立って市民を見つめ、そこに病者の全体的実在を見出そうとする理念が実践されている」と論考している。 死んでいく荒物屋の娘の「淋しい気持」を思い遣り、自らの死の姿を見詰めもしたが、その孤独をはるかに超える現実死の非情さを吉田は今直視している。「――といふことであつた。」という沈思な断定表現にも、生死の境界のはかなさというような平準化された感慨ではなく、これ以上ない重い実感が込められているのであろう。その意味でも、梶井の新しいリアリズムの実現のためにも、この〔エピローグ〕は重要な意味を持っているのである。(中略)たとえ全て死に持ち去られるという実相に逢着するとしても、統計の数字から抜き差しならない個別の死の姿を見出していることが大切である。吉田の「のんき」は、このような死についてのリアリズムを掴み取った人間が求める境地である。絶望と言ってしまえば全てが閉ざされるが、「のんき」であることによって個別の生死を具象化する作品を書き始めたという点で、ぎりぎり生の場と繋がるのである。 — 河原敬子「梶井基次郎『のんきな患者』:リアリズム文学への新たな志向」 谷彰は、まず基次郎自身の作家論的背景を一旦置いて、作品それ自体の構造や表現について分析し、第1章の語りでは、吉田の〈不安〉の原因自体を読者に伝えることが目的ではなく、「(不安の原因を)自意識の逡巡によって追求することの不毛性」を語っているとし、それ以降の章ではほとんど「吉田の意識に寄り添ったもの」だけになり、相対化するような方法は見られないと解説している。また荒物屋の娘の死を知った吉田が、自身の〈病んだ身体〉の行く末の現実を痛感し、それまで自身の〈病んだ身体〉を他者のように眺めていたことを〈のんきな患者〉と表現したのではないかと考察している。 そして谷は、世間の人々が迷信に縋って生きようとする「真剣であるが故に滑稽でもある」様子に、知識人の吉田が徐々に共感を持っていく心理が描かれているものの、その回想部ではまだ同じ次元に立っているとは言えないとし、最終的な感慨が示されたエピローグにおいて、吉田が個々の病人の苦しみを自身のものとして実感しつつ、〈病んだ身体〉と自分自身を自己同定し、「死によって閉ざされた〈時間的な枠〉を超えられないこと」を認識していると解説している。 最終的に言えることは、吉田が、「病んだ身体」を拒否して現実を超えたある種の永遠に回帰することよりも、「病んだ身体」を現実として受け入れることの方を選択したのだ、ということである。これは、死を直前に控えた者が迫られるギリギリの選択であって、余人が軽々しく口を差し挟む領域の問題ではないと思われる。重要なのは、『のんきな患者』という作品が、このような吉田の最終的な選択を読者に示し得るように、構造化されているかどうかということであろう。その点に関しては、これまでの作品分析がそれを証明している。『のんきな患者』は、主人公が「病んだ身体」を介して「他者」との連帯の可能性を見出していく物語として、確かに読むことができるのである。 — 谷彰「梶井基次郎『のんきな患者』論:身体と他者をめぐる物語」
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作品評価・研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:59 UTC 版)
『愛撫』は、梶井基次郎の作品の中では比較的軽く書いた随筆的なものであるが、雑誌掲載時から好評で、中には当時初めて日本で翻訳されて話題となっていたプルーストよりも〈偉大〉だと基次郎に直接褒める人物もいたという。今日でも短編の名品として評価が高い作品で、動物を扱った作品など各種アンソロジーで取り上げられる人気作品でもある。 小林秀雄は、『愛撫』の「病的な猫の観察は正常な愛撫にあふれてゐる」と評し、鈴木貞美は、猫との戯れの中に「生の時間をいつくしむような」ものが感じられるとしている。 川端康成は、伊豆湯ヶ島で基次郎と共に過ごしてみて、その自然(植物や動物)を観察する見方(「冬の日射し」のようで「そこに、ユウモアと厳しい深さとがまじつてゐた」こと)を学んだとし、その頃から『青空』で発表される基次郎の作品に注目していたが、「その感情の手が余りに暗鬱」で、「危険」や「逞しい生活の意力」がひそみ、爆発しそうであったため、「膝を崩して書くこと」「多く書くこと」を基次郎にアドバイスしていた。 そして「書くこと」が「病気の障り」になることより「彼の慰め」になるとして、「書かないでゐることは、彼の生活の力を衰へさせはしないか」、「彼はさういふ男だと信じてゐる」と作品発表が滞っていたことを案じていたが、久しぶりの『愛撫』を読んで驚き、「私の意見は顔を赤らめた」として、以下のように高評している。 この傑れた、短い散文詩風の作品は、説明すべき種類のものではないけれども、とにかくこれは、少し書く人が書ける作品である。多く書く人の書けない作品である。このやうな気品は、書かないでゐることからしか生れないのではないかと思ふ。作品の気品といふものは、今日余りに忘れられ過ぎた。一匹の猫と足とを書いたに過ぎない小品が、私を打つた所以である。作者の感覚は異常に冴えてゐる。これだけ常識を離れて、しかもおのづから温かいのは、驚くべきことである。しかし何より気品。 — 川端康成「梶井基次郎氏の『愛撫』」
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作品評価・研究
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「真珠 (坂口安吾)」の記事における「作品評価・研究」の解説
発表当時の文芸時評において宮内寒弥は、12月8日のことを書いた作品は他に、上林暁の『歴史の日』、伊藤整の『十二月八日の記録』、太宰治の『十二月八日』があることを言及しながら、その中でも坂口安吾の『真珠』は「小説の結構を備へてゐるもの」とし、他の12月8日を描いた作品が「感激の早取写真的傾向」を持っているのに比して『真珠』は、「始めて完璧な小説へのかたちとなつて現はれた」秀作だと評している。そして、「軍神九勇士」を〈あなた方〉と呼びかけることに「一番感服した」とし、こうした「コロンブスの卵」的なアイデアで小説化した坂口の手腕は貴重だとしている。 平野謙も同じ文芸時評で、『真珠』の読後感を、「大東亜戦争勃発以来、はじめて芸術家の手になる決戦下の文学らしい文学」を読んだ気がすると高評価し、以下のように讃辞を述べている。 この美しい題名を持つ小説は、ある意味で大胆不敵な作品である。「あなた方は九人であつた。あなた方は命令を受けたのではなかつた」といふ直截な書き出しにはじまるこの作品は、最近私ども国民全体を魂の底から感動させたあの軍神九柱に取材してゐるのだが、その国民的感動の神聖さは、それをすぐさま一篇の文学作品に織りこむのを憚かるやうな一種敬虔な性質を含んでゐる筈なのに、坂口安吾は惧れ気もなくただひとすじに押しきり、却つて見事な作品世界を造型したのであつた。凡庸な作家なら当然失語症に陥らざるを得ない「神話」の絶対世界に、坂口安吾は見事手ぶらで推参したのであつた。彼が純正な芸術家だつたからである。つねに魂の感動を求めてやまぬ生粋の文学者だつたからにほかならぬ。 — 平野謙「文芸時評」 七北数人は、9人の「決死行」の特攻と、安吾自身の「自堕落」な生活の「対比」と見るにはコントラストが弱すぎ、二極の対立で描かれているのではないとし、「命を捨てて突撃する若者たちの、壮烈で澄んだ精神」に分け入っているが、安吾は彼らを「理想の人間」としているのでなく、自身の日常を卑下しているわけでもないと解説し、そこに描かれているのは「日常に落ちてくる霹靂」、「暗い予感」だと述べている。 そして七北は、平凡な安吾の12月8日にも、わずかながらに「九軍神の決死の時間」が、不安や「緊迫した空気」として共有され、戦後発表の『堕落論』の中に見られる「人々の透明な心情、死を前にした幻影のような明るさ」が、すでにこの『真珠』の時代から広がり初めていたとして、そういった「時代の心象」を同時代にいながら安吾は描こうとしていたと考察している。 奥野健男は、坂口安吾が自身の「無頼」の生活と、特攻隊の勇士たちの「死を前にしたゆえの透明な明るさ」を対比させて、「むごたらしいものの美しさ」を追求した作品にしていると解説している。そして、安吾が戦時下の日本の「壮大な滅びの宴をすべて眺めながら自分も滅亡しよう」と考え、疎開もしないで空襲下の東京に居残ったと考察している。
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学習院の国語教師で、同人雑誌『文藝文化』の一員であった清水文雄は、教え子の平岡公威(三島由紀夫の本名)から渡された『花ざかりの森』を初めて読んだ時の感動を、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされる実感を味わった」と表現している。同じく『文藝文化』の同人で、『花ざかりの森』に感動した蓮田善明も、少年・三島の将来に期待をかけて次のように賛辞を呈した。 「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。 — 蓮田善明「編集後記」(『文藝文化』 昭和16年9月号) なお、この上記の蓮田の言葉は、その後の三島の作家活動や運命にまで影響を及ぼし、三島死後の数多くの三島論で、それを示唆するものとして引用されている。 田中美代子は、『豊饒の海』のラストによく似た『花ざかりの森』の大団円は、また「エピグラフに絡ってゆく」と指摘し、「〈かの女は森の花ざかりに死んで行った〉、なぜなら、〈かの女は余所にもっと青い森のあることを知っていた〉から」だとして、エピグラフの言葉と、ラストから想起されるものについて、「読者はここに展開された花ざかりの森が一場の幻であったことを知るのである。それはあたかも女性コーラスによる海への賛歌であり、また葬送曲であるようにも思われる。それは、静謐、その心設けだったのだろうか」と論考している。 野口武彦は、『花ざかりの森』で三島文学の〈海〉の「二重性」が先取りされているとし、〈海〉は「憧憬そのもののメタファア」であり、また同時に「憧憬を否定するイロニイ」でもあると指摘している。また、日本浪曼派などの影響を受けた三島を「ロマン主義者」と規定して、そのロマン主義的傾向を論考しながら、「ロマン主義文学ははじめから挫折を約束させられている文学」であり、「この到達不可能な高みをめざす魂の飛行をわれわれは〈憧憬〉と呼ぶ」として、『花ざかりの森』には、成就不可能と知りながら憧れずにはいられないという「両極の間を揺曳するいわば魂の振幅」の構造が備わっていると解説している。 この野口の論に対して小埜裕二は、「憧れの成就の永続的把握が不可能であるという意味においては正しい」としながらも、それだけでは『花ざかりの森』を十分に把握したことにはならないとしている。小埜は『花ざかりの森』を、〈憧れ〉が成就した「一瞬間を梃子」にして、「ロマン主義の現世における不可能を可能とすることに挑んだ物語」であるとし、〈憧れ〉が成就された一瞬は、「〈追憶〉のなかで生死を超える新たな認識へと変化していく」と考察している。そして物語に登場人物する「煕明夫人、平安朝の女、祖母の叔母」の3人の女たちは、「祖先に会いたい、海を見たいといった純粋体験を求める」憧れを持った主体であって、〈愛〉や〈献身〉などの「純粋体験」ともいうべき出来事は、「〈追憶〉されることによってはじめて理解される」と解説している。
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『冬の蠅』は梶井基次郎の代表作の中でも評価が高く、近代日本文学史の中でも名作と位置付けられているが、初出当時は文壇からの批評はなく、ほぼ無視されていた。しかし作品集『檸檬』刊行により文芸評論家の目にとまり徐々に評価されていった。作品構造的には、作品冒頭で作者の存在が明示されており、その意味で他の梶井作品とは異例である。作品的に高い評価ながら、他の代表作『冬の日』『闇の絵巻』などと比べると本格的な論究は少ない。 小林秀雄は、「梶井氏の暗鬱は明朗から直接に流れ出たもの」として、以下のように『冬の蠅』を寸評している。 「冬の蠅」の暗胆たる気持には憎悪もない、冷笑もない、空しい足掻もない、寧ろ肉体の疲労そのものがある。無駄のない、謙譲とでも形容したくなる様ないかにも自然な疲労がある。そしてかういふ疲労が一種健康な感情を私によびさますのである。 — 小林秀雄「文藝時評 梶井基次郎と嘉村礒多」 河上徹太郎は、ボードレールの「倦怠」精神(『悪の華』)を表現した梶井文学の近代性に触れ、基次郎の出現により「〈西欧風〉な文脈の啓示が与へられた」として、『冬の蠅』の序章が「〈日本的〉センスを持った厳密な名文」でありながらも、その「密度の細かさ」は日本美術の細密画のような空間的・視覚的なもの(観察によるもの)でなく、「時間的・音楽的なもの」、「意識の流れに沿って生きたもの」だと解説している。 そしてそれは、「描いた」のではなく、「自分の生きる時間で測った」ところに鮮やかさがあり、従来の日本文学になかった「劃期的なもの」があるとして、基次郎がプルーストも読んでいたことも鑑みながら、『冬の蠅』や『闇の絵巻』などに定着されている「意識の流れ」について、「単なる日本的抒情といったのではすまされない近代文学の原型」が見られると河上は評している。 武田泰淳は、死にかけている冬の蠅の微妙な変化を凝視し、〈死んだやう〉という言葉が何度も繰り返されている描写を「ピアノ弾奏者の微妙な指さき」のようと譬えつつ、「文章の構造にヴァリエイションをあたえるようにして、効果的なリフレインがつづく」と評して、こういった美しい効果は、基次郎の秀でた「意志と凝視力」によるものと解説している。そしてそれとはまた異なる趣の繰り返しが見られる『冬の日』の、〈何をしに自分は来たのだ〉という3回のリフレインとの効果の違いに触れて解説している(詳細は冬の日 (小説)#作品評価・研究を参照)。 河原敬子は、『冬の蠅』の「ゼロ段落」(序章)での〈一篇の小説を書かうとしてゐる〉という形で導入する自覚的な意味と、その後の章における〈私〉の内面の基本構造や多様な手法を使った筋の流れを考察し、〈私〉が結末に向けて「一人の人間が追い詰められる生の転換点」に立たされ、「これまでの生を打ち破るしかない」状況になっていくことを解説しながら、「自意識を超える世界に人間の実在があること」を小説で寓意的に描いてみせているのが『冬の蠅』の構造だとしている。 そして河原は、同様に「死の運命」「自意識」を扱った先行作品の『蒼穹』『筧の話』にはなかった「他者」(港町の娼婦など)の現実に触れている点を鑑みながら、基次郎が本当の意味での「小説」を新たに構築することを模索していたことを指摘している。 人間とは運命に操られる不確かな存在だと認識したことで、新たな視点から生死の問題を見つめ始めることになる。勿論、〈きまぐれな条件〉は運命の一側面に過ぎず、それを認識できたとしても運命の全体像が把握できたわけではない。しかし、人間存在の一端であれ、それに触れたことに意味があったのであり、運命・宿命について視野を拡げて考えて行くことが今後の生の目的となるはずである。蠅が落ち込んだ壜と同様の閉塞空間にいる自分を掬い上げるものは、他人にまみれ、自分自身の実在に触れ得た直観の力だけであることを知るであろう。(中略)ゼロ段落の〈私〉は、作品世界の〈私〉を対象化し得て今、他者の問題を踏まえた現実の中でという、本当の意味で生きている主人公の小説世界を新たに構築する必要を直感しているはずである。 — 河原敬子「『冬の蠅』論」 柏倉康夫は、『冬の蠅』で基次郎が描きたかったものを「人間の存在をこえたある力、運命と呼べば呼べるもの」に他ならないとし、主人公の〈私〉が〈其奴の幅広い背を見たやうに思つた〉と表現されているが、それは「諦念」に捉われているわけではなくて「彼もまた日向の中で生き返る冬の蠅のように、運命は運命として命あるかぎりそれを生き抜こう」としていると考察している。
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「たんぽぽ (小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
絶筆となった『たんぽぽ』は、川端文学の重要な要素の一つである〈魔界〉を描いた作品系列(『みづうみ』『眠れる美女』『片腕』など)に連なり、それをさらに方法論的にも新しく発展させようとした実験的な試みが看取され、人間の愛や性、精神の交流、言葉など複雑なテーマを描こうとしている作品である。 そういった作者の意欲が途絶して終わってしまったことで、川端の筆の衰弱を見る向きもあるが、従来の川端の創作姿勢(どこで終ってもいいような短編の積み重ね的な作風)から、執筆途上であっても一つの完結した作品だと見なして高評する論者も多い。 また、稲子が何故〈人体欠視症〉になったのかを考察するにあたり、〈魔界〉をめぐる中心的主題への複雑な解釈が見られる作品で、それらを総合的に大別すると、「醜・魔性・魔界」と「美・純愛・仏界」という負と正の2つのイメージ概念を対立的に捉えつつ前者が後者により救済・浄化される方向性を見る解釈と、両者の対立が解消・統合されていく方向性を見る解釈がある。 秋山駿は、『たんぽぽ』で表わされている主題や独創的な展開、緊張感のある対話が連続する文体などに「作家の断乎たる決意による新しい創造」の感を受けたとし、川端の「畢生の大作」「窮極の作品」「正しく命を削る仕事」と評している。そして、三島由紀夫の川端論で触れられていたニーチェのワグナー評の「大きな壁と大胆な壁画を愛する」(『ニーチェ・コントラ・ワグナー』)を鑑みつつ以下のように考察している。 いったいこの作品で川端氏は何を果たそうとしたのだろうか。この作品にはずっと、諸行無常の響きとはまた別な、心狂える者の思いを伝える鐘の音がしている。天使のような少年、また問罪者が一瞬出現する。私は、これは、心の狂いという生の奥へ分け入るとともに、その「癒し」を書こうとしたのだと思う――そうならば、それが川端氏が直視して抱こうとした「大きな壁と大胆な壁画」であった。 — 秋山駿「不思議な作家」 しかし同時に秋山は、この未完作の行方を想像し、「人間同士を結局は一人一人に別け隔てるところの亀裂と深淵、男と女の間に口を開く、それこそ真率にして沈痛なドラマ」が展開されるのではないかと、川端が横光利一の『悲しみの代価』を評して言った〈全編を貫く真率沈痛な調子〉〈真髄の露岩〉という言葉を川端自身のこととして引き取っている。 吉村貞司は、父の死に傷ついた稲子の純粋性の発現が〈欠視〉だと捉え、これを川端が三重苦の少女を描いた『美しい旅』(1939年)の視覚・聴覚欠如のバリエーションだとしながら、〈欠視〉を「聖少女」を完成させるための装置だと解説している。こういった先行作品との関連では、岩田光子も、『美しさと哀しみと』のヒロイン・音子が大木との性行為のエクスタシーの瞬間に大木が見えなくなる描写があることや、『眠れる美女』の少女たちの眠り(視覚欠如)との系譜を指摘している。 小川洋子は、未完であっても「本質的は十分に完結した小説」だと評し、久野との肉体の愛がもたらすものに対する不安が、稲子の〈欠視症〉の原因だとしている。武田勝彦は、〈欠視症〉の原因を、父の不慮の死の他、久野のサディスティックな愛し方に理由があると見ている。 今村潤子は、稲子の母が出会う〈黄の濃いたんぽぽのやうな少年〉や、父・正之が敗戦時に山中で出会った〈天女のやうに気高く〉〈神さまの巫女か、神さまのお使ひの妖精のやうな〉美しい少女が、「異常な状況の中にいる者を正常へ引き戻す力を与えられた存在」として造形されていることに着目し、彼らが〈魔界〉の世界の「出入り口」のところで、「両方の世界への仲介者としての働き」を持つ存在として居ると考察しながら、こうした〈妖精〉の属性を持った「〈魔界〉の誘引者としての役割」を担った中性的な人物が、他の〈魔界〉をテーマにした作品群『舞姫』『美しさと哀しみと』にも登場することを指摘している。 瀧田夏樹は、『たんぽぽ』が川端のノーベル文学賞受賞後も、約3年間放置されたまま絶筆になってしまった本当の理由は、〈師友〉であった三島由紀夫の衝撃的な突然の死があったからだとし、木崎正之という元旧陸軍中佐に、自身の戦後の虚脱感を重ねた川端の内面は、三島同様に敗戦による深い傷を負い、その「自覚的再生と結実」の戦後の活躍は、三島という後輩との邂逅と刺激によって保たれていたために三島を失った隙間を埋めるものは、「彼の余生にはもう残されていなかった」と解説している。 そして瀧田は、三島との出会いの時から川端が〈三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ〉と、その〈早成の才華〉の〈結実〉への希望を持ち、最後まで抱き続けた「三島由紀夫の恐るべき可能性への期待」の大きさゆえに、その死は同時に川端自身にとっての絶望になったとし、三島への計り知れない期待イメージは、〈たんぽぽのやうな少年〉に対する、〈人間の子〉とは思えない〈小妖精〉〈利発さうな子〉〈盗んで帰りたい〉という「もどかしさ」の印象に表われていたと考察している。 原善は、『たんぽぽ』で語られる様々な主題の中から、〈言葉〉について焦点を当て、川端がそれまで随筆や評論などで語ってきた一貫する言語観(言葉への不信)を踏まえつつ、川端が目指し続けた〈表現の革命〉として最後に手がけた『たんぽぽ』を、「言葉によって〈仮りの姿に装はれ〉た道徳・文化といったものの仮象性を痛烈に暴くことでそれらを批判し、さらにそれらによって抑圧されているものの発現の実相を描こうとしている作品として読まれるべき」とし、「〈悪〉〈狂気〉」と「〈愛〉〈純粋性〉」と二元的に分けて呼ばれるものの「分裂を止揚」し、〈根元の生命〉〈人間の実存、生命の本然の復活〉を志すのが〈魔界〉の世界観だと解説している。 そして原善は、作中の地名に関連のある謡曲『生田敦盛』『三井寺』の2篇に共通する親子間の愛のモチーフが『たんぽぽ』にもあるとして、稲子の〈欠視症〉が〈自分のある部分を見まいとする、愛する人のある部分を見まいとする、人生のある部分を見まいとする〉病だと記述されていることに着目しつつ、稲子の中には、「潜在的インセスト」(近親相姦)としての禁忌の「父恋」があると考察し、物語の二重の構造性(主人公の不在と欠視)が、「不可視の世界を幻出させる」という文学の機能をより際立たせ、読み手に、稲子の恋慕の対象である「非在の父を視ること」が強いられていく作品の構成意図を解説している。 森本穫は、川端が物語の下敷きにしたと思われる「生田川伝説」(菟原処女の伝説)や謡曲『生田敦盛』、三井寺伝承の謡曲『三井寺』『求塚』、民話『三井の晩鐘』などの親子間の情愛のモチーフや、『たんぽぽ』での仁徳天皇の御陵大仙陵古墳の白鷺の挿話や、稲子の入院する病院の建つ丘が〈皇陵〉に喩えられていることなどを統合的に考察しながら、稲子の〈欠視症〉が、死の世界にいる父への愛と、現前の恋人・久野への愛という2人の男の狭間で稲子が苦悩することに原因があるという導きをしている。 また森本は、〈魔界にはいらうとつとめて、魔界にははいりがたかつた〉という西山老人には芸術家としての川端の思いが込められていて、最後の『たんぽぽ』で自身の〈魔界〉の新展開を描こうとした実験意欲が看取されるとし、画家のゴヤの晩年に、自身の内面世界に棲む暗黒の〈魔界〉を仮託した川端が、もう1人の自身の分身でもある木崎正之を崖から海中に墜死させる意味や、稲子の造型に、川端の養女の黒田政子(麻紗子)があることを探りながら以下のように考察している。 深い罪障感と異様な孤独こそ、晩年の康成を覆っていた世界である。康成は、自分がそのような世界に住んでいることを、ひそかに読者に告白したかったのではなかろうか。だが、そのような内面の苦悩にもかかわらず、康成には、自分が〈魔界〉に入って、その境地を芸術作品に表現し得た、という実感はなかったのであろう。「魔界入り難し」という痛恨の想いが、康成には深くあったにちがいない。(中略)半面、康成は長大な「たんぽぽ」を構想するにあたり、みずからの生涯のこれまでの全てを賭けて、この作品で〈魔界〉を縦横に描こうとしたのにちがいない。〈魔界〉への挑戦――それが「たんぽぽ」に賭けた康成の決意であった。だが、稲子の母と久野との対話によって、稲子の深層意識を描き出し、併せて木崎中佐の悲痛な願望を表現しようとする大胆な構想は、挫折した。 — 森本穫「魔界の住人 川端康成 第十章 荒涼たる世界へ――〈魔界〉の終焉」 富岡幸一郎は、川端の『眠れる美女』『みづうみ』などの底流に流れる〈愛〉の交流の不可能性の主題を鑑みつつ、〈過度の、極度の、愛から〉久野の体が見えなくなる稲子の〈人体欠視症〉の意味を探りながら、「日常の時空間において、人間は互いに相手を侵犯することも、蹂躙することもなく、果して愛し合うことができるのか」という命題を可能たらしめるには、「その瞬間に地上の相手の『体』は、消え失せていなければならないのではないか」とし、この「不可能な可能性を追求した実験小説」が、川端が最後に辿り着いた『たんぽぽ』であり、川端文学の中でも最も前衛的で西洋的価値基準による近代小説から遥か遠くを見据えた作品だと解説している。 そして富岡は、川端がこの物語で「不滅の少女」を描こうとし、川端自身がその「聖性と同一化」することを目指そうとしているとし、川端の理想の少女像に元々ある「両性具有的な要素」が垣間見える稲子の存在を、「〈性〉に到達することのない〈純潔過ぎるほど〉の愛の透過性――すなわち愛する者の生命の核を永遠に侵犯することのない、抽象物としての〈男〉であり〈女〉である」と考察しながら、父の事故死と、久野との関係で現実には聖性を失い〈女〉になった稲子が、久野の前に〈桃色の虹のやうな弓形〉を見るのは、性愛を浄化し「透明な聖少女」への回帰を意味するものとしている。 また『たんぽぽ』で川端が試みたのは、〈小説の言葉〉をさらに逸脱し、文学以前の「声の世界」を求め〈日本の古典詩歌〉に近づくことであったと、川端の考えた近代小説崩壊観から富岡は考察している。 『たんぽぽ』が、稲子の母と久野の切れることない会話の叙述、つまり声(パロール)によって構成されたのは偶然ではない。この作家の“前衛”とは、つまり文字としてのこの国の千年の文学の奥底にある、隠された声の響きに耳を傾け、そこから原初的な愛欲の根源につながっていくという、「新しい」試みのことである。川端の描こうとする「魔界」も、この声のゆらめき(それは『雪国』の葉子の「悲しいほど美しい声」からすでに始まっている)のなかに現出するものであろう。 — 富岡幸一郎「川端康成 魔界の文学 第9章 抱擁する『魔界』――たんぽぽ」
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戦後メディア史研究者の有山輝雄は、2000年(平成12年)に『特攻隊に捧ぐ』発見のニュースを受けた際、「戦時中の言論統制が敗戦で終わり、さまざまな文学作品、言論が噴出した。そこでGHQが民主主義化の名分の下に表現を制限するという矛盾した構図があり、作家、記者たちも矛盾を抱えていた」と、終戦後のGHQによる出版界の規制について言及している。 プランゲ文庫の中にあった、「suppress(削除)」と大きなバツ印を付けられていた『特攻隊に捧ぐ』を実際に読んだ時の感想について岩田温は、「一人一人の特攻隊の真の姿に迫ったまことに生き生きとした名文」だと評し、以下のように述べている。 坂口は大東亜戦争を否定する立場に立ちながらも、特攻隊の精神の気高さというものに圧倒されているのだ。これはその正直な気持ちを吐露したものだろう。別段、戦争を肯定したり、美化しようという箇所など何もない。自分の中で美しく気高いと感じた特攻隊の姿を淡々と記述しているだけである。この坂口の文章がGHQによって削除を命じられていたのだ。特攻隊に対して自身の心の内の声を文字にした、この文章が削除させられたのだ。 — 岩田温「真実の歴史の復活を求めて―検閲と東京裁判史観―」 岩田温は、坂口の文章から、知覧特攻平和会館で特攻隊員たちの遺品や遺書を目にした時に、彼らが書いた「昭和維新の貫徹」、「米英撃滅」などといった国策的なイデオロギーの行間から、本当は死にたくなかった若者たちの苦悩や葛藤と、その心のまま出撃したかもしれない「切なさ」、その「高貴さ」に思いを馳せたことを思い出したとし、しかしながら、資料館を廻った人たちの感想文の中に、いかにもGHQの「東京裁判史観」に沿ったような意見もあったことに触れて、戦後のGHQの支配下で、「東京裁判史観」に合致する出版や記述だけに統制されていた日本人は、生きるがためにそれを受け入れ、自分たちの「素直な感情」の表現を禁止されているうちに、次第にその感情そのものも忘れ去っていったのではないかと論考している。そして坂口の『特攻隊に捧ぐ』に対するGHQの削除命令を目にした時のことを、「歴史の断絶とその原因が明らかになった瞬間」と表現している。
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『永すぎた春』は、『金閣寺』と同時に連載開始された作品であるが、文学的に評価の高い『金閣寺』の硬質な趣とは全く異なっている。しかし軽快な娯楽作品ながらも連載中に評判となり、刊行本となるやベストセラーとなった。 虫明亜呂無は、『永すぎた春』を三島が「あえて健康な市民に挑戦した作品」だとし、「健全さのもっている不健全さ、幸福のもっている不幸、社会的位置に与えられた栄光の翳り、家庭的充足の欠落と断絶」といったものを、作者の三島が「市民の側にたつという偽装で描いていった」と考察しながら、作品の明るさについて「意識の裏側からの逆光に浮きあがった作品の明るさにほかならなかった」としている。 西本匡克は、『永すぎた春』発表当時から40年以上の時が経ち、世の中に「できちゃった婚」や「バツ一」「バツ二」といった言葉が表すように、それが当たり前に変化した今日の社会風潮の中では、もはや「永すぎた春」という「ストイックなタイトル」が流行語にはなりえないことを鑑みて、『永すぎた春』で描かれたものを「世俗に対する純粋さ、結婚までの愛の成熟へのプロセスとしての価値」として作品を捉えてみるのも一考だと解説している。 十返肇は、『永すぎた春』が大衆向けに書かれた作品ではあるが、他の純文学作品同様、三島の「人生観」や「人間観」が表われ、「永すぎた春」という逆説を含んだ主題そのものが、三島らしい「洒脱なもの」だと評しつつ、恋愛は、周囲の反対が強いほど、「愛人同士の感情は密着して結ばれ」、周囲が理解を示し、祝福されると、「敵を失った情熱は、愛そのものを倦怠させてしまう」性質を持つため、主人公の2人の愛も、周囲に公認された永い婚約期間中、「緊迫した激しさ」が失われ、相手に強く惹かれなくなってゆく様相を説明し、それを、「〈幸福〉そのものが一種の〈不幸〉と化しつつある状態で、三島氏らしい狙いである」と解説している。 そして、そういった作者・三島の観方が「逆説的」だと言われがちなことについて十返肇は、「本当は逆説ではなく、きわめて順当な観察」だと述べ、「敵を失った青春などは、実に張り合い」がなく、「青年を青年たらしめるには、大人は頑固であり保守的であるほうが、むしろいいぐらいだという、それこそ“逆説”が生れそうである」としながら、青年にとって、「物わかりのいい大人」こそ、実は「眼に見えざる敵」かもしれないという視点から、主人公・郁雄の母親である宝部夫人の存在が、この作品において「二重の意味をになっている」と指摘し、宝部夫人が「物わかりのいい大人」だと自負しながらも、身勝手な振舞いをする点に触れて、以下のように解説している。 彼女(宝部夫人)は、自分では、こよなく若い者に理解のある物わかりのいい大人だと信じているが、実は彼女はなんにも青年たちを理解してはいないのだ。こういう人物こそが、本当は、青年の見えない敵であり、また、これが世にいう、ものわかりのよい大人の本質なのだ、つまりは子供と同じなのだという三島由紀夫の“逆説”がここにあるわけである。 — 十返肇「解説」(文庫版『永すぎた春』)
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『薔薇刑』は、「日本写真批評家協会」作家賞を受賞するなど反響を呼んだが、国内のみならず、ドイツでも評判となり、フランクフルトの国際図書展での人気を独占した。 安部公房は『薔薇刑』について、以下のような言葉を寄せている。 芸術家の真の願望は芸術を生み出すことにあるのではなく、あんがい、自分自身が、芸術そのものに変身してしまうことだったのかもしれない。沈黙せよ。沈黙して、生理を開放せしめよ。この一人きりの組織、ひとりきりの秘密結社に、いさぎよく加盟して、壁とともに、ひたすらたわむれるべきではあるまいか。 — 安部公房「三島氏、芸術に変身す――細江英公写真集『薔薇刑』に寄せて」 山中剛史は、三島が〈ぼくはオブジェになりたい〉と言って、「モノとしての強い存在感」を求めていたことや、世界旅行のギリシャで、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることとの、同一の倫理基準の発見〉をしたことを鑑みながら、『薔薇刑』で三島が、「作家という肩書きを取り去った三島自身の客観性を帯びたモノとしての肉体それ自体が求められ、筋骨逞しい自身の裸体を惜しげもなく曝すことで、三島は存在感の充溢を感じることとなる」とし、その後三島が「オブジェとしての三島像」として、矢頭保や篠山紀信の被写体となって、「最終的には自己のオブジェ化を突き詰め、果ては自己の死体(扮装)写真集『男の死』(未刊)として結実することとなる」と解説している。
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『音楽』は娯楽的な趣で、三島由紀夫の主要作品ではないため本格的な論考はほとんどなされていないが、1960年代の〈人口一千万の大都会〉東京を舞台とした都市小説として位置づけられ、神経症患者の増加という社会システムの歪みに対して鋭敏に反応していた当時の三島が時代に抱いていたニヒリズムや絶望感の一端が垣間見えるものでもある。小笠原賢二は、三島が同時期に発表していた二・二六事件三部作(憂国、英霊の聲、十日の菊)などと併せた総合的な論究の必要性を指摘している。 澁澤龍彦は『音楽』を、「あたかも推理小説のごときサスペンスをもたせて、一女性の深層心理にひそむ怖ろしい人間性の謎が、ついに白日のもとに暴き出されるまでの過程」がじっくり描かれているエンターテイメントとして上出来の作品だと評し、冷静な合理主義者の分析医が、虚言壁のある美貌の患者に図らずも惹かれる様は、名探偵が犯人の女性に惹きつけられていくのと似ており、そこに作品のふくらみが増している起因があるとしながら、以下のように作品解説している。 私が言いたいのは次のようなことだ。つまり、この小説は一面から見れば、たしかに精神分析の理論に則った小説ではあるけれども、もう一つの面から見れば、従来の精神分析の理論のみによってはなかなか割り切れることのできない、人間精神の不条理さを描き出そうと試みた小説である、と。したがって、これは既成の精神分析学批判の小説であるとともに、現存在分析一派のいわゆる「愛の全体性に到達する」とはいかなることであるかを、小説家の想像力を媒介とした、具体的な症例によって検討しようとした、きわめて野心的な小説でもある。 — 澁澤龍彦「解説」 松本徹は、精神分析学の徹底した否定論者であった三島が、『音楽』では逆にそれを利用し、「性の諸相」を展開させているとし、「近親相姦への恐怖」は三島の性を考察する上で重要であるため、その意味でも「見逃せない作品」だと解説している。
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佐伯彰一は『剣』を「かくべつ充実した作品」と評し、クライマックスは主人公の自殺となっているが、「一種澄妙な透徹感が全体をつらぬいていて、爽やかな後味さえのこす」と述べて、その「恐ろしいほど透き通った澄明度、主人公の剣道の構えそのままに一分の隙もない均斉ぶり」において、『憂国』よりも上だと賞讃している。そして剣道の動作を表わす描写を、明澄で「フィジカルな力にあふれた描写」とし、そこに見られる「鮮明なイメージ」を、「無駄のない直截さ」と評しながら、その文体は「必要なものは、くまなく形象化されながら、一切の贅肉は思いきりよく剃り落とされ」て、柔軟かつ張りつめているとしている。 そして、主人公を〈稀な、孤独な〉人物だと簡素に表現している三島の描き方について佐伯は、人物像を綿密に描かないことによって、「緊張と一貫性の効果」を生み、「鋭利な一瞬の疾駆のような、見事な虚像」となっているとし、ヘミングウェイが〈稀な、孤独な〉漁師や闘牛士を「鋭利な筆致」で「古き良きアメリカの魂」を描いたように、三島もまた、『剣』のような「見事な主人公を通じて、古き良き日本の魂をとらえ得た」と評しつつ、その「抽象化し、純化して、ほとんど余白で暗示に頼るという筆致もまた、古き良き日本の芸術の方法」であったと解説している。 佐藤秀明は、最後の主人公の合理的には割り切れない決意には、三島が『林房雄論』や、『剣』と関連して円谷幸吉への献辞でも述べる〈純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定〉という〈変革の原理〉へと結びつく情念があり、それは三島文学に見られる「現実が許容しない詩」とも言い換えられると考察しながら、それを三島は、〈もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」〉として掘り起こしていると解説している。 松本徹は、『剣』や『林房雄論』などを書いていたこの時期の三島の心境について、思想、イデオロギーを越えた、「われわれの内を強く流れる心情とでも言うべきもの」へと関心を向けていたと解説している。また、ささいな裏切りも許さず自決した主人公の最後を、「剣の強さがガラスのように繊細で透明なものとなり、砕け散るところ」が捉えられていると評している。 菅原洋一は、「三島の短編のみならず、その作品中でも、屈指の作品のひとつである」と『剣』を評し、〈青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる〉と考えていた三島の言葉を引きながら、「(三島)自身の分身ともいうべき次郎の死は、むしろ完成劇であった」と解説している。 そして、〈ただ一点を添加することによつて瞬時にその世界を完成する死〉という、三島が語っていた言葉を挙げ、「次郎の唐突な死」がそれであったと指摘しつつ、それは作者・三島の「浪曼」であり、「次郎の心情の顕在化」でもあると共に、『剣』の幕切れにふさわしい「強烈な完成」だと論考している。また、冒頭と結末部において、次郎の黒胴につけられた「二葉竜胆の金いろの紋」が、意図された符牒のようになっている点を解説しながら、竜胆の花言葉(強い正義感、的確、誠実、悲しんでいるあなたを愛する)と『剣』のクライマックスが重なり印象的だと評している。
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『機械』は、発表当時その画期的な技法で注目され、高い評価を受けた横光の代表作である。その複雑で精緻な心理描写は、ジョイスやプルースト、シェストフ、谷崎潤一郎などの作品からの刺激もみられる。小林秀雄は『機械』を、第二の『日輪』と位置づけ、「世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書だ」とし、「この作品の手法は新しい。それは全然新しいのだ。類例などは日本にも外国にもありはしない。といふ意味は、其処に立つてゐるのは正しく横光利一だといふ事だ。抜き差しならぬ横光利一が立つてゐる」と激賞した。 川端康成も、『機械』を『時間』と共に、「横光の作風が心理的になった初めの名作であり、問題作」だとし、「心理の横糸、図式、あるひは交響、波動は、人によつていろいろ解釈されるだらうが、その根底の横光の仏心を私は感じる」と評している。そして「文字がぎつしりつまつてゐる」読点のない文章については、「作者がかういふ形式を選んだのは、人間共を息苦しく結晶させるためだつたのだらう。工場全体を一つの生きものとして取り扱ふためだつたのであらう」と考察しながら以下のように高評価し、また「作品が純粋な結晶のやうに隙がなく、人間が作中で運命のやうに生きて行く」といった小説としての純粋さが、ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』と似通っているとしている。 工場の人間共の、心理の、性格の、運命の複雑な交錯に、この作品は終始してゐる。交錯といふ言葉では足りない。人間のそれらのものが、深く食ひ込み合つてゐるのだ。そして歯車のやうに動いて行くのだ。工場はそれらの人間で、組み立てられた精巧な機械である。その機械の動きを書いたものだ。(中略)それなら、その機械の動きはどういふものであるか。性格や心理の書き方の異常な力に打たれたと云ふ以上に、私はそれの簡単な説明は出来ない。人間と人間の交錯を書くとは、余りに古くからのことであり、またそれ以外に文学はなかつたと云へるが、われわれはその文学の本質の全く新しい試みを、この作品に見るのである。少くとも、それに与えられた飛躍的な進歩を認めるのである。 — 川端康成「横光利一氏の作品」 また『機械』は海外でも注目され、サルトルは実存的な不安を文学化する方法として『機械』を賞賛し、それは「もはや自分で自分が分らなくなった知識人」を描いており、最後の他人の死が自分の罪なのか他の男のせいなのか、自分が誰なのかも分らなくなる状況となり、不安の中にとどまるとし、「これは“廻転装置(トウルニケ)”として、まったくよくできていて、見事なものでした」と評している。 小林秀雄とは違った側面から『機械』を見る伊藤整は、人間関係や社会条件の組み合わせの中で生きている現代人の実体を描写する方法は弁証法的であるとし、それは、「ひとつの存在、それに対立して現れる別の存在、その二つの間に生まれる力の関係のバランス、さらに別な存在や事件が加わることで、バランスの実体が変わっていく。すなわち人格を中心とする永続的実在の否定である」ようなものであり、その点で『機械』で使われている描写法も、「心理主義的であるよりも弁証法的であり、または心理主義であることにおいて弁証法的である」と考察している。そしてこういった「人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶす」という考え方は、極めてニヒリスティックであるとし、この認識は当時の日本社会の人間実体に肉薄したものだったと述べ、「なんらかの新しい道徳を設定しない限りこの認識の不安は耐えがたいものなのである」と現代人の相対的不安定性について指摘している。 篠田一士は『機械』について、横光の「文学的独創性を確立」したという意味で、現在でもこの作品なくして横光の文学を語れないほどの「重要、かつ本質的な作品である」と評し、一見20世紀ヨーロッパ文学の新たな合理精神から生まれた「現代小説の器」を取り入れていながらも、そこに横光は、「四人称の設定」という「柔軟な美学的基軸」で全体を統合し、私小説を支えている「感覚的な倫理感」を密かに苦心して生かそうとしていたと解説している。 「人工的なスタイル(文体)の作家」として、泉鏡花、芥川龍之介、川端康成と共に横光利一の名を挙げる三島由紀夫は、どちらかといえば、川端が鏡花同様、その「人工的な天性をそのまま人工的文体」に生かしているのに比し、横光は芥川同様、「人工的な天性から逆の自然的なスタイルを生み出そうとして苦悶した」作家だと系列的に位置づけ、『機械』の文体については、「故意に句読点と段落を極度に節約し、文脈には飜訳調を故意にとり入れてゐる。すべてが、この小説の主題の展開にふさはしいやうに作り上げられた文章である」と述べ、その終結部も、「機械の鋭い先尖がぢりぢり」読者を狙って来るように感じられると表現している。 そして三島は、日本人が日本語の文章を書く際の通例として、「日本語の一語一語が持つてゐる伝統的ニュアンスといふもの」に多く依存しているという特性に言及しながら、横光が試みた実験は「日本語から歴史や伝統を悉く捨象して、意味だけを純粋につたへるところのいはば無機質の文章を書くこと」だったとし、日本の明治期の哲学者が、ドイツの観念論用語を翻訳し、漢語で新しい「抽象的な日本文」を作ったものの、それが経年すると、「苔が生えるやうに、日本語としての複雑なニュアンスを帯びてくる」不思議さに触れつつ、以下のように解説している。 「機械」の文章は、今日も日本の歴史の苔のつかないふしぎな乾燥した抽象的性格を保持してゐる。それはまた題材乃至主題との幸福な出会ひでもあり、横光はかうして作つた文体でいくつかの短篇を書くが、それが彼の固有の文体にまではならないのである。 — 三島由紀夫「横光利一と川端康成」 また『機械』と違う形で成功した『寝園』の文章と比較しながら、『寝園』の文章は一見『機械』より「リアリスティックな感じ」であるが、それは「全く歴史性をもたぬ」文章や登場人物の風俗生活に由来し、「抽象への情熱」は、「装飾的な心理分析へ陥る危険を示してゐる」と前置きし、以下のように評している。 横光の到達しえた最もリアリスティックな文章は、したがつて、「機械」の文章――氏の技法上の冒険が、人間性探求の冒険と、最も無垢に歩調を合はせたときに生れた文章――であるといへよう。 — 三島由紀夫「横光利一と川端康成」
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『禽獣』は川端自身が非常に〈嫌悪〉を表明している作品であるが、逆にそこから「川端康成」という作家の本質的なものを探る批評や作家論に発展することが多い作品である。発表当初から様々な評論があるが、三島由紀夫の論などを経た後から本格的な作家論が活発的に展開されるようになった。 王薇婷は、川端が主人公の〈彼〉と同じように、当時純血の犬しか飼っていなかったことや、舞踊と少年少女の文章にも強い関心を示していたことを鑑みて、「犬、舞踊、少女の文章」を〈純粋なもの〉と定義している川端が、その中に存在する〈美〉と〈生の喜び〉について語り、当時「生が衰弱へと傾斜していた」川端にとり、そういった〈純粋なもの〉は「救済」だったとしている。 そして王薇婷は、〈彼〉の家で飼われているのは、すべて〈人工的に、畸形的に〉育てられた愛玩動物であり、〈彼〉が求めているのは、「人工的な〈純粋〉」だと解説し、川端が自作『禽獣』への〈嫌悪〉を繰り返して語った理由は、自身と多くの共通性を持つ主人公の〈彼〉との間に「引くことのできない境界線」をあえて引き、「〈人工の美〉に拘泥する〈彼〉の醜さ」を批評するためだと論考している。 藤本正文は、『禽獣』の中で川端が自身の〈嫌悪〉をいかに処理、定着しているかについて、主人公の〈彼〉の「毒々しい眼」は世間一般の人間に向けられ、他人を刺す一方、その眼は〈彼〉自身にも向けられ、それは「そのまま当の己をも刺す両刃の剣」のような構造をしていると解説している。また、「人間にない生命の純粋さ」を小鳥や犬に見出したときの〈彼〉の眼には、「嫌悪の毒」が全く無いが、しかしながら同時に、「〈彼〉の眼がその瞬間どう浄化されようが、本質的には人間の眼でしかないというところに越え難い淵が横たわる」と考察している。 そして藤本は、千花子の合掌の顔に〈虚無のありがたさ〉を感ずる〈彼〉の祈りは、「禽獣の純粋な生命の讃歌」に通じ、人間・千花子にではなく、「無心の生命」に向けられ、〈彼〉の「共感、感謝」は「禽獣の世界」に注いでいると説明しつつ、川端が〈彼〉の眼を通して、「自己の資質たる感性の両極」を見事に使い分けているとし、〈彼〉の「感性の翼が飛び交う世界」を設定し保護する「知性」は、「観念的な論理が先行するような類のもの」ではなく、「感性自体の特質を知悉した精神の批評性」とでも言うべき性格の「知性」だと考察している。 また、「禽獣の命の讃歌の裏側」には常に「暗闇にも似た死の深淵」が横たわり、「死の闇の中に瞬間的に浮ぶ生命は、その瞬間瞬間のはかなさの一点で時間による風化とは無関係であり得る」とし、以下のように解説している。 「彼」の見つめている禽獣の命の明りは、まさに生が死の闇へと燃え尽きんとする瞬間の残光なのである。命の純粋さはこのはかなさによって感覚的に保証される。虚無と死が密着してしまえば「彼」の感性が飛び交う空間は消滅してしまう。死と相接しているが死ではない虚無を信じてともされる無心の生命の明りが「彼」を生の側に留めているのである。この一点の感覚的緊張によってのみ「彼」の空虚な内部は、形骸と化すことから免れている。 — 藤本正文「川端康成研究――『伊豆の踊子』から『禽獣』まで」 三島由紀夫は、『禽獣』には「小説家という人間の畜生腹の悲哀が凄愴に奏でられてゐる」とし、幼くあどけない雌犬が自身でもよく分からないまま分娩をする眼差には、「自分の生んだ作品を眺める作家の眼差」との「残酷な対比」が寓意的に示され、そこには、「作家は本来この犬の眼差をもつ権利がある」という川端の「絶望的な夢想」が見られると考察しながら、その雌犬の「あどけない無責任な眼差」(「造物主の眼差」)を有する権利を欲する芸術家(人間でありながら人間を洞察する宿命を負った作家という存在)が、「人間の眼差をもつて生れたことに呵責」を感じつつも、そのどちらも「捨離」できないという「二重性」のジレンマについて論考している。 また三島は、川端作品の中でも特に『禽獣』を傑作と高く評価し、川端の思想を論じる時に欠かせない重要作だとしつつ、そこでは犬と女の生態が重複していることを指摘し、以下のように解説している。 このあからさまな禽獣の生態と、女の生態とが、しばしば重複する幻覚として描かれた短編の中では、女はイヌのやうな顔をし、イヌは女のやうな顔をしてゐる。作家が自分のうちに発見した地獄が語られたのだ。かういふ発見は、作家の一生のうちにも、二度とこんなみづみづしさと新鮮さで、語られる機会はないはずである。以後、川端氏は、禽獣の生態のやうな無道徳のうちに、たえず盲目の生命力を探究する作家になる。いひかへれば、極度の道徳的無力感のうちにしか、生命力の源泉を見出すことのできぬ悲劇的作家になる。これは深く日本的な主題であつて、氏のあらゆる作品の思想は、この主題のヴァリエーションだと極言してもいい。 — 三島由紀夫「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」 そして、川端がそこで「地獄」をのぞき、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」が『禽獣』であると三島は指摘し、「鋭敏な感受性」を持つ川端のような作家が、もしも救いを求めて、西欧的・批評的である「知力」にすがろうとすれば、「知力」は「感受性」に「論理と知的法則」を与え、「感受性」が論理的に追いつめられ、「極限」(地獄)へ連れていかれることを説明し、川端と同様の契機で横光利一が『機械』で「知的」なものに接近し成功するが、それ以降は「地獄」「知的迷妄」へと沈み、才能があったのにもかかわらず本来の気質に反し作家人生が失敗に終わってしまったのとは対照的に、川端はその「極限」(地獄)の寸前で、あえてそこから身を背け、「情念」「感性」「官能」それ自体の法則のままを保持する「無手勝流」の文学になったと考察している。 川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。氏の最も西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが私の意見である。(中略)私がことさら、昭和八年、氏が三十五歳の年の「禽獣」を重要視するのは、それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形を、この作品で、はじめて氏が直視してゐる、と感じるからである。氏は自分の作品世界を整理し、崩壊から救ふべく準備しはじめるが、いふまでもなくこれは氏の批評的衝動である。 そのとき氏は、はじめて日本の風土の奥深くのがれて、そこで作品世界の調和を成就しよう、西欧的なものは作品形成の技術乃至方法だけにどどめよう、と決意したらしく思はれる。そして昭和十年に、あの「雪国」が書きはじめられる。 — 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」
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『雪国』は川端文学を代表する名作と呼ばれている。海外でも評価は高く、川端が受賞したノーベル文学賞の審査対象となった作品でもある。また書かれた当時は、日本国外にいる日本人が故国の郷愁を誘う作品として愛されていたという。川端はそのことについて以下のように語っている。 私の作品のうちでこの「雪国」は多くの愛読者を持つた方だが、日本の国の外で日本人に読まれた時に懐郷の情を一入(ひとしお)そそるらしいといふことを戦争中に知つた。これは私の自覚を深めた。 — 川端康成「あとがき」(完本『雪国』)、「独影自命――作品自解」に再録 小林秀雄は、「火の枕」の章が発表された時点で、作品の主調を形成しているものを川端の「抒情性」として、その本質を以下のように解説している。 こゝに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みであるのだ。川端氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、こゝまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。 — 小林秀雄「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』―」 伊藤整は、『雪国』の「抒情の道をとおって、潔癖さにいたり、心理のきびしさの美をつかむという道」という「美の精神」は、『枕草子』や俳諧などの脈に通じているとし、その日本の抒情の古典は、川端の『雪国』において「新しい現代人の中に、虹のように完成して中空にかかった」と評している。そして『雪国』の随所や終結部に見られる微妙な描写の特徴的な手法は、「現象から省略という手法によって、美の頂上を抽出する」という仕方をとっているため、「初歩の読者はそこに特有の難解さを感じ、進んだ読者は自己の人間観の汚れを残酷に突きつけられる。そういう点からは、大変音楽的な美しさと厳しさを持っている」と解説している。 福田和也は、『雪国』を「20世紀10大小説の一作」、「ヨーロッパの世紀末文学の理想、ボードレールやワイルド、リラダンが求めて果たさなかったデカダンの理想を実現してしまった作品」だと評し、以下のように解説している。 デカダンスにはいろいろな見方があると思いますが、近代的人間性を徹底的に否定するインヒューマニティ、その残酷さが持っている美を極限まで押し進めるとあの小説の世界になるのだと思いますね。主人公の設定もそうですし、それから自然の描写ですね。人間性をはっきり拒絶したところから出てくる自然を描いていて、メタリックといってもいいような突き抜けた力があって、ニヒリズムすら必要としない無情さが溢れている、これは本当におそろしい作家がいるという感覚を持ちました。 — 福田和也「本人もコレクションもおそろしい」 三島由紀夫は、『雪国』の冒頭の汽車の窓ガラスの反映描写を、「川端文学の反現実的なあやしさが、一つの象徴としてかがやいてゐる」とし、それはあたかも「哲学書の序論」で、「各種の哲学用語」が定義されているように「全篇の序曲」となり、この作品の中における「人物」「風景」「自然」「事件」が何であるかが、「あらかじめ提示され、ひそかに答へ尽くされてゐる」と説明している。 そして全篇を読了した後に気づく、その序曲の意味について三島は、作中の人物たち(駒子や葉子)が〈不思議な鏡のなか〉で、〈夢のからくり〉のように眺められる存在で、読者や島村に〈悲しみを見てゐるといふつらさ〉を与えず、作中の風景は〈夕景色の鏡の非現実な力〉の支配下にあり、作中の事件も、火事で葉子が2階から転落しても、汽車の窓に反映した葉子の顔に火が点ったのと同様の、「人間と自然とが継ぎ目なく入りまじる静かな奇蹟の瞬間」に他ならないことだと解説している。 さらに、その葉子の失心した姿を見る島村が、〈島村はやはりなぜか死は感じなかつたが、葉子の内生命が変形する、その移り目のやうなものを感じた〉と表現されていることに三島は触れ、以下のように解説している。 定めない人間のいのちの各瞬間の純粋持続にのみ賭けられたやうなこの小説に、もし主題があるとすれば、この一句の中にある。(中略)それは女の「内生命の変形」の微妙な記録であり、焔がすつと穂を伸ばすやうなその「移り目」の瞬間のデッサンの集成である。駒子も葉子も、ほとんど一貫した人物ですらない。一性格ですらない。彼女たちは潔癖に、生命の諸相、そのゆらめき、そのときめき、その変容のきはどい瞬間を通してしか、描かれないのである。作中に何度かあらはれる「徒労」といふ言葉は、かうして無目的に浪費される生のすがたの、危険な美しさに対する反語である。 — 三島由紀夫「解説 雪国」(『日本の文学38 川端康成集』) また、「放り出すやうに」突然と川端が〈空と山とは調和などしてゐない〉と書いているように、川端の描く自然描写は単なる美しい描写ではないことを三島は指摘しながら、ディテールの「純粋な持続」が、読者自らがそれを綜合してしまうような作用をもたらす『雪国』を「ユニークな小説」とし、「同時に又、もつとも普遍的な小説なのである」と評している。 梅澤亜由美は、川端が『浅草紅団』で都市を描いた直後に『雪国』が書かれた視点から考察し、「あきらめの世界である都市」から逃避してきた島村は、「非現実的な雪国の世界」を求めたが、そこにも「東京に散った男を巡る三角関係と東京を背負いながら雪国に埋もれていこうとする女」を見ることになり、「美しい非現実の世界」だけでなく、島村が逃げてきた「東京の影」がそこに付きまとっていると解説している。 そして雪国を立ち去らなければならない島村が、美しい天の河を見た直後に、雪国で最後に見た火事の虚しい光景は、絶望や失意を秘めているが、ラストにおいて島村の中へ天の河が音を立てて流れ落ちるように感じたのは、そういったもの全てを超越したものを感じたとし、「そこには全てを圧倒し、包み込んでしまうような“自然の力”がある」と梅澤は考察している。
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謎の多い『豊饒の海』への論究は非常に膨大な数があり、様々な観点から研究論がなされている。三島の他の作品との共通点を探る比較論的なもの、典拠となった『浜松中納言物語』との比較論や、作品世界の構造を論じたナラトロジー的なもの、『竹取物語』や『源氏物語』と重ねる研究論、個別の作中人物(本多、清顕、勲、ジン・ジャン、透、聡子、みね、蓼科、鬼頭槇子)の行動や内面を探ったもの、誰が贋物の転生者であるかを探ったもの、輪廻転生と唯識論の宗教論的な観点からのもの、結末部の解釈を巡っての解釈論、日本の近代史などの歴史や社会的な背景(神風連、二・二六事件や天皇)との相関関係から論じたもの等々、多岐にわたって論究されている。 奥野健男は、最終巻『天人五衰』の終り方が、三島の初刊行小説『花ざかりの森』の終結部で老婦人が、〈どこへ行つてしまひましたやら。あんなものずきなたのしい気分。……わたくしのどこかにでも、そんなものがのこつてゐるやうにおみえでせうか〉と言った後に、客人を庭に案内し、〈生がきはまつて独楽の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……〉という末尾と酷似していることを指摘している。奥野は「三島由紀夫の文学の華やかで激しい三十年は、同じ空夢の幻影から空夢の幻影への夢のまた夢というであったのであろうか。それが真の文学というものなのかもしれない」と述べている。 井上隆史は、三島の自死の日が、『仮面の告白』の起筆日の日付と同じことに着目し、『仮面の告白』の執筆動機が、〈私が今までそこに住んでゐた死の領域〉を超克することで、〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉ような〈生の回復術〉だと三島が位置づけていたことから、以下のように論考している。 三島が死の日付として、また『天人五衰』の擱筆日として11月25日を選んだのは、フィルムを逆回転する前の状態、つまり自殺者が谷底で死んでいる状態に戻るということを意味する象徴的行為ではないだろうか。すなわち、『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。 — 井上隆史「虚無の極北の小説」 佐伯彰一は、三島が「純粋情念こそ歴史をふみこえ、時間をのりこえ得るという思念」に繰り返し心惹かれていた作家であったことを鑑みて、『豊饒の海』の「時間の流れ」自体の定着に三島の意図はなく、むしろ「時間から脱け出し、時間を超えること」に三島の的があり、「時間の超克、棄却」が目指されていたとし、「近代小説の大前提と常識に向って正面切った反抗をくわだてた作品」で、「三島流の壮大な反・小説の試み」がなされていると解説している。 柴田勝二は、『金閣寺』や『憂国』『英霊の聲』など三島文学には、主人公を行動に駆り立てる「他者的な精神や霊魂的な浸透」や、「別個の人間間で、その精神や魂が憑依する関係性」があるとし、『春の雪』の煮え切らなかった清顕が、聡子への強い恋情を自覚する「変身」も、「烈しい恋愛者の霊魂が入り込んだ」場面だと考察し、その〈みやび〉の烈しさや荒々しさは、倭建命や王朝貴族に底流し、〈非常の時には、「みやび」はテロリズムの形態をさへとつた〉 という三島が『文化防衛論』で言及している意識と同じだと解説している。 また、『サド侯爵夫人』にも見られるように、三島が作中の年や日時にメッセージを込める傾向を鑑みながら、聡子と皇族の婚約の勅許が下るのが5月15日で、清顕が月修寺の聡子を訪れる日に雪が降り、2月26日だという、「五・一五事件」と「二・二六事件」との連携性を柴田は考察し、転生する主人公たちの寿命が〈二十歳〉であるのは、伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとに行われるという神道的な意味合いで、三島が『文化防衛論』で展開している、〈いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになる〉 という関係性がそこに反映されているとし、本多が勲を見て〈清顕がよみがへつた!〉と感銘するのは、清顕が勲に「再生」していることの表われだと柴田は解説している。 そして『天人五衰』の入稿日と自決の11月25日の意味については、「昭和天皇が摂政に就任した日」という安藤武の考察と、松本健一の「(三島が)じぶんだけの〈美しい天皇〉を抱きしめ、その〈美しい天皇〉の歌をもはや誰にも歌わせまいとして、一人あの世へと走り去ってしまったのではないか」という考察 を敷衍しながら、「時代への抗議」と共に三島が、昭和天皇が事実上〈神〉になった日に自決することで、人間天皇の代りに自らが「〈神〉の連続性」を掴んで、「神になる」行為であったとし、自国の主体性がなくなった時代背景を基調に書かれた最終巻の意味について柴田は以下のように論考している。 『天人五衰』においては転生が受け継がれず、憑依も狂女の上に劇画的にしか現われない。それはとりもなおさず、転生者たちに秘かに託されていた「天皇霊」の継承を、主人公ではなく、三島自身が担おうとしたからであっただろう。作品の末尾に記された「昭和四十五年十一月二十五日」という、四部作の完結と決起の日を結びつける日付は、自身の最期の鍵がこの作品自体にあることの表明にほかならなかった。また藤原定家を主人公として、人間が「神になる」主題を追求する作品はついに書かれなかった。それは三島自身が「神になる」行為を全うするゆえに、書く必要がなくなったからでもあったに違いないのである。 — 柴田勝二「〈神〉となるための決起――『天人五衰』と1970年11月25日」 松本徹は『天人五衰』の最終場面について、生まれ変わりの連鎖にずっと立ち会い、それに囚われてその連鎖から脱け出せない本多と、輪廻の連鎖から逃れたところの解脱の立場にいる聡子が「向き合っている」ということが肝心だとし、最後の〈何もない。記憶もなければ何もないところ〉は、「世界すべて消えるのではなく、輪廻の一つの輪が終わろうとしているところ」だと説明しながら、そこには「輪廻する生を根底で成り立たせているところのものが、露わになっている」と解説し、以下のように論じている。 冒頭の、透が望遠鏡で見た、なにも見えず、「いつもしたたかに存在の用意を蓄えてゐる」海に照応する、阿頼耶識そのものが、露わになって日に晒されているのです。さらに言えば、もろもろの存在を出現させるべく用意している存在の基底が、露出しているのです。唯識論に拠った「究極の小説」にふさわしい最後です。また、それだからこそ『豊饒の海』は、なにがなんでも完結させなくてはならなかったのです。この世なるもの、さらには小説なるものを出現させている、大本の大本が、ここには顔を覗かせているのです。 — 松本徹「究極の始まり『豊饒の海』(二)」 佐藤秀明は、この松本の論を敷衍しながら、本多の自意識の〈悪〉(直接手を下さずに世界を〈虚無〉に陥れる)についても考察し、本多が聡子に再会しようとしたのは、聡子から世界を肯定されることで、「その時本多の自意識は、世界を無に陥れようと図っていた」とし、以下のように論じている。 聡子によって世界が肯定され、本多の自意識がそれを無に移し変える、ただそれだけのことに老齢の本多は賭けたのである。本多の気配に異様なものを察知したのかどうか、門跡は唯識の立場で話をした。〈松枝さんといふ方は、存じませんな〉。世界は肯定されず、空である。本多の最後の目的は潰えた。世界は空である。しかし、阿頼耶識は世界を存在させる。だから〈庭は夏の日ざかりの日を浴びて〉そこに存在するのである。 — 佐藤秀明「〈作品解説〉豊饒の海」 宮崎哲弥は、第三部『暁の寺』でさかんに説かれている仏教は「中観ではなく、唯識仏教」だとして、「(阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做す)唯識説が仏教哲学の精華として礼賛されて」いるとし、ナーガセーナの見解も「不徹底な立場と決めつけられている」と批判しつつ、「かかる仏教観が、そっくり三島自身のものでもあったとしたら、彼の仏教理解は、極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない」としている。 小室直樹は、第三部『暁の寺』について、「仏教のエッセンスは、ここにつきていると言ってよい」とし、三島が『ミリンダ王の問い――インドとギリシャとの対決』の一節を説明して、〈ナーガセーナ長老は、はるかはるか後世になつてイタリアの哲学者が説いたのとほとんど等しく、《時間とは輪廻の生存そのものである》と教へるのであつた〉と導いてゆく件りについて、以下のように評している。 日本人はすぐに『般若心経』こそ仏教の真理のダイジェストだと言いたがる。(中略)三島由紀夫の仏教理解が、いかに徹底したものか。三島は決して、そこらへんの日本人がやりたがるように、『般若心経』の解説なんぞしはしない。宗教音痴の日本人に仏教の神髄を理解せしむるために、『ミリンダ王の問い』を引用し解説する。これのみにて三島の仏教理解の深さ、はるかに日本人を超えていると評せずんばなるまい。 — 小室直樹「戦後天皇制に挑戦した三島由紀夫」 また小室は、第四部『天人五衰』冒頭で三島が海の波を描き「万物流転」を表現していることについても、「仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない」と評している。
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作品評価・研究
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「舞姫 (川端康成)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『舞姫』は川端文学の中ではあまり注目度は高くはないが、のちの川端の重要モチーフとなる〈魔界〉というものを意識し始めた作品として、言及されることが多い。しかしその主題は結実することなく未完の様相で終わり、登場人物が真に川端的な〈魔界〉の住人として動き出すところまでは描かれてはいない。川端作品には、踊子や舞姫の生活を扱ったものが多いが、この『舞姫』は、ヒロインがバレリーナであるという意味よりも、「むしろ、美しいもの、充たされたものを求めて乱舞する人間永劫回帰の姿の象徴」として描かれていると三島由紀夫は説明している。 『舞姫』の登場人物のそれぞれに「無力感が配分されてゐる」とみる三島は、ことに導入部で波子が見つめる「不気味な白い鯉」の姿を、「あらゆる人間関係の端緒がとざされてしまふやうな、或る美的な虚無の象徴」として作品全体の「不吉な主題」のように遊弋しているとし、この冒頭の波子と竹原のあいびきの挿話が、全体の大きな伏線をなし、結局二人は「熱情的に結ばれることなく終る」という予感となっていると解説している。また、『舞姫』の主題である「仏界、入り易く、魔界、入り難し」に三島は触れ、矢木に「センチメンタル」だと憫笑される波子と品子母子は、〈魔界〉に入れるほどの踊りの天才ではなく、矢木もまた、「強い意志で、生きる世界」という意味での〈魔界〉の住人でなく、「無力」な「観察の悪魔」であり、「登場人物すべての無力は、この矢木の無力から流出し、矢木の呪縛下にある」と考察しながら、最後に品子が香山の元へ向かうことに、「その呪縛の一角の崩れたことが暗示される」と解説している。 今村潤子は、物欲に執着している矢木が、「科学者の冷厳な眼」「第三者的な立場」で一家を眺めるだけで、「自らの生きる姿勢に煩悶していない」点に触れ、それが三島由紀夫のいうところの「昆虫学者」的な「観察の悪魔」であると補足し、その矢木の魔界(煩悩)の属性は、「川端の〈魔界〉からは切り落とされていく面(デモン的な面)の要素が大きい」としながら、川端の〈魔界〉は「悪や醜」ではないことを指摘している。そして世俗的にみればモラルに反した「不倫」である波子の行為は、「〈魔界〉においては愛の純粋性ということで肯定される」ものであるが、世の中の道徳や社会性に背き、その束縛を破り、「〈魔界〉を生きる」のは容易でないゆえに、それが〈魔界難入〉という意味であると今村は考察し、〈センチメンタリズムを排した世界〉、〈強い意志〉という作中の繰り返しの言葉は、人間が「煩悩」、「本然の生」を生きぬくことがいかに難しいかを指し示していると解説している。 ヒロイン・波子の人物造型を、「能の鬘物のシテのやうに、優婉に、哀れふかく」描かれているとみる三島は、波子の願いが「片端から崩れてゆく」にもかかわらず、彼女は、エマ・ボヴァリイのような「不満に燃えつづける魂」でなく、「ある意味ではもつと不逞であり、罪を罪のままに、悲哀を悲哀のままに、絶望を絶望のままに享楽するすべを知つてゐる」と考察している。そして、そういった川端の執筆態度には、「独特のリアリズム」があり、「作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである」としつつ、ロマン派のネルヴェルも、心理主義のプルーストも川端同様、「自然主義リアリズムの二流作家よりも、ある意味では透徹したリアリスト」だったと三島は指摘し、以下のように解説している。 およそ通念に反して、川端氏は女に何の夢も抱いてゐない作家に相違ない。波子の描法はそのことを暗示する。女というものを、これほどただ感情的に女らしく、女に何の夢も抱かずに書いた小説はないのである。フロオベルは愚かなエマ・ボヴァリイに己れの報いられぬ夢を託したが、川端氏は何ものをも託さない。リアリストと私が呼ぶのは、このへんからだ。 — 三島由紀夫「解説」(文庫版『舞姫』) また、川端特有の、「何度も足をとめるやうな文体」には、「底に固い岩盤」が隠され、「〈俺にはかういふ風にしか見えないのだぞ〉といふ作者の注釈」が常に付いてまわっているようで、その認識に無縁の読者は「たえず隔靴掻痒の感を抱かせられる」のも、川端が「おのれに忠実なリアリスト」だからだと三島は解説し、その川端の「隔靴掻痒のリアリズム」が最も成功している登場人物が、「ゾッとするやうな男」の矢木であり、それが、波子が矢木に抱く恐怖や焦燥に「異様な現実感」を帯びる効果を出していると考察している。そして、矢木が子供たちの面前で波子を難詰する終盤の場面を、「古典劇の大詰を思はせる明晰な悲劇の頂点」だとし、それは、敗戦後の矢木家に表われた「日本の〈家〉の徐々たる崩壊過程が最後の大詰に来たこと」で可能となった悲劇であり、「日本の民主化に伴つたこの一般的現象は『舞姫』全篇にきはめて微妙に精細に描かれてゐる」と評しつつ、とりわけ、この矢木一家は崩壊を急ぎ、時代と関係なく「崩壊の種」を宿していた節もあり、この悲劇の頂点において、「はじめて各個人が正面からぶつかり合ひ、愛情によつてではなく憎悪によつて結ばれた見事な家庭の典型を成立させる」と解説している。
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作品評価・研究
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『美徳のよろめき』は『金閣寺』の後に発表されたために、それと対比されて、三島の純文学作品の芸術活動の合間に息抜きで書いた余技的な大衆向け作品だと当時みなされた傾向があり、三島自身も以下のように軽く語っているが、その大衆小説的な作品と純文学系の作品を書き分ける三島の優れたバランス感覚を評価する論もある。 僕はあの小説はね、何もムキになつて書いた小説ではないんですがね。シャレタ小説を書きたいと思つてゐたんでね。だけど日本ではああいふ、ただシャレタ小説を書かうといふんでは、たちまちやられるわけで――つまり、「金閣寺」とくらべてどうだとか、かうだとか。しかし、僕はまあさういふ意味でとても一生懸命書いたんです。ただ、意図とか主題とかさういふものはたいしたもんぢやない。 — 三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話―『朝の訪問』から」 同時代の文芸評価としては、平林たい子、円地文子、佐多稲子ら女流作家の面々から、ヒロインに「魅力」がなく夫の影が薄いなど、現実感の無さを批判され不評となり、山本健吉も、本来的に戒律の禁忌のない日本の社会風土では、「姦通小説」が西欧のように心理的葛藤の劇にはなりえないことを指摘し、「古典的形式の模造品」に終わった大衆向け作品だとしている。それに対して、吉田健一は小説の技術的に三島の「腕の冴え」が見られた作品として10年後に肯定的な評価している。 北原武夫は『美徳のよろめき』について、「(三島)氏が自分の力量を心ゆくまで発揮し、自分の技能をほしいままに愉しんで、丁度声量豊かな大歌手が、お気に入りの聴衆を前にして即興の小曲を歌い上げるような、気楽にのびのびと」書いているとし、三島と谷崎潤一郎の「作家としての生活態度」や「才能の広さ」が似ているとしながら、2人の共通性を、「審美的乃至は耽美的傾向を、果敢にも実生活の中に持ちこみ、よほど確乎とした合理的精神と、習俗を恐れぬ強い意志とがなければ、容易には実行できないこの両者の融合を、何の支障もなく、実にやすやすと実行している」ことだと考察している。 そして、そういった作家精神がなければ、『美徳のよろめき』のヒロイン・節子のような、「姦通という悪徳を犯しても穢れることを知らない優雅な人間」や、『鏡子の家』の鏡子のような、「どんな時代に汚れにも染まない自由で真率な人間」の持つ、「真の意味で贅沢な魂」は創造できないとし、その筆を見事だと評している。また北原は、節子の優雅な姿に三島が青年時代に愛読していたレイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』のヒロイン・マオの優雅さの影響があることも鑑み、「淑徳というものを実に微妙な手つきで扱った」ラディゲやラファイエット夫人(ラディゲが影響を受けた作家)の手法にも劣らず、三島が「繊細な手つきで背徳というものを扱っている」とし、作中で描かれる節子の〈聖女〉の意味を汲み取れない読者は、この「精緻な技巧を凝らして作り上げた、極度に人工的な美の世界」とは「無縁の衆生」であり、『美徳のよろめき』は、「彼(三島)一流の錬金術によって、背徳という銅貨を、魂の優雅さという金貨に見事に換金」されていると解説している。 売野雅勇は、『美徳のよろめき』を読んだときの印象を、「言葉で書かれた、言葉で精確に組み立てられた音楽のように感じた」とし、売野自身の「粗野な感受性」が直感した「その言葉」を、「コクトーの言葉の連なりのなかで不意に鳴りはじめる、あの聴きなれた音楽」であったとしながら、以下のように回顧している。 表象の宇宙的な連関を魔術にも似た不真面目さで透視させたり、世の中の価値や常識を一撃にして転覆させてしまう、比喩や警句が、繊細な風景描写や明確な心理描写とともにそれを鳴らしていた。詩人が秘密裏に共有するコードでもあるかのように。なんて贅沢な小説だろうと、読み終えたばかりのページをふたたび開き、何度もため息をついたことを憶えている。 — 売野雅勇「言葉の音楽」 小笠原賢二は、『美徳とよろめき』がその当時の社会の「繁栄」の雰囲気を吸収した娯楽的な大衆小説ではありながらも、一般的理解よりも「難解であり、必ずしも口当りが良いというわけでもない」とし、ヒロイン・節子の、「享楽に身を任せているようでいながら、時代を容易に受け入れようと」せず、「むしろかたくななほどに自分の強固な城を築き、現実から一線を引こうとしている」態度や、「優雅に暮し自由にふるまっているかに見えながら、本当に人生を楽しんではいない」身振りから窺えるのは、「むしろ苦しげな表情」で、そこには作者・三島の、「サービスのポーズを取る一方で、窮屈で退屈な時代に呑みこまれまいとして構え緊張する表情」が透視されると考察しながら、『美徳のよろめき』は本質的には「反俗的な作品」で、通俗小説風であるにもかかわらず、「これほど時代とおり合わない作品も珍しいのではないか」と述べている。 また小笠原は、三島が〈内界〉〈外界〉、〈認識〉〈行為〉といった「二元論の克服」という「難問」、「存在論的問い」を初期からずっと抱え、『金閣寺』では、その難問が不完全燃焼のまま終わり、その問いがそのまま『美徳のよろめき』にも引き継がれているとし、麻酔なしの堕胎手術を受ける節子が「徹底した受苦の姿勢」の果て、魂に〈有益なもの〉がもたらされ、〈非凡な女〉となり、〈甘美〉や〈光りかがやくほど充実〉した状態がもたらされる箇所について、〈苦痛〉が「かけがえのない支え」になり、「観念と肉体は不可分に結合」し、「確かな存在の証明」に至った場面だと考察しながら、それを手に入れた節子は、〈幸福〉を見出したため、もう「よろめく」ことはなくなり、『美徳のよろめき』は、「〈美徳のよろめき〉が克服されるに至る経緯を描いた小説」だとしている。 そして、こういった三島の「二元論の解消」は、バタイユの影響を受けた『憂国』の自作解題での〈至上の肉体的快楽と至上の肉体的苦痛が、同一原理の下に統括され、それによつて至福の到来を招く〉という志向であり、この危険な「〈肉体と精神の二元論〉の超克」は、『太陽と鉄』における、〈林檎の外側を、いかにしてその林檎の芯が見得るか〉、〈林檎を外側から見る目が、いかにしてそのまま林檎の中へもぐり込んで、芯となり得るか〉という〈ひたすら存在の形にかかはる自意識〉のあり方を希求する問題 と同じであることを小笠原は解説しながら、「見るために存在を犠牲にする行為、破壊によってこそ存在が保障される瞬間の局面において三島流の“存在革命”は成就する」としている。 さらに小笠原は、それは『美徳のよろめき』で語られる、〈観念が肉感に移りゆく〉と、〈肉感がまさに観念に化して〉しまうことを同時に兼ね備えた局面であることを指摘しつつ、様々な作品において、「執拗に、内と外の、表と裏の、観念と肉体の境界という障壁を解消し〈新鮮な現実〉を手に入れる“存在の革命”を夢想して来た」三島の軌跡を省みる際に、『美徳のよろめき』は「三島美学の中核をなす“存在の革命”のまことに過激に実験の場」として、看過しがたい意味合いを持つ作品だと論考し、「存在論的な難問」と格闘した三島から、プリニウスやエンペドクレスといった歴史的人物が想起されるとしている。 純然たる博物学者の興味をもって噴火したウェスウィウス山を至近距離から観察しようと、危険をかえりみずに近づき過ぎて溶岩に呑み込まれて死んだり、不死なる神であることを証明すべくアトナイ山の火口に飛び込んだりした彼らは、愚直な程に絶対性や不可能性に憑かれた“存在の革命家”であった。彼らの死は謎めいたはなはだ哲学的な命題を含んでいる。三島も結局は、そのような系列に属する表現者でなのではあるまいか。私は、このレベルで三島文学に関心を抱き、高く評価しているのである。 — 小笠原賢二「『幸福』という存在論―『美徳とよろめき』を中心に―」
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作品評価・研究
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佐伯彰一は、「時代がついた」旅行記は思わぬ味が出て面白く値打ちがあり、時に書き手の無智や偏見がある旅行記もあるが、鬼才・三島の『アポロの杯』にはそういった「鈍感」や「不用意」は見られず、筆致のはしばしまで「若々しい才気と気負い」が匂い立ち、その記述は滑らかに進行して、旅行の結末には、「ほとんどオペラか芝居の終幕のような、ドラマチックな緊張、また花やいだもり上り」が漂っていると評している。そして、仕組まれた団体旅行とは違い、小説家らしく旅程プランの一切を三島の好みと関心によって組み立てた「ほとんど孤独なひとり旅」は時代の流行とは無縁だが、時を経ると、その「時代色」や「歴史的背景」の方に感慨をそそられると佐伯は述べ、三島が船で最初に太平洋を渡ったという時代的背景、その船旅により三島が〈太陽〉に親しむきっかけとなり、後年にまで影響を及ぼしたことを、「時代の生み出す偶然のいたずらというものは面白い」と考察している。 また、三島が船旅で知り合った日系移民一世の老女の話が、「北米紀行」の冒頭に据えられているのも敗戦後まだ6年という時代を忍ばせ、「注目すべき因縁」だと佐伯は述べ、その挿話の部分を引用しながら、こういった公的な歴史からは無視され忘却されてしまうような細部が「移民一世の心情の一面」を浮かばせていることが興味深いだけでなく、その老女が語った戦争中の抑留生活の挿話を、三島が「北米紀行」の「序曲」として書きとめておこうとした、その気持ちも、今では「一つの歴史の証言」というのに近いと解説している。 太平洋戦争がはじまつたとき、彼女は即日抑留された一人である。そこの監房には、彼女を入れて九人の女がゐて、誰もが、日本海軍が遠い真珠湾を攻撃するに留まつて、米本土に攻め上つて来ないことを残念がつてゐた。米本土上陸作戦が行はれるその光景を一目見れば、彼女は喜んで犠牲になつて、自分の体が日本軍の砲弾のために粉微塵になつてもいいと思つた。彼女たちは昂奮し、死を心に決め、自分のゐる監房なんぞを攻撃の場合に気にかけてもらふまい、自分の死は歴史に書かれるにちがひないとめいめいが思つた。もしまた、自刃の羽目に陥つたら、みんなで首を括つて死なうと相談した。監房には縄がなかつたので、彼女たちは靴下をほぐして、その糸で細い縄をなつた。 — 三島由紀夫「北米紀行 序曲」(『アポロの杯』) 佐伯は、三島がさりげなく文末で、その日系移民の老女が今ではテレヴィジョンを持ち、独立して手許を離れた息子の代りに、5歳のポメラニアンを愛していることを付記して、特に老女が「アメリカ嫌い」や「反米主義者」だということではないことを示唆している点も加味しつつ、戦争当時の愛国的な昂奮も今では遠い話にすぎないが、「こうした変転の無数の実例をうちに含みこんだまま滔々と流れてゆくのが、時間であり、歴史というものだ」ということを改めて、この挿話から納得させられると論考している。 また、ハワイの自然から服装まで一せいの原色調を〈天然色広告写真〉と重ねて〈ワイルドの理論〉を借り、正面切って説明する三島の印象記について佐伯は、現在のようにハワイ旅行が日本人にとり大衆化してしまえば、こうした議論自体がすでに「歴史に一部」に見えるが、「さすがに炯眼にして先見に富む」三島の洒脱なところは最後のオチだと佐伯は指摘し、三島が、ハワイで一番印象的で〈凡庸であればあるほど一層尽きない詩情〉を味わわせてくれた景色を、〈私の今乗つて来た巨船が碇泊してゐるさまを、町の一角から眺めた風景〉だとし、それを眺めているうちにどこかで見た風景だと思い出して、実は汽船会社発行のパンフレットの〈天然色写真の図柄〉そっくりだったというオチの「セルフ・パロディ」とでもいう「批評的な機知」のユーモラスを挙げて、こういうものは「わが国の作品ではめったにお目にかかれない」と解説している。そして三島の「喜劇的センス」や「パロディの才能」、「機知ゆたかで、廻転の早いブリリアントな語り手」であった一面が、「一層ナマな動きとかたちにふれ得る」ところにこの古い旅行記『アポロの杯』の功徳があると評価している。 佐藤秀明は、三島がサンフランシスコの日本人経営の粗末なホテルで不味い日本料理を食べさせられ、〈ここでは日本といふ概念が殊のほかみじめなので、まるでわれわれは祖国の情けない記憶だけを強ひられてゐるやうな気持〉になり、身をかがめて不味い味噌汁を啜りながら、〈私は身をかがめて日本のうす汚れた陋習を犬のやうに啜つてゐる自分を感じた〉と表現していることについて、その時その地サンフランシスコでの講和条約の締結が、三島が訪れたつい4か月前だったことに着目し、「日本からの旅行者は、敗戦国民としての屈辱と貧しさゆえのみじめな気持ち、いやがうえにも感じざるをえない」と説明している。そして、三島がみじめな気持ちで啜った不味い味噌汁の味は、食文化として外国に浸透したのでもなく、経済力を背景に高圧的に上陸したのでもない「複雑な負の意味」をもってしまったものとして、何度も言葉を換えて表現していると解説している。 柴田勝二は、『アポロの杯』から垣間見える「非西洋的世界」を重ねる三島の意識に着目し、三島の世界旅行の動機は自身の過剰な感受性を靴を穿き減らすように使い果たし、感受性の依存から脱却し、作家としての足場を固めることであったが、結果的には4か月半に及ぶ諸外国での見聞体験が、「三島の意識をあらためて〈日本〉に振り返らせる端緒になった」とし、「それは単に異質な風土や文化に触れることが、自国のそれを再評価する眼差しをもたらしたというだけではない。濫費すべき感受性の捉えたものが、間接的な形で三島に〈日本〉の起点的な在り処を喚起することになったのである」と解説している。
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作品評価・研究
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『千羽鶴』は『山の音』と並ぶ川端の戦後の代表的作品の一つであるが、文学的評価は圧倒的に絶賛された『山の音』と比べると、倫理的な面や現実感のない女性の造型から、低い評価も散見され、林房雄や川嶋至が辛口の評価をしている作品である。 作中には随所に日本の伝統美の古雅が見られるが、後年、川端自身は『千羽鶴』について、以下のように語っている。 私の小説『千羽鶴』は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となつた茶、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。 — 川端康成「ノーベル文学賞受賞記念講演」 しかしある意味、川端独自の目線で〈日本の茶の心と形〉を小説として表現していると保昌正夫は解説している。 三島由紀夫は『千羽鶴』を「川端の擬古典主義様式の一つの完成品であり、谷崎潤一郎でいうなら、『盲目物語』や『蘆刈』の作品系列に該当する」と評し、悪役のちか子に「性わるな命婦」、主人公の菊治に「光源氏」の面影が見られ、菊治の婚約を知り服毒自殺をする太田夫人や、夫人の娘が母の罪を背負って菊治に抱かれた後、身を隠して生死不明となる結末など、全般的に王朝の物語の人物や物語的情趣の風味があると解説している。 そしてそれと同時に、『千羽鶴』の面白さは、「日本的風雅の生ぐささの諷刺になっているところ」でもあると三島は述べ、「俗悪な女茶人」ちか子が催す茶会で披露される美しい茶道具は、ちか子の「俗な職業的知識」の関心でしかなく、その道具の一つ一つが、「醜い情事を秘めて伝承され」、太田夫人の志野茶碗にも、口紅のあとが罪のように染みついているところなどが、「小説の小道具として生ぐささにおいて申し分ない」としながら、以下のように解説している。 茶道におけるひどく俗なもの、茶道具の授受や鑑賞にまつはる秘められたエロティシズム、……美的形式を経てゐるために、ただの人間関係よりも、さらに深く澱んで生々しい肉感的な人間関係を暗示する、さういふ日本的美学独特の逆説を、「千羽鶴」は抜け目なくロマネスクに仕立ててゐる。それがこの小説を、ただの唯美主義の作品以上のものにしてゐるのである。 — 三島由紀夫「解説 千羽鶴」(『日本の文学38 川端康成集』) 山本健吉は、主人公・菊治には、『禽獣』の主人公や『雪国』の島村と共通したものが見られ、「その実生活は完全に捨象された存在であり、美に対する感受性だけが生きて動いている」存在で、シテである「太田夫人のあでやかな舞姿」を、「ワキとして、見所を代表する者として眺めている非行動人」だとし、以下のように『千羽鶴』を解説している。 太田夫人の美しさは、すぐその後に崩壊が待っているような、はかない美しさであり、ここではその滅びの美しさが、絶えず死を意識することによって鋭ぎすまされた虚無的な眼によって捕えられるのである。死ぬことによって生きる外ない無償の美しさである。だが、現実的に見れば、それは中年女の匂うような肉感性である。(中略)それは肉感的なものであればあるだけ、罪の意識があとに残り、母の口紅がついたように赤みがかって見える志野の筒茶碗は、その死後、娘の文子によって打ちくだかれねばならない。 — 山本健吉「解説」(文庫版『千羽鶴』) 梅澤亜由美は、『千羽鶴』の終局近くに、菊治が処女の文子と結ばれることで、〈純潔そのものの抵抗〉を知り、太田夫人の〈女の波〉から解放され、父の〈不潔〉との同化や、ちか子の〈あざ〉に象徴される過去の負の記憶からも解放されて、そこで「菊治の自己浄化の物語」は完結するはずであったとし、成就しかけた菊治の物語を破綻させたのが、「文子の失踪」であるとしている。 そして、なぜ川端が『千羽鶴』の結末を壊さなければならなかったのかについて梅澤は、続編『波千鳥』に挿入されている文子の長い手紙の中で綴られる、母の不倫による少女時代の文子の「罪の意識」と、母を死なせてしまった悔恨と悲しみ、また自分も菊治を愛し関係を持ってしまった文子の苦悩の心情に焦点を当てながら、文子は、ゆき子と結婚する菊治の幸せのために、母と文子自身の情念の象徴である「志野の湯呑み」を割って全てを終らせ、遁走するしかなかったと解説している。 そして梅澤は、未完となった『波千鳥』の川端の構想の中に、「菊治と文子の再会」や「心中」があったことを鑑み、「川端は、菊治と文子二人の救済、できることなら二人の再会による救済の成就という形を目指して、『波千鳥』の執筆へと向かったのだ」とし、それまでの川端作品に見られるような男性のみの自己浄化の形でないものを川端が考えていたが、今度はゆき子が不幸になり、その自責を菊治が再び負うことになってしまうことに気づいた川端が、菊治と文子の心中という方向に構想を変化せざるをえなくなり、やがて書き継ぐ意思もなくなり、未完となったのではないかと考察している。
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『憂国』は、三島の初期作品から内包されていた認識と行為、精神と肉体、内側と外側の一体化といった「二元論」の解消や克服といった「存在論的な問い」、〈至上の肉体的快楽と至上の肉体的苦痛が、同一原理の下に統括され、それによつて至福の到来を招く〉といった志向の根源的な情念、あるいは反時代的な情熱が露わになった転換的な作品として論究されることが多く、三島文学にとって重要な作品であるが、発表された時期が60年安保翌年の1961年(昭和36年)ということもあり、存命中を通して皇国的内容などから嫌悪を示す評者もいた。 一方、肯定的な論評では、山本健吉などに代表されるように、三島が皇道主義の若い男女の中に、「思考停止のニヒリスト的な世界」における「美」「魅惑」の「造形化」を試み、「現代人に一つのカタルシスをもたらそうとしている」と捉え、否定的なものでは、「才気に溢れた有能な作家」の三島が、「とてつもなく大きな錯誤の陥穽におちこんでいる」ため、早く「危険地帯」を脱出してほしいと古林尚が提言し、花田清輝は「こういう小説は非常にくだらない」と断じている。この花田の発言については具体的論点が不明なため、神谷忠孝は、「花田の真意がどこにあったかについてはまだ研究されていない」と説明している。 野口武彦は、『憂国』の切腹描写や、死の情念とエロティシズムのマゾヒスティックな化合の根源に、「江戸頽唐期のデカダンス芸術」があることや、文体に「爛熟期の江戸歌舞伎や草双紙」の感受性に通じていることを指摘し、田中美代子も、浄瑠璃や心中といった「日本人の深層にひそむ美意識を、もっとも暴露的な仕方で、刷り出したもの」が『憂国』だと解説している。また田中は、蹶起から外された中尉の境遇をアイロニカルな至福の死で賛美することにより、「歴史の彼方に葬り去られた無数の犬死、かつて栄光と信じて栄光から見捨てられた人々の痛恨」の救済を試みている作品だと考察している。 伊藤勝彦は、三島が『憂国』において、露わに反時代的な嗜好や情熱を示したことについて、「戦後精神に対する拒絶の姿勢をはっきり表に出したのである」とし、それまでは嫌々ながらも、「戦後の日常生活との〈軽薄な交際〉をつづけ、否定しながらそこから何らかの利得をえて暮してきた」三島が、『憂国』以降、「思想に殉じて死ぬ人間の至上の美しさ」を主題にするようになったが、それは思想そのものを扱ったのではなく、「〈死にいたるまでの生の称揚〉(バタイユ)としてのエロティシズムの美」が描かれていると解説している。 江藤淳は、『憂国』を「三島氏の数ある作品のなかでも秀作のひとつに数えられるもの」とし、以下のように解説している。 作者の目的は、中尉と夫人が「大義に殉ずる」という公的に「聖化」された喜びのために、「私」の枠を超えて一層高く燃え上がる性の歓楽をつくす――そしてその光芒の明るさは、正確に前提とされる「自害」という事実の暗さに比例する、という過程を出来得るかぎり細密にたどるところにあるからである。「帝国陸軍」叛乱という政治的非常時の頂点を、「政治」の側面からではなく「エロティシズム」の側面からとらえようという、三島氏のアイロニイ構成の意図は、ここで見事に成功している。割腹した夫の返り血をあびて白無垢を紅に染めた中尉夫人が、血にすべる白足袋をふみしめて死化粧に立つ姿などは、三島流のエロティシズムの極致ともいえるに違いない。 — 江藤淳「エロスと政治の作品」 磯田光一は、「鴎外以来、〈義〉のための殉教をこれだけの密度をもって描き出した作品はないだろう」と述べ、「死のリアリティの問題を、第三者の心への反応としてではなく、直接に死を選ぶ者の内側に入って描いた」作品として評価し、バタイユへの共鳴があることを指摘している。 鎌田広巳は、三島が『憂国』執筆前に書いたバタイユ著「エロティシズム」の書評に触れながら『憂国』との関係を論じ、そこにおいて三島は、「生殖=連続性=死をこの思想の核心をして捉えているばかりではなく、非連続性な生および生活の解体という、そのラディカルな作用の可能性に着目している」とし、三島がバタイユに共感を寄せる、大きな理由の一つとして、この思想の核心に、「〈われわれの生〉の限定性(三島によれば、それは同時に非連続性を超えることができない主知主義の限界)」を打ち破る、「新たな原理的な可能性」を三島が見いだしていると解説している。 佐々木幸綱は、『憂国』における武山中尉の家の1階には日常があり、2階には非日常があると分析しながら、その「反発する両極を引き寄せる何か」は、「〈絶対〉的な力を持った何か」でなければならないとし、三島はその〈絶対〉的な力を持つ何かとして「片恋」を想定したと解説している。そして、「天皇への片恋、妻への片恋、さらには状況への片恋。強烈な意志的な片恋」の前には「極という〈絶対〉」も相対化されるとし、「片恋を貫き通すことさえできるならば、そこでは、生も死も、男も女も、肉体も精神も、永遠の瞬間も、政治も性も、公も私も、非日常も日常も、清潔も猥せつも、静も動も、炎も雪も、主観的に重ね合わせることが可能である」と論考している。
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『肉体の学校』は、三島作品の中では娯楽的恋愛エンタメで、主人公の魅力も相まって概ね好評のものとなっている。本格的な論考はほとんどないが、三島文学に見られる「二元的な構図」がベースになっているものとして言及されているものもある。 奥野健男は、終章において、遊園地でウォーターシューターに乗った妙子が言う「今私たち何かをとおりぬけたでしょう」という言葉は、全編を見事に象徴しているとし、「さわやかな決然たるこの終末は、このエンターテイメントと芸術作品に昇華している」と解説している。そして『肉体の学校』は、「ため息のでるような美と倦怠と、恋愛の小気味よい心理描写に魅せられた多くの三島ファンを裏切らない」とし、「『美徳のよろめき』に匹敵するはなやかに楽しい小説」だと評している。 川村湊は、スタンダールの『赤と黒』に代表的に見られるように「階級間の恋」は近代小説で好まれる主題であり、三島のロマン(小説)の基本主題も「身分を超えた愛」が多くあることに触れつつ、「通俗的なストーリーを通俗的に書くこと」によって、三島が「そうした大衆社会にある、本質的に“俗なる”文芸ジャンルである〈小説〉に復讐しようとした」と考察している。 許昊は、三島が〈われわれの二元論的思考の薄弱は、両性の対立を扱つた近代文学の傑作が、ほとんど皆無である点からも、首肯されよう〉と、日本人に〈二元論的思考〉が薄いことを指摘した文を引きつつ、『肉体の学校』も三島文学に見られる二元的構図をベースにしていることに言及し、「こまやかな女性の心理」が軸になっている点に違いがあるものの、「階級間の恋」「男女間の心理的なかけひき」「年上女と年下男との不倫」「日常における非日常的な人間関係」といった『禁色』と類似したテーマが盛り込まれていると解説している。
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『禁色』は、同性愛者の美青年を堂々と主人公にし、その美貌の描写をギリシャ彫刻に喩えて美の化身のように表現しているが、そういったものは明治以降の近代日本文学には見られず、従来的な私小説的なものの枠を大きく越えていたものだった。そのため様々な反響があったが、それも含めて三島の作家的地位が強まった作品である。 三島にとって『禁色』は野心作で、〈廿代(20代)の総決算〉として力を入れて書いたため、力を入れすぎていて読みにくいなどの中村光夫の批評もあるが、ホモセクシャルの「アンダーグラウンド」や風俗を単に描いているだけでなく、「セクシャリティや美の観念、芸術論、社会風俗、社会批判などがぎっしり詰まっている」と佐藤秀明が解説するように、作品の構成も本格的であった。 本多秋五は、作品の言葉が「芝居がかっていすぎる」としながらも、「濃厚強烈な言葉をおめず臆せず縦横に駆使することによって、われわれの文学は絶えて久しい金屏風に描ける画人をえた」とし、当時の反響を以下のように解説している。 この作品を迎えた当時の世評には、客観的にそれが妥当する以上の熱っぽさがあった。それは、この作品の前提にあるものへの共鳴からきていたように思える。つまり、あらゆる既成の観念、既成の価値、いわゆる正常なるものに対する偶像破壊の、高らかな弦音への共鳴である。 — 本多秋五「物語 戦後文学史」 臼井吉見は中村光夫との対談の中で、「とにかく、ふてえ小説だね。あんなの、今までないんじゃないかな。あれだけ挑戦的な、あれだけ本格の構想をもって挑みかかった小説は」という感想を述べている。石原慎太郎は、既成の価値への「挑戦と復讐」を、「面白くて、ぞくぞくして読んだ」と回顧している。 『仮面の告白』(1949年)を高く評価した花田清輝は、『禁色』にも好意的な評価をし、「男色というものが一つのプロテストとして出されている」と解説して、男色社会から見た異性愛社会の図柄が浮き彫りにされ、世間一般の市民社会の秩序の基盤のあやうさが露呈していく様が表現されていることを指摘している。 野口武彦は、『禁色』執筆の頃の三島が、自身の〈感受性〉〈気質〉を整理し、それが〈ルネッサンス的なヘレニズム的感性〉として作品に表われているものの、後年には再び、その顕在化していた〈感受性〉が、「現存するもの一般の形而上的否定というロマン主義美学のかたち」になっていくと前置きし、この『禁色』の時期の三島の中にも、三島の本来的な〈感性的〉なものである「戦時中に〈日本浪曼派〉に育まれた作家気質」は、「早くも俗悪な現実への復讐と〈美〉の征覇によるその成就という二つの契機(モメント)を抱懐している」と解説している。そして『仮面の告白』の〈私〉の後身とも言える同性愛者の南悠一は、老作家・檜俊輔という「現実への復讐者」「〈作品〉の創作者」「劇の演出者」によって、「独自の〈生〉」を与えられた存在であるとしている。 かくして「ヘレニズムの理想」を体現した美青年は、俊輔が構図するラクロ風の心理幾何学の世界で生活しはじめることになる。「現実の存在」としての資格を欠いた悠一が俊輔の復讐のパトスによって生きさせられることで生きることを開始するという設定は巧妙であり、作者はこの器用に「物語化」された虚構の中に私(ひそ)かに『仮面の告白』以来の主題、戦後社会で不適格者である自分の「感受性」と「気質」との救済の問題を盛り込むのである。そしてまた同時に、戦後の現実に対する兇暴な復讐の意欲をも。 — 野口武彦「解説」(文庫版『禁色』) 筒井康隆は、作家を目指していた頃に読んだ『禁色』に衝撃を受け、「こんな凄い文章が書けなければ作家にはなれないのかと思い、絶望した」とし、軽い気持ちで作家になろうと考えていた自分の気持を根本から変えさせ、「それなりの修業」の必要性を痛感させてくれたとして、「そのお蔭でぼくは、マスコミによって便利に消費されてしまうような作家には、ならずにすんだかもしれない」と語り、それ以後、三島の新作が発表されるたびに読むようになったと述懐している。 その文章はたしかに美文ではあるが、論理性を持った美文で、警句や箴言がちりばめられていた。その才能は驚くべきものだった。描写力、表現力もさることながら、実社会や裏社会の知識もまた作家の年齢からは考えられぬほどの豊かさに満ちていた。テーマは男色だったが、まだ日本では知られていなかったゲイというアメリカの俗語もただ一か所、ゲイ・パーティということばで紹介されていた。こんな最近の風俗まで熟知しているのかとぼくは感心した。 — 筒井康隆「漂流 本から本へ」 瀧田夏樹は、老作家・檜俊輔の「耽美的執念」が、川端康成の『眠れる美女』の江口由夫の「枯れはてた老人に化けて、禁断の場所に潜入し、性の冒険を試みる」嗜好と共通し、江口の「“由夫”という名もなにか気にかかる」として、『禁色』の発表当時に「禁色は驚くべき作品です」「しかし西洋へ行かれればまた新しい世界がひらけると思ひます」と三島に勧めている川端の手紙に触れつつ、「この〈西洋〉で、川端は何を云おうとしたのだろうか」と述べている。
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「微笑 (横光利一)」の記事における「作品評価・研究」の解説
遺作となった『微笑』は、未完として終った長編大作『旅愁』との関連によって、その真意がより味わえるものとも言われ、横光の最後の傑作として位置づけられている。また作中には、しばしば数学的用語が使用されているが、作者・横光利一は、排中律的な、AかBかと選択するときAとBの中間をいく選択はないとする思考法則のような、第三の可能性を否定する「二者択一的思考」に反発を覚えていたと日置俊次は説明している。 篠田一士は『微笑』を、「これこそ横光の文学的生涯の最後をかざるにふさわしい作品である。敗戦に至った過ぐる大戦を彼がどんなに真摯に生きたかを、心の隅々まで照らしだしてみせた、じつにすがすがしい傑作といっていいだろう」と評している。そして、横光が挑んだ未完の長編小説『旅愁』を未読の読者でも、『微笑』や『比叡』、『厨房日記』、『睡蓮』、『罌粟の中』を読むことにより、後年の横光文学の「豊かな成熟」を堪能できるとし、『旅愁』は、最後の短編『微笑』のなかに「ようやく安息の場所を見いだしたともいってみたいような作品だ」と解説している。 河上徹太郎は、『微笑』の青年・栖方には、これに近い人物が実在していたと思われるとし、「モデルは二十歳位の一高校生で、数学の天才であり、そのために一躍海軍大佐級に抜擢され、原爆に類する新兵器を研究している。それが又俳句を嗜み、作者の句会らしいものに出席するのである」と述べ、その事実関係がどこまで本当かは保証しないと前置きした上で、以下のように評している。 この青年が数学の天才でなくて特攻隊員であっても構わない。横光氏はこういう端正な頭脳と美しい意志を持った日本の青年を愛惜しているのだ。『微笑』という題がそれを現し、これが戦後の作品であることの意味もそこにある。 — 河上徹太郎 「『夜の靴』と『微笑』」 『微笑』について三島由紀夫は、「(横光)氏の晩年の作品では、『微笑』が傑作と思はれ、又その文章は、青春時代の叙情をよみがへらせたふしぎなみづみづしさをもつてゐる」と高い評価をしている。 芹澤光興は、大東亜戦争に夢を託した横光の「自分自身への鎮魂」の作品だと『微笑』を見ている。
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『堕落論』は、坂口の思想とその生き方を決定した評論であり、一つの達成的作品となっており、多くの作家や評論家にも高く評価された。 同じ坂口安吾の評論である『青春論』と共に『堕落論』を折りにふれ何度も読んだという檀一雄は、「安吾のあの強烈な孤独の表情を軸とし、ある時は、わが身に絶望の鞭を加え、また、切ない気持ちで言い知れない勇気を与えられてきた」と述べ、『堕落論』をはじめとする作品に、「安吾の生活の情熱と思考の表裏一体した真摯な様相」が見られるとし、その声を、「おおらかな詩人の規模を恃し、世俗におもねらない苦行者の精神に燃えていた人の滅びない新しい声であった。また、我々の日常として滅びない新しい声は曲解されやすいものである」と解説している。 磯田光一は『堕落論』を、「旧来のモラルの否定という次元で読まれるべきものではない」とし、安吾の意味する「堕落」とは、「虚飾を捨てて人間の本然の姿に徹せよ」ということだと述べている。そして、そういった姿勢を貫き、戦中戦後の現実を生きてきた安吾にとって、「世のリアリズム文学は、たんなる感傷としか映らなかった」とし、「人生には科学的合理主義によってはとらえられない領域が確かにある。安吾はただそういう領域のうちに人間を見据えていたのである」と解説している。 また磯田は、「人間の“救いのなさ”と“絶対的孤独”」と、「偉大であるとともに卑小な存在」である人間の姿を、安吾の心は「永遠の相の下に見つめていた」とし、以下のように安吾の世界観を考察している。 そういう立場に身を置いていた安吾にしてみれば、戦争でさえも、人間が有史以来繰り返してきた偉大にして卑小な所業と見えた。人間は愚劣な存在であるかもしれぬ。しかし愚劣さのゆえに人生を見捨てるか、あるいは愚劣さにもかかわらず、その愚劣さを引き受けるかによって、人生への態度は相当に異なるものになるであろう。 — 磯田光一「坂口安吾――人と作品」 そして、そういった安吾の考え方は、「現にある日本の姿を、日本人の現実を、あるがままの姿で受容する態度」を示しているだけで、「戦後の進歩主義思想とは、明確な一線を画している」と磯田は述べ、その両者の違いを、「進歩主義者は、“進歩”という幻影を生きているが、安吾の目には、あるがままの現実こそが問題であった」と解説している。 中畑邦夫は、柄谷行人が安吾の思想的位置づけを、左翼的か右翼的かという軸でなく、啓蒙主義的かロマン主義的かという軸で見られるべきであると主張していることを敷衍しながら、安吾の言説から「天皇制批判」の主張を読み解く研究者や、安吾を左翼だとする見方を否定して、「安吾自身がみずからの思想への社会主義の影響をはっきり否定しているのであって、安吾の思想が左翼的であるとは断じて言えないのである」と述べ、安吾の思想を「右翼的であるとする観方も左翼的であるとする観方もともに一面的」であり、そういう観点で作品を捉えることは、「安吾の思想のもつはるかに広い射程」を見失ってしまうと解説している。 西部邁は『堕落論』の本質は最後の数行にあるとし、そこで坂口が言わんとしていることについて、先に戦争における「偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情」は実に讃嘆に値するものであったが、それは、「堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さ」と比べれば、「泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする」という意味だと説明し、西部はその安吾の言い分をさらに補足し、「しかし人間は幻影なしには生きられぬほどに弱いのであるから、いわば、限界点まで堕落したところで自分が是が非でも持ちたいと思うような幻影をみつけ出せということである」と解説している。 七北数人は、『堕落論』をはじめとする安吾の評論について、「メッセージ性、というより、伝えたい思いが強いのだろう。言葉は時に刃のように、時には喉をうるおす泉のように、ストレートに胸に響く。一言半句だに魂のこもらぬ言葉はない。別世界の構築が必要な小説では、こうは行かない」と述べている。また、その安吾の言葉は思想家や評論専門の言葉とは違い、「骨の髄から小説家である人にしか書けないものだ。小説家ならではの視点で、人間心理の曖昧さ、複雑さに深くえぐり込んでいく」と解説している。 三島由紀夫は安吾とは直接には対面する機会はなかったものの、安吾の仕事にはいつも敬愛の念を寄せていたとし、安吾の戦後の生き方を以下のように解説している。 戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。 氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。氏が時代との間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに目をおほはれて、この点を見のがしてはならない。 — 三島由紀夫「私の敬愛する作家」
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『熱帯樹』の論究自体は少ないが、題材が現代にも通じる古典的素材を用いていることを評価するものが多い。鈴木晴夫は、「兄妹相姦から心中にすすむ勇と郁子の悲劇が、詩的な台詞にいろどられて原田義人のいう〈アモラルな夢幻的な味わい〉を感じさせる」と評している。 中村光夫は、三島の創作意図を、「演劇を外面的な写実から脱出」させて、「視覚的要素に代る映像喚起の力を持たすこと」にあるとし、「現代劇の一極点を形造る作品」だと評している。また中村は、舞台設定を限定せず、限られた登場人物と、近親相姦という神話的、精神分析学的テーマを扱ったことなどが、古典的詩劇を現代舞台に作り上げた要素だと解説している。中村真一郎も同様の観点から、「風俗劇のふりを多少した夢幻劇」という印象を持ったことを述べている。 村松剛は、『熱帯樹』のヒロイン妹「郁子」の名前に対する三島の思い入れについて、『純白の夜』のヒロインの名も郁子であったことに着目し、『純白の夜』のヒロインを「郁子」としたのは、〈初恋の人の名前と字の感じがよく似てるんでそうしたのだ〉と三島から聞いたことから、『熱帯樹』の郁子にも「初恋の人のイメージ」があり、設定が兄妹ということから「妹のイメージ」とも重なって出てきていると考察している。そして、三島が短編『罪びと』(1948年)で、リヤカーで荷物運搬中に飲んだ水が原因でチフスになり亡くなるミッションスクールの「郁子」(IKUKO)を登場させ、三島の妹・美津子(MITSUKO)をモデルにして、「郁子」が主人公の許婚という設定となっていることと、「郁子」に水を飲むことを勧めた同級生が、主人公と夏休みに避暑地であやまちを犯したという設定で、三島と軽井沢で接吻をした三谷邦子(KUNIKO)(『仮面の告白』の園子)がモデルとなっていることを村松は解読しつつ、「妹の死」と「失恋」という二つの主題が、この小説群では混ぜ合わされていると論考している。 そして村松は三島に、「『純白の夜』の女主人公が郁子で、これも郁子で、何か意味があるのか」と直接訊ねたときのことを回想し、〈そんなことに気が付くのは君ぐらいのもんだよ〉と三島が笑い、それからぽつんと、〈昔つきあっていた女で良く似た名前のがいた〉と言ったことから、三島が明らかに両者の作品に同じ名前のヒロインを使ったことを意識していたと説明しながら、『熱帯樹』では兄妹が最後に海へ心中しに行くことに触れて、「愛と死」の主題がここで復活し、その復活の行く手が、『憂國』になると考察している。また、この名前のことについて訊ねたとき、三島がそのことについてあまり言いたくないという感じだったので、村松は話題をすぐに転じたという。 集英社で三島を担当した編集者の粉川宏は『熱帯樹』を観たときの感想について、「私は、文学座の加藤治子演ずるところのこの芝居を観ながら、心の痛みを感じたものだった。内容が内容だからだろうが、氏の、亡き妹・美津子さんに寄せる思いが、戯曲のかたちで告白されているように感じられてならなかったのである。これは私の思いすごしだろうか」と述べ、それを感じた劇中の一節を引用しながら以下のように語っている。 氏の精神の、いわば核エネルギーともいうべきものが、戦争中に死にそこなったという恥の意識からきているように、美津子さんの存在――その死は、多感な年ごろだっただけに大きな影響を氏にもたらしていたのではないか。氏はほんとうに妹思いの心のやさしい人だったのだ。終幕近く、劇中の郁子がこんなせりふを語る。「……私今日の一日で、生きてゐることの苦しさも甘さも、みんな底まで味はいつくしてしまつたんだわ。明日一日生きてゐられるかどうかわからない。明日の朝はあの愚かなお医者様が来て……」 — 粉川宏「今だから語る 三島由紀夫」
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作品評価・研究
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『眠れる美女』は、『古都』や『千羽鶴』などの伝統的な日本の美を基調とした作品とはやや趣が異なる、前衛的幻想的な作風で、川端後期を代表する作品として総体的に評価が高い。また「老人の性」を描いたものとして、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』とも比較されることが多い。 海外でも注目されており、コロンビアのノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスは、この作品に触発されて、エッセイ『眠れる美女の飛行』(1982年)を書き、長編小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』(2004年)を書いている。 エドワード・G・サイデンステッカーや三島由紀夫は『眠れる美女』を「文句なしに傑作」と呼び、この作評がその後の文芸論評で多く引用されることが多い。三島は、「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である」、「デカダン気取りの大正文学など遠く及ばぬ真の頽廃が横溢してゐる」と高く評価をし、川端の中編のうち、最も「構造布置」の整った作品で、後期を代表するものだとしている。 そして三島は、「秘密クラブの密室に終始する」という作品世界自体に、「精神の閉塞状態」が象徴され、川端の「地獄」に慄然としたとしつつも、そうした極端な形で表現されてはいるが、その主題は川端文学全般に通底し、『禽獣』の「愛の形」も、以前から見られた「少女嗜好」も、『眠れる美女』に「帰着すべきもの」だったとし、川端文学では処女も小鳥も犬も、自らは語り出さず、「絶対に受身の存在の純粋さ」を帯びていると説明しながら、以下のようにそのエロスの構造を解説している。 精神的交流によつてエロティシズムが減退するのは、多少とも会話が交されるとき、そこには主体が出現するからである。到達不可能なものをたえず求めてゐるエロティシズムの論理が、対象の内面へ入つてゆくよりも、対象の肉体の肌のところできつぱり止まらうと意志するのは面白いことだ。真のエロティシズムにとつては、内面よりも外面のはうが、はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである。処女膜とは、かくてエロティシズムにとつては、もつとも神秘的な「外面」の象徴であつて、それは決して女性の内面には属さない。川端文学においては、かくて、もつともエロティックなものは処女であり、しかも眠つてゐて、言葉を発せず、そこに一糸まとはず横たはつてゐながら、水平線のやうに永久に到達不可能な存在である。「眠れる美女」たちは、かういふ欲求の論理的帰結なのだ。 — 三島由紀夫「解説」(『日本の文学38 川端康成集』) そしてこういった「実在と観念との一致を企むところに陶酔を見出してゐる」状態は、性欲が「純粋性慾」に止まり、「相互の感応」を前提とする「愛」から最も遠いため、ローマ法王庁(カトリック教会)が最も嫌う「邪悪」となるはずだが、その概念に反し、最後に宿の女が、「この家には、悪はありません」と断言することで、川端の考える〈悪〉が何であるかが「朧ろげに泛ぶ」と三島は考察し、その川端的概念に従い、「眠れる美女の世界は、無力感によつて悪から隔てられてゐる」と考えれば、川端の規定する〈悪〉が、「活力が対象を愛するあまり滅ぼし殺すやうな悪」「すべての人間的なるものの別名」であることが判り、これと「反対方向の世界」に魅せられ、川端と同じくらいの厭世家の作家が、『カルメン』の作者メリメであるとして、その〈悪〉の意味の相関関係を指摘している。 上田渡は、江口が〈最初の女は母だ〉とひらめく場面に触れ、少年・江口が瀕死の母の胸をなでたとたんに、母が多量の血を吐き絶命したことが罪悪感として江口老人の潜在意識の残ったとし、「性的回想が母に還元されていき、〈最初の女は母だ〉という結論に到達した時、それは母の死に直結していく」と解説している。そして、江口が現実に母と近親相姦の関係を持ったわけでないが、死の床の母の胸をなでた時の「江口の心理状態」は「母を犯した」ことと同義であるとしつつ、江口が〈右と左との娘のちぶさにたなごころをおいた〉時に母の胸をなでたことを思い出すのは、「胸にふれる行為が娘と母を結びつけている」と考察している。 春木奈美子は、江口が母の夢の中で見た赤いダリアのような花に囲まれた家や、深紅のカーテンに囲まれた部屋は、「母胎内の暗喩」だとし、「世界と私との接続点、生の起点が、女性の身体というトポスを間借りして現れる」と考察している。 最後の女として娘の処女を犯そうと夢想し、最初の女としての母のイマージュが回帰した後に運ばれてくる夢は、やはり血の赤によって破られる。眠る美女が駆り立てる愛撫の強迫と、死に行く母に無言で呼びかけられる強迫。死が性の衣を脱いで、死の床で無言に呼びかける母と、今宵眠れる美女の家で無言に愛撫を誘う娘とが、ここで交わる。死という受け取りきれない贈与は、夢の中で形を変えて反復される。応答不可能な限り、この故なき責めは止むことはない。はじまりを可能にした死の痕跡は、拭い去されることはない。女主人によって跡形もなく運びだされる娘の遺体、そんな娘の一点の染みも残さぬ消失も、江口のうえに重くのしかかることになる。 — 春木奈美子「〈告白〉の現代―川端康成の『眠れる美女』を通して―」 そして春木は、「性の中に漂う死の匂い」に惹きつけられる江口が、最後には、死に取り残されることを鑑み、「死は、誰ひとり追いついてくる者もいないほの暗し、地帯」であり、「われわれを惹きつけると同時に跳ね除けるもの」だと解説しつつ、「深紅のビロードのカーテンの部屋にも、赤い花の家にも、歓待はない」としている。 深澤晴美は、佐川一政が画家・ギュスターヴ・クールベの『眠り』(白い娘と黒い娘が全裸で抱き合っている絵)と『眠れる美女』との関連に言及していたことに触れ、クールベが「一個の眼」と評され、「夢の世界へ、あるいは、世界を満たす生命へと開かれている」只中の眠る女がクールベの重要なモチーフであること(阿部良雄の評)を鑑み、「赤い帷に蔽われて洞穴めいた空間の中」で目覚める娘が、まだ寝ている娘を起そうとしている『目醒め』や、『まどろむ糸つむぎ女』『死女の化粧』など、クールベと川端の主題との共通性を指摘しながら、『片腕』論で前衛画家との関連が論じられたように、『眠れる美女』と絵画との関係の研究展望を示唆している。 瀧田夏樹は、「枯れはてた老人に化けて、禁断の場所に潜入し、性の冒険を試みる江口老人のあり方」には、三島由紀夫の『禁色』の主人公・檜俊輔の「耽美的執念」を思わせ、江口の「“由夫”という名もなにか気にかかる」とし、『禁色』が発表された当時、川端が〈禁色は驚くべき作品です〉と三島に伝え、〈しかし西洋へ行かれればまた新しい世界がひらけると思ひます〉と勧めている手紙に触れて、この〈西洋〉で、「川端は何を云おうとしたのだろうか」と述べている。 森本穫は、平山城児や小林芳仁、中嶋展子らが、作中で江口老人が〈昔の説話〉〈遊女や妖婦が仏の化身だつたといふ話〉〈秘仏〉といった仏教的なものに言及していることから『十訓抄』の説話「性空上人見現身普賢菩薩事」「神崎君詠歌往生極楽事」や、謡曲『江口』との関わりを指摘していることを敷衍し、こうした古典の舞台の「江口」「神崎」「蟹島」が川端の生誕地付近の淀川べりの湊であることも考え合わせ、「普賢菩薩へと化した遊女と、西行や性空上人といった男性僧との対比」が『眠れる美女』の構想になったとし、そういった「色欲に悩む男を救う遊女が仏の化身であった」という物語のテーマに、川端自身の「根源的な願い」が込められていると考察し、また、川端と交流のあった石本正の絵の「裸婦」に触発された可能性も推察している。 そして森本は、江口老人が己の中の〈魔界〉を自覚しながら、〈眠れる美女〉らのぬくもりの側で死ぬことを願うが、少女の方が死んでしまうという予期せぬ事態と、それに続く宿の女の非情の言葉により、初めてこの館が「非人間そのものの家であることを体験」するとし、そんな場所に自ら赴いていた江口自身も「人間性の一切を喪失した」ことを知ると解説している。 もはや江口の行手には何も残されていない。あるのは、非人間の黒々とした虚無の淵である。彼はこの先、非人間としての不毛の道を際限なく歩きとおさなければならない。それが江口における〈魔界〉である。(中略)この物語は、老人を魅惑してやまぬ秘密の家がその恐るべき正体を露呈したところで、突如、幕を閉じるのである。老人における生(性)の回復とは所詮、畸形の夢にすぎず、その夢すら醒めてしまえば何物も残されていないという冷酷な真実の認識――。江口老人とともに作者川端康成がこの物語の最後に行きついたのは、このようなところであった。完璧な物語を描ききった作者の円熟の背後に、恐ろしい衰徴がしのび寄っている。 — 「魔界の住人 川端康成 第九章 円熟と衰徴――〈魔界〉の退潮」
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『みづうみ』は発表当初、川端作品の愛読者や追随者の間でも、困惑し、嫌悪を示した者も多かったが、後期の川端の思想が如実に表わされている作品という評価も多く、その〈魔界〉世界がよく示されている作品でもある。またこの作品は主人公の「意識の流れ」を描いているが、こういった試みは初期作品の『針と硝子と霧』(1930年)、『水晶幻想』(1931年)などにも見られ、自由な時間移行の構成を「反・時間的小説」として評価されている。 三島由紀夫は、「因縁の糸がそれぞれ全部つながっていて、偶然をものともせず人物がみなつながっていて、すべて因果応報の理によって動くようなところ」が、草双紙だと思うとして、『みづうみ』を「川端氏が草双紙風の筋立てで書いた、華麗な暗黒小説」だと表現しつつ、以下のように評している。 美少女の腰にゆらめく蛍籠の仄明り、みづうみに映る対岸の夜火事の火……、美的な官能的な関心と、悪への関心とが、桃井銀平といふ奇怪な男の中で、あわただしく手を携へて、彼をして神出鬼没せしめる。この男の妄念にみたされた目に映る世界には、何一つ不可能なものはない。現実の障壁を完全に取去つた幻妖な物語世界が出現する。 — 三島由紀夫「川端康成著『みづうみ』」 そして三島は、その「悪」は、「まったく感性的な悪」、「全然無害な無気力な悪」であり、「日本的な悪というのは背徳ではなくて、感性をそのままほっぽり出しておけば人間は悪になるという考え」であるから、主人公の銀平のような「普通の日本的な男をほっぽり出して彼の感性のままに行動させれば必然的に悪になる」とし、その悪が他の人間とぶつかり合う時には、人間関係が生じずに「美学だけが生じてしまう」というのが、川端文学のモチーフとなっていると解説している。 中村真一郎は、その三島から『みづうみ』の「不快な読後感を情熱的に」、「独特の繊細な表現」で聞かされ、興味をそそられて読み「三嘆」し、「この作品は私にとっては戦後の日本小説の最も注目すべき見事な達成だと感じられた」と述べている。そして主人公の「意識の流れ」の描写の美しさに驚き、従来的な19世紀の客観主義の手法で描けば、ただの「偏執者」になりかねない人物を、西欧20世紀の主観的表現方法の「意識の流れ」を用い、心の動きを「内部」から描くことにより、「その執念、その情念が、永遠の憧れの姿にまで、象徴化されることができた」と解説しつつ、その川端独特の「抒情的感覚的映像」の断片により、一つの小説に「幾つかの華やかな布地の綴織りのような面影」が作られているとしている。 また中村真一郎は、『みづうみ』の手法と似ているクロード・モーリアック(モーリアックの息子)の『全ての女は宿命的』も、主人公の意識から多くの女性の思い出を混合し、超現実主義的であることに触れつつ、モーリアックとは異なる川端の特徴を、「日本的超現実主義――中世の連歌における“匂い付け”と呼ばれるような、不思議な微妙な連想作用によって行われている」とし、「夢」の作用と似ている『みづうみ』が、ノヴァーリスやティークのドイツ浪漫派や、それに連なるフランスのネルヴァルの作品とも、「遥かに通い合っている」と考察して以下のように評している。 この作品は、西欧の最も新しい文学的冒険と照応しながら、一方で古い日本の美学の最も本質的なものの現代的再現と云える。それは屢々ホアン・ミロの幻想に似ている。と同時に、我国王朝末期の頽唐期の物語の世界でもある。この小説の構成も、映像も、筋立ても、そしてまたその後味も、夢に似ている。大概の小説は現実に似ていることで迫真性を持っているとすれば、この小説はその逆なのである。私たちは夢によって、日常生活では忘れている、私たちの内部に入って行く。この小説はそうした心の奥底への遍歴に、私たちをうながす作用をする。 — 中村真一郎「解説」 中村光夫は、三島由紀夫が川端の人生を「旅」に喩え、「永遠の旅人」と呼んだことに関連し、川端にとって、旅が人生の象徴であるように、「すべての人間関係」が〈ゆきずり〉であるという思想が老年まで根を張り、それをすべての事象に川端が実感していることが見られるとし、『みづうみ』で銀平が、〈ゆきずり〉の人を〈ゆきずり〉のままで別れてしまうことを哀惜し、〈この世の果てまで後をつけてゆきたい〉という願望の不可能を、〈この世の果てまで後をつけるといふと、その人を殺してしまふしかないんだからね〉と語る場面に触れながら、そこで川端が広い意味での親子夫婦も含めた全ての〈ゆきずり〉の人間関係(人間は誰しも偶然に出会い必然に別れる)を示唆していると解説している。 そして中村光夫は、どんなに世渡り上手で利口な人間でも、現実に衝突し夢破れた経験はある筈ゆえ、社会の外にいる銀平の「社会的存在感の喪失」は何らかの共感を誘い、川端は、そこに社会生活での「人間の存在形式」を見つめ、「すべての人間関係が〈ゆきずり〉である以上、人間に救いがあるわけはない、ただ我々は銀平のように馬鹿正直でないから、適当にあきらめているだけではないか」という暗黙の問いかけがあると考察している。 田村充正は、『みづうみ』を「時空間の拘束」にとらわれることなく、主人公銀平が幼少時に負った心の傷をひたすら追っていく物語であるとし、その方法が、分析や解明を主とする西欧的な小説と違い、様々な感情を「芸術の言葉」に変えて、「和歌への結晶を志向する歌物語」と同様の方向性を持っているため、「西洋の前衛と日本の古典」の融合という川端作品の特質が見られると考察している。 そして田村は、初出誌連載時では終結部が、再び冒頭部へ繋がる円環構造となっていたことを鑑み、宮子の視点の第2章以外は、物語が「信州から信州へという構成においても、やよいからやよいへという主人公の意識においても完全な円環性をその特徴としている」と説明しながら、その「円環の中心にある〈みづうみ〉」に立ち返って自身が受けた心の傷の謎を解明しようとする志向が銀平には無く、もし解明されても自分の傷が癒えることがないことを知っているため、「癒やして過去に訣別する方途がない」ならば、「銀平は宮子のあとに続く第四、第五の女を追い続ける宿命にあるはずである」と論考し、それゆえに、単行本刊行に際し削除された結末部分は、あえて削除する必然性がなかったと述べ、以下のようにまとめている。 作品の内的生命は初出のとおり銀平の永遠の彷徨を示唆してその輪を閉じようとしていた。いやすでに閉じたのである。この永遠の堂々巡りを、作品内では自壊していない円環構造を、力づくで断ち切ったのは作家川端康成であり、その意味でもこの「みづうみ」という作品は、作家川端の生を反映しているのかも知れない。 — 田村充正「川端康成『みづうみ』の基礎研究――作品『みづうみ』はいかに構築されているか」 原善は、『みづうみ』に登場する女性の系譜の発端に「母」があり、『反橋』三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)で顕在化した「母恋」のテーマの流れの共有があるとし、それは、孤児の生い立ちに加え、子宝にも恵まれなかった「不妊」(最初の死産を含む、妻の数度の流産)の状況により、本当の意味での「孤児」の悲哀、「孤独」の感を強めた川端が、自己救済の発展としていった「母恋」という形の「魔界」であるとしている。そして『みづうみ』の「魔界」では、「行為者そのものの中に共存する淪落と浄化の志向の、拮抗する緊張関係」がより明確になり、銀平が思い浮かべる〈みづうみ〉は「母性」の象徴で、女の中に見出す「母なるもの」と「性なるもの」は、『眠れる美女』の女性たちへ向けられた〈冒瀆と憧憬〉の共存する対象であると解説している。 また、川端自身の分身である銀平(美女追跡者)の「美への追跡」は、「作家川端の文学における美の追求」の具現化であるとし、川端文学の〈魔界〉について、「一見するとそれと誤認される皮相な背徳や悪の世界のみではなく、そういった淪落への志向と同時に自己浄化の志向をも持った人物の、その両志向の二律背反的な拮抗によって裏打ちされるところの、美と倫理の危うい均衡の中で燃焼するエロスの世界だとする理解が導ける」と原は考察している。 さらに原は、三島が『みづうみ』を「草双紙」と言ったことと、宮子のパトロンが銀平にも繋がりのある人物だという「因果」、「因縁の糸」を所々に含めている川端の「運命・因縁」へこだわりを見て、辻邦生が指摘した「“孤児”という宿命的な状況は、氏をして、生の底面にある、動かしがない何ものかの存在を、いや応なく認めさせずにはおかなかった」という言葉を引きながら、多くの血縁の死を経験した川端が、新たな血縁を求めるも子宝に恵まれなかったという、「自らを支配する暗い宿命」を意識せざるをえなかったゆえに、「運命・因縁」が作品主題となることが多いと考察している。 林武志は、『みづうみ』において、「自失」(「忘我」)と「狂気」に注目し、「〈自失〉の追跡といい、〈狂気〉の世界といい、いずれも人間的日常的時間が切断された〈虚の時空〉、非日常的な〈幻の時空〉」であるとし、銀平が追い求め続けた〈魔界〉とは、「この〈虚(幻)の時空〉」であり、「常住不能な非連続の世界」だと論じて、〈秘密がない〉という点では少なくとも「〈天国〉(仏界)即〈地獄〉(魔界)」であり、銀平にとって〈一瞬〉の〈狂態〉が「至福の時空」だと考察している。 岩田光子は、『雪国』の「温泉」と、『みづうみ』の「トルコ風呂」との類似性を指摘しながら、それを「現実から非現実への移行」のための「通路」だとし、『みづうみ』を「魔界礼讃」の作品だと評している。
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『詩を書く少年』は三島の自伝的作品で、三島の少年時代を窺い知るにあたって大きな参考となるものの一つであると同時に、三島にとっての「詩」と「小説」の関係性を論じる上で取り上げられることの多い作品である。また、森鷗外のエッセイ『サフラン』や、谷崎潤一郎の小説『神童』など、作家が自身の早熟な少年期を回顧したものとして、三島の『詩を書く少年』もそれらと同じ位置づけの作品とみられている。 野島秀勝は、「『金閣寺』に至る三島文学の傑作の底に響く主調音」として、「被疎外の意識」といった概念を考察し、「『仮面の告白』は、三島が、『詩を書く少年』の詩人としての贋物性の認識と共に、その幸福の贋物性を明視したところに成立した」とし、三島が自己を「贋物性」と見る「外部を定位」し、その自己の外部に対する関係を「被疎外」という概念で捉えている、といった構図を考察している。佐藤秀明は、この野島の規定した「被疎外」が、神西清の言うところの「否定に呪われたナルシシスム」に当るとし、神西の場合は、それを三島の「自己内部の問題」として捉えていると解説している。 高橋和幸は、『詩を書く少年』を分析しながら、「三島文学の初期から中期への移行は、このような詩そのものの幸福から、詩と詩人が分離し、外界と内界の醜悪さや不完全性、不足を批判攻撃することが文学創造の原動力となっていた」とし、「詩そのもの」と「詩人」の分離を明らかして、三島のなかに成立した「批評家的な目」により、「小説家として独り立ちする」ことを論考している。 佐藤秀明は、『詩を書く少年』で語られる、詩が生れるときの〈幸福〉に、「冷水を浴びせる」ものが、「〈現実〉すなわち〈僕も生きてゐるのかもしれない〉という予感」であることから、この〈詩〉の〈幸福〉や、『海と夕焼』の〈奇蹟〉を、「現実が許容しない詩の幸福」と呼び、『仮面の告白』の〈私〉の「セクシュアリティ」(高橋和幸のいう「詩そのもの」に相当)を「現実が許容しない詩の幸福」の比喩だと捉え、『愛の渇き』の悦子の〈底しれないロマネスクな固定観念〉や、『沈める滝』の「鉄と石の世界」もそれと本質的に同じものだと論考している。 そして三島が評論『小説家の休暇』で述べた以下のような一節を引き、そこでは、「生きながらなお小説を書くことが問題として設定され、生きることと小説との間に一種の齟齬が見出されていた」としつつ、しかし〈小説〉は、〈詩〉のように、「生きること」とは対立せず、三島の言う〈小説〉は、「人生(現実)と詩(「現実が許容しない詩」)との対立を含み、それを描いたもの」だと定義している。 小説を書くことは、多かれ少なかれ、生を堰き止め、生を停滞させることである。私は、二十代に、かくもたびたび、生を堰き止め、生を停滞させたことを後悔しない。しかし純然たる芸術的問題も、純然たる人生的問題も、共に小説固有の問題ではないと、このごろの私には思はれる。小説固有の問題とは、芸術対人生、芸術家対生、の問題である。 — 三島由紀夫「小説家の休暇」 そして佐藤は、他の三島のあらゆる小説や戯曲にも、この「芸術=詩」(「現実が許容しない詩」)と「人生=現実」との関係性が様々な形で描かれているとし、『仮面の告白』では自己の〈詩〉を否定的に捉えた三島が、その後の作品では逆に、「その〈詩〉を救済している」と考察し、それは一見〈美〉を滅ぼしたかのような『金閣寺』においても、「金閣に火を放った〈私〉に究竟頂で死のうという考えが閃いた」のは、放火の只中で主人公が、「現実が許容しない詩の幸福」を目指したということで、〈究竟頂〉は「〈比びない壮麗な夕やけ〉の世界」「現実を超えた世界」を指すと解説している。 また、『卒塔婆小町』では、老婆が美女に変身するのを見た詩人が、「現実が許容しない詩」を生きてしまったため、「ここで死ななければならない」という構図となり、その8年後に発表された『弱法師』になると、俊徳の幕切れの台詞は、彼の〈詩〉に抗した「桜間への妥協」となり、これから現実の世を生きなければならない「異人」の「苦い覚悟」が示されていると説明している。三島自身が、『鹿鳴館』に比して「私流にずつとリアリスティックな芝居」だと言った『薔薇と海賊』においては、1970年10月の再演を見て三島が涙を流したという「興味深い」エピソードがあることから、その時期すでに「〈現実が許容しない詩〉を、現実として生きること、死の準備を密かに進めていた」三島にとって「楯の会」の計画がどういう意味であったかが窺われるとし、この作品がそれまでのものと異なり、「〈海賊〉という現実をうち破って、〈薔薇〉という虚妄が現実として成立する点で注目される」と佐藤は解説している。 そして、それをより徹底させ、「〈詩〉そのものに近い作品」にしたものが、『憂国』や『英霊の聲』であり、『美しい星』の〈処女懐胎〉を信じる暁子、『午後の曳航』の「独自の論理」の少年たち、『絹と明察』の「泥くさい〈詩〉」を生きる駒沢が登場する作品は、「〈現実が許容しない詩〉を、まさに現実が許容しなかったにもかかわらず、生き延びさせる小説」であると佐藤は解説し、『剣』の国分や、『奔馬』の勲が自殺する作品では、「〈強く正しい者〉という〈詩〉を現実が許容しないならば、〈詩〉が〈詩〉であるうちにそれを断ってしまえば、〈詩〉は生き残る」としている。 遺作の『天人五衰』では、自分を「絶世の美女」と信じる絹江は〈詩〉を生き続け、透は失明することで絹江の一部となり、絹江の自己認識は、「(猫だと信じた)鼠にあった主観・客観の分節」を無効にしてしまうため、そこでは「〈現実が許容しない詩〉が現実であるという堅固な一元性しか存在しない」と佐藤は考察し、三島の小説は「〈詩〉への批評」から始まったが、最後まで〈詩〉は生き延びていたことを以下のようにまとめ、『詩を書く少年』の主題が三島の一生を貫いていたことを論じている。 三島は少年時代の詩を否定し、しかし〈詩〉は生き延び、背理である〈詩〉こそが現実であるという小説も書かれ、『豊饒の海』に至った。『豊饒の海』で、〈現実が許容しない詩〉と現実はさらに上位のレベルである唯識によって相対化され、反転を繰り返すことになる。〈詩〉と現実の絶え間ない反転は、「小説の固有の問題」を変質させ、もはや小説の成立を不可能にする地点に来たことを証するのである。 — 佐藤秀明「〈現実が許容しない詩〉と三島由紀夫の小説」
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『サド侯爵夫人』は発表当時、概ね肯定的な評価で迎えられた。当時の文壇の評価としては、江藤淳が、小説よりも「説得力があり、暢達」な文体を評価している。山本健吉は、「三島氏の戯曲として、きわめて結晶度の高いもの」と賛辞し、「欠点を言えば、サドの著書(『ジュスティーヌ』)を夫人の回心のきっかけとしていることだと思う。事実としてでなく、解釈としてでなく、戯曲のプロットとして言うのである。劇のクライマックスに〈書巻の気〉は避けたい」と述べつつ、「三島氏の目をくらますような修辞が、巧みにいぶされてあって、しかも対話の妙を尽くしているのがよい」と評している。 その後『サド侯爵夫人』は、1994年(平成6年)末に発表された演劇評論家が選ぶ戦後戯曲ベスト20のアンケートで第1位作品となり、「戦後史上最高傑作の戯曲」という評価がなされた。主人公・サド侯爵夫人・ルネを演じた丹阿弥谷津子(俳優・金子信雄夫人)は、演劇人生で「もっとも想い出深い作品」と回想している[要出典]。同アンケートの「劇作家」部門では、井上ひさしと三島由紀夫が1位に選ばれたが、井上ひさしも三島戯曲を高評価し、中でも『サド侯爵夫人』は傑作だと述べ、「観客が7人目の登場人物としての『サド侯爵観』をつくっていく。非常に明晰な台詞、明晰な構造、明晰な心理分析で組み合わせたがっちりした芝居です」と評している。 また、『サド侯爵夫人』は日本国外でも上演されており、「007シリーズ」の主人公ボンドの上司「M」役で知られるイギリスの女優・ジュディ・デンチも主役を演じた。特にフランスでも人気があり、各地でしばしば上演されている。1977年(昭和52年)にパリのオルセー小劇場で行なわれた公開討議会で、聴衆から「日本人の作品とは思えない」という声があがった。芳賀徹は、パリでウェイトレスが「ミシマ見た? 『サド侯爵夫人』すてきだったわよ」と言うのを耳にし、あのウェイトレスは「ミシマが日本の作家だということさえ知らなかったのかもしれない」と記している。 伊藤勝彦は、もっとも感動した『サド侯爵夫人』の舞台として、スウェーデンのイングマール・ベルイマンによって監督・演出された東京グローブ座の舞台だと評している。フランスで、マドレーヌ・ルノー劇団の舞台その他いろいろの『サド侯爵夫人』を観たという中村雄二郎も、イングマール・ベルイマンの舞台の方がはるかにすばらしかったと言っていたという。 なぜ夫人が最後に夫・サドとの面会を拒んだのかという「謎」について柴田勝二は、「ルネが〈貞節〉を尽くす相手としての夫サドは、あくまでも手の届かない距離の中に置かれた存在であり、たやすく手に触れうる身近な相手になった時、サドはすでに彼女の〈貞節〉の対象ではなくなっている」とし、サドの風貌が〈醜く肥えて〉、凡庸な老人になってしまい、「超越性を失った」ためだと考察している。そしてその終幕の帰結には、『午後の曳航』の「龍二の処刑」や、『絹と明察』の後半における「駒沢への叛乱」と同様の意味合いが見られ、そこは、「日本という〈家〉の〈家長〉でありえなくなった戦後の天皇への否認」という主題が込められているとし、サドの醜く肥満した帰還の姿には、龍二よりも「色濃い形」で、「戦後憲法下における天皇と、それが象徴する戦後日本の照応」が映し出されていると柴田は解説している。 また柴田は、ルネが哀れなヒロイン『ジュスティーヌ』に自分をなぞって、その世界を〈私たちが住んでゐる世界は、サド侯爵の創つた世界〉と断定するところは、三島がその後に述べるようになる〈富裕な、抜目ない、或る経済大国〉 と照応し、〈悪の結晶〉は、物質的繁栄のみに励んできた「戦後日本」を指していると考察し、太宰治の『斜陽』のかず子が恋する上原の変貌した姿と同様、そこには「〈神〉としての光輝を失った戦後の天皇」が「みすぼらしい肉体のイメージ」によって表現されている共通性があるとし、太宰が〈天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋ひしたふ対象なければ、倫理は宙に迷ふおそれあり〉 と述べていたことに触れながら、かず子は上原の子供を孕むのに比して、三島の『サド侯爵夫人』のルネの結末の方は「サド侯爵」=「戦後天皇」に対して「はるかに厳しい」と解説している。
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『薔薇と海賊』は週刊読売新劇賞を受賞しているが、他の三島の戯曲に比べると相対的に論究自体が少ない作品である。 奥野健男は、「美と夢の創造者」が「美そのものになり得るか」というテーマが、場違いなところで「ひとりよがり」に出されていると辛口の評価をし、山本健吉は、童話の世界と現実の世界の「大時代的な会話」が交錯するレトリックを生み出す三島の機智が、「夜空の花火のように」ひらめいていると讃辞している。 埴谷雄高は、「さながら原子核のごとき微小な現実の一点をとらえて凸レンズの彼方にこれ程拡大して見せた鮮やかな新しさを敢えて祝したい」と述べている。日下令光は、「目覚めた人間楓の幕切れのセリフは三島ドラマのすごみをきかせてたのしい」と評し、(川)の著名のある日本経済新聞評は、「肉体性を奪われることでしか純潔な愛は成り立たないかと問うような作者の主題がドキッとさせるような鋭さで浮かび上がってくる」と論評している。
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『器楽的幻覚』は、『愛撫』『闇の絵巻』『交尾』に移行する以前の、〈絶望への情熱〉を主題としている『蒼穹』や『冬の蠅』と同種の心理的状況下で書かれた作品であるが、主要な代表作に比べると作品論は少ない傾向にある。しかしながら、魅惑的な短編として評価されている。また、梶井文学では「視る」ことで、対象との一体化、自己喪失の状態を示しているが、それが唐突に破られて我に返ってしまう孤独の瞬間があり、『器楽的幻覚』も、『路上』『筧の話』などと同様にそれを描いている作品である。 小林秀雄は、「『筧の話』や『器楽的幻覚』は、極めて精緻な抽象的解析を語つて、色彩や音響そのものゝ実質感に充ちてゐる」と高評している。今日出海は、基次郎の「微妙なそして鋭敏な知覚作用の底に、いたましい魂の歌声を聴く」として、「『器楽的幻覚』は苦しい『交尾』への旋律へと昇つて行つた」と位置づけている。 高橋英夫は、清岡卓行の随想『手の変幻』で語られる芸術観を鑑みて、芸術の表現は、「発する存在と受け取る存在の間に張り渡された糸みたいなもの」だとし、音楽の場合、「発信者」(作曲家)と聴者の間に「媒介者」(演奏家)がいることが「本質的な緊張関係」を形成していると説明しつつ、しかしながら、聴者が「発信者」(作曲家)と「媒介者」(演奏家)の2者と相対しながら、「緊張の糸」を保つことも可能とし、その時に聴者に起る幻覚・幻惑は、聴者が「緊張の糸」を通じて2者を吸収してしまった必然の結果だとして、それは「最大の幻想者としての聞き手(聴衆)の成立」だと解説している。 そして高橋は、そうした幻覚を描いている『器楽的幻覚』で、基次郎が異常知覚した遊離の感覚を、「奏者の意志からも、音楽(作曲者の意志)からも何かが遊離していった」ものとし、その「孤独感」を「聞くことの極限だ」と評し、その音楽体験が、近現代音楽の新しさに対するインパクトからではなく、基次郎が音楽体験の変容の本質性を言葉として描いたことの重要さや新しさを指摘している。 曲目がドビュッシー、ラヴェル、オネゲル、ミヨーだったから新しかったのではなかった。音楽を受け止め、聞く人間の側に、異常や逸脱が行きつく最後の場所まで行く過程が発生したこと、それが作品の言葉となって定着したこと、それが新しい。新しいというよりも、それが本質的なことだった。 — 高橋英夫「母なるもの――近代文学と音楽の場所」 山田桃子は、『器楽的幻覚』における近現代フランス音楽の音楽体験が、その当時のラジオ放送開始や映画、交通網の発展などの「メディア・テクノロジーの浸透と知覚の変容の過程」でもあった急速な東京の都市化(関東大震災を契機とした大規模改造)と関連させ、「知覚の変容という同時代の問題系を共有する聴取像」として分析し、この作品が音楽領域だけではない「同時代の問題系へと接続している」と考察している。 山田は先ず、基次郎が「義太夫の会」の体感を〈器楽的幻想〉と称していたにもかかわらず、〈幻想〉というロマン主義的な言葉を避けて〈幻覚〉に変えていることに着目し、その語彙変化を「音楽体験における、音楽を知覚する身体という領域の前景化と明白に関わっている」とし、これと異なるベートーヴェンのピアノソナタ『熱情(アパショナータ)』の音楽体験との対照・対立関係を意図して両体験が語られていると考察している。 そして、フランス近現代音楽の「非連続性」と対応する「新たな主体性の再領域」が示唆されている音楽体験では、「主体性の解体が擬似的な全体性の仮構とともに新たな再編成へと向かう変容の場を未だ可視化している」と山田は論考し、内田百閒の『旅順入城式』(1925年)との共通性を鑑みつつ、共に1920年代後半の時代変化の「問題系を浮上させ照射」している作品だとし、さらに基次郎の『橡の花』の「知覚の変容」も同時に鑑みている。 乗車中の電車の響きや都市の喧噪が音楽に聴こえ、それが止まらなくなると記述する「橡の花」(一九二五年)など、梶井作品にはメディア・テクノロジーの浸透を伴った社会編成の変化における知覚の変容――加速する消費と生産の循環に対応し組み入れられる新たな主体性――の問題系への関与が見られるが、「器楽的幻覚」はその問題系に、フランス近現代音楽というそれ自体音楽史における瓦解を刻まれた非連続的な音楽によって生じた、聴取経験の内側からの解体を記述することによって接続している。 — 山田桃子「梶井基次郎『器楽的幻覚』:知覚の変容と音楽・一九二〇年代の諸相から」 柏倉康夫は、演奏会の休憩時間に誰かが吹いた口笛に嫌悪を覚える挿話を入れていることを、「劇作家としての手腕」として、それが次の展開への巧い導入になっていると評している。また、聴衆から孤立していく自分の感覚を説明する場面で、子供の頃に誰もがやった覚えのある両耳を塞いだり開けたりして、周囲の喧噪や親からの説教音を聞いてみる悪戯を比喩に使う巧さを指摘しつつ、その状況の意味を、「子ども心には判然としなくても、人間の無意味さ、その本来的な孤独に触れている」とし、「人間存在のこの不条理性」を基次郎が『器楽的幻覚』で描こうとしていると解説している。 視覚と聴覚のちょっとした齟齬から発した幻覚は、ついには人間の「涯もない孤独」を開示するにいたる。日常的な意識では絶対に捉えらない真実の相を、幻覚的意識が垣間見せてくれたのである。実はここにはファシズムの群集心理に通じる魔力がひそんでいるのだが、「私」はそこまでは気づかない。ただ一度このメカニズムに気づいた「私」には、現実の秩序はまったくちがって見える。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 柏倉は、最後に〈私〉が出口に向かう時、眼前の侯爵の背広の〈威厳に充ちた姿〉が〈仆れて〉しまうのは、日常では権威の象徴である人物も、「非日常的な眼を獲得した〈私〉」にとっては、その威厳の意味も失われてしまうことだと解説し、「表面下の本来の孤独を暴かれた突端」に〈たちまち萎縮してあへなくその場に仆れて〉しまうという鮮烈なイメージに、〈服地の匂ひ〉という嗅覚で、「人間本来の孤独」を感得していることが基次郎らしいとしている。そして、「一度真実を知った〈私〉」が意志とは無関係に〈同様の犯行を何人もの心に加へ〉て、「多勢の人をその場に打ち倒してしまう」様相を帯びたクライマックスを説明し、そこには、2度目の冬も湯ヶ島で迎えざるを得なかった基次郎の孤独感が反映されているとしている。
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『喜びの琴』の評価は賛否両論に分かれ、否定的なものとしては、三島戯曲の中で「芸術的な鮮度の高い作品ではない」と尾崎宏次が評し、野村喬は、「主題と題材との間」に調和を欠いていると述べている。肯定的なものとしては、奥野健男が、「反共劇どころか、革命讃美劇のように見える」とし、その反俗性を評価している。 磯田光一は、三島の『林房雄論』で語られた「〈純潔を誇示する者の徹底的な否定、青空と雲とによる地上の否定〉の情念こそ、かつてのマルクス主義運動を支え、また戦時下のナショナリズムをも支えていた日本的な心情」という要旨が、『喜びの琴』にも通底し、その主題は、「人間は生きるために如何に〈生を意味づける超越原理〉を必要とするかという認識」でもあり、「戦後の進歩主義の盲点は、このような戦争の二重構造に対して全く盲目だった」と断じている。 そして磯田は、戦後の進歩主義者やヒューマニストらが、戦時下の青年たちを単に「だまされた」という語で還元してしまうことの浅薄さを指摘しながら、「人間は本質的にファシズムを渇望し、〈美しい死〉にあこがれるという事実を、なぜ直視しようとしないのか」と述べ、本質的原初的な〈日本人のこころ〉という意味では、保田与重郎の心情も小林多喜二の心情も同じだと論じている。また、片桐の「〈信頼〉の悲劇」は現代社会の悲劇であるが、彼はドン・キホーテにすぎないとし、その素朴な信仰者の片桐が、松村という凶悪なニヒリストに糾弾され、〈清純さの罪、若さの罪、この世できれいな心が負はなければならん罪〉を告発される場面は、「現代の包蔵している背理をすさまじい迫力をもってえぐり出している」と解説している。 松本鶴雄は、二転三転するどんでん返しが「実に巧妙」で、「松村と片桐の対立は凄絶な心理劇の定石通り緊迫して進行する」と高評価しながら、「本当の美は悪魔的状況の中に、あるいは人間不信と絶望の背徳の中から花開くという、三島文学の一貫したテーマがここにもいかんなく描かれている」と解説している。 村松剛は、三島が次の戯曲『恋の帆影』の解説の中で、ヒロインが嵐の一夜の後に、〈実存的な目ざめ〉をし、〈それまで彼女を縛めてゐた「純潔」の観念が、実は真の実存からの逃避であつたこと、生の「本来的な憂慮(ゾルゲ)の様相」の拒否であつたことを、つひに彼女は知るにいたる。(この点では、「恋の帆影」の女主人公の純潔は、「喜びの琴」の主人公の純潔と、まるでちがつたもののやうに見えながら、実は相照応してゐる)〉と述べていることを鑑みて、『喜びの琴』の琴の音には、ヘルダーリンの詩『帰郷』に現れる故郷への回帰がもたらす喜びの「絃の弾奏」の影響をあるのではないかと推察している。 大久保典夫は、敗戦後2年目に書かれた太宰治の短編『トカトントン』と、安保騒動の3年後に書かれた『喜びの琴』が共に、「きわめてアクチュアルな作品」であり、「トカトントン」という金槌の音と同じく、「コロリンシャン」という琴の音も、「いっさいの信頼や情熱そのものを空無化する作用」を果たしているとし、太宰の『トカトントン』が、「ミリタリズムの幻影の剥落した敗戦直後」と対応しているのと同様に、三島の『喜びの琴』は、「戦後革命の幻想の崩壊した60年安保後の現実」を捉えていると考察している。
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『百万円煎餅』は、三島自身の自作解説からも見られるように、〈知的操作のみにたよるコント型式〉が骨格となっており、佐渡谷重信も「ノンセンスの世界に支えられた一つのコントがみられる」と解説しているが、この物語の結末のオチには、単に小説形式だけでは説明できない問題を孕み、引き破ることのできない〈湿つた煎餅〉が何を象徴しているかの不可解性も指摘されている。 中元さおりは、「新世界」という舞台が「俗悪なキッチュさ」を帯びながらも、欲望をかき立てる玩具や見世物が並ぶ「大衆の理想的な生活」を模倣した「コピー的な空間」だとし、その「人工的な模倣空間」で戯れる健造と清子夫婦(コピー化された世界を手に入れようとする消費者)の求める理想の夢は、大衆消費社会におけるメディアが流布する〈生活の夢〉を模した「コピー化された夢」だと考察している。 そして健造と清子がその夢を手に入れるために、自らの性を商品化(夫婦の性の形態をコピー)し、ショー(商品)としてのコピー化した性を何度も反復しているが、そこでは、健造が信念としていた〈夫婦の睦み合ひ〉の基本の〈自然を崇拝すべき〉という本来の意味はなく、オリジナルの〈宗教的信条〉が消滅しているために、2人は容易に自らを商品化できていると、中元はボードリヤール的な視点で解説している。 (健造らが)階級闘争に目を向けるのではなく、自らもコピーとして消費されるとともに、コピーの氾濫によって成立する大衆消費的生活を欲望していくという消費活動の方へ目を向けていることは、もはやマルクス主義的な二項対立が無効となり、大衆消費社会化へと大きく変貌していく日本の戦後社会の転回点の様相を捉えたものとして指摘できよう。コピーと戯れていた自分たちが、コピーとして商品化(記号化)され消費されていく健造と清子の存在は、コピーと戯れ消費する人間の主体性そのものの揺らぎを物語っているのではないだろうか。 — 中元さおり「三島由紀夫『百万円煎餅』論 : コピー化していく世界」 田中美代子は、浅草の底辺で生き、百万円煎餅の粉を口に付けながら「新世界」の見世物小屋を廻っているアウトローの健造と清子夫婦の「無邪気、天真爛漫、さらに実直さ、生真面目、単純、それらもろもろの小市民的健全性」が、「そっくりそのまま裏返しされた小市民の不健全性の上に成立しているというアイロニイ」を示しているとしている。 この物語の残酷は、二人の無辜が覆いかくしていたその暗黒のユーモアを、或る夜突然上品な婦人客のいやらしさによって目ざまされるところにあるだろう。(中略)こうしてアウト・サイダーたちは、社会の様々の角度から、その詩的真実を開顕する。 — 田中美代子 「三島文学の理想像の完結」 橋本治は、他の三島の短編『鴉』の孤独で優しい主人公〈パン屋の若い衆〉と、『百万円煎餅』の主人公・健造との類似性や、「白黒ショーを演じる健全な主人公」の健造と、『憂国』の主人公の共通性を見ながら、『憂国』と『百万円煎餅』は、「ある行為を演じる男女」という同じモチーフの「時代と世話の書き分け」だとして、この同モチーフを「時代狂言」として処理すれば『憂国』であり、「世話物」と処理すると『百万円煎餅』になると考察している。 『百万円煎餅』に続いて執筆された『憂国』との関連については、相思相愛の若い夫婦の恋情や描写の類似性を中元さおりや池内紀も指摘しており、池内は、「二つの小説はトランプのジョーカーの表と裏のようにつくってある」として、「鬼才三島にのみできた高度な文学遊戯である」と高評している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:10 UTC 版)
※菊池寛の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。 『屋上の狂人』は菊池寛の戯曲を代表する作品であるが、第四次『新思潮』発表当時には、同人の久米正雄などが個人的に褒めていたくらいで、特に何の反響もない作品であった。翌年に同誌に発表した『父帰る』も弘田親愛が感心していたという話を菊池は久米から間接的に聞いたのみで、菊池の戯曲自体がほとんど無視されていた。 菊池は当時を振り返って、「『屋上の狂人』は久米が感心してくれたと云ふだけで、まだ原稿が売れさうな曙光はおろか一縷の望みもなかつた」と述懐している。当時、『新思潮』の同人では芥川龍之介がいち早く文壇に認められ、その次に久米が続いていたが、菊池はまったく認められていなかった。そのため、その後菊池は戯曲よりも小説の執筆に重点を置くようになったが、それを勧めたともされる友人の江口渙は、当時の文壇には戯曲をあまり尊重しない傾向があったと語っている。 それは彼が小説よりもより多く戯曲をかいていたせいでもあり、その頃の文壇では戯曲をあまり尊重しない傾向がつよいためでもあった。だから『父帰る』や『屋上の狂人』のような名作を誰ひとり問題にする人がいなかった。そして、菊池寛は少なからず不遇であった。 — 江口渙「その頃の菊池寛 二 『忠直卿行状記』その他」 しかし、菊池が小説家として文壇内で確かな地位を築いた後の1921年(大正10年)2月に『屋上の狂人』が舞台劇として14代目 守田勘彌、2代目 市川猿之助らにより25日間の興行で初上演されると、高評価を博し一躍人気演目となっていった。歌舞伎でもなく新派でもない、新しい現代劇が長期興行の対象となるのは当時珍しいことであった。田中良による屋根などの舞台セットも当時としてはリアルで、三宅周太郎から好意的に劇評され、新鮮な感動を観客たちに与えたことが伝えられている。 江口渙は『新思潮』誌面で読んだ時には『父帰る』よりも優れていると思った『屋上の狂人』の初演舞台に関しては、俳優の演技のまずさもあり、あまり感動しなかったとして、非常に感激した『父帰る』の初上演を上回るものではなかったとしている。 巫女になった村田嘉久子のふん装が、へんにこぎれいすぎて、まるで奈良の春日神社のみこみたいで、原作にあるような田舎っぽい野性的な素朴なすごみを出せなかったのは失敗だった。その上、守田勘弥の屋根の上の狂人も、原作にあるような人間社会から一歩天上の世界へ逸脱したようなあの狂人のもつ独特な人間性の美しさがなく、むしろ、何か痴ほう症みたいな感じがつよかった。 — 江口渙「その頃の菊池寛 三 『父帰る』の初上演」 菊池自身は初上演前から、『屋上の狂人』を〈自分として得意な作〉だとしており、自分の戯曲の中で〈厭でないもの〉としても、まず『屋上の狂人』を筆頭にあげ、続いて『茅の屋根』『時の氏神』『恩讐の彼方に』『義民甚兵衛』『父帰る』を挙げている。 「屋上の狂人」は、自分として得意な作である。「藤十郎の恋」や「敵討以上」で自分の「戯曲家としての価値」を判断して呉れては困まる。が、「屋上の狂人」は、自分が戯曲家として立つ時の、第一の礎石である。自分が、どんな戯曲を書かうと思つて居るかは、これを読んで呉れゝば解ると思ふ。 — 菊池寛「自作序跋」 森田草平は、『屋上の狂人』初上演から5年後に批評した中で、この作品を菊池が書くにあたって「人生の幸福は幻影の中にあらずして真実を見る所に在り」という真理に気づいていなかったのは情けないと批判した。 菊池はこれに対して〈いくら先輩でも無礼である〉とし、その「真理」を持つ近代劇の基調を知った上で、そうした〈現実過重〉の弊害の反動としてイェイツ、シングなどの〈幻影復興現実忌避〉の戯曲が出てきたことを指摘しながら反駁した。 こんな真理は近代劇の基調であり、殊にバアナアド・ショウの如き幻影破壊を以て第一の信条にしてゐるではないか。さうした現実過重の弊に対して起つたものが、幻影復興現実忌避のイエイツ、シングの徒ではないか。この二つが近代劇の第一波第二波ではないか。第二波に乗じてゐるものに、第一波を知らないだらうなどと、めちやくちやである。二階にゐるものは当然一階を通つてゐるのだ。 — 菊池寛「劇壇時事」(大正15年5月) また自然主義作家の田山花袋が、菊池のその後の戯曲『恋愛病患者』(1924年8月)について、「作者は父親の方に重きを置いてゐるが、あゝでなしに若い時代の方に共鳴した方が、ぐつと力を持つて来はしないか」と、父の立場ではなく、若き恋愛者の立場から書いたらもっと力強い作品になっただろうと批評したことにも菊池は触れて、若き恋愛者の立場で書かれた近代劇が多いことへの〈反動〉で書いたものが『恋愛病患者』なのだと反論し、『屋上の狂人』もシングの〈反動〉に習ったものだと述べている。 「人生の幸福は幻影の中に在らずして真実を見るに在り」と、いかに、それについて多くの近代劇が作られたゞらうか。シングが「聖者の泉」をかき自分が(不倫をゆるせ)「屋上の狂人」を書くのはその反動だ。二階に居ないからと云つて、一階にゐるのぢやないのだ。三階へ上つてゐるのだ。 — 菊池寛「劇壇時事」(大正15年5月) 鈴木暁世は、森田草平や田山花袋など、社会や人間の「真実」をそのままあからさまに自然主義的に描くことを信条とした作家らの立場からは『屋上の狂人』は、それに逆行するものとして捉えられたと解説し、森田や田山に対する菊池のこうした反駁や、シングに対する菊池の〈幻影復興〉への共鳴をみた上で、日本の近代劇に〈現実過重の弊〉を感じていた菊池が、それを超克するため〈幻影復興現実忌避〉のイェイツやシングの劇を「理論的支柱とした」と考察している。 翻訳者のグレン・W. ショーにより菊池の戯曲集『Tōjūrō's love and four other plays』が1925年(大正14年)に出版されると、翌年3月のモーニング・ポスト紙に「A Dramatist of Japan」と題する菊池を紹介する記事が掲載され、「日本独自の伝統を継承」している菊池の独自性が好意的に評価されて「西洋はこれらの驚嘆すべき小戯曲から何かを学ぶべきであり、偉大な芸術の意義と美とがそれらにつまっている」と報じられた。菊池はその評価に対して、自身の戯曲がシングの影響を受けていることを述べている。 矢野峰人は1926年(大正15年)秋に初めてイェイツに会った際に、イェイツが「今最も深い興味を以て眺めて居る戯曲家は世界に菊池とピランデルロ二人あるのみだ」と言い、特に『屋上の狂人』に感心した旨を告げられたことを述懐しながら、後日イェイツ夫妻が主宰する小劇団で『屋上の狂人』の英訳劇が上演されて成功を収めたことを語っている。 イエイツが特に「屋上の狂人」に感心したのは、この作の中に、真の叡智とか天啓とかは、現世的な理知に煩わされざる霊に宿るという彼一流の哲学を発見したためであるかも知れない。ともかく、イエイツがこれを非常に高く評価していた事は、その翌年私がダブリンを訪れた時、これが彼夫妻の主宰する素人玄人協同の小劇団によって上演された事実を発見した事によっても知られよう。 — 矢野峰人「菊池寛氏を憶う」 イェイツは矢野に会った年の11月29日にアビー座でダブリン・ドラマ・リーグ公演として『屋上の狂人』を上演した。ダブリン・ドラマ・リーグは街の商業劇場が取り上げないような「同時代のすぐれた外国の劇作家の作品をアイルランドの人々に紹介することを目的」としたもので、菊池が日本的な劇作家としてイェイツに高評価されたことを意味するものであった。 テネシー・ウィリアムズも菊池の『屋上の狂人』を非常に気に入っていた外国戯曲家の1人で、1959年(昭和34年)9月に来日し三島由紀夫と対談した折に、『屋上の狂人』を自分が演出してアメリカで上演したい旨を伝えている。ウィリアムズは菊池の『屋上の狂人』と、三島の『近代能楽集』の中のどれか1曲を三島が自作演出したものとを同時に併演すれば面白いのではないかと話をもちかけ、三島も菊池の戯曲の「シンプリファイされているところ」が好きだと応じている。 三島:菊池寛の芝居は、非常にシンプリファイされているところが好きです。たしかにテネシーの好きそうな芝居ですね。あの狂人の感受性の純粋性と、それを守ろうとする弟の純情とは、あなたの芝居のモチーフとしても決しておかしくない。ウィリアムズ:「屋上の狂人」は読んだばかりなのだけれども、大へん気に入った。読みながらぜひアメリカで上演したいと思った。 — テネシー・ウィリアムズ・三島由紀夫の対談「劇作家のみたニッポン」 ドナルド・キーンは、菊池の『父帰る』と『屋上の狂人』では、初演の成功がイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』に匹敵するほどの感動を日本の観客たちに与えた『父帰る』の方が日本の近代劇として一般的には人気が非常に高いが、作品テーマや芸術性では『屋上の狂人』の方が優れていると評価しながら、「夕日の美しさを堪能できる狂人は、正気の男よりも幸せである」としている。 早川正信は、シング同様に菊池が傾倒した作家グレゴリーの喜劇『ヒヤシンス・ハルヴエィ』(Hyacinth Halvey)の後日譚作品『満月』(The Full Moon)の中で描かれている「狂人」と、菊池のいくつかの作品の中で描かれている「狂人」の主題との関連性について、菊池が〈愛蘭土劇場の教母〉と賞揚したグレゴリーへの「深い理解と愛情」を検証しながら、『満月』に見られる「狂気」と「正気」といった世俗的価値観を逆転させる「位置の逆転」「立場の逆転」の手法が、菊池に戯曲創作にもたらした影響を論じている。 早川は、まず『屋上の狂人』より前に執筆された菊池の『恐ろしい父、恐ろしい娘』(1914年9月)や『狂ふ人々』(1915年2月)での「狂人」の主題を見た上で、その「狂人」をめぐる主題がより一層まとまった形で仕上がっている『屋上の狂人』における、グレゴリーの作品から菊池が感得した「位置の逆転」(人生や人間をみる視点の逆転)を解説し、結末部での「狂人」の美しい幻想や「『狂人』という幻覚に生きることへの幸せ」の両者の共通主題を看取している。そしてそのグレゴリーから受けた逆転視点の発想は、その後に書かれる菊池の小説(『身投救助業』『病人と健康者』など)にも、多少変形されながらも生き続けていると論考している。 井上ひさしは、菊池の前半生に除籍や退学など様々なハプニングがあったものの、その際に必ずと言っていいほど「ところが」の幸運や助け船の出現によって運命が好転していったことに触れながら、「そのうちなんとかなるだろう」という処世訓を菊池は読者と共有していたと解説し、菊池のテーマ主義的作品に共通する「結末の明るさ」を指摘している。 そして井上は、菊池が自身の作品を読む人たちが「ごく普通の生活者」であることを知っていたとして、そうした大正近代の「教育を受けた大衆」が、文学青年の悩みのひけらかしのような自然主義の私小説を好まず、どんなに悲しい話でもおもしろく語られ結末に「一条の光明」がさしている菊池の作品を好んだ背景を語り、当時の時代から『父帰る』や『屋上の狂人』などの戯曲に方言の讃岐弁を使用していたことに感心している。 菊池寛の芝居は、どんなに悲しい話でも、最後は人間を信じられるところがあるんじゃないですか。『屋上の狂人』のような悲惨な話でも、弟がきっと一生お兄さんの面倒をみながら何とか頑張って行くに違いないという救いがある。『父帰る』でも、父親を引き取ることに徹底して反対していた長男が、最後に「お父さんを探して来い」と叫ぶ。そういうのが好きなんです。「人間というのは信用出来ないよ」と言いながら、最後は、それでも信用しようと決断する。これが菊池寛の基本的なドラマツルギーです。別に言うと、これは、観客を不幸のまま帰さないというドラマツルギーで、これに僕は賛成なんです。 — 井上ひさし「菊池寛の今日的意味(解説にかえて)」 小久保武は、『屋上の狂人』や『父帰る』などの菊池の戯曲が当時大人気となった理由について、それらが従来の歌舞伎劇や新派劇からは得られなかった「現代的なリアリズム」や、新劇に欠けていた「大衆性」を「簡潔な構成、平明なテーマを通じて観客に提供したから」だと考察し、そうした人生の問題に触れた主題を持つ菊池の『屋上の狂人』や『父帰る』は「大正後期において新鮮に感じられたのと同様に、現代においてもなおその新鮮さを失わずにいる」と評価している。 『屋上の狂人』や『父帰る』は、菊池の戯曲を代表する作品となり、中学や高校の演劇部などの素人舞台などでもよく演じられていた戯曲であるが、昭和の時代にも文士劇の定番演目にもなり、三島由紀夫や石原慎太郎らも舞台で演じていた。
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『命売ります』の発表当時は、「通俗小説」と見なされたため文壇から注目されなかった。三島の死後も、サービス精神満載の軽快なタッチの娯楽小説で「作者にとっては、楽々と書き流したものであろう」といった松尾瞭に代表される主旨の評価傾向であった。しかし、そういった一般的な評価以外に、その通俗的な作品に込められていた三島の内心の吐露に着目する評価もいくつか現われた。 奥野健男は、『命売ります』の主人公・羽仁男を「作者三島由紀夫の秘められた本心、覚悟が、劇画的ではあるが、仮託された人物」だと捉え、栗栖真人も、三島本来のモチーフ(死へ傾斜する心)が描かれている作品だと解説している。 種村季弘は、『命売ります』のように、純文学作品ではなく、そこに誰も「魂の告白を期待していない」エンタメ系作品にこそ、三島の「本音」が漏らされていたのではないかと推測し、作中後半で、命を狙われ夜の裏町や飯能を逃げ惑う羽仁男を襲う「荒涼たる孤独感」や「寄る辺のない不安」と、その果てに行きつく、一度捨てたはずの「生」への執着、「凡庸な生に対する餓渇に近いあこがれの感情」には、作中の羽仁男の心境というよりも、「小説家三島由紀夫その人の生身の魂の告白が、あからさまに吐露されている」ようにみえると考察している。 島田雅彦は、言動や思想など各方面で「多面的」だった三島が本業の小説において果たした役割も「実に多彩なもの」だったとし、「変態のオンパレード」とも言える「癖のある人間」揃いの作家という職業は、その予測不可能な言動の「意外性」から「芸人の仲間」のようなイメージもあるが、三島の場合はさらに複雑で「一筋縄」では行かず、その「多種多様性」では筆頭の存在であったとしている。 そして島田は、「“純文学”と“大衆文学”の両方に律儀の対応した極めて稀有な作家」である三島の多彩さの一側面であった大衆文学の『命売ります』が大好きだとして、「命を安く投げ出そうと決めたごく普通の若者が、いかにアナーキーになれるか、そういう主人公を利用しようとする人間がどんな悪知恵を絞るか」という、そのストーリーの面白さを説明しながら、『命売ります』がなければ、自作『自由死刑』が生まれなかったことを告白し、「三島由紀夫氏に感謝の念を捧げたい」と述べている。
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発表時の高評価に比べ、『絹と明察』への本格的な論究は少ないが、副人物の岡野と作者・三島との関係性や、三島の他作品と比較類推する研究、実際の事件「近江絹糸争議」をモデルにした小説という観点からの考察、「日本」という問題から捉える論などが見られる。 野口武彦は、岡野の存在を、「作者のイロニカルな情念を共有するもっとも親密な分身」として捉え、三島が岡野を通じて、ヘルダーリン的な〈故郷〉は地上のどこにもない」という「まぎれもない空白感の告白」や「イロニイ的漂遊の疲れの訴え」をしているとし、その「疲れた魂」が想う〈故郷へ帰りゆくこと〉〈帰郷〉は、三島が『林房雄論』で示した〈もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な“日本人のこころ”〉 に酷似し、三島が自らの〈根源への近接〉の結果、〈日本人の史的本質の到来〉にまで行きついたと解説している。 杉本和弘は、『絹と明察』の全体を、駒沢の物語と観察者・岡野との重層の構造と捉えて、駒沢の日本主義が時代遅れとなり敗北してゆく中、岡野が軽侮していた駒沢的な「日本」を最後に感受してしまうという、その交差する様に根源的な「日本」を浮かび上がらせている小説だと解説している。また杉本は、三島が駒沢は〈天皇〉を象徴させていると語っていたという複数の証言がある点から(村松剛や奥野健男など)、三島の天皇観との関係からの考察が必要だとしている。 佐渡谷重信は、シニカルな岡野の「政治的ロマン主義」に惹かれる三島の心情を読み取ることが肝心だとし、〈明察〉を代表する人物である岡野より、「東洋的な諦念と無を至上の幸福」として死んだ駒沢の方が「人生における勝利者」であり、「おのずから読者の共感が駒沢に向けられるとき〈明察〉は駒沢の純粋性の中に輝いている。こうした二重構造の〈明察〉を描きえたことによってこの作品は傑作の一つに加えることができる」と解説している。 田中美代子は、『絹と明察』は、その後に流行する「“企業小説”のはしり」の趣があるとしながら、経済戦争で「西欧諸国がヒステリックな敵意をむき出しにする」駒沢流の日本型経営が〈勝つ〉理由を、「それは、北斎や広重がその核心をつかんでいたように、苛酷な〈自然の理法〉を会得し、これを具現していたからであろう。それこそ彼我の自然観の相違、ひいては文明の相違であろう」と説明し、その考え方は、作者・三島が「当時の理想だった近代個人主義の破産」をすでに見透かして予言していたと論考している。 松本徹は、三島が『林房雄論』『午後の曳航』『剣』などに見られる「虚無に抗して、〈思想〉でなく〈心情〉を追求する姿勢」が『絹と明察』にも通底しているとし、ハイデッカー思想に傾倒しヘルダーリンの詩を愛唱する「岡野の人物像」に着目して、『鏡子の家』の商社マンで出世の階段を駆け登った「杉本清一郎」と「岡野」が似通っていると分析している。ただし岡野は一旦挫折を味わい、「裏社会へ回った清一郎」だと松本は説明し、そこから復活を果たすまでの岡野の「虚無主義を踏まえての行動は、怜悧でありながらひどく屈折し、悪の色」を帯びると解説している。 奥野健男は三島から、駒沢は天皇を象徴的に書いたものだと直接聞いたとし、「青春のほとばしりのように社長を信じ、あるいはだまされたと怒る若い女性労働者、組合員たちは、戦時中の若い日本国民に違いない」と考察している。 竹松良明は、この奥野の見解に『絹と明察』を読み取る上で「極めて重要な示唆」が含まれているとし、「三島はこの作品を巧みに過去の時間で充填させ、それによって発現する物語の特異な窯変を狙ったと考えてよい」と述べ、「駒沢は昭和天皇その人という以上に、天皇を奉じて生き死にした戦時下の国民感情の総和を表象する存在として描かれている」と考察している。そして竹松は、「駒沢の死による岡野の喪失感が、取りも直さず行き暮れた精神が最後に回帰すべき根源的な〈故郷〉への逢着を意味すること」に、「天皇制に関わる国民感情の文学的形象化という一つの大胆な試みの結語がある」とし、逆に、岡野と近似していたはずの菊乃が、駒沢の女になり〈幸福〉を得て〈使い古した箒みたいな誠実だけ〉を露わにし、いぎたない鼾をかき、最後に駒沢から嫌われることについては以下のように論考している。 菊乃の転落の遠因は、その生半可な文学好きに求めることが可能であり、それは作家的自覚の頽落を意味している。ついに駒沢の女となることで、永年の習い性となっていた身じまいの確かさも忘れて色褪せていく菊乃の姿からは、天皇制に関わる戦時下の国民感情への無節操な馴れ合い、ほとんど淫らな感のあるその野合の様相が想起されるはずである。このようにして、岡野と菊乃との対照形における各々の明暗とその振幅のうちに、いかにも三島作品らしい迷彩の中から一つの確固たる紋様が浮かび上がってくる。 — 竹松良明「『絹と明察』論―天皇制にかかわる形象化をめぐって」 柴田勝二は、『絹と明察』同様に、『鏡子の家』『美しい星』『午後の曳航』がいずれも、「一家ないしそれに見立てられる共同体の長たろうとし、しかもそれに失敗する人物」が描かれ、これらが皆、三島自身が父親になった以降の作品だという背景はあるが、実のところ血縁関係の息子と父親の物語はなく、三島の意図には、〈男性的権威の一番支配的なもの〉という意味での〈父親〉の滅びの姿を書くことにあったと説明しながら、いずれも「天皇」を寓意的に描いている作品だと解説している。 そして、『午後の曳航』の龍二は〈海〉に象徴される「ロマン的世界」を捨て、世俗の現実世界の一角に「登録」されたゆえに、ロマン的世界に執着する少年たちにより殺され、龍二の変容は「〈神〉から〈人間〉に移行した戦後の天皇」と照応すると柴田は指摘し、『絹と明察』の駒沢は、資本主義の論理で社員を支配しているにもかかわらず、〈父親的〉に振る舞うという「欺瞞」を岡野によって暴かれ、その軌跡に込められている寓意には、「超越性を帯びた家長が存在しえない状況」が描かれ、駒沢も「戦後の天皇への相対化」だと考察しつつ、これ以降の作品では、「超越性を帯びた存在は現実世界の彼岸にしか生きえないこと」が、三島の中でより明確化されていくこととなり、「そこから三島独自の理念のなかで超越的な彼岸性を帯びた天皇の像が構築されていく」と柴田は論考している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 05:18 UTC 版)
『鏡子の家』は発表当時の同時代評では評価が低調であったが、その評価如何を問わず、様々な観点からの論究が見られ、三島由紀夫という作家の生涯全体のパースペクティブが可能になった現在において、重要な意味を持つ作品である。三島存命時においても、野口武彦は、三島が戦後民主主義社会に敵意を公然と表明することになる時期の直前の作品として『鏡子の家』を位置づけ、江藤淳も、『鏡子の家』を長編小説として失敗作だとしながらも、成功作の『宴のあと』より、「はるかに豊かな問題を含んでいる」とし、後世の文学史家は、『宴のあと』では「プライバシー裁判」の件で数行をさくだろうが、『鏡子の家』は「数十行さかねばならぬ」作品で、三島の評伝作家は、「この大作を無視して氏を論ずることは不可能」だと予言していた。 その江藤淳は、『鏡子の家』には、三島が少年時代に書いた詩『凶ごと』の「〈椿事〉の期待に生きる」という「主調音」が強く、「個人的世代的」でありすぎ、三島に「華麗な仮面劇」を期待した読者にとっては、三島が「自己を語ろうとしすぎた」とし、あまり支持が得られなかった理由は、石原慎太郎の出現以来、同世代の者たちがすでに、「〈椿事〉の期待に生きるというストイシズムを捨てて、〈椿事〉の主体になろうとする渇望を抑えかねていたからだ」と評しながら、以下のように解説している。 (三島)氏が描こうとした時代とは、もののかたちもなければ色彩もないひとつの巨大な「空白」の時代、あたかも「鏡」に映じた碧い夏空のような時代ではなかったか。このような時代の壁画は、「鏡」以外のものではありえない。そこには「空白」以外のものがあってはならないのである。このように考えれば、「鏡子の家」はいかにも燦然たる成功ではないか。すくなくとも三島氏自身と、氏と趣味を同じくする少数の人間――あの「椿事」の期待に生きる窓辺に立った人間たちにとっては。 — 江藤淳「三島由紀夫の家」 『鏡子の家』は、作者の三島自らが気に入っている作品であり、三島と世代を等しくする評者にも好まれていた傾向がある。澁澤龍彦は三島の死後も、出口裕弘と異口同音にこの作品が好きだとし、「共感感じる人、われわれの世代だったらいっぱいいる」と述べ、徳岡孝夫も、「『鏡子の家』が、実は、私は大好きである」と述べている。しかしそういった共感の評とは裏腹に、同時代評にもあるように、人物同士間のドラマがないという批評が主であり、エドワード・G・サイデンステッカーも、人物たちが「空虚な群像に終わっている」とし、「空虚さは小説自体をはみ出している。つまり作者と小説の関係、小説の内容に対する作者の把握にまで及んでいる」、「作中人物たちのシニシズムと暴力は、青っぽく空虚なもの」に見えると評している。 なお、人物間の絡み合いがないといった類の批評に関しては、三島は「創作ノート」で、人物間の絡み合う場面をいくつも構想しており、それらはあえて全て廃案されているため、井上隆史は、「人物が複雑に絡み合うことのない展開は、相応に考え抜かれた構成なのであって、この点を考慮することなしには、『鏡子の家』に対する充分に行き届いた理解も、意味のある批判も不可能」に思えるとし、当時の高度経済成長下の読み手には、三島がそこで描いた「ニヒリズムの問題」や「戦後社会に対する呪詛」も切実なテーマとして届かなかったため、「三島は『鏡子の家』で広く読者に問おうとしたニヒリズムと戦後社会に対する違和感を、たった一人で担ってゆかなければならなくなった」と解説している。 佐藤秀明も、「四人の人間が干渉し合わないというのも、今の目から見れば、現代的な人間関係のあり方を早くも捉えていたと言える」とし、同時代評に散見されるような、「四人の人物を圧迫するような他者がいない」という指摘は、「作品の表層を撫でただけ」のように思うとし、当時の評者たちが述べたそうした一様な批判は、登場人物の〈危機〉に物足りなさを感じたことの別の表現ではないかと考察しながら、4人の青年たちの〈危機〉には一般とは異なる「甘美なもの」、「自ら待ち望んでいた危機のように見えてしまう性質」(『凶ごと』と同様のもの)の「ニヒリズム」があるため、それを評者たちが「作者が力を尽くして取り組むべき危機」とは認めず、理解しなかったのではないかと解説している。また佐藤は、三島が「批判的な他者」を設定しなかったのは、〈鏡子の家〉が「もっと曖昧なもの」(〈壁〉と表現される〈時代〉)によって崩壊しなければならず、それが彼らの〈方法〉を蝕むというテーマであり、三島が「(主人公たちを)取り込む復活した生真面目な日常を予見していたから」だとし、それがまさに三島の意図した「〈時代〉を描くということ」だと考察している。 三島と同じ戦中世代の橋川文三は、同世代の観点から作品解説し、『鏡子の家』に描かれている主人公たちは、「ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な疎外者の結社」を構成し、彼らの「いつき祭るもの」は「〈廃墟〉のイメージ」であり、それは三島が〈兇暴な抒情的一時期〉と呼んだ季節のことだと説明し、その〈廃墟〉の季節は、日本人にとり「稀有な時間」で、「不思議に超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった」と振り返っている。そしてその記憶は、現在の高層建築も車も、「一片の瓦礫に変えてしまう」ような「呪詛的」な意味を帯び、それを感受した者にとっては、〈廃墟〉の消失した「戦後の終焉」と、それに伴う「正常な社会過程の復帰」の方が、「不可解で異様」にも見え、三島がどこかの座談会で、〈廃墟〉の不在化した平和の時期には、「どこか〈異常〉でうろんなところがある」と語った感覚に、「痛切な共感をさそう」としながら、「〈鏡子の家〉の繁栄と没落の過程」は、まさにその「戦後の終えん過程」と重なり、「その終えんのための鎮魂歌」の意味を含んでいる解説している。 奥野健男は三島と同世代だが、作品の構成や文体などの点からも『鏡子の家』を、『仮面の告白』以来の「三島の最高傑作」だと絶賛し、登場人物の心理が「明晰な文章」で裁断される「古典的心理小説」のその手法は、それまで日本の作家で誰も成し得なかったものだとし、成功が描かれる第一部と、挫折と破滅が描かれる第二部の「シンメトリック」な構成も「精巧な設計図」のようで、「戦中戦後の混乱期に心をつくり、見る目をひらいた世代が、このにせものの現代の中にどのように生きて行き、どのように破滅し解体し繰り込まれて行くかをシニカルな態度で描く」というモチーフの「芸術的完成度」が、大江健三郎の『われらの時代』や石原慎太郎の『亀裂』よりも格段に上だと評している。また奥野は、三島が『鏡子の家』で証明しようとしていたのは、自身の得た「今日の成功と幸福」「類い稀なる栄光」が実は、「敗戦による廃墟の中の絶望的なニヒリズムから生まれたアナルヒーの心情による幻影であること」だったとし、「敗戦の真夏の青空」に原体験、「稀有の原風景」を感じていた奥野らの世代にとり『鏡子の家』は身近過ぎ、その挫折の物語は、「まるでぼくたち世代の戦後体験の完璧な造型として感動せずにはいられなかった」と述べている。 松本徹は『鏡子の家』の文体について、「三島の今迄の文章をはっきり越えた見事な成熟をみせている」とし、「いささかも乱れぬ呼吸と、ひたひたと素足でゆく確かな歩みが感じられて、目立った華麗さ、奇警さといったものはほとんど見られなくなったかわりに、その揺るぎないリズムが読む者の心を強く捉えてくる」と評しつつ、その成熟した文体が逆に、外界への通路を閉ざしている要素にもなっているとしている。また、その筆運びの「練達」さは「間違いなく大家のもの」だが、その主人公たちの姿勢や心理の描き方は、「すべてを知的に了解できるものと捉え、不可知なものの存在を退ける傾きを帯び、現実を強調しながら、現実性を希薄にする」と松本は考察している。 西本匡克は、三島論的な興味から三島の小説が判定されるのでなく、作品の文章や構成の完成度から評価されるべきだとし、『鏡子の家』はその意味で、三島の「知的構成の人工美が傑出したこれまでの作品群での集大成といっても過言ではない」とし、「不安や孤独、無秩序、ストイシズム等が中心概念として内在し、作者の哲学が、抑えられた文体でもって劇的に知的に構成された傑作」だと評して、最後の大作『豊饒の海』への「大きなステップ」の作品だと解説している。 伊藤勝彦は、後半で描かれている夏雄が水仙と対峙する情景が、『金閣寺』の中の「夏菊と蜜蜂」の関係を「主人公が夢みた」場面と相呼応しているとし、その水仙と対峙できた「幸福感」の境地が、当時の「三島のところにも贈られてきたのだろう」と考察しながら、9章や10章の「すがすがしさ」が感じられる「素朴で静かな文体」が、「ぼくの心を落ちつかせてくれる」と評している。そしてこういった「自然な文章の美しさ」が醸し出されている『鏡子の家』が失敗作と断定されたことに疑問を呈しつつ、この時の三島が、戦後の日常を〈生きよう〉としていたと考察し、三島が大島渚との対談で、〈(川の中に)僕が赤ん坊を捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった〉 と以下のように言った点に触れながら、この〈赤ん坊〉とは三島自身のことだったと解説している。 「鏡子の家」でね、僕そんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめないのかというんで橋の上に立ってるんですよ。誰もとめに来てくれなかった。それで絶望して川の中に赤ん坊投げこんでそれでもうおしまいですよ、僕はもう。あれはすんだことだ。まだ、逮捕されない。だから今度は逮捕されるようにいろいろやってるんですよ。しかし、その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。僕が赤ん坊捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった。 — 三島由紀夫(大島渚との対談)「ファシストか革命家か」 中元さおりは、なぜ三島が冒頭場面を、〈勝鬨橋〉から〈晴海の埋立地〉にし、鏡子の目が強く惹きつけられる空間に〈明治神宮外苑〉を置いているのかという歴史的観点から考察し、そこが戦前戦中の日本を支えた場所(勝鬨橋は国家の威光の〈帝都の門〉として皇紀2600年(昭和15年)に建設され、万博会場へのゲートとして位置づけられていた)だった変遷などを鑑みながら、鏡子たちが晴海を訪れた時期、そこは未だ米軍の占領地で、敗戦の記憶が生々しく残り、「敗戦を期にその絶対者(天皇)は退場を余儀なくされ、アメリカの支配のもと不在の中心を抱えることとなった戦後の日本の姿が、この空間に刻み込まれている」と解説している、そしてその場所がやがて、日本の復興と高度成長期の到来のシンボルである公団住宅(晴海高層アパート)へと変貌してゆくことを予感する鏡子たちにとって、それは「戦後の混乱期」から「高度成長」へと大きく転換していく社会と人々の「緩慢でありながら、どこか不敵な様相」の「静かにゆっくりと忍び寄る大きなうねり」であり、「〈いつまでたつても、アナルヒーを常態〉とした戦後の混沌と無秩序に満ちた〈祝祭的な空間〉、〈廃墟〉の時代にとどまり続けようとする峻吉や鏡子たちを脅かすものの影」だと中元は解説している。 また、中元は、新たな時代(昭和30年代)の到来は、「昭和20年代の焼跡の時代を暴力的なまでの圧力で葬送するとともに、これらの空間に刻みこまれた日本の近代の歴史すらも大きく変質させ」てゆき、そこに「〈アナルヒーを常態〉としていたような廃墟の〈祝祭的空間〉はもはやどこにもないこと」を、鏡子は痛感すると解説し、以下のように論考している。 焼跡の時代であった戦後は、敗戦の記憶が未だ残っていた時代である。(中略)そのような戦後を切り捨てようとしたのが、昭和30年代という新たなディケイドにむかう時代の空気であり、『鏡子の家』はまさにそのような変化をトポスに反映させているのである。(中略)『鏡子の家』は、新しい時代の到来による戦後的空間の変容だけではなく、人々の内面や空間に刻みこまれた日本の歴史までもが否応なく塗り替えられていこうとするポスト戦後という時代への不信感に満ちている。 — 中元さおり「古層に秘められた空間の記憶――『鏡子の家』における戦前と戦後」 猪瀬直樹は、最後に4人の青年たちが〈鏡子の家〉から姿を消して、鏡子の夫が七匹の洋犬を伴って、戻ってくる場面について、「岸が蘇り、“官”が計画を練り、欲望と消費の“黄金の1960年代”の始まりと歩調を合わせて」と両者が入れ替わり、夫は「岸信介を象徴していた」という「深読み」をしている。
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作品評価・研究
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『蘭陵王』は発表当時、あまり反響のなかった作品であるが、「生命の極点に姿をあらわす死」という「三島の美学の原型」を指摘する佐伯彰一の評や、作中の〈敵〉という言葉の「なまなましさ」の問題に触れつつ、「小説」と「現実」を反転させて見せる三島の文体について言及している安岡章太郎の評がある。 高橋英夫は、安岡の評に対し、〈敵〉という言葉が重要ではなく、最後の一行の中の「拒否」または「否定形」が着目点で、それが「三島由紀夫の演劇性といかなる関係を有するか」、つまり「拒まれてあること」という三島文学特有の位相がポイントだとしている。そして高橋は、三島がそこから「自分に対して向けられた拒否を逆に拒否しかえすことによって、それをドラマの中に持ちこむ」ことと、「拒まれてあること」を受け入れてドラマを放棄すること、という2つの道を選んだとし、それがこの作品の方法であって、〈音楽〉もそこに誕生すると考察している。 島内景二は、以下の作中の文章を引きながら、三島の自衛隊での暮らしぶりは、「中世の遁世者たちや芭蕉が求めた“草庵”での心静かな生活そのもの」であり、文壇で忙しく活躍する三島にとって「体験入隊」は、一種の「出家」だったとし、体験入隊が終わると、再び都会と文壇の喧操の中へ戻ってくるのを「還俗」に喩えながら、そうした「擬似的な出家と還俗」を繰り返しているうち、三島が少しずつ現実生活を出家生活へ近づけようとし始めたと解説している。 部屋におちつくと、私はここへ来てはじめてきく虫の音が、窓外の闇に起るのを知つた。何一つ装飾のないこの部屋が私の気に入つてゐた。一つの机、一つの鉄のベッド、壁に掛けられてゐるのは、雨衣と、迷彩服と、鉄帽と、水筒と、……余計なものは何一つなかつた。開け放たれた窓のむかうには、営庭の闇の彼方に、富士の裾野がひろがつてゐるのが感じられる。存在は密度を以て、息をひそめて、真黒に、この兵舎の灯を取り囲んでゐる。永年欲してゐた荒々しくて簡素な生活は、今私の物である。私は爪のわきの小さな笹くれに、沃度丁幾を塗つた。ほかに塗るべき傷はなく、痛みもなかつた。肉体は銃器のやうに細心に管理されてゐた。要するに私は幸福だつた。 — 三島由紀夫「蘭陵王」 そして島内は、「正式な出家をしたわけではないが、仏教に心を深く染めている男」を、「優婆塞」と呼ぶと説明しつつ、三島が自衛隊での「草庵」暮らしに憧れるあまりに、「優婆塞としての生活」を自身に課し、それが楯の会での活動となったとして、「自衛隊にせよ、楯の会にせよ、集団の規律を重んじるだけの団体ではなかった。三島にとっては、“理性の草庵”を求める精神活動の一環だったのである」と論考している。 小田実は、三島がすぐれた文学者で、絢爛たる才能の持ち主であったことを述懐し、「たとえば、自決前年の『蘭陵王』――ああいう作品はなかなか書けるものではない」と述べている。また、「“文”においても、今や“商”あっての“文”。私は三島の“文” “武”に賭けた純情をなつかしく思う」と回顧し、当時思想的敵対関係にありながらも、三島への敬意を示している。 田中美代子は、三島である〈私〉が、仮面をつけた蘭陵王の出陣に〈二種の抒情の、絶対的なすがた〉を見出し、それを〈きりきりと引きしぼられた弓のやうな澄んだ絶対的抒情〉と言う場面に、「絶対の青春の頂点にのぼりつめ、やがてくる死の予感に息をひそめている、充実した生命の一瞬が、ここに凝縮している」と評している。 磯田光一は、作中の〈息もたえだえの瀕死の抒情と、あふれる生命の奔逸する抒情と、相反する二つのものに〉の箇所に着目して、「〈二種の抒情の、絶対的なすがた〉としてあらわれた〈仮面〉」に、三島文学の秘かな主題をも暗示されていると考察している。 青海健は、『荒野より』や『独楽』と同じく三島の心情が素直に吐露されている『蘭陵王』に着目し、『荒野より』で〈荒野〉から来た〈あいつ〉の問い、『独楽』の少年の問いである「死の世界へのいざない」が、『蘭陵王』では、言葉ではなく笛の音という「純粋な音楽」として〈私〉に与えられ、「絶対へと肉薄」しようとするとし、青年Sが横笛を習うきっかけとして、能『清経』のような〈最期を遂げたい〉と言ったことは、妻を思う清経に重ねたSの〈女〉(恋人)への「恋慕の情」であり、それは三島の「文学への思い」の暗喩だと考察しつつ、「作者三島由紀夫は、文学という〈女〉に思いを残しつつ、言葉ではない表現(ここでは音楽)つまり“行動”という形を贈与することによって、その〈最期を遂げ〉ようとしている」と論考している。 そして青海は、『蘭陵王』が書かれた時点が、まだ自衛隊治安出動の希望を三島が持っていた1969年(昭和44年)の新宿デモ以前であり、まだ三島事件の自死が定まっていない時期であるものの、作品世界では「無意識的な死への予感」が明瞭に開示され、三島が心境小説として自己を語っているのに成功しているとし、蘭陵王の仮面の下の素面の〈やさしい顔立ち〉の世界は、「恐るべき〈荒野〉(死)」と同じ地点でもあり、同時にそこは「人間存在が回帰していくべき〈やさしい〉故郷」であり、「すべての存在の究極の在る極み、絶対」であると解説しながら、常に二つのもの(二元論的世界観)の分裂につきまとわれていた三島は、それを統合する「絶対」の地点を現出したとしている。 「独楽」における作者と語り手の峻別、つまり純粋な澄んだ世界に住む少年と、文学という虚構に賭けるしかない「私」との距離、また、「荒野より」の「私」が生活する賑やかな都会と、青年の故郷である、それを取り囲む孤独な荒野とのへだたり。「蘭陵王」では、それは冒頭の「私ども」という言い回しによって、楯の会の青年たちと「私」との連携が夢見られるのだが、しかし青年Sの吹く横笛の音は、言葉ではない行動の世界と、言葉によって組み立てられている文学の世界との別を、「私」に識らせるに過ぎない。この横笛の音に先導されつつ、「私」は言葉の世界をのり超えた「死」へと、一歩一歩近づいていくのである。「死」は、これら二つのものを、一つの絶対へと繋ぐ架橋である。逆の見方をするなら、「死」を目前にすることではじめて、文学者三島は、その晩年において、二つのものの統合としての絶対を現出させることに成功した。そこは「仮面」そのものが「告白」と化す、あの不思議な二元論統合の一元的な世界である。 — 青海健「異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」 また青海は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られるように、〈蛇〉は「永劫回帰」のメタファーであり、〈言葉もなかつた〉ディオニュソスの笛が奏でる〈蘭陵王〉の音楽に、「〈生〉の本質、永遠なる存在の無垢」(生の根源としての存在の故郷、つまり死)が開示され、蘭陵王の〈やさしい顔〉こそがディオニュソスの正体だとして、その「存在の無垢」へ三島が「永劫回帰」を遂げようとしていたこと、「文学の終わり」が『天人五衰』の自意識のイロニーの主題の率直な純化された形で、『蘭陵王』で示されていたことを指摘している。 ディオニュソスの笛はその極限において言葉とのズレをおのが身に浴びねばならない、というイロニーを孕んでいる。晩年の三島がそのイロニーによって、言葉や文学という仮面を脱ぎ捨て、行動という最後の手段に訴えたのは、「言語表現と対極にある」(『太陽と鉄』)ところのものを夢見たからである。「われわれは言葉を用ひて、『言ふに言はれぬもの』を表現しようなどいふ望みを起」こすが、「言葉もなかつた」その場のディオニュソスを、あえて言葉でなぞろうとすることほど虚しいものはない。それは自意識のウロボロス的悪循環であり、『天人五衰』のテーマである。『蘭陵王』の特異性は、もはやそれを言葉でなぞろうとせず、「言葉もなかつた」と、すなおに言語の敗北を提言してはばからない点にある。存在の無垢の境地は、三島にとって、書かれた「物語」からの逸脱の地平においてしか語り得ないのだ。それは書かれた「物語」ではなく、生きられた「物語」を欲している。 — 青海健「三島由紀夫とニーチェ――悲劇的文化とイロニー
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『草の花』は福永の作品の中で最も読まれたものとされ、現在に至るまでに多くの研究が存在する。だが発表当初は「大して注目されることもなく、営業的にも再刷が一千部ほど出ただけで、意気銷沈せざるを得なかった」「その私を憐れんでくれたのか、「草の花」は発行後二年で新潮文庫に加えられ、少しずつでも売れることによって今日まで命脈を保って来た」と福永は記している。 当初はまた評価も芳しくなく、「若い人々の抱きがちな感傷」「無益な孤独」などと酷評を受けた。だが福永が「友情の中の愛」を発表し弁明を行ってのちは、作中の人物の孤独は「エゴの持つ闘いの武器」などとして評価が変わっていった。福永はこの文章の中で「あの小説の中で、同性に対する愛が異性に対するそれよりも、鋭くかつ豊饒に描かれているからといって、僕が友情を恋愛よりも特に重んじているわけではない。僕の書いた友情は特殊のケースだし、それはあらゆる場合に当てはまるとは限らない」とした上で、次のように述べていた。 しかし僕は今でも、十代の終りごろに人の経験する友情、殆ど異性への愛と同じ情熱と苦悩とが、プラトニックであるだけに一層純粋な観念として体験される友情に、深い意義を覚えている。愛というものはすべてエゴの働きだが、このような友情は無償の行為というに等しい。この殆ど無意味とも思われる愛、相手が同性であるだけに一種の疚しさと心苦しさとを感じ、その愛の充足がどのようになされるのか、それさえもさだかではないような愛の中で、人は自分の魂の位置を測定する。 — 福永武彦「友情の中の愛」 先行研究では、福永自身による自己解説の効果もあり、「愛」「孤独」「死」「青春」などのキーワードを用いて考察されることが多い。他作品との類似性については、水谷昭夫が、残された者が遺書を読むことでその死を受領するという点で夏目漱石の『こゝろ』との類似を指摘している。鳥居真知子は更に踏み込んで、福永は漱石を意識していた筈であるとし、一方で『こゝろ』に於ける「私」と「先生」ほどに汐見との絆が醸成されていなかった「私」には、ノートを読んでも汐見の真意が理解できなかったこと、「私」から手紙を受け取った千枝子もノートの受け取りを拒むことなどから、「汐見は死しても、なお〈孤独〉である」と指摘している。
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『十日の菊』発表当時の反応はほぼ好意的なものが多く、読売文学賞(戯曲部門)も受賞しているが、第3幕の展開に疑問を呈する声もある。評価のわりには本格的な論究は少ない作品である。 江藤淳は、「登場人物の固定観念のズレのおかしさ」の表出によった「まことに小味に気の利いたファルス」だと評し、平野謙も、「知的な回転速度といくえにも逆転するその喜劇性」の高さを高評している。 堂本正樹は、最後の第3幕で、菊が森家に留まろうとする意味が不明瞭に見えることや、愚連隊が乱入することに対して辛い評価をしている。松尾瞭は、戦後社会への鋭い批判が込められているとし、「すぐれて知的な高度な作品」だと評している。 倉橋健は、喜劇性と悲劇性の巧妙な交錯を評価しつつも、舞台では悲劇性が表れがちであることを指摘し、「喜劇性の演出において、もう一息のアクセント」を要求している。また主題については、「森家を宮廷におきかえ、菊の行動のなかに皇室に対する戦後の国民の反応の推移のアイロニイを見ればよい」と解説している。 柴田勝二は、『十日の菊』を、二・二六事件よりも、「戦後日本への意識」の方に視角が当てられている作品だとし、森重臣が〈天皇〉の比喩として位置づけられるとし、その森が〈生ける屍として、魂の荒廃そのものを餌にして〉、〈生きのび〉ている存在として描かれている点を鑑みて、同じように「空虚を抱えて〈生きのび〉た人物」が描かれた『朱雀家の滅亡』との比較研究が今後重要であると考察している。 石原慎太郎は、昭和39年3月に行われた三島由紀夫との対談の中で、「『十日の菊』の兵隊の生き残りがいるでしょう、むすこが。あそこなんか…。ぼくは三島さんの芝居の中で、あれ、いちばんうそだと思うんですよ。」と述べている。それに対し三島は、「うそだね。」と返し、「あれ、おれのいちばん信じていない人物だね。あれ、もっと戯画化すればよかったんです。なまじシリアスに書いたので、なおおかしい。」と述べている。
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『鍵のかかる部屋』は、作者の三島曰く、〈後世の人は、ここに、大江氏のエロティシズム観の一つの小さな予兆を見出すかもしれない〉との見解だったが、奥野健男はこれを受け、「大江文学の政治情況とかかわるデスペレートな性的人間の主張の予兆的な先駆的作品という彼(三島)自身の指摘は正確」であり、自己の作品を「見事に客観的に認識している」としている。そしてその、「現代人のみじめさ、政治との必然的なかかわりあい、サディストの心理をファシズムの心理との関係でとらえている」と解説している。 また、その後の三島文学が、同時期に書かれた反対の趣の『潮騒』の方向にも進まず、『鍵のかかる部屋』の作品傾向を深化させる方向にも進まなかった点に触れ、この時期の作品は「夭折をあきらめ生を全うすること」にしていた戦後の三島が、現代文学の主流になるために試行錯誤や実験をしていた地盤固めの作品群であったと論じている。そして実験作の『鍵のかかる部屋』の失敗の教訓から、三島は「表面の硬質の美だけに真実がある」と信じる本来の文体に立ち返ることになったが、この異色作の『鍵のかかる部屋』を奥野は高評価している。 それにせよ、『鍵のかかる部屋』ほど三島由紀夫の隠された内面が本質的に表現された作品は少なく、また頽廃した不吉な現代社会への照応も確かであった。ぼくは三島由紀夫が、こういう試みをこれ一作で終えて、二度と試みなかったことが不思議でならない。この時期の三島由紀夫の純文学者として評価は、ベストセラーの『潮騒』によってではなくこの陰気な『鍵のかかる部屋』によって、期待され、支えられていたのだから。 — 奥野健男「『潮騒』と『鍵のかかる部屋』の矛盾」 田中美代子は、『鍵のかかる部屋』に登場する人物も、同時期の『江口初女覚書』(1953年)や『果実』(1950年)などの主人公同様、様々な局面において「日本の社会共同体の集合的魂の顕現であり、時代精神の体現者」であるとし、父親不在の「鍵のかかる部屋」へ若い男を呼び入れ、「奇妙な秘密の遊び」を続ける母親と幼い少女もその例外ではないと解説している。 また、三島自身も関連性に言及していたように、田中は、『鍵のかかる部屋』が、その後の『鏡子の家』(1959年)の原型であるとしながら、以下のように解説している。 「鍵のかかる部屋」には観念の死に絶えた戦後の時代の影が色濃く映じているが、成長の恐怖は、また外界に対する恐怖のアナロジーである。九歳の女の子は、淫奔な母親の情事を見おぼえ、子供の肉体を持ちながら、同時に成熟した女の心を持つに到っている。 — 田中美代子「“言葉と肉体”の主題」
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作品評価・研究
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「美しい星 (小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『美しい星』を成功作とするかどうかは賛否両論あるが、論究は様々な観点から多くなされ、三島とユングやアドラーとの関わり、ニーチェとの類比、トドロフやサルトル、トーマス・マンを引き合いにした論、三島の他作品の主人公との関係性を考察したものなどがあり、「政治小説」「思想小説」「芸術家小説」「前衛小説」といった様々なレッテルが貼られ、定まったものはない傾向にある。 高山鉄男は、『美しい星』の主題を、「現実拒否」「彼岸へのあくことのない憧憬」だと考察し、種村季弘は、〈空飛ぶ円盤〉との介在を軸にして三島とユングの関わりを指摘し、この論はさらにアドラーを引き合いにした矢吹省二に受け継がれている。 大久保典夫は、トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』的な「芸術家と市民の二律背反」のテーマが底流にある「イロニックな芸術家小説」だとして、サブストーリーである顕子や一雄の挿話にも着目し、片岡文雄も、「芸術家小説」の面を看取している。 野口武彦は、大杉と羽黒らの論争を、「作者の才気と機智をたっぷり効かした愉しい哲学的饒舌といった筋合いのもの」だとしながらも、ロマン派的「イロニイ」を描いている点を評価し、三島文学の主人公たちに看取できる「アンジェリスム」(ロマン主義的人間の魂の輪郭)の反映である〈宇宙人〉の大杉や暁子に、胃癌や妊娠など「痛烈で残酷な諷刺(サタイヤ)」が加味され、「(三島)が自分自身に対する皮肉を利かして」いると解説し、そういった客観性により「二律背反の上にあやうくも均衡を得て構築されている」ゆえに、ラストの場面の「美しさ」が確保されていると考察している。 松本徹は、作品に見られる「虚無」(ニヒリズム)に、ニーチェとの類似点を指摘し、また、水爆によってもたらされる人類滅亡の危機を踏まえて発想された主題の観点から、『鏡子の家』のニヒリスト「杉本清一郎」の考え方の発展が、主人公「大杉重一郎」だとして、大杉は杉本より「もう一歩先をうかがい見ようとしている」と指摘しながらも、世界を救う鍵が〈母なる虚無の宇宙の雛型〉を自覚することで生まれる〈連帯〉だとする考えが、十分に展開されないままに終り、傑作になりきらなかったと考察している。 佐藤秀明は、暁子に代表される大杉家の家族は、三島の中にずっと育まれていた「現実を許容しない詩」を生きる登場人物で、現実がその「詩」を許容しなかったにもかかわらず、「現実」として認めさせ、生き延びさせる小説だとして、「政治小説としての『美しい星』の意義は、非政治的な詩の世界を生き抜くことで現実という名の〈政治〉と対抗せざるをえなくなったことを、非政治的な世界の側から描いたところに生ずる」と解説している。そしてこの三島文学に通底する「現実を許容しない詩」は、『豊饒の海』の唯識により相対化、反転しながら引き継がれて、「小説の成立」の不可能な地点、三島の自刃へ向っていくと佐藤は論考している。 有元伸子は、〈宇宙人〉を、拒まれた人間の「共同幻想」として捉えつつ、金星人・暁子のサブストーリーにおける美青年・竹宮の「二重透視の美学」に着目し、『豊饒の海』の本多や透の〈認識〉と関連させて考察している。久保田裕子は、「社会から孤立し、未来への希望」を奪われてしまった一家の前に、ついに円盤が現われるという終結部について、「認識によって現実を変容させる者の栄光と挫折という三島文学のテーマが、SFという形式の中で、ここでは一場の夢として実現されている」と解説している。 奥野健男は、大杉と羽黒らが論争する場面を、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の大審問官のくだりに匹敵すると賞讃しつつ、それは戦中戦後を通じ、広島の原爆投下に〈世界の終り〉を見、敗戦の現実と秩序・価値観の転換に「人間のからくりの虚しさ」を見てしまった三島だからこそ、抱き続けてきた「美の本質」「人類の滅亡」「政治」「文明」「思想」「人類」のテーマを「自己の宇宙の中に入れ込み、小説化」できたとし、こういった文学の元来的な主題であるべき「人類の根源的なテーマ」を日本の作家がやれずに三島だけに抽出可能たらしめたのは、従来の小説のリアリズムに三島が囚われず、宇宙人から見た視点という「コロンブスの卵」的な大胆な方法を発見したからだと解説している。 そして『美しい星』は、「政治や思想の状況の中で文学を考えていた従来の小説」とは異なり、「自己の文学世界の中で政治や思想を考える」という画期的な「政治と文学のコペルニクス的転回」であるとして、奥野は顕子のサブストーリーで見られる「美的宇宙」なども考慮に入れながら以下のように高評価している。 三島はもっとも汚れた醜い世俗的現実の上に、美を信じる内的妄想において、超越した完璧の美を形成しようとする。それは大杉重一郎の主張する人間の五つの美徳と照応する。思想と美、この二つの主題がフーガのごとく協奏され、作品の緊張はたかまり、ついに大杉一家は緑色に、又あざやかな橙色に息づく円盤とともに、昇天して行くのである。これは母親から伝わった、加賀藩の能の美につながる幻想の美であり、空飛ぶ円盤に照合しあう。(中略) 『美しい星』は、日本における画期的なディスカッション小説であり、人類の運命を洞察した思想小説であり、世界の現代文学の最前列に位置する傑作と言ってよい。 — 奥野健男「三島由紀夫伝説 『美しい星』――人類滅亡を議論する思想小説」 岡山典弘は、暁子が金沢市に住む竹宮に会う挿話中に、金沢藩では人々の生活に謡曲が深く浸透していることが綴られ、自分が金星人であるという認識の端緒をつかんだのが『道成寺』の披キでからだと竹宮が暁子に語って、能舞台が金星の世界に変貌する様が鮮やかに描かれる以下のような場面に着目しながら、三島が13歳の時、金沢出身の母方の祖母・橋トミに連れられ初めて能『三輪』を観たことに触れている。また作中で、金沢駅、香林坊、犀川、武家屋敷、尾山神社、兼六公園、浅野川、卯辰山、隣接する内灘などが描かれているが、卯辰山には、三島の祖父・橋健堂がかつて教鞭をとった「集学所」が設けられていた。 どこで竹宮が星を予感してゐたかといふと、この笛の音をきいた時からだつたと思はれる。細い笛の音は、宇宙の闇を伝はつてくる一條の星の光りのやうで、しかも竹宮には、その音がときどきかすれるさまが、星のあきらかな光りが曙の光りに薄れるやうに聴きなされた。それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。彼は少しづつ、彼の紛ふ方ない故郷の眺めに近づいてゐた。つひにそこに到達した。能面の目からのぞかれた世界は、燦然としてゐた。そこは金星の世界だつたのである。 —三島由紀夫「美しい星」 細江英公は、三島の作品をどれも好みつつ、とりわけ『美しい星』には、「今までとはまったく異なる不思議な世界を描いていて、ただならぬ戦慄を感じた」とし、三島が割腹自決したときに書き残した「檄文」を見た瞬間、とっさに『美しい星』を思い浮かべたとしている。そして改めて『美しい星』を読み返した感慨として、「この小説は、核爆弾という究極の大量破壊殺戮兵器をつくってしまった20世紀の人類への“哀れみの書”ではないか」と述べている。 九内悠水子は、空飛ぶ円盤が飛来する地の東生田が、かつて旧陸軍の科学研究所・登戸研究所であり、戦後GHQにより取引・封印された場所であることや、暁子が見た円盤飛来の地・内灘村で、内灘闘争のことを想起する場面があることを取り上げて、『美しい星』の円盤飛来地が、「戦争と占領という歴史が忘却された地」であり、それらの空間が「(戦後の)空虚な日本の姿の象徴」として示されていると解説している。 また九内は、三島が、明治天皇の御幸によって改められた「天覧山」とせず、あえて〈羅漢山〉と記したことに触れ、三島が林房雄との対談などで、「天皇制の揺らぎ」の始まりを明治時代からと見ていたことと関連させながら指摘している。さらに、三島がヒトラーの国民車構想を知っていたことと、大杉一家の自家用車がフォルクスワーゲンであることに九内は注目し、実は、「宇宙人であるという優越感で大衆に対峙しようとしていた」大杉一家こそ、「マイカーブームを先取りする大衆」でもあったというアイロニーが秘められているとし、三島が大衆化の危機に芸術家もまた晒されていることを林との対談で語っていたことも合わせて論考している。
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作品評価・研究
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「蘭陵王 (三島由紀夫)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『蘭陵王』は発表当時、あまり反響のなかった作品であるが、「生命の極点に姿をあらわす死」という「三島の美学の原型」を指摘する佐伯彰一の評や、作中の〈敵〉という言葉の「なまなましさ」の問題に触れつつ、「小説」と「現実」を反転させて見せる三島の文体について言及している安岡章太郎の評がある。 高橋英夫は、安岡の評に対し、〈敵〉という言葉が重要ではなく、最後の一行の中の「拒否」または「否定形」が着目点で、それが「三島由紀夫の演劇性といかなる関係を有するか」、つまり「拒まれてあること」という三島文学特有の位相がポイントだとしている。そして高橋は、三島がそこから「自分に対して向けられた拒否を逆に拒否しかえすことによって、それをドラマの中に持ちこむ」ことと、「拒まれてあること」を受け入れてドラマを放棄すること、という2つの道を選んだとし、それがこの作品の方法であって、〈音楽〉もそこに誕生すると考察している。 島内景二は、以下の作中の文章を引きながら、三島の自衛隊での暮らしぶりは、「中世の遁世者たちや芭蕉が求めた“草庵”での心静かな生活そのもの」であり、文壇で忙しく活躍する三島にとって「体験入隊」は、一種の「出家」だったとし、体験入隊が終わると、再び都会と文壇の喧操の中へ戻ってくるのを「還俗」に喩えながら、そうした「擬似的な出家と還俗」を繰り返しているうち、三島が少しずつ現実生活を出家生活へ近づけようとし始めたと解説している。 部屋におちつくと、私はここへ来てはじめてきく虫の音が、窓外の闇に起るのを知つた。何一つ装飾のないこの部屋が私の気に入つてゐた。一つの机、一つの鉄のベッド、壁に掛けられてゐるのは、雨衣と、迷彩服と、鉄帽と、水筒と、……余計なものは何一つなかつた。開け放たれた窓のむかうには、営庭の闇の彼方に、富士の裾野がひろがつてゐるのが感じられる。存在は密度を以て、息をひそめて、真黒に、この兵舎の灯を取り囲んでゐる。永年欲してゐた荒々しくて簡素な生活は、今私の物である。私は爪のわきの小さな笹くれに、沃度丁幾を塗つた。ほかに塗るべき傷はなく、痛みもなかつた。肉体は銃器のやうに細心に管理されてゐた。要するに私は幸福だつた。 — 三島由紀夫「蘭陵王」 そして島内は、「正式な出家をしたわけではないが、仏教に心を深く染めている男」を、「優婆塞」と呼ぶと説明しつつ、三島が自衛隊での「草庵」暮らしに憧れるあまりに、「優婆塞としての生活」を自身に課し、それが楯の会での活動となったとして、「自衛隊にせよ、楯の会にせよ、集団の規律を重んじるだけの団体ではなかった。三島にとっては、“理性の草庵”を求める精神活動の一環だったのである」と論考している。 小田実は、三島がすぐれた文学者で、絢爛たる才能の持ち主であったことを述懐し、「たとえば、自決前年の『蘭陵王』――ああいう作品はなかなか書けるものではない」と述べている。また、「“文”においても、今や“商”あっての“文”。私は三島の“文” “武”に賭けた純情をなつかしく思う」と回顧し、当時思想的敵対関係にありながらも、三島への敬意を示している。 田中美代子は、三島である〈私〉が、仮面をつけた蘭陵王の出陣に〈二種の抒情の、絶対的なすがた〉を見出し、それを〈きりきりと引きしぼられた弓のやうな澄んだ絶対的抒情〉と言う場面に、「絶対の青春の頂点にのぼりつめ、やがてくる死の予感に息をひそめている、充実した生命の一瞬が、ここに凝縮している」と評している。 磯田光一は、作中の〈息もたえだえの瀕死の抒情と、あふれる生命の奔逸する抒情と、相反する二つのものに〉の箇所に着目して、「〈二種の抒情の、絶対的なすがた〉としてあらわれた〈仮面〉」に、三島文学の秘かな主題をも暗示されていると考察している。 青海健は、『荒野より』や『独楽』と同じく三島の心情が素直に吐露されている『蘭陵王』に着目し、『荒野より』で〈荒野〉から来た〈あいつ〉の問い、『独楽』の少年の問いである「死の世界へのいざない」が、『蘭陵王』では、言葉ではなく笛の音という「純粋な音楽」として〈私〉に与えられ、「絶対へと肉薄」しようとするとし、青年Sが横笛を習うきっかけとして、能『清経』のような〈最期を遂げたい〉と言ったことは、妻を思う清経に重ねたSの〈女〉(恋人)への「恋慕の情」であり、それは三島の「文学への思い」の暗喩だと考察しつつ、「作者三島由紀夫は、文学という〈女〉に思いを残しつつ、言葉ではない表現(ここでは音楽)つまり“行動”という形を贈与することによって、その〈最期を遂げ〉ようとしている」と論考している。 そして青海は、『蘭陵王』が書かれた時点が、まだ自衛隊治安出動の希望を三島が持っていた1969年(昭和44年)の新宿デモ以前であり、まだ三島事件の自死が定まっていない時期であるものの、作品世界では「無意識的な死への予感」が明瞭に開示され、三島が心境小説として自己を語っているのに成功しているとし、蘭陵王の仮面の下の素面の〈やさしい顔立ち〉の世界は、「恐るべき〈荒野〉(死)」と同じ地点でもあり、同時にそこは「人間存在が回帰していくべき〈やさしい〉故郷」であり、「すべての存在の究極の在る極み、絶対」であると解説しながら、常に二つのもの(二元論的世界観)の分裂につきまとわれていた三島は、それを統合する「絶対」の地点を現出したとしている。 「独楽」における作者と語り手の峻別、つまり純粋な澄んだ世界に住む少年と、文学という虚構に賭けるしかない「私」との距離、また、「荒野より」の「私」が生活する賑やかな都会と、青年の故郷である、それを取り囲む孤独な荒野とのへだたり。「蘭陵王」では、それは冒頭の「私ども」という言い回しによって、楯の会の青年たちと「私」との連携が夢見られるのだが、しかし青年Sの吹く横笛の音は、言葉ではない行動の世界と、言葉によって組み立てられている文学の世界との別を、「私」に識らせるに過ぎない。この横笛の音に先導されつつ、「私」は言葉の世界をのり超えた「死」へと、一歩一歩近づいていくのである。「死」は、これら二つのものを、一つの絶対へと繋ぐ架橋である。逆の見方をするなら、「死」を目前にすることではじめて、文学者三島は、その晩年において、二つのものの統合としての絶対を現出させることに成功した。そこは「仮面」そのものが「告白」と化す、あの不思議な二元論統合の一元的な世界である。 — 青海健「異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」 また青海は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られるように、〈蛇〉は「永劫回帰」のメタファーであり、〈言葉もなかつた〉ディオニュソスの笛が奏でる〈蘭陵王〉の音楽に、「〈生〉の本質、永遠なる存在の無垢」(生の根源としての存在の故郷、つまり死)が開示され、蘭陵王の〈やさしい顔〉こそがディオニュソスの正体だとして、その「存在の無垢」へ三島が「永劫回帰」を遂げようとしていたこと、「文学の終わり」が『天人五衰』の自意識のイロニーの主題の率直な純化された形で、『蘭陵王』で示されていたことを指摘している。 ディオニュソスの笛はその極限において言葉とのズレをおのが身に浴びねばならない、というイロニーを孕んでいる。晩年の三島がそのイロニーによって、言葉や文学という仮面を脱ぎ捨て、行動という最後の手段に訴えたのは、「言語表現と対極にある」(『太陽と鉄』)ところのものを夢見たからである。「われわれは言葉を用ひて、『言ふに言はれぬもの』を表現しようなどいふ望みを起」こすが、「言葉もなかつた」その場のディオニュソスを、あえて言葉でなぞろうとすることほど虚しいものはない。それは自意識のウロボロス的悪循環であり、『天人五衰』のテーマである。『蘭陵王』の特異性は、もはやそれを言葉でなぞろうとせず、「言葉もなかつた」と、すなおに言語の敗北を提言してはばからない点にある。存在の無垢の境地は、三島にとって、書かれた「物語」からの逸脱の地平においてしか語り得ないのだ。それは書かれた「物語」ではなく、生きられた「物語」を欲している。 — 青海健「三島由紀夫とニーチェ――悲劇的文化とイロニー
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作品評価・研究
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「若きサムライのための精神講話」の記事における「作品評価・研究」の解説
『若きサムラヒのための精神講話』について巖谷大四は、「惰弱な、イージーな人間社会」への「スマートな警世の書」と評し、筑波常治は、「日本人一般があしき意味の女性的感覚に毒されている」ことへの「男性的習俗の復権を説いたもの」と見ている。 高橋博史は、三島が討とうとしているのは、平和が続く中で社会が「平準化」し社会的規範が弱体化していくことだとし、その三島の主張の背後には、〈人間性の底には救ひがたい悪がひそんで〉おり、〈人間の自然の姿〉が〈動物〉に他ならないという認識があり、社会的規範の弱体化は、恋愛を始めとした美や快楽の空洞化を招くため、けじめや節度の復権が説かれていると解説している。 しかし社会的階級や規範の存在のみでは、〈生の輝き〉は保証できず、死との接触により初めて〈生のかたさ、強さ〉が発見され、〈激しい純粋な行為〉こそが、人間のおぞましさを〈乗り越える〉ものだと三島が物語っていると高橋は説明しながら、『若きサムラヒのための精神講話』には、「望ましい社会の具体像に関わるレベルと、人間の存在そのものに関わるレベルとの、次元に異なる二つの議論が含まれている」とし、その二つが三島の中で、どのように区別され、結びついているかを検討する必要があると考察している。
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作品評価・研究
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『複雑な彼』はエンターテイメント的な小説で、文学的な論究は見られないが、主人公・譲二の日本人としての誇りや自信の高さと、ラストで冴子と結ばれる道ではなく、〈アジアを救ふ〉ために〈冒険と戦ひの日々〉を選ぶという点に、作者・三島由紀夫の行動(三島事件)との関連性があることを杉本和弘が指摘している。 菱山修三は、『複雑な彼』の「展開の巧妙さ」を、他の三島作品同様に「いかにもソツがなく“名手”という感じを受ける」と評し、「この作者には、現代の特殊な青春の“若ものの怒り”の感覚もあるし、大胆で、行動的な面もあるようである」と述べている 小坂部元秀は、「娯楽小説だが、すばらしく魅力的な制服の下の卑俗な刺青という手品の種の、最終場面における種明しに、いかにも三島的な機知がうかがえる」と評している。
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作品評価・研究
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三島の近代能は、能を世界に紹介した、という点においてその功績は大きい。中でも『卒塔婆小町』への評価は国内と同様に高く、『班女』も海外で人気が高い。ドイツでも『邯鄲』が高く評価され、「三島ブーム」が起きた。 ドナルド・キーンは、郡虎彦の「近代能」は能の構造や空間を無視していたために「近代的」であったが「能」ではないとし、三島の能は原典の詞章や筋に拘ってはいないが、その伝統を受け継ぎ、翻案というよりも「能のココロにインスパイアされた新作」で、「すばらしい二十世紀の文学を拵えた」と解説している。 特に『卒塔婆小町』は、ドナルド・キーンも「日本の新劇の最高峰」と評しているように、総じて「傑作」と称されることが多く、詩人の台詞の〈やつと思い出した。うん。……さうだ、君は九十九のおばあさんだつたんだ〉では、時間の流れを逆転させ、80年先の「未来の記憶」が蘇るといった斬新な世界を創り出していると松本徹は解説している。 (三島は)現実の復元なり模写をベースとするところを完全に排除、考えられることなら何でも起こり得る空間を設定、時間さえ逆流する世界を現出させ、われわれ人間が遠い昔から切望し続けてきている永遠の美女を、また、永遠の美女を呼び出す詩人を、出現させたのです。これは三島という驚くべき才能が、能に拠ることによって、初めて達成した、まことにブリリアントな出来事だと思います。すぐれて前衛的でありながら、そこを越えていると言ってよいでしょう。 — 松本徹「舞台の多彩な魅力」(『三島由紀夫を読み解く』)
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作品評価・研究
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『仲間』は三島の代表作ではないため、本格的な研究はあまりないが、謎めいた幻想小説として一般的に高く評価されており、中には三島作品のベストワンと評価する作家もいるなど、珍重・偏愛される傾向のある作品となっている。開高健が選んだアンソロジー集の中では、「芸術と思想に忠実に生きた著者の、美しく妖しい幻想小説」と紹介されている。なお、三島自身は『仲間』のテーマを〈化物の異類〉と記している。 澁澤龍彦は、「父子連れは『死』の仲間なのか」と付しつつ、物語にどんな「寓意」を読むのかは読者の自由だとし、「三島由紀夫がこれほど無造作なスタイルで書き流したことはめずらしく、その意味でも、これは珍重するに足る作品であろう」と解説している。 村松剛は、三島の短編『荒野より』を論じた後、同じく『仲間』や『時計』の主人公についても、「孤独な荒野に棲んでいる」とし、ポオの短編を想起させる幻想的な『仲間』は、薄明の世界が「明晰な何気ない文体」で語られていると評している。 そして、何気ない語り口から読者が見過ごしてしまいがちな、〈お父さん〉が部屋を〈上下に自由に〉歩いたり、〈高い箪笥の上に〉腰かけられるという「奇態さ」に村松は触れ、父親が教会の鐘の音を嫌うことが3度も書かれている点などから、父子が「大小の悪魔か、悪魔ではないまでも冥界の存在」だと考えられるとし、また、〈僕〉の外套が2か月たっても濡れたままであることから、「つまりここでは時間の流れが停止している」として、「仲間」になった〈あの人〉と絡めながら以下のように考察している。 悪魔に生活も時間も譲り渡すことによって、孤独な紳士は市民社会を棄てて彼らの「仲間」となるほかにみちがないところに追い込まれる。「仲間」は、「荒野より」よりも九箇月まえに執筆された。発表は戯曲「サド侯爵夫人」の完成につづいていて、悪魔に十字を切った男サド侯爵の面影が、ここには何ほどか投影されているだろう。シュールレアリスム的なこういう作品は三島氏にはほかになく、掌篇ながら忘れがたい輝きを放っている。 — 村松剛「解説」 長谷川泉は、『仲間』を「幻想と幻覚に満ちた作品」として、「子供の観念が現実を疎外して、あの人の家を自己の家として構想する」という見解を持ち、「〈僕〉にとっては、煙草が現実と幻想との媒介である。そして酒をもてなされる父が、〈あの人〉と〈僕〉との媒介になっている。メルヘン的なタッチの作品である」と評している。 高橋睦郎は、『仲間』を「童話スタイル」とし、主人公の親子を「化物の親子」と呼んで、「およそおどろおどろしいところが微塵もなく、しかも一読、背筋に寒さを覚えさせる点、小品ながらみごとな出来というほかない」と評している。 東雅夫は、末尾で父親が言う、〈今夜から私たちは三人になるんだよ、坊や〉という言葉の示唆する意味は、「さまざまな解釈を誘発することで名高い」と解説し、その最後の言葉の真相には、「異界よりおとなうモノの翳は色濃い」と評している。また、作中では「吸血鬼」という言葉は使用されてはいないが、「化物父子の不可解な挙動を解く鍵語」として「吸血鬼」を当てはめてみるのも興味深い試みだとして、東は以下のように考察している。 眠らないはずの父親が、よく眠れるための家を探しているのは何故なのか。父子そろって外套を身にまとっているのは? 鐘の音に神経質なのは? 唐突とも思える結語の暗示するものは…… わずかな枚数のうちに、各人各様の吸血鬼妄想を許容する懐の深さを示しえた作者の手腕はさすがというほかありません。 — 東雅夫「解説――三島由紀夫『仲間』」 竹田日出夫は、ロンドンの「憂愁のイメージ」を背景にして、「人間嫌い、鋭い悲哀、無秩序、虚無、変容への偏愛や憧憬」が描かれているとし、「湿った外套を纏った人物」イメージは、「孤独な自我の姿」を象徴し、「虚無と倦怠と孤独」を増す煙草の匂いの中で、「分裂した自我が、優しく影のように寄り添う幻想の世界」が展開されていると考察している。 森内俊雄は、『仲間』を三島作品のベストワンだとし、以下のように高評価している。 モーツァルトはグレゴリウス聖歌たった一曲と自分の全集を交換してもよい、と断言しました。三島由紀夫の全生涯の文業と、このわずか十枚たらずの短篇についても同じことが言えると思います。三島が嫌悪した太宰治に「駈込み訴へ」、氏が愛した坂口安吾に「桜の森の満開の下」があるように、「仲間」は白鳥の歌です。ワイルドの「幸福な王子」に匹敵する傑作です。 — 森内俊雄「アンケート――三島由紀夫と私」 加藤典洋は、雑誌の初出掲載で読んだ時に、「つくづく三島というのは天才かもしれない」と思った作品が『仲間』だとして、その時に雑誌からこの作品の頁を引きちぎってポケットに入れ、雪降る東北の町の中、何日も持ち歩いて読み返したと述懐しながら、『仲間』を三島作品のベストワンに選んでいる。加藤はこの作品から、三島が人工的な文体とは違う、自然な「資質的な文体」の持主であることも垣間見えるとし、「わたしは端的に、こういう文体と雰囲気の小説が好きだが、三島はそういうものをほとんど書くことがなかった。たぶん、簡単すぎたのだろうか」と考察している。
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作品評価・研究
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『わが友ヒットラー』は、戯曲としての出来は悪くはないが、ヒットラーを扱っているというタブーから、海外では上演が行われない傾向がある。発表当時も作品自体のことよりも、俳優が観客にウケるためカーテンコールの挨拶でやっている「ナチス式敬礼」について批判し、「今通じる洒落と通じない洒落がある」と秋山安三郎が述べている。しかし、そのような中でも小島信夫は、「古典演劇のようなレトリックの多い文章でしゃべらせているので、福田恆存氏訳のシェークスピアを読むような感じがするが、非常に充実感がある」と評価している。 マイコウィッチ・ミナコ・Kは、三島がヒットラーへの興味よりもレーム事件に興味を持ち、〈レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた〉と説明している創作意図を鑑み、「この戯曲はかなり日本化されたヒットラー劇という特性を備えている」と説明しながら、この劇のヤマ場が第2場の、レームが断固としてヒットラーを信じる場面だとし、「それだからこそ、〈わが友ヒットラー〉という表題の意義が大きく浮かび上がるわけである」と解説し、最後のヒットラーの台詞を「三島の技倆を遺憾なく発揮したもの」と評している。 佐藤秀明は、ヒットラーに厚い友情を抱く突撃隊のレームと、ナチスの私兵・突撃隊の処分を考えていたヒットラーを比較し、全体主義の移行のために一旦中道政治の方向を示して国民の支持を取りつけようとするヒットラーよりも、私兵「楯の会」を率いる三島は当然突撃隊のレームと重なるとし、そこに必然的に浮上してくる「政治的敗北」ということを考え併せ、「三島は政治的な敗北を予言したのだろうか」と疑問を呈しながら、むしろ三島が告白しようとしたのは、「政治的勝利や政治的権謀術数への訣別の意志」であり、「粛清される側に立つ三島」が、ヒットラーを「わが友」と呼んだのは、レームの言う「軍隊への郷愁」を、敗者になることでそのまま享受しようという「心情」があったからだと考察している。 伊藤勝彦は、三島の死後に彼の「親友」を自認する「エセ親友」がぞくぞくと出てきたことから、三島が生前にそういった多くの取り巻きの者たちの媚態や偽善を見抜き、華やかで社交的な振舞いの中でも孤独を感じて「真の友」を欲していた人であり、いわばシュトラッサーのようにヒットラーの裏切りを事前に敏感に察知できるような「明察」の人だったとして、それゆえ三島は、自身とは異質の他者である「愚直で、誠実で、人を信じきることができる男」であるレームになりたいと思い、愚直に美に邁進してそれを体現する悲劇的な人物に憧れていたと考察している。そして三島の造型したそのレーム像について伊藤は以下のように解説し、レーム同様に「楯の会」を率いていた三島も、「戦士共同体の再現はもはや帰らぬ夢であることを知りぬいていた」が、それにもかかわらず、「それを信じることにいのちを賭けてみたかった」のだとしている。 レームにしても、まるっきりのバカではない。ヒットラーの裏切りの可能性を知らないわけではなかった。(中略)しかし、“わが友ヒットラー”を裏切ることだけは絶対にできない。彼はいわば戦士共同体を夢みる男だった。その夢が無残にこわされるくらいなら潔く死んだほうがましだった。(中略)たとえ裏切られてもいい。最後まで“わが友ヒットラー”を信じ、ヒットラーの信頼に応えるような、誠実な行動をとりつづけたい。こう考えたからこそ、シュトラッサーに同調しなかった。そうして見事に裏切られ、壮烈な死をとげたのである。 — 伊藤勝彦「わが友ヒットラー」(『最後のロマンティーク 三島由紀夫』) また伊藤は、ヒットラーの造型については、決して「狂気の人」ではなく、「冷酷無残な政治的人間」であり、そこに「現実政治の実態」を三島が描いているとして、その観点でいくと、「ヒットラーが異常性格で狂人にひとしい存在であるという常識」に妥協していた公演(石沢秀二の演出、平幹二朗の演技)は、三島の原作の「真精神を裏切っていた」と劇評している。 そして、「もっとも冷静で、正気な人間のうちにも、狂人以上の冷酷無残がひそんでいる」という「正気という名の狂気」がこの劇の主題であり、三島が言いたかったのも、「あなたはヒットラーを自分とは無縁な特殊人間に仕立てあげ、ヒューマニズムの中に安住していたいのだろうが、そのあなたの中にもヒットラーが生きている。あなた自身、“ヒットラーの友”なのかもしれませんよ」ということだろうと伊藤は考察し、しかしながら演出家の強調点が三島の真意と噛み合っていないにもかかわらず、『わが友ヒットラー』で交わされる台詞には、三島の精神が躍動し、演劇空間の中に三島が甦り、「三島由紀夫は生きている」と実感できるとして、「すぐれた芸術作品はかくも不出来な演出の中においてすら、真価を発揮する」と評している。
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作品評価・研究
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「美しい日本の私―その序説」の記事における「作品評価・研究」の解説
『美しい日本の私―その序説』には、「美しい日本の心」が語られていると同時に、それと交感する「私」(川端康成)の文学の基本心情が述べられた論であるが、自身の随筆『末期の眼』の、〈もの思ふ人、誰か自殺を思はざる〉を引くなど、単に分かりやすい「美しい日本」を語っただけでないものを内包させていると保昌正夫は解説している。また、明治以降の日本文化論の大半が、程度の差はあっても西欧文化を意識し、対抗する姿勢があるが、『美しい日本の私―その序説』には、その姿勢がさらに前面に表れており、川端は、記念講演という儀礼的な雰囲気の限られた中で、できうる限り日本文学・芸術を広く紹介しながら、西欧とは根本的に異なる伝統的な日本人の「心性の特質」を説き、川端自らもそれを「日本人の宿命」として引き受けようという姿勢を「悲愴なまでの調子」で表していると大久保喬樹は解説している。 川端がそういった強調姿勢を見せた理由について大久保は、「単に日本人初のノーベル文学賞受賞だからという理由以上に、そこまで強く彼我の落差―優劣ではない―を強調しなければすまない切迫した心情」があったとし、川端が戦中から敗戦を通じて生き、〈私は日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである〉と決意してきたその作品経過を鑑みながら以下のように考察している。 川端は戦中および敗戦の経験を通じて、日本人というものが、どれだけ近代化しようとも、結局のところは、そうした近代化以前の、『源氏物語』に集約されるような〈あわれ〉の世界に深く根ざしているのであり、もしこの〈あわれ〉の世界が歴史の必然によって近代的世界にとって代わらなければならないのなら、日本人は、少なくとも、自分は、この滅びていく世界に殉じるほかないと覚悟し、その覚悟を常に念頭に置いて戦後を生きてきたが、その心情を、敗戦から20年あまり経たこの時点で、西欧に対して、公然と告白するのである。 — 大久保喬樹「文人たちの美学――川端康成『美しい日本の私』」 また、この日本独自の文化世界として自らを主張、対峙したことは、日本社会において歴史的に「ひとつの分岐点」であったと大久保は述べ、「このあたりから、日本社会は、さまざまなレベルで自国の文化システムの独自性を自覚し、西欧社会とは異質な構造の社会であることを積極的に肯定」するようになったと分析している。そしてこうした傾向を「一種の鎖国化」として警戒する側からは、のちの大江健三郎の『あいまいな日本の私』という皮肉的な批判がなされ、他方ではそれを推進しようとする側もあり、川端自身は本来、「政治的動きとは別の次元の人間」であったが、この受賞記念講演は、そういった政治的な動きにまで連動するような波紋があった「歴史的事件」だったと解説している。 江藤淳は、川端の演説の中で語った花のつぼみの譬えを鑑みながら、受賞講演を以下のように評している。 スウェーデン学士院は、あるいは川端氏が、東と西のあいだに論理の橋を構築することを期待していたのかもしれない。しかし彼らの見たものは、おそらく黒々としたみぞであり、そのかなたに咲きはじめた一輪の花、むしろつぼみであった。そしてそのつぼみには白く輝く小さな露が寄りそうていた。それが川端氏の「美しい日本の私」である。 — 江藤淳「『美しい日本の私』について」 また江藤は、良寛の辞世の歌をめぐる川端の解釈に対して、「川端氏にとって〈自分〉と〈自然〉とを媒介するものは、いうまでもなく、〈無〉である」としている。これは江藤が婉曲的に川端の、「表現主体と表現対象との差異が無化する〈万物一如思想〉的な問題」に触れていると小菅健一は説明している。 清水文雄は、道を照らす冬の月へ明恵上人が三十一文字で呼びかけた心を、川端が〈自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやり〉、〈しみじみとやさしい日本人の心〉と述べたことに触れ、その心は、「〈もののあはれ〉をしる心と別ではない」とし、「〈もののあはれ〉は女の心に咲いた花である」という和辻哲郎の言葉を引きながら、〈もののあはれ〉は「苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念」であり、その「優柔体でありながら同時に、どこか一筋の厳しいものが貫いている」〈もののあはれ〉の心を「しる」ことが、「人間評価の規準」とされ、その心を持たない者は、「王朝貴族社会では人間としてだめな人であるという烙印を押されたも同然であった」と解説し、以下のように川端の講演を評している。 明恵上人が、禅堂に行き帰りする道を照らしてくれる冬の月へ、三十一文字であたたかく呼びかけた心を、とくに「日本人の心」として、川端氏がその講演の最初に取り上げたことは意義の深いことと思う。これは、機械文明の急激な進歩と人間の心とのギャップに、深刻に苦悩をつづける世界の人々、とりわけ西欧の人々に対する、「美しい日本の私」からの問いかけであったと思うと同時に、日本人の一人一人に、「脚下照顧」の喫緊であることを啓示したものともうけとれるのである。 — 清水文雄「日本人の心」
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作品評価・研究
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『十六歳の日記』は、無名の少年時代に書かれた川端の最古の執筆作で実質的な処女作とされ、川端の貴重な記録の自伝であり、川端文学独特の才覚の萌芽が見られる作品とされている。また川端自身が中学2、3年ごろから作家志望であったとしていることから、この日記自体を、「小説家を志望している少年の試作」と捉える向きもある。 立原正秋は、祖父が痛みを訴えながら苦しげに、尿瓶に放尿する音を、〈しびんの底には谷川の清水の音〉と描写するところに、「醜いものを最後まで視つめ、それをかならず美に転じてしまう」という川端の姿勢が見られ、その態度は川端が晩年に至るまで変化しなかったものと解説している。 伊藤整は、川端のこういった、醜いものを美しいものに転化させてしまう特徴を最初に指摘し、その表現方法を、「残忍な直視の眼が、醜の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に復讐せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている。 そして伊藤は、「苦痛と汚れと少年の悲しみ」を描いた介護の状況の中で、〈チンチンと清らかな音がする〉、〈苦しい息も絶えさうな声と共に、しびんの底には谷川の清水の音〉と書くことは、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは「世の常の文章道においては、大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析している。 どんな苦痛と心痛の中にあっても、瓶に水の滴り落ちる音の清らかな響きには変りがないのである。これを、その水音の始まった一瞬から、ちゃんと聞き分けているのは、容易に雰囲気から切り離されて水音の美にのみに集中できる認識力の強さなのか、それとも、雰囲気に対する心情の冷たい一点の露出なのかは、区別しがたいことでもあり、区別する必要もないことである。ただその水音も雰囲気もともに生きていて、相互の連絡が不完全だということのために、作者の少年時代のこの記録は、合金になっていない二つの金属を手にとるような、珍しい印象を産んでいるのである。 — 伊藤整「川端康成の芸術」 山本健吉は、少年が祖父を介護する場面について、「祖父と十六歳の少年との交渉が、完結、的確に、一つのイメージとして造型されている」とし、〈しびんの底には谷川の清水の音〉という「一瞬別天地のイメージ」は、俳人・石田波郷の〈秋の暮溲瓶泉のこゑをなす〉という句のイメージよりも、『十六歳の日記』の方が先取りしていたと解説している。 小林秀雄は、「日記の一番優れた鑑賞者は川端康成自身」であり、川端が自身の日記から読み取った「啓示」は、「子供といふものの恐ろしさなのだ」とし、「祖父の老醜も孤独も絶望も憤懣も亦滑稽さも善良さも慈悲心も」すべて解っている孫の「真摯な子供の愛や悲しみの動くところ、人間に肝腎なもので何が看破されずにゐようか」と述べつつ、これが川端の中で「童話といふ言葉が独特な形で育つて来る土台」だと分析している。 彼にとつて童話の国は、天上にあるのではない。大人の認識の果てにあり、彼方にあるのではなく、寧ろこちら側にあるのである。常識が、何かにつけ憧れてみせる天真爛漫な子供の天国といふ様なものは、この作家が一番信用しないものである。(中略)少年が、たゞ真摯に生きてゐるといふ最小限度の才能を以つて描き出したものが、人間の病や死や活計の永遠の姿であるとは驚くべき事ではないのか。そして、何故この少年の世界が、あらゆる意見や理論や解釈や批評の下に、理想と幻滅とが乱れ合ふ大人の複雑に加工された世界に抗議して立ち上つてはいけないのか。 — 小林秀雄「川端康成」 板垣信は、『十六歳の日記』に見られる写実的な筆致を、「対象をいささかの感傷を混じえずに凝視する、川端の冷徹な眼、いわば〈末期の眼〉はすでにここに確立している」とし、また同時にそこには、哀れな祖父に対して涙ぐむ少年の感傷もあるとしている。そして板垣は、「見聞した事物をありのままに描写して対象を鮮明に形象化しようとする」、その「写生文脈の手法」には、正岡子規や高浜虚子などの写生文と通い合うものがあるのは明らかだとし、〈しびんの底には谷川の清水の音〉という一文を、「醜悪なイメージを一瞬のうちに清澄なイメージに美化してしまう、いいかえれば現実をたくみに非現実化する、川端独得の発想法や表現方法のごく早いあらわれ」と見ることもできると解説している。 かれは五月五日の日記に、「学校へ出た。学校は私の楽園である」としるしているが、「十六歳の日記」は、「寂しさと悲しさ」とに彩られた川端の幼少期を端的に伝える作品として、またその資質の形成に強い影響を与えたと思われる祖父の人となりを、さまざまなエピソードを通じて明らかにした作品として、さらには、川端家が北条氏の出であるらしいことを、川端が自ら語った最初の作品として注目される。 — 板垣信「川端康成 人と作品20 第一編 評伝・川端康成――孤児」 川嶋至は、この『十六歳の日記』を「二十七歳の日記」だとして、「十六歳の少年の日記として読みとらせるべく巧みに演出し、見事に成功」した作品だと評して、多分にフィクションが後から加わったものではないかと考察している。これについて川端本人は、〈私にはどちらでもいいやうなことである〉としながら虚構ではないと反論している。 奥野健男は、『十六歳の日記』を、川端が少年期に書いた「貴重な生い立ちの記録であり、心情である」とし、後年自己の生活をほとんど語らなかった川端の「なま身の心」に接し得るものとしている。そして、この日記が10年後に川端本人により、伯父の倉から発見され、「あとがき」などが付されて発表されたことを説明しながら、以下のように解説している。 当時の作者の手のこんだ戯作とも思われかねない不思議な発表のされ方の作品であるが、やはり十五歳の少年の作であることは疑えない。祖父への少年らしい愛情と死への嫌悪と小便の世話をする汚い看護の中に、しびんの底に清水の音を感じる才能は異常であり、はやくも醜の中に美を見つけるこの異能な文学者の才能と感覚があらわれている。 — 奥野健男「鮮やかな感覚表現」 林武志は、寝たきりで下の始末も自らできずに死んでいった祖父を介護した少年期の体験が川端の人生に及ぼした影響を鑑み、川端に老醜を強く意識させ恐れさせた「でき得るならば思い出したくない存在」が「祖父の幻映」だったかもしれないとしながら、晩年の川端の自殺に触れて、三島由紀夫が一霊四魂を主題にした最後の長編『豊饒の海』の中で本多繁邦の老いの醜さを描いて自決した時、川端の意識に浮かんだのは「老いたる己が姿」だったと推察し、「その自覚を恐怖させた“ひと魂”の怪物は、祖父の死態であったかも知れない」としている。 そして林は、「(川端にとり)父母の死は〈夢〉に昇化し得ても、祖父の死はことごとくを見とどけたことの動かし難さがあった。死は美しいものだけではなく、祖父の死もまた死であり、事実であった」と考察し、川端作品に見られる「死に対する抽象性と具体性、あるいは相対性と絶対性」が、その文学の「核」となっていることを解説している。 江藤淳は、川端が『禽獣』を嫌い、この処女作『十六歳の日記』を生涯偏愛し続けた理由を、「ここに死んで行く祖父の姿を借りて、氏にのこされた最後の現実の重みが定着されているため」とし、『十六歳の日記』は一見、「喪失の記録」のように見えるが、「実は最後の所有の記録にほかならなかった」と考察して、川端が最後の肉親との情念の中に確実に自分が生きたことを「所有」する思考があったことを指摘している。 竹西寛子は、『十六歳の日記』をその「瑞々しさ」の点で、『伊豆の踊子』と並ぶ作品だと評し、川端の作品に特徴的な姿勢の萌芽がそこに現われているという意味で、「門を閉ざした家で、死期の迫っているただ一人の肉親を看ては中学に通う少年の目には、涙も怒りも眠りもあるのに妥協はなく、当事者でありながら同時に傍観者でありつづけるという目と物との関係は、この日記においてすでに定まっている」と解説している。
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三島文学の金字塔、近代日本文学の傑作として評価が定着している『金閣寺』には、数多くの評論や研究分析が尽きることなく、文芸的なもの、三島の気質や人生との関係から捉えたもの、実際の放火事件と比較したもの、精神分析的な見地のもの、語りの性質、小説の構造や論理を解明したもの、など多岐にわたっている。まとまった論文で最初のものは、三島と同時代の作家・中村光夫の評論があり、三島の破滅願望やそれが不可能となった戦後社会に対する反感を看取しながら分析したものの先駆としては野口武彦や磯田光一の論がある。 『金閣寺』を三島の作品の中でも「出色の作」「傑作」と評する中村光夫は、三島が自身で、本職の小説を書くときより戯曲の方が〈はるかに大胆素直に告白できる〉とし、それが〈現在の私にとつて、詩作の代用をしてゐるからであらう〉と語っていることから、三島が従来の常識とは逆に、「枠のしっかりきめられた」形式の方が、「ポエジー(詩)」=「告白」ができることを鑑み、実際に起った事件という明確な「輪郭」の制約も、同じくその形式の役割をなすとし、『金閣寺』も「金閣寺放火事件」という「事実」(ノンフィクション)の「仮面」により、三島の「大胆素直な告白」を可能にしていると解説している。 そして、この事件に「自己を含めた時代の狂気の〈象徴〉」を見出し、それを「確実に所有するために、この〈象徴〉を芸術によって再現すること」を希った三島にとって、「現代で正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きて見るほかはなかった」と中村は考察し、三島が放火僧の青年に同時代人としての「連帯感」を感じ、その狂気に「挫折した英雄の行為」を見ているゆえに、主人公の「内面生活」を、自身の「内面の論理で代償することほど自然なこと」はなく、「自分の文体で彼に告白させている」ため、そこには三島自身も「なかばしか意識しない〈詩〉が生まれている」とし、この三島が試みた「偽者の告白」ともいえる「自我の社会化」は、「日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成である」と解説している。 佐伯彰一は、三島の諸作品に見られる「敗戦による断絶の意識」は『金閣寺』の中にも、「重要な劇的な契機」としてあり、「日本の伝統美の象徴」を放火するに至る主人公の「内的な動因」の中に、「敗戦は欠くべからざる重要な一環」としてしっかり組みこまれ、それが主人公にとって、金閣の「永続的な伝統美を一きわ魅力的なもの」とすると同時に、「やり切れぬ反撥をもかき立てずにおかぬもの」とする要因の一つになると解説している。そしてそれは、敗戦下の「頼るべきものを失った日本人」にとり、「自国の美的伝統」が、「自信回復のためのほとんど唯一の手掛り」であったと同時に、「焦ら立たしいかぎりの内的呪縛の象徴」と映った奇妙な「二重性」とも重なり、「そうした伝統に対する愛憎共存の微妙なアンビヴァレンス」を、三島は『金閣寺』において、まことに鮮やかに小説化して見せた」と佐伯は評している。 伊藤勝彦は、「戦時下の非日常」と「戦後の日常性」とで、金閣の像が大きく変貌する点から三島の問題性を捉え、主人公が終戦の日に〈金閣と私との関係は絶たれた〉と実感し、〈美がそこにをり、私はこちらにゐるといふ事態〉が再現された戦後の金閣に、〈不満と焦燥を覚え〉、〈疎外された〉ことに着目しながら、戦時下における軍人たちが求めた「自我滅却の栄光の根拠」である「絶対者」への帰一が、「一つの世界の全体を象徴しうるようなもの」(「神格天皇」)という形であったことを鑑みつつ、そういった性質の「自分を超えた絶対者」「絶対の他者」という存在が、常に三島の前に厳然とあり、その「他者と自己との間の橋を見いだすこと」が、三島の「唯一の文学的課題」だったとし、「自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界」があり、「それから隔てられてある」ことは三島にとって耐えがたく、それゆえに、「相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う」のが、『金閣寺』のテーマだと考察している。 そして「完璧な全体性」はこの世で絶対不可能であり、三島にとって「神としての天皇」も、「自分がそれから拒まれているところの〈なにものか〉」であり、〈金閣寺(美)と私〉という関係は、〈天皇と私〉という関係に置き換えられると伊藤は考察し、三島の実人生を鑑みて、「三島はずっと戦時下の理念を引きずって生きてきた男であった」と述べ、以下のように論じている。 天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった。なぜなら、天皇は神であることによってのみ、ある全体を象徴することができ、私もまた、その天皇との関わりにおいて全体性に参与することができるからである。もちろん、そのような全体性がもはや再現不可能な幻影にすぎないことを彼も充分承知している。けれども、戦争中では、すべての人が死によって天皇に帰一することを願っていた、あの死の共同体ともいうべきものの中に生きることを願わずにはおれなかった。戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的悲劇に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである。 — 伊藤勝彦「三島由紀夫の問題作」(『最後のロマンティーク 三島由紀夫』) 田坂昂は、〈美〉が〈金閣〉、〈人生〉が〈女〉によって象徴され、主人公が「人生における異常者・異端者」の象徴となり、その構造が『仮面の告白』と相似性があることや、「〈金閣〉と〈私〉との関係」が「〈私〉の存在の根本的規定を示すメルクマール(指標)」であり、それがまた「〈世界〉と〈私〉との関係」と相関関係の中にあるという視点から『金閣寺』の論理を考察し、美の象徴である金閣が、「現実の金閣」と「心象の金閣」とに分裂するのと同様、世界も〈私〉の「内界」と「外界」に分裂し、「それらが統一的にあらわれるためには何かの契機が必要なのである」と説明しながら、「世界が滅びる日」といった「危機的状況」こそが、〈私〉から疎外感を消し去り、「現実の金閣」が「心象の金閣」と重なり、美しく光り輝く時となると論考している。 そして金閣が放火される直前に、〈虚無がこの美の構造だつたのだ〉と記され、溝口が金閣の前で、米兵の女を踏んだ時の記憶を〈悪の煌めき〉と呼んでいることから田坂は、「美とは虚無であり、虚無が金閣の美の構造であり、美とはまた悪」でもあるとし、「美・悪・虚無の三位一体のうえにそれを象徴して立つ建築」が金閣であり、その「美の世界」に完全に縛られてしまえば、「完全に自閉して、現実の人生とは完全に絶たれた世界の住人」となるが、〈私〉は〈美〉に惹かれながらも、その「呪縛」を脱し、〈人生〉へ行きたいという欲求も持ち、そこに「〈私〉の金閣にたいする愛憎併存」があると解説している。 また田坂は、主人公が人生(女)への〈関門〉をくぐろうとすると現れる金閣は、〈人生への渇望の虚しさ〉を知らせる告知者であり、その出現により、人生は〈塵のやうに飛び立つ〉てしまうのは、美の目から見た人生が「俗塵」にすぎず、金閣の出現の意味は、「〈美の永遠的な存在が真にわれわれの人生を拒み、生を毒する〉ものとしてあらわれること」であり、その毒は〈生そのものも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまふ〉という」構図を解説し、結びの一句〈生きようと私は思つた〉の「生」については、作中で主人公・溝口が言う〈別誂への、私特製の、未開の生がはじまるだらう〉という「掴みどころがない」生の意味を、「ほとんど人生とは無縁」に思えるとし、「〈生きる〉としても、それは生なのか死なのかわかちがたいような〈生きる〉なのである」と考察している。 橋川文三は、自身が三島と同世代だという立場から、三島が「戦中戦後の青年の血腥い精神史」、「自己の精神史」を精確に「告白」する見事な語り手であり、稀な存在だという視点で考察し、戦時中に少年・青年であった者にとり戦争は、「あるやましい浄福の感情なしには思いおこせないもの」で、それは「異教的な秘宴(オルギア)の記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想」であり、「永遠につづく休日の印象」だったと振り返り、その「倒錯した恣意の時代」では、三島が海軍工廠の寮で〈小さな孤独な美的趣味に熱中〉することも、何ら「非愛国的異端」でありえなかったとし、以下の『金閣寺』の記述を引きながら、少年たちにとり敗戦は「不吉な啓示」であり、「死の共同体」から「日常的で無意味なもう一つの死――いわば相対化された市民的な死がおとずれるまで、生活を支配する人間的な時間」が始まり、その平和は「どこか〈異常〉で明晰さを欠いていた」と当時を分析しながら、徐々に確立する平和の「底意の知れぬ支配」により、「三島の美学が権利を感じ始める」と解説している。 敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。 —三島由紀夫『金閣寺』 そして橋川は、「金閣寺と主人公の共生」が断たれた敗戦の日、金閣寺は、「失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の呪詛のような美に化生」し、主人公は、「美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない」という関係性が描かれているところは、「戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されて」いるとし、以下のように解説している。 金閣=美を戦中の耽美的ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた「裏がえしの自殺」の決意にほかならないことも明らかになるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している。『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である。 — 橋川文三「主要作品解説 金閣寺」(『現代日本文学館42 三島由紀夫』) ※上節と同様、解説文において三島自身の言葉の引用部は〈 〉にしています(他の作家や評者の論文からの引用部との区別のため)。
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『櫻の樹の下には』は、基次郎の作品の中では短い方であるが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!〉という冒頭の文章が印象に残る人気作で、他の作品と比べ、「かなり強いイメージの比喩」が多用されている。鈴木貞美は、「美に醜を対置し、美のうちに“惨劇”を見出すデカダンスの美意識とその心理」が描かれている作品だと解説している。 伊藤整は、実際に基次郎から直接語られた内容がとても衝撃的で素晴らしかったために、整理・短縮されていた発表作に失望感を抱き、「日光浴で真黒になつた目の細い顔から白い歯を出して語る梶井自身の姿の魅力がなくなつてゐた」と思ったが、それは『櫻の樹の下には』が「凡作だといふことでは決して無い」と解説し、日本人の観念には珍しい印象でありながらも、「読了の感じは、やつぱりなにかしら、植物性のものであり、植物の美しさをこれほどみなぎらした作品を私は知らない」と高評している。 日本の近代作家の中でこんな美しい幻想を散文に描いたのは、あるひは谷崎潤一郎の「母を恋ふるの記」にのみ較べられるやうなことではないかと思はれる。日本の小説家の作れない種類の美しいイメージがこの作品にはある。最もボオドレエル的な精神で書かれてゐながら、その類型はボオドレエルの「散文詩」の中に全く見当らないことも、彼のために書いておかねばならないだらう。しかし私は失望した。彼の話しかたがあまり素晴らしかつたのである。そして今では彼のこの作品をあの話の輪郭として見、話の味を思ひ出す糸口としてやつぱり美しいと思つてゐる。 — 伊藤整「小説作法(第一話)」 柏倉康夫は、刊行本『檸檬』収録時に削除された〈剃刀の刃〉の話の最終章について、「これがないと作品の整合性は崩れるのだが、その一方で話がボードレールの散文詩のように作り物じみてしまうきらいがあって、梶井はあえて削除したのであろう」と考察している。 桐山金吾は、話者の〈俺〉が、華麗に咲く満開の桜の花のあまりの美しさに、逆に〈不安〉と〈憂鬱〉に陥るが、〈桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる〉と信じることにより、〈不安がらせた神秘〉から解放され心が和むことから、「美に対する心象が明確なかたちを浮びあがらせてくる、生と死の平衡感覚を描いた作品である」と解説している。 『櫻の樹の下には』の末尾の〈今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな気がする〉の一節について相馬庸郎は、「庶民」を「芸術的に発見」したのだと位置づけている。これに対し、飛高隆夫は反論して、「生活者の論理に対抗し得る芸術の論理の獲得」を意味していると解説している。 吉川将弘は『櫻の樹の下には』が「物語体小説」だということを重視しながら、〈俺〉が〈わかつた〉と感じたのは、「生命の誕生と終わりは表裏一体の物である」ということだとし、「誕生はどんなに美しくとも、裏側に壮絶な死を隠しており、死はどんなに汚らわしくとも、美しい誕生に繋がっているということである」と考察しながら、話者の〈俺〉が〈お前〉に求めているのは、単なる理解だけでなく、自分と〈お前〉を重ね合わせようとしているとし、「その思想を、二人で共有しようという願い、共同体を作ろうという願いが、そこにはある」と論考している。
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作品評価・研究
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『母の初恋』や、同時期に書かれた『夜のさいころ』『ゆくひと』『年の暮』などの短編群は、本格的な論究をされることはほとんどないが、いずれも川端自身が深く愛している幸福な作品とされ、それらに登場するヒロインたちは、みな「純潔な少女」という共通点がある。 三島由紀夫は『母の初恋』について、川端自身が第4章(母の死の章)に愛着があると述べていることを受け、その章で「少女の可憐さ」がよく表現されている一節の、〈雪子はまた溝の縁を歩くのである。「真中を歩けよ。」と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た〉を「大事な数行」として挙げ、それを「中世の象徴図めいた神秘な構図」と呼んで以下のように解説している。 「雪子はびつくりして……」。さうだ。彼女は何も知らず何も意識してゐないのである。溝の縁を歩くといふ、彼女の生い立ちと運命とがそこから残らず読みとられてしまふやうな悲しい癖も、「われしらず」してゐることであれば、一方、吃驚して佐山にぴつたり寄り添つて来ることも「われしらず」なのである。溝の縁と佐山との二つの運命のあひだにぽつねんとこの可憐な少女が置かれてをり、その彼方には星のやうに死せる母の眼が夜の奥から娘の運命をみつめてゐるのである。かうしてこの作品の象徴の鍵が簡素な構図によつて示される。 — 三島由紀夫「『夜のさいころ』などについて」 また、「母の思ひが神秘な力で娘の生(いのち)をくぐつて伝はつてゆく」という『母の初恋』の主題は、『夜のさいころ』にも関わりがあり、そこでは「純粋な無為の形にまで高められ」て、「さいころの目を思ふがままに出してみせた母の手業は、やがて娘の手で五つのさいころが一ばかり出る〈美しい花火〉のやうな奇蹟を成就させるよすがとなる」と三島は説明し、その前段で川端が〈みち子の全身には、なにか神聖なよろこびがあふれてゐた〉と書いていることを鑑みながら、この「奇蹟」の語られ方の「簡素な正確さ」は、古い宗教的な説話が持つような迫力を伴いつつ、「受胎告知の静けさに近づいてゐる」と解説している。 『ゆくひと』について三島は、「きはめてささやかな、小さな水晶の耳飾りのやうな小品」だとし、「浅間の噴火が、無機質の生命(と謂はうか)の遣瀬ない怒りをたえず投げかけて、齢やうやく思春期に入つた少年の苦しみと呼び交はしてゐる」と評している。そして、この小説を読んで、「自分の肩に、誰しもこの少年の年頃に夢みたであらう一人の年上の娘の掌の柔らかさと温かさを感じ、更にをののく自分の少年期の肩のかよわさをありありと思ひ起こさない人」は、川端文学の十分な読者とは言えず、ましてや最後の行の「純潔な怒り」は分からないだろうと解説している。また、『年の暮』については、川端の芸術論が見られるエッセイ風な小説で、その「語られる方法」にも耳を澄ます必要があるとし、それは川端の「こころ」が、「言葉の字面からよりも、言葉を組み立ててゐる糸の張りや、その糸が弾かれて立てる音からひびいて来る場合がままあるからである」と説明している。 そして、『母の初恋』の雪子をはじめ、『夜のさいころ』のみち子や『ゆくひと』の弘子らが、「純潔な少女」であることを三島は指摘しつつ、その少女が川端の「全作品をつらぬく主題の象徴」であり、川端作品の大事な主題の「嘗て内面が窺ひ知られたことのない生の或る現はれ」であり、それは川端が軽々に「心理の沼」へ足を踏み入れることのない「一つの純潔な決心の象徴のやうなもの」でもあると解説している。そして川端が『文学的自叙伝』の中で、〈好奇の触覚を繊弱な物見車に乗せて人生も文学も素通りして来た。素通りのありがたさ〉と語っている部分に「薫り高い操持」の秘かな決心を三島は看取して、以下のように語っている。 人は内面に入るとき、いかに多くのものを失つたかに気づかない。その失はれたものを、川端さんはしばしば「こころ」といふ優しい言葉でとらへて来てをられる。それをとらへる力は、啻(ただ)に感覚といふやうなものではない。日頃は死んでゐるやうに見えるわれわれのいはば絶対的な生が、少女や花や小鳥のやうな「生それ自身」――いはば絶対的な生――に行き合ふときに、覚えずにはゐられない瞬間のまぶしさ、これにつづく何事をも願はない清冽なためらひ、さういふものから生れ出てくる力かと思はれる。時として私たちはさういふ絶対的な生をも、相対的な生の物差で割り切ることを理性と考へ、自分が揺ぐまいとする努力のすべてを失ふ。しかし川端さんの文学の態度は、たえず無偏なものをうけ入れる仕度をしてゐる。いはば虚しさの裡にあふれた待つことの充溢であり、虚空にふりそそぐ美酒を待ち設けてさし出された盃であり、神々の饗宴にそなへた純白な卓布のやうでもある。それはまた今のやうな雑然たる時代との対照に於て、リルケが羅馬の或る庭園で見たあのふしぎなアネモネの花を思はせるものがある。 — 三島由紀夫「『夜のさいころ』などについて」 高見順は、『母の初恋』に感動し、雪子が溝の縁を歩く姿が「永く心に残ったものだ」と述べ、『夜のさいころ』も心にしみ、「さいころを降る踊子が忘れられないものに成りそうだ」としながら、そこには、『伊豆の踊子』とは違ったニュアンスがあり、川端の浅草の踊子物の中で、特に気に入ったものの一つとなったと評している。また『年の暮』については、気持ちを楽にした仕事とは違う「にがい」「からい」小説だと評し、主人公・泉太が娘の声を聞き、〈ああ〉と思い、その思いを〈説明しにくかつた〉と言う個所が、川端の小説を読んで「ああ」と感じ、その思いを解説しにくいことと共通し、また、泉太が娘の声を久しぶりに聞き、〈ぱつと花が開いたかのやうに〉感じて驚く個所は、川端の小説から与えられる「喜ばしい驚き」と同じような感覚だと解説しながら、泉太の中には、川端の「一種の自己批評のようなもの」あり、小説自体の中に解説が含まれているとも言えると高見は指摘している。 森本穫は、伊藤初代との再会という川端の実体験が作品成立の経緯となっている点から鑑みて、初代の突然の婚約破棄で、「不可解なままに愛を喪った」川端だったが、「その真剣な思慕は、ちゃんと初代に通じていた」とし、「康成の愛は初代によって思い出され、次第に大切な思い出となって、苦境にある初代の心の支えとなった」と考察しながら、初々しさや美しさが失われた初代との再会に「美神」の像は崩壊し、川端の内部から「伊藤初代」は去ってしまったが、その娘から愛されたいという願望が、『母の初恋』を生んだとして、以下のように解説している。 康成のなかに回復した伊藤初代という〈美神〉は、いったん崩壊しても、そのままでは終わらなかったのである。康成の内部に、痛切な希求として生きつづけ、ひそかに成長しつづけた。それが母の愛が娘のなかに生きつづけるという発想につながったのである。別れたのちも想いつづけてくれた初代の愛は、娘に受け継がれるという思いがけないかたちで、ふたたび蘇ったのだ。〈美神〉の誕生――「母の初恋」は、そのような康成の悲痛なまでのねがいが成就された作品なのである。 — 森本穫「魔界の住人 川端康成 第三章 恋の墓標と〈美神〉の蘇生――自己確立へ」 そして森本は、川端が『母の初恋』を具体化していた時期は、従兄・黒田秀孝の三女の政子を養女として引き取ることを考えていた時期で、それが作品に影響しているとして、「政子を養女として引き取ることによって、康成は、かつての伊藤初代に代わる、新しい〈美神〉を獲得したのではないか」とし、川端が先験的に愛情を傾ける少女に共通する要素として、「いずれも市民社会での定着した生活的基盤を持っていなかったこと」、「寄る辺の少ない身の上であったこと」を挙げている田中保隆の論を敷衍しながら、政子をモデルにした『故園』の少女・民子(5歳で実の父と別れ、母子家庭で育った病弱な少女)が、「(川端と)血縁の少女だが、伊藤初代や踊子と共通する〈寄る辺の少ない身の上〉の少女」であり、川端が『伊豆の踊子』の薫から寄せられた無償の愛、無心な好意の共通性が、『故園』の「民子」にもあることを指摘し、その名前の点からも、「『母の初恋』は、まるで『故園』の少女との邂逅を予期したかのような作品」だと論考している。
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作品評価・研究
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『ある心の風景』は、それまでの『檸檬』に見られたように、創造力により現実を変貌させるものとして対象(レモン)と関わっていたのとは異なり、見つめる対象(風景など)との交感や融合により心が解放されるという受動的なものに変化しており、苦悩を凝視する作家的な眼や、後継作品群に連なる自我分離のテーマや死の意識の萌芽が見られる転換的な意味を持つ作品として位置づけられている。また、作中の「視ること、それはもうなにかなのだ。…」から始まる「存在と認識の交換」「内部と外部の相互滲透」的な感覚体験を顕著に示している一節は梶井論でよく引かれるが、『ある心の風景』もこの感覚体験を中心に論じられることが多い。 『ある心の風景』は初出当時も『青空』同人の間で非常に評判がよく、それまで基次郎の作品に辛かった友人の中谷孝雄も絶賛し、外村茂も「苦悩を凝視して動ぜぬ作家の眼と精神ができている」と評している。中谷はその後にも、「頽廃の生活を描いて秋天のやうに澄み切つた傑作」だとしている。 これは素晴らしい作品である。私たちは、ここまで来て、作者の背丈がぐつと伸びたことに打たれるのである。ゆるぎない芸術家の姿がここにはある。これまでの彼の作品には、妙に作者が力んでゐるところが眼についた。ここが見せ場ですよと、見得を切つてゐるやうなところがあつた。(中略)すべてそうした欠点がこの作品に於いては見事に超克され、作者の人工を絶した天造の傑作となつてゐる。 — 中谷孝雄「梶井基次郎」 井上良雄は、第4章で顕著な、見つめる対象と一体化し眺める一切の風景が〈心の風景〉となる基次郎の「稀有な」特性について、「対象を見るとは、対象の中に生きること以外ではない」とし、その「原始人の様に感覚だけで世界と交渉する」あり方に、「自我と世界との分離」という「近代知性の苦悶と敗北」を乗り超える活路を見出し、「(梶井)氏の憂鬱とは原始人の憂鬱に他ならない」と考察している。 恐らく原始人だけがこの様な風景を知つてゐた。石の中にも、樹の中にも、己の中と同じ酔うに蠢いてゐる精霊を感じて、それと闘ひ、怖れ、火を焚いて祈つた、あの原始人だけがこの様な感覚の初発性を持つてゐた。(中略)近代人にあつては観察とは常に飽くことのない自己意識を意味した。不安と焦燥がいつもそこから生れて来る。併し梶井氏にあつては、見るとは常に完全な自己喪失である。意識は対象の中へ吸ひ取られてしまふ。自分が死んで対象が生きて来る。 — 井上良雄「新刊『檸檬』」 さらに井上は、『ある心の風景』の〈視る〉行為、「自己喪失」の状態と連なる『ある崖上の感情』での主人公の見る行為、〈恍惚〉の心の状態に触れて、「事実梶井氏にとつては、見ること――己れを放棄して対象の中に更生すること、これ丈が唯一つの生き生きした生き方であつて、これ以外の生き方は、ただ〈見ること〉に還元されてはじめて光彩を放つことが出来るのだ」とも解説している。 ちなみに、この井上の評(詩と散文 1931年6月号に掲載)を読んだ基次郎は非常に注目し、〈この人は僕がながい間自覚しようとして自覚出来なかつたことを剔出してはつきりさせてくれた。僕の観照の仕方に「対象の中へ自己を再生さす」といふ言葉を与へてくれただけでも、僕は非常に有難いことだつた〉と少し言葉を変えて北川冬彦に語っている。 越前実は、井上良雄の見解の「自分が死んで対象が生きて来る」という表現よりも、基次郎本人が井上に共鳴しつつ自身の感覚を〈対象のなかへ自已を再生さす〉と言い表している方が的を射ているとして、基次郎もまた病める近代人であり、安東次男が梶井論で指摘したように、近代の倦怠を味わった者が持つ「物質の不可浸性を無視する」態度を基次郎も持っていたとし、「梶井にとって、殆ど唯一の休息と呼べる時間は、対象に入り込んでいて、対象と一如になってしまう、ほんの短い時間だった」と考察している。 病んだ自己は、その心のはけ口を求めて、対象へと突入して行き、観念が対象に充溢した時、始めて動きをとめる。そこでは、落ちつきと静譜が支配しており、憂うつが、「ある距り」をもって眺められるのである。その時やっと、梶井は、自已を取り戻す。そうした一連の動きは、神秘的と言ってもよい。だからこそ、梶井は、自己の動乱する心を、どうしても言表したかった。しかし、神秘的な心の様相を言語化することは難しい。梶井は、「心の裡のなにか」としか言えないし、「視ることそれはもうなにかなのだ」と言い、「自分の魂の一部分或いは,全部がそれに乗り移ることなのだ。」と言ってはみるが、この対象との不可思議な合体を、十分に言い尽くせない思いをしているだろう。ただ、梶井にとって、確実なのは、「ある距り」を置くことのできる心が、平隠さを取り戻し、憂うつから解き放たれているということである。 — 越前実「梶井基次郎研究(1):『檸檬』『城のある町にて』『ある心の風景』」 谷彰は、作中の夢に見られる母親に対する基次郎の深層意識について、八木恵子が指摘した母子関係の見解を敷衍し、「夢の中での母親は、加害者であると同時に治療者でもある、という二面性をもって喬の前に現れている」という特性から、基次郎の三高時代の「デカダンス」の要因の根幹に厳格で抑圧的であった母親に対する背反意識があったのではないかとして、基次郎の放蕩は「母権からの離脱」であり、その意味で母親は基次郎を「デカダンスへと追いやった加害者」であったとしている。 しかしその放蕩生活で神経衰弱に陥ってしまった基次郎が、「心身を癒やしてくれる、治療者である母親像」を求めていたことが諸所の習作で散見でき、その両方の母親像が象徴的に現れているのが『ある心の風景』の夢の描写だと谷は解説している。また、母の治療でも不安が解消されないのは、その根本が〈女を買ふ〉という母への裏切り行為であるためだとし、その裏切りは喬自身の「自己の無垢なる精神に対する、堕落した肉体の裏切り」でもあり、「精神の純粋性という一つの自我の拠点」が奪われたことをも意味するとしながら、さらにそこから喬(基次郎)が「精神と肉体の分離」「自然との一体化」によりカタルシスを得ていく内発性を谷は考察している。 母権に背反する行為により母から自立した青年は、現実の苦難に堪えかねて母胎回帰を夢みても、幼児期のような完全な母との一体化は望み得ない。そういう青年期における母子関係を、喬の性病という設定は、最も端的に浮び上らせる効果を有している。喬の病鬱の淵源に、このような青年期特有の、孤独で不安定な心理があることを見過ごしてはなるまい。(中略)喬の感じている〈堪らない自己嫌悪〉とは、倫理意識を核とする自己同一性を喪失した、自我の不安定さの謂に他ならない。(中略)そのような喬が選ぶべく残された唯一の手段は、精神と肉体の分離を図り、堕落を刻印された肉体を自己から排除することによって、精神の無垢性を回復させることである。 — 谷彰「梶井基次郎『ある心の風景』論――光と影のせめぎ合い」 そして谷は、朝鮮の鈴によってカタルシスが最高潮に達した第5章で終わらず、終章で〈一点の燐光〉に象徴される〈私の病んでゐる生き物〉が現実として直視され、カタルシスが相対化されている点を重視し、この時期の基次郎が自身の病(結核)の背後に「死」を強く意識し始めた背景を鑑みながら、病という「明確な存在」に意識が注がれている『ある心の風景』を、「青年期の精神病理から〈死〉の意識へと、梶井の危機的現実認識が移行していく、過渡期的作品の一つ」として位置づけ、〈えたいの知れない不安な塊〉を見つめていた『檸檬』の流れからの一つの「ターニングポイント」になっていると解説している。 「病い」は、もう決して〈えたいの知れない〉存在などではなく、〈死〉という絶望的な闇へと通じる、過酷なほど明瞭な現実として、梶井の目に映ったと考えられるのである。「ある心の風景」以後、梶井が、魂は昇天するが肉体は水死するという霊肉分離の極限を描いた「Kの昇天」や、〈死〉を直視せざるを得ない絶望感を全面に出した「冬の日」等の作品で、死に対する傾斜を深めていることが、そのことを物語っている。(中略)「ある心の風景」から立ちのぼってくる〈死〉の気配は、また微かなものに過ぎないが、それは、湯ヶ島時代に梶井が発見する絶望的な闇の深さに、確かに通じるものだと言えるのである。 — 谷彰「梶井基次郎『ある心の風景』論――光と影のせめぎ合い」 高橋英夫は、梶井文学に感じる「暗さの明るさ」「明るさの暗さ」という「両義性」について、「両義的というにしては、痛切にある一つのものを目ざし、一つのものに届いている」気がするとし、基次郎が「両義的であるようでいて、唯一なるもの」に達していたことが示されている代表的な箇所が、『ある心の風景』の〈視ること、それはもうなにかなのだ。…〉から始まるモノローグだとし、その「内部と外部の一致」「存在と認識の交換」的な不思議な感覚がもたらされる時、主人公(基次郎)にはそれが「歓喜なのか苦悩なのか」、「自分が暗いのか明るいのか」を「見届けきれないような場所にいま立っている」と思うしかなかったろうと考察している。 強いていうならば、それは梶井が青春とか病気とかに捉われた人間であったことによって、日ざしとか雲とか木立などのものの世界を発見し、心とか感情とか感覚となって揺れ動いている自己というものをも発見したということを意味していた。捉われたことにおいて不幸であり、発見において至福を得るという経験を、短命を予知してであろうか、ほとんど瞬時のうちに同時に実現してしまった痕跡が、いたるところから読み取れる。 — 高橋英夫「存在の一元性を凝視する」 そして高橋は、基次郎が実現していた「存在と人間との一元化」(既成の神の観念や思想とは関係なく、感性や意識内部から起きている)に、「五官が溶かされて融合し、一つの透明な感性の祝祭を導き出している」ようなもの、「視覚と聴覚の渾然一体への希求」を感じるとして、『ある心の風景』の梶井文学における意味について以下のように解説している。 それらは超越的な状態への夢および実現を意味してもいたが、それと共に人間的には深い危機の底に近づいてゆくことでもあったかもしれない。「ある心の風景」以後、この危機の兆しが顕著になっていったことは、「筧の話」「蒼穹」といった伊豆湯ヶ島を題材にした小品にも、幻聴と自意識を追求した「器楽的幻覚」や、透視と想像力の作品「桜の樹の下には」にも見出される。あるいはロマネスクな情景を遠景の窓の中に発見してゆく「ある崖上の感情」にしてもそういうものの一つだと思う。 — 高橋英夫「存在の一元性を凝視する」 柏倉康夫は、『ある心の風景』で基次郎が描こうとした主眼は、いつの間にか身についていた〈凝視る〉という自身の習慣の意味を問うことにあったとし、「間然するところのない精緻な文章」により「情景と心の動き」が描き出され、〈見る〉という行為からもたらされる「至福の瞬間、その歓び」が物語られていると解説し、『城のある町にて』で城跡から景色を眺める主人公の感慨や、「澄んだ音が主人公の波立つ心を鎮める」という同質性についても指摘している。 喬は周囲の景物に自己を投射し、情景は喬の内面の投影となり、二つは混然として一つの風景をつくりだす。(中略)しかもこうした心の状態にあっては、自分を眺めるもう一つの視線がうまれる。内的な距離をもって自己をみつめる眼差しによって、心は穏やかさをとりもどすのである。(中略)「夾竹桃はそのまま彼の憂鬱であつた」とは、見る主体と見られる対象の真の合一状態の表現なのである。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」 また柏倉は、第5章で、コロコロと鳴る朝鮮の鈴の〈美しい枯れた音〉により救済の予感を得て心を鎮めた喬が、〈とことはの過ぎゆく者〉と自身を感じるのは、「己を眺める余裕」を取り戻したからだとし、「この感慨こそ梶井が好んで用いる〈旅情〉にほかならない」と解説している。そして最後の第6章での〈青い燐光を燃しながら〉、喬の眠った後も起きているものについては、「闇の中にやがて消えてゆく自我(睡眠あるいは死までを予感させる)と、いつまでも目覚めていて、そうした自分を眺めているもう一つの自我の分離を語っている」として、その「自我の分裂」が後の梶井文学の主要テーマとして発展することを見て、『ある心の風景』を「まちがいなく一つの頂点を画す作品」だと位置づけている。
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作品評価・研究
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『ある崖上の感情』は、『冬の日』から『冬の蠅』までの作品に散見される絶望的で苛烈なニュアンスから比べると、俯瞰的な穏やかな心境で見ていく姿勢に変化しているため、その後の作品に繋がる新たな一つの転機が見られるものとして位置づけられている。また元『青空』同人以外の井伏鱒二や舟橋聖一などからも注目され、その界隈での存在感が強まった作品でもある。 井伏鱒二は風の噂で、「梶井基次郎といふ素敵なやつがゐる」という話を聞き、その後『文藝都市』の同人となった際に、そこに掲載された基次郎の『ある崖上の感情』を初めて読んで、「なるほど梶井は噂にたがはぬやつに違ひない」と確信するほどこの作品に感銘している。その時に同人の崎山猷逸も、「夜霧のことなんか書いてなくつても、夜霧が書けてゐるんだ」と喩えて高評していた。 そして、その号の『文藝都市』の同人合評会の意見の中で、「生活が書けていない」「イデオロギイの洗礼を受けてない」などという否定的な評もあったが、浅見淵が、「無論それは梶井君の作品の醍醐味を認めた上での慾だらう」と執りなしたという。ちなみに、それらの批評を聞いていた基次郎の様子について井伏は、「梶井君はむつとしてゐるやうに見え、あるひは超然としてゐるやうにも見え、ほんの一言、何かちよつと発言した」と振り返っている。 舟橋聖一も、作中の〈空の空なる恍惚万歳〉を引用しながら激賞し、淀野隆三は、「抑制された瑞々しいエロティシズムを感じさせる作品」だと好評している。 井上良雄は、他人のベッドシーンを実際に見ることよりも、〈心を集めてそこを見てゐる〉状態に恍惚となる生島が、何の刺激もない己の性交に、その陶酔感を加えるため崖上に二重人格の空想の自身を立たせ、その二重人格に己のベッドシーンを見させるというメカニズム(「自己喪失の状態」「自我の世界とが一如になつた状態」)を作ることについて考察し、「事実梶井氏にとつては、見ること――己れを放棄して対象の中に更生すること、これ丈が唯一つの生き生きした生き方であつて、これ以外の生き方は、ただ〈見ること〉に還元されてはじめて光彩を放つことが出来るのだ」と解説している。 小林秀雄は、「『ある崖上の感情』で生と死の感情が果敢に結びつけられて表現されてゐる様に、梶井氏の暗鬱は明朗から直接に流れ出たものである」と評し、エピローグの〈ある意力ある無常感〉という言葉にも着目している。 柏倉康夫は、エピローグで石田が達した〈ある意力ある無常感〉を、『冬の蠅』の最後で主人公が感じた「人間を超えたある力」と同質だとしながらも、その同じ「到達点」が異なる立ち位置から示されているとして、その意味を考察している。 「ある崖上の感情」は「冬の蠅」と同じ到達点を示している。ただ二つの作品が微妙に異なるのは、「ある崖上の感情」では、石田が性や死を含む人間の営みを俯瞰する崖の上に立っていることである。だがそうした場に立つことが、現実に生きていく人間にはたして許されるだろうか。それはいわば神の視座であって、人間は死ぬまで崖下の世界にとどまるように運命づけられているのではないのか。それとも梶井は病を得たおかげで、現実の世界から一歩抜け出す境地に踏み込んでいたというのであろうか。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」
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作品評価・研究
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『闇の絵巻』は、初出掲載時に新聞の文芸時評で高評され、基次郎の作品が公に文壇で認められた最初の作品といえるものである。三好達治からも、「天下の人が如何様に申そうともこの一編の名作なることは小生が太鼓判を押す」と励まされていたため、基次郎にとって自信と安心を得た作品でもある。文学史的にも評価が高い作品で、名作短編としてしばしばアンソロジーで取り上げられている。 川端康成は新聞欄の文芸時評において、舟橋聖一の『海のほくろ』や堀辰雄の『窓』、吉行エイスケの『新種族ノラ』の作品を論じた後、基次郎の『闇の絵巻』を取り上げ高評価している。 それから短いものでは、梶井基次郎氏の「闇の絵巻」(詩・現実)がこの前の「愛撫」に続いて、やはり深く澄んだ心境を見せてゐる。新興芸術派のお祭り騒ぎの底に、怪しい光りを放つ一個の眼である。彼の作品を見ると、私は厳かな寒気を感じる。 — 川端康成「芸術派作品を評す――新作家の作品」 大谷晃一は、前方の闇に消えていく1人の男の描写に触れ、この闇は「死」を意味しているとして、「その風景は死んで行く人間そのものの姿」を表現していると解説している。また、『闇の絵巻』が闘病の苦しみの中で書かれながらも、それは絶望そのものではなく、基次郎が「ゆとり」を持って回想しているとして、「悟りの境地を見つけたかのよう」に眺め描かれていると考察している。 菱山修三は、この男が登場する箇所で語り手が、〈自分も暫らくすればあの男のやうに闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立つて見てゐればやはりあんな風に消えてゆくのであらう〉という感慨を抱いていることについて、以下のように論じている。 まさしく氏はその肩の上に担つてゐるシメエルの顰め面を眺め返へしたことであらう。しかしそれを顧みたときでさへも、氏の眼の写したものは、氏自らの宿命を踏み越えた、悲哀の心情を絶した、美のきつい一つの表情であつた。人々は氏の精密な構造を備へた眼に常に愕くであらう。しかしなほ、愕くべきことはその先にあるのだ。そのいづれの精神的遺産に於いても、氏の眼がこのやうに必ず美の形態を捉へずに措かなかつたことを人々は愕くべきだ。(中略)屡々「諦め」に違い観想が氏の重い病苦の胸のなかを去来したに違ひない。けれどもその結果は必ず、もともと氏の肉体に深く根ざしてゐる強い意欲となつて還つて来た。(中略)氏は純粋に感性的作家であつた。と共に、怖るべき意欲的作家であつた。まことに氏の如くに病苦と闘ひながら、いはゞその生の論理が一律の確信を以て貫かれてゐるのは稀有の場合であらう。 — 菱山修三 「再びこの人を見よ――故梶井基次郎氏」 佐々木基一は、「梶井のイメージの局限の形」を『闇の絵巻』にみることができるとし、「闇のなかで、彼の感受性は全開して、すべてを自らのうちに吸収し尽くそうとする」という特性を論じながら、「これほど闇の造型に熱中した作家、詩人が、かつてあったろうか」と述べ、『闇の絵巻』の冒頭部で語られる〈裸足で薊を踏んづける〉という「絶望の情熱」を美しいと評して、「梶井基次郎はたしかに、一匹の悪魔を背中に背負った作家であったにちがいない」としている。 鈴木二三雄は、湯ヶ島時代に眠れぬ夜を過ごし自殺まで考えていた基次郎の〈絶望への情熱〉を昇華させた「その結晶度の最高を示すもの」、「梶井文学の華麗な金字塔というべき傑作」と『闇の絵巻』を高評し、基次郎が3年前の湯ヶ島からの〈絶望への情熱〉を脱却し、「冷静な境地において過去の感動を昇華し凝縮して,絢欄たる絵巻となした」作品だと考察している。 鈴木沙那美は、『闇の絵巻』において基次郎が、「闇に身をまかせ、闇の溶け入ろうとする濁りのない情念を、闇の道を歩いていくときの透明な緊張感を、回想する形式の下にゆったりとした語り口で」綴っていると解説している。 柏倉康夫は、『闇の絵巻』で「梶井の闇の体験」が「不安と安息のあいだを振れ動く」とし、電燈の光をシンバルの音に喩え、石をぶつけ〈芳烈な柚の匂ひ〉を嗅ぐなど、語り手が「暗闇のなかで研ぎ澄まされた視覚、聴覚、嗅覚を総動員して闇の実態をつかもうと」していると解説している。また、基次郎が実際の湯ヶ島の街道の距離を約半分の長さに縮めたことで、「闇の中の灯りや瀬音や匂い、それらに連れて変化する心の状態を、緊迫感をもって描いた」と評している。 そして柏倉は、『蒼穹』でも描かれている光から闇に消えていく前景の男の挿話に対する語り手(基次郎)の心境の微妙な差異に触れて、〈深い悲しみに似た感情が私を突刺した〉、〈彼の肉体が喪失してしまつたのではないか〉と記されている草稿の第1稿では、〈闇〉は「死と同義語」として捉えられ、語り手が「この光景から死を予感している」とし、そこから〈云ひ知れぬ恐怖と情熱を覚えた〉となる『蒼穹』本文では、「自己の消滅から恐怖とともにある種の情熱を感じている」と解説しながら、『闇の絵巻』ではそれが、〈一種異様な感動〉となることを、「この感情には一種の諦念がこめられており、それは安らぎに通じるものである」と考察している。 横山明弘は、『冬の蝿』や『蒼穹』では、〈絶望に駆られた情熱〉〈闇への情熱〉が主題となっているのに比し、『闇の絵巻』ではそれが退いているが、『冬の蝿』や『蒼穹』の〈死〉や〈絶望〉、〈不安〉や〈恐怖〉の感情はまだ払拭されてはいないとし、〈安堵〉や〈安息〉との間を交錯しているものと考察している。 この作品の教材的価値は,死がすでに予定として組み込まれてしまった人問の心情理解にあると言える。死に対する〈恐怖〉と、死ねば楽になり〈安息〉が得られるという〈諦念〉と〈慰撫〉、それらの交錆する微細な心情を、表面上闇への心情として象徴的に描き出している。われわれ読者は闇の美しさに魅了されながら、作者の深刻な内面に触れざるを得ないのである。 — 横山明弘「『闇の絵巻』の教材分析」 飯島正や浅野晃は、『城のある町にて』の描写法と同様に、『闇の絵巻』にも映画的なカメラアングル(角度を変えて移動、ズームで近づく)が見られると評している。 五十嵐誠毅は、黒々とした山の中腹にある電燈の閃光に対して感じた視覚的な〈恐怖〉の印象を、聴覚的な比喩で表現している〈バアーンとシンバルを叩いたやうな〉という箇所について、「共感覚的な換位性」と呼んで解説している。
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『癩王のテラス』は三島の主題が、より色濃く示されている最後の戯曲として重要な作品であり、エキゾチックで華やかな戯曲として評価も悪くないが、それにもかかわらず本格的な論究があまりされていない向きがある。 当時の反響としては、「華麗で異様な物語」、「不滅の青春に対する作者のかぎりないあこがれがせつないほどにあふれた格調高い娯楽作品」といった新聞評をはじめ、奥野健男、戸板康二、磯田光一などが好評し、磯田は、同時代の政治的な暗喩を読むことも可能な「〈自己否定〉の宿命を負うた人間の、極限的なドラマ」と解説している。 佐藤秀明は、病魔に冒された王の寺院建立は、「芸術家が自己の存在を賭けて作品を作るのとアナロジカルな関係にある」とし、しかしながらバイヨン建設を企図した「精神」が死んで、完成したバイヨンとしての「永遠の肉体」が不死を誇るという、死期を迎えた王の前に「健康な若者の王」が出現するラストシーンに、その逆説的関係が生かされていると解説している。 辻井喬は、『癩王のテラス』の中の以下のような台詞の言葉には、三島自身の戦後の心境(生き残ってしまった青年としての自分の思い、戦争で死んだ同世代の兵士たちへの鎮魂)が述べられていると考察している。 「今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう」 —三島由紀夫「癩王のテラス」 なお、三島は自死の前に恩師の清水文雄宛てに送った最後の書簡で、執筆中のライフワーク『豊饒の海』を〈小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならない〉とし、この小説をバイヨンに喩えながら、以下のように語っている。 カンボジアのバイヨン寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、一ト並べにされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。 — 三島由紀夫「清水文雄宛て書簡」(昭和45年11月17日付) 松本徹は、『癩王のテラス』には、「芸術家たるものは滅びるより外はないのだということ」が示されながらも、その〈肉体〉の永遠には「唯識論」が踏まえられているとし、〈肉体〉の一刹那の強調には、三島の「敗戦前の日々の生々しい記憶」への関連があると考察している。 小埜裕二は、三島が〈自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩〉と言った〈滅び〉に、どういった意味を読み取るかが論究の主眼になるとしながら、その〈滅び〉は「宿命であり、栄光でもあったのではないか」とし、「三島にとってのバイヨンである〈作品〉は、若々しい肉体の美を理想として象られていったものであり、生身の肉体の滅びと引き換えに理想の〈肉体〉は現実のものとなるのである」と解説している。
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『檸檬』は、梶井の代表作というだけでなく、日本文学の傑作、名品として多くの作家たちに高く評価されているが、同人雑誌初出の当初は注目されておらず、6年後に単行本化され、井上良雄や、その翌年小林秀雄が『檸檬』を本格的に論じて高く評価してから、梶井が文壇に認められるきっかけとなった。 小林秀雄は、『檸檬』は「(梶井の)観念的焦燥の追求する単純性や自然性の象徴ではない」とし、それは、むしろ梶井自身の「資質」だと指摘しながら、梶井という作家は「観念上空疎な過剰や、苛立たしい飛躍を全く知らぬ。或ひは必要とせぬ作家」であり、その「焦燥」は、「知的といふよりも鋭敏な感受性が強ひられた一種の胸苦しさ」だと表現して以下のように評している。 これは言ふまでもなく近代知識人の頽廃、或ひは衰弱の表現であるが(尤も今日頽廃或ひは衰弱の苦い味をなめた事のない似而非(エセ)知的作家の充満を、私は一層頽廃或ひは衰弱的現象であると考へてゐる)、この小説の味はいには何等頽廃衰弱を思はせるものがない。切迫した心情が童話の様な生々とした風味をたたへてゐる。頽廃に通有する誇示もない。衰弱の陥り易い虚飾もない。飽くまでも自然であり平常である。読者はこの小話で「檸檬」の発見を語られ、作者が古くからもつてゐた「檸檬」を感ずる、或ひは作者がいつまでも失ふまいと思はれる古くならない「檸檬」を感ずる。 — 小林秀雄「梶井基次郎と嘉村礒多」 『檸檬』は主人公のおかれている境遇や性格描写などが省かれ、ただ感覚世界だけを描き出しているが、鈴木貞美はこれについて、梶井が習作『瀬山の話』で「自身の内面の全体を定着しようとする試みに挫折」し、『檸檬』において「束の間の精神の愉悦をリアルに再構成する方法を選びとったとき、梶井基次郎の世界の礎石が築かれた」と考察しながら、鬱屈した心の状態で一個のレモンに出会ったときの梶井の「感覚のよろこび」について以下のように解説している。 そこに、たかだか一個のレモンを、この世のすべての「善いもの」「美しいもの」に匹敵すると感じる倒錯した心理が浮き彫りになる。そして梶井は、レモンを爆弾に見立てることに、自分を圧迫する現実を破砕してしまいたいという夢を刻みつけた。(中略)この感覚的経験の再構成というある意味では全く素朴な方法は、近代の小説の意匠からは遠く、それゆえにこそ彼は作品に固有の形態を与えるための独自な模索を続けてゆくことになるのである。 — 鈴木貞美「檸檬を書く」 三島由紀夫は、中島敦、牧野信一と共に梶井基次郎を、「夜空に尾を引いて没した星のやうに、純粋な、コンパクトな、硬い、個性的独創的な、それ自体十分一ヶの小宇宙を成し得る作品群を残した」作家と位置づけ、「梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路になりうる」とし、梶井は「感覚的なものと知的なものとを綜合する稀れな詩人的文体を創始した」と考察している。 そして三島は『檸檬』を日本の短編の最高のものとし、「一個のレモンが読者の眼の前に放り出されたような、鮮やかな感覚的印象をもって終わる作品」と解説し、『檸檬』に代表される梶井文学について、以下のように評している。 デカダンスの詩と古典の端正との稀な結合、熱つぽい額と冷たい檸檬との絶妙な取り合はせであつて、その肉感的な理智の結晶ともいふべき作品は、いつまでも新鮮さを保ち、おそらく現代の粗雑な小説の中に置いたら、その新らしさと高貴によつて、ほかの現代文学を忽ち古ぼけた情ないものに見せるであらう。 — 三島由紀夫「新らしさと高貴(推薦文)」 石井和夫は、『檸檬』の原型の『瀬山の話』の中に、「ポオの耳へ十三時を打つて聞かせたのもおそらくはこの輩の悪戯ではなかつたろうか」という一文があることから、『瀬山の話』の挿話「檸檬」と、『檸檬』が、エドガー・アラン・ポーの『鐘楼の悪魔』(悪魔が正午に13時の鐘を鳴らし、美しい町を破壊する話)のモチーフから発想されたのではないかと考察し、そのモチーフが、美しい金閣寺を放火してしまう三島由紀夫の『金閣寺』にも通底していることを指摘しながら、三島が梶井を「日本には稀少、美が常に否定形によってアナーキーに描かれねばならぬことを先験的に知る」先駆者と見ていたゆえに、梶井を高く評価していたのだと解説している。
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『純白の夜』は、単なる女性雑誌向けの娯楽小説ではなく、主人公の男女の「心理の分析と彫琢」によって「古典的心理小説」とも言えると小坂部元秀は評し、「とくに最後の破局へのヤマ場のつくり方と結末のシニシズムに注目したい」と解説している。 蘆原英了は、『クレーヴの奥方』から『ドルジェル伯の舞踏会』に至るフランス心理小説の流れを『純白の夜』は明確にくんでいるとし、チボオデのいう「心理のロマネスク」を扱った作品であると解説している。また題名は、フランス語の「ラ・ニュイ・ブランシュ」から思いついたのではないかとしながら、「白夜」の意味は「眠れぬ夜」だと説明し、「これはこの小説の最後の部分の、郁子のそれを現しているのであろうと忖度する」と述べている。 小池真理子は、「いかに天賦の才に恵まれていた作家とはいえ、わずか二十五歳の若さで、かくも緻密で完璧な恋愛心理小説を書くことができるものだろうか」と驚嘆し、不倫などの男女の愛憎といった「卑俗」な題材が、一旦三島という作家の手にかかると、その「華麗な文章」で「美しい悲劇」に仕立てられ、「軽蔑すべき卑俗の中に隠されていた気高い真実を見せつけられる」とし、三島はバルザック以上に、「卑俗なものを悲劇に高め続けた」作家だと考察している。 そして、その心理描写の「緻密で完璧」な表現力を、「怪物的才能」と小池は評しながら、夫を裏切っていないと言い訳しながらも楠に惹かれていく郁子と、郁子ほどの美しい女を諦めるのは「神に対する冒涜」だと考える楠の心理を描く三島の表現方法を以下のように解説している。 三島由紀夫は、優雅な手さばきで、男と女の、それぞれの魂の外科手術を行ってみせる。メスで正確に切り開かれた魂の断面が見えてくる。作品の中に、言葉と化した血じぶきが飛び散る。それらの表現の、何と美しく、明晰であることか。 — 小池真理子「解説」 村松剛は、ヒロイン「郁子」の名前にまつわるものとして、三島が短編『罪びと』では、リヤカーで荷物運搬中に飲んだ水が原因でチフスで亡くなるミッション・スクールの女学生「郁子」(IKUKO)を妹・美津子(MITSUKO)をモデルにし、その「郁子」が、主人公の青年の許婚という設定となっていることと、「郁子」に水を飲むことを勧めた同級生が、主人公と夏休みに避暑地であやまちを犯したという設定で、三島と軽井沢で接吻をした三谷邦子(KUNIKO)(『仮面の告白』の園子)がモデルとなっていることを考察しつつ、戯曲『熱帯樹』では、兄と心中する妹が「郁子」という名前で、『純白の夜』では人妻の「郁子」で登場することから、「妹の死」と「失恋」という2つの主題が、これらの作品群では混ぜ合わされていると解説している。
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『宴のあと』は三島作品の中では比較的、主題が分かりやすく、「社会的現実」を直接的に文学作品に取り入れている作品である。発表当時の評価も総じて高く、臼井吉見、平野謙、河上徹太郎、中村光夫らから推奨された。 佐藤秀明は『宴のあと』について、保守政治家の選挙のやり口を熟知しているヒロインかづが、「無骨な正義漢」の夫のために選挙違反もやり、「火の玉のような応援」に邁進するという、そういったかづの愛情や情熱の方が、「戦後の政治的理想主義」よりも、現実の政治を動かすという主題となっているとし、「現実の濁り」が描かれていて、そこが作品の魅力だと解説している。 西尾幹二は『宴のあと』の主題の「明晰」さと堅牢な構成力を指摘し、「〈知識人〉の空想的な理想より、〈民衆〉の生命力に富む現実感覚の方がより政治的であったという皮肉」が描かれていると考察しながら、作者・三島は「政治世界」を垣間見て、日本に「西洋風に様式化された政治現実」が欠けていることを意識し、「日本の非政治的風土を正確に観察している」と解説している。また、登場人物2人の「組合せの妙」や、「はてしなく行動しないではいられない〈活力の孤独〉を知っている」ヒロインかづの魅力のある人物造形、〈墓〉などの「いくつかの鍵となるモチーフ」が作品に厚みを加え、それらが重なり、「〈宴〉が終ったことの莫たる巨大な空白」が象徴的に表現されているとし、芸術的完成度の高い作品だと評価している。 ドナルド・キーンは、小説としての『宴のあと』の価値を、「有名人をめぐるゴシップの面白さとは無関係」とし、以下のように評している。 三島は素材を巧みに用いて面白い小説を創出し、なかんずく雪後庵の女将、福沢かづという立体性ある人物をつくるのに成功した。この小説により、三島は19世紀フランス小説の手法で書くことのできる能力を実証したと言える。かづは、バルザックの中に登場しても場違いでない人物である。近現代の日本文学の中に3次元のふくらみを持った人物がいかに少ないかを思うとき、これは刮目するに足る現象であろう。 — ドナルド・キーン「私の好きな三島作品」 野口武彦は、脇役の選挙参謀の山崎素一が三島の性格にもっとも近く、「政治的ロマン主義者」の人物だとし、政治に附随する〈激しい喜怒哀楽〉や〈本物の灼熱〉〈政治特有の熱さ〉を好む山崎に重なる三島の「政治的イロニー(皮肉)」を考察し、政治家のやることを〈芸者のやるやうなこと〉、〈政治と情事とは瓜二つだつた〉という一種の侮蔑を帯びた「寝業」的な考えを持つ福沢かづと山崎素一の認識が、「その対極としてテロリズムの肯定につながる純粋心情主義を生み出すことになる」とし、三島が林房雄との対談で発していた〈本来、政治と芸術といふのは同じ泉から出てゐるのではないか〉という認識も、精神が「政治の次元そのもの」から乖離・遊離し、それは「政治」が「現実の人間とその社会を素材にして制作される芸術」であるという認識だと解説している。 そして野口は、『宴のあと』で描かれる〈理想主義の終焉〉、〈虚しい理想の巨大な廻り燈籠〉が、三島の終戦体験から胚胎しているものであると同時に、その〈終焉〉絵図が、「三島氏がその内部で十五年間遍塞してきた戦後世界を領導していた諸理想の終末の画面として描いたもの」であり、その「斜陽と寂寥の基本色調」が、一種の〈宴〉だった安保闘争で敗北感を抱いた者たちの「内面に浮かび出た心象風景」と酷似するとしながら、『宴のあと』の寂寥感とイロニーが、後継作品(『美しい星』『絹と明察』『英霊の聲』など)につながっていくことを論考している。 『宴のあと』をしめくくる山崎の手紙は、だから、一種ふてぶてしい三島氏の宣言の観さえ呈していないでもない。そしてこの確信の根底にあるものが、戦後の指導理念の崩壊、たとえば民主主義の形骸化やマルクス主義思想の保守化に、氏の持論たる「いつも日本では、アイロニカルな形で社会現象が起こつてゐる」という信念を重ね合わせた結果であることは疑いない。氏はいう。「いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、反動的な形態をとつたり、一見進歩的形態をとつてゐるものが、いちばん反動的なものである場合がある。」(『対談・日本人論』)そして、まさにそのような政治のイロニイの復活を三島氏は昭和三十五年の戦後史の断層のうちに発見したのである。果然、氏は新たな火山活動期を迎えたかのように活気づく。(中略)戦後のあらゆる時期の三島文学に地底からのように陰々と響いて来ていた「死」の形而上学、地謡のように低くおどろに呟かれていた世界破滅の頌歌は、いまや鼓声もするどくまじって高らかに謡いつつ舞うシテの口から吟じられはじめるのである。そして、このシテの面が、たとえば『英霊の聲』の主人公たちのそれのように、軍神あるいは死神の奇怪な恍惚の表情を刻んでいることはいうまでもないだろう。 — 野口武彦「三島由紀夫の世界」
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:04 UTC 版)
『交尾』は、前作の『闇の絵巻』に引き続き初出掲載当時から評判がよく、多くの作家から高評価された。今日でも名作短編としてアンソロジー収録で取り上げられることが多い。作品研究としては、他の梶井文学と同様に、見る者と、見られる対象との関係を軸にした論考が中心となっている。 菱山修三は、三好達治がきちんと座して『交尾』を読みながら、「比類のない美しい笑い方」をしていたのを見て、それを「神の笑い」と感じ、辻野久憲も『交尾』に感銘を受け、先輩の石田孝太郎宅を訪問した際に、これについて賞讃し合い、基次郎への尊敬の念が深まったという。 井伏鱒二は、永井龍男や今日出海から『交尾』を傑作だと勧められ早速読み、「実によかつた。水際だつてゐる」、「真に神わざの小説」と賞讃し、「河鹿の鳴く声や谷川の水音は私の骨髄に徹してまことに恍惚なる限りであつた。言葉では捕捉できない絶対の無限。かういふ快楽は煩悩具足のわれ等一生のうちに、さうたびたび感得できるものではない」と評している。 どんな具合にいゝかといふことは、僕は論理的に言へないやうだが、誰もとがめはしないだらう。「罪と罰」の作者は、ソーニャのことをあまり精密に書いてゐないが、ソーニャの純情が鮮明に表現されてゐる。どんな具合に純情が表現されてゐて、どんな具合にそれでもつて僕がうたれたかといふことを、僕は論理的に言へないのである。うたれさへすれば、僕は論理を棄てゝかゝる方がいゝ。こんな方法では邪道にはいる心配はないかどうかといへば、僕は平気だと答へる。かういふ一本調子の気持を、梶井君は更らに高揚された心持で「交尾」を書いたのであらうと思ふ。あの作品を書くには、腹に力をいれて机の前に坐り心臓に動悸をうたせながらでなくては書けないだらうと思はれる。梶井君は机にむかつてゐるとき、小刻みに息をしてゐるかどうかを告白してゐないだらうか? — 井伏鱒二「交尾」 大谷晃一は、「性は、生そのものとつながっている」として、「河鹿の交尾をながめる基次郎のなかに、幸福な結婚の夢を断たれようとしている青年の、性へのノスタルジアがある」と解説している。また、基次郎が1つの木立に1羽しか居ないという縄張り意識の強い瑠璃の鳴声に惹かれ、作中で〈ニシビラへ行けばニシビラの瑠璃、セコノタキへ来ればセコノタキの瑠璃〉と口ずさむ場面には、この時に世古の滝の「湯川屋」にいた基次郎が、西平の「湯本館」にいる川端康成から作品への反応がまだ何も得られていなかった時の微妙な気持が反映されているとして、敬愛する先輩だと川端を思いつつも「あの人はあの人、おれはおれだ」という深層心理が垣間見られると考察している。 藤村猛は、多くの論者が指摘されているように、〈私〉という人物が「(病気により)生から死へ移動させられる途中の旅人」として捉えることができるとし、「その一」では朽ちかけた破船の乗客のように港を眺め、その夜の世界は死と生が交錯していると解説している。そして、〈私〉と〈猫〉と〈夜警〉の3者間の関係について、〈私〉が〈涯しのない快楽〉を〈紡ぎ出すこと〉を可能にするために、夜警や猫の目に寄り添い、自身も夜警に「見られる」ことも半ば期待している節があるとして、「劇場化」による「見る」という行為の「重層化」が潜在し、「快楽は独奏からシンフォニーとなり、立体化して持続する」と考察している。 つまり、夜警が「猫」と「私」に見られ、かつ、「私」が夜警に乗り移ろうとすることにより、「彼・私」という同一化の幻想を紡ごうとするのである。これらの独特なメカニズムこそが、「交尾」「その一」の世界に底流する「死」と拮抗しつつ、「生(性)」の高みに到達しようとする「私」の有り様である。だが、それも夜警の杖の音により、猫たちが逃げ去って終わりになる。(中略)この「つまらなささうに」は夜警だけではあるまい。猫たちと夜警から与えられた幻想と快楽。「私」はその時、「生」を実感している。 — 藤村猛「梶井基次郎『交尾』論」 また藤村は、五十嵐誠毅が〈夜警〉の葬儀屋という職業から「死の代理人」のイメージを指摘したことを敷衍し、「死神」のイメージが垣間見える夜警と、「生」の象徴である猫たちとの対決に、「キリスト」(生と死の両方に介在する立場)の〈私〉という構図を見て、〈私〉がその対決に「ドラマ」を期待していたとして、前述の「劇場化による自己解放の快楽」の背後に、「キリストを想う〈私〉に訪れる生きることへの悲しみ」が複合的にあると考察している。そして「その二」の河鹿では、基次郎が淀野隆三への書簡で伝えていた〈グロテスク〉さが回避され、「自然との一体化」が計られ「新しい感動的な世界」が展開されているとしている。 「交尾」「その一」の「私」は、「キリスト」の如く人々の悲しみを背負おうとしつつ、猫の交尾や夜警の登場によって、想像を駆使して「生」を夢見て、自己を解放しようとする。これは「私」の秘やかな、未完の快楽である。「その二」では、太古の昔から繰り返された「生(愛)」の感動に自己の存在を変容させ、彼らの世界に自己を没入して同化し、時を超えて陶酔する。これは時間・場所を越えて、世界と共に味わう快楽である。 — 藤村猛「梶井基次郎『交尾』論」 柏倉康夫は、「その二」で、夜警が〈私〉に気づかずに立ち去ったことは、「〈私〉の存在を希薄なものにし、ついいましがた味わった生の恍惚をあやふやなものにしてしまう」としながらも、もしも夜警が〈私〉の存在に気づいたならば、〈私〉の「精神の高揚」は、「見られることで客体化され、その事実が保障される一方で、他人と分有されることで通俗的なものに堕す危険があった」としている。そして、そのいずれに〈私〉の気持ちが傾くかという命題は、遺稿となった「その三」において、鼈の交尾を見つめる〈私〉と、水槽の前に来る見物客への関心に移行する〈私〉の心の変化を描こうとしていることから、ここで基次郎はその命題を検証しようとしていたと考察している。
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作品評価・研究
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『抒情歌』は神秘的で難解とされ、早い時期から「死後の生存」といったことを考えていた川端の「死生観の集成」が見られる作品として着目され、主要作品として認知されている。また現世的な愛欲を「美」に昇華する方法が看取され、佐伯彰一はそれを、「人間くさい煩悩のかたちを美しく謳い上げるという能の戦略と相似形をなすもの」と解説している。 三島由紀夫は、『抒情歌』を「川端康成を論ずる人が再読三読しなければならぬ重要な作品」だとし、「清麗たぐひない」と高評しながら、「明治の女のきりりとした着附を思はせるやうな文体」によって描かれた「(川端の)つつましやかな独白」、切実な「童話」(最も純粋に語られた告白)であるとして、そこで語られる稀な「真昼の幻想」こそが本来的に日本の風土に深く根ざしたもので、小泉八雲が「東洋の希臘人」と呼ぶ「日本人のよき面」、「素朴にして豊かな情緒と包容力を兼ねそなえた真昼の精神」であるとしている。 そして、その精神では「理智も霊感も同じ白光のもとに照らし出され、凡ゆる悲劇が破滅と妥協のいづれにも与(くみ)しない超自然な健やかさを具へる」に至って、神秘がはじめて「本然の神秘そのものであること」が可能となっていると三島は考察している。 このユウトピア(その言葉)自身が一つの逆説であるかの物語は、抽象と壮大さを遥かに離れて微風のやうな悲しみに包まれ肉体のかげにひつそりと息づいてゐるやうだ。明らさまな心理の詩である前に、思ひふかい身の音楽である。ふと触れた琴が立てる天界の妙音にも似た気高い響きは、金属的な抽象化された心理の上には生れず、潔らかな身に守られて伝はるのだ。(中略)霊肉一致といふ痛ましい努力で追ひまはされた理想はかうした童話めいた明るさ豊かさの真昼の一刹那に、ふと叶へられてしまふものではなからうか。 — 三島由紀夫「川端氏の『抒情歌』について」 三枝康高は、『抒情歌』における「神秘的ともいうべき魂の呼応」は、すでに掌の小説の『心中』(1926年)で現われたものの再現であるとし、『浅草紅団』(1929年-1930年)のヒロイン弓子も、「死んだ姉の恋人をたずねて歩く不良少女」であった点を指摘しつつ、「川端のこの種の志向は、『抒情歌』の女主人公によっては、“汎神論”という言葉で言い表されている」と解説している。そしてそれを川端に即せば、「おそらくはフロイド心理学の深化であり、きわめて日本的な実存主義である」ともいえるとし、汎神論的な魂の呼応について論考している。 権海珠は『抒情歌』の進行について、その「経糸」は「心霊現象を中心」となり、その肉付けとしての「緯糸」は主に「レイモンドの霊界通信、仏教の説話、東西古今の神話、キリスト教の挿話などを中心」にして織り込まれているとし、その展開様式は「広くは心霊現象と万物一如が、狭くは愛欲と悟りが限り無い葛藤をする様式」になっていくと解説している。そしてヒロインの「私」は、「霊魂不滅と自他一如と輪廻転生の童話を自由連想と反復という方法」で語り、「非現実の世界の中で霞や雲などで何回も重ねて、そういう抒情の歌をほのぼのと謳い上げた」と作品要約している。 さらに権海珠は、ヒロイン竜枝は「仏教の因果応報と業による輪廻転生ではなく、仏教の以前のインドのヴェダ経による倫理的・宗教的色彩が払拭された、あるがままでよい転生」を願っているとして、そうした「東方の心」のアニミズムは、西方にもギリシア神話の花物語などの動植物への転生が多くあることを鑑みながら、竜枝は、「一休禅師の精霊祭の心や太古の民の汎神論を自分の死生観に受け入れていった」と解説している。そして、東洋・西洋のそういった「草木転生・国土転生・悉皆転生を通ずる万物一如の宇宙論的・汎神論的哲学観」を自分自身の死生観として受け入れた竜枝は、「夢の中の夢のような童話をほのぼのと読み上げ」、その「抒情詩」は、「原始的転生による万物一如の汎神論の死生観を吟じている」と権海珠は考察している。 今村潤子は、三島が『抒情歌』を川端の「切実な『童話』」「最も純粋に語られた告白」と論じたことを受け、川端が伊藤初代との失恋体験での「心情の本心」を『抒情歌』というフィクションの「仮面の下」で語っているとして、この作品は、三島の『仮面の告白』に相当すると考察している。そしてこれまでの伊藤初代を題材とした自伝作品(ちよもの)では、初代への「思慕や憧憬」が主であったが、『抒情歌』では、彼女への怨み・嫉妬などの「愛の呪い」が告白されているとし、主人公が輪廻転生に〈おとぎばなし〉を見出し救いを見つける意味が、作家の方法論に繋がっていることを解説している。 龍枝の「おとぎばなし」の発見は、「寂しさ」からの脱却のためであり、具体的には「火中の蓮華」、即ち、愛の煩悩を美に昇華する方法の発見であるが、そこに川端の作家としての自覚が告白されている。要するに、「おとぎばなし」を紡ぎ出すことが作家の仕事だという認識に到達したのである。これまでは自己の体験としての孤児や、失恋を素材に作品を構築することが多かった川端が、「抒情歌」においては「おとぎばなし」をこしらえ得たのである。即ち、個人的な素材から脱却し、失恋を観念的な愛の問題として扱い得たのである。 — 今村潤子「川端康成研究 第三章 『抒情歌』の意味」
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作品評価・研究
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「三島由紀夫レター教室」の記事における「作品評価・研究」の解説
『三島由紀夫レター教室』は、三島由紀夫の作品の中でも娯楽色の強い小説で特に深遠なテーマというものは見られないが、三島のエンターテイナーとしての才能が発揮されている作品である。 竹山雅子は、「極めてセキュリティの高いメディア」である手紙の特質が、物語内容の展開において生かされているとし、また、本音を隠して「駆け引き」「策略」を意図するトビ夫の手紙などを挙げつつ、「ある感情を伝える側面と、隠す側面の両方」を持つ手紙の特性に触れ、素直な感情を率直に伝えるトラ一の手紙よりも、「隠す側面」を持つ手紙の方がはるかに「読者にスリルと興奮を与え」るという点などを指摘しながら、「感情を伝える手紙には模範的な形式などないという、書簡文例集自体への批判として読むこともできる」と考察している。 群ようこは、大学生だった時の初読から『三島由紀夫レター教室』を「再読するたびに心にずしっとくる本」だとし、自分が氷ママ子の年齢に近づき、若い頃に恐れていたママ子の「中年のおばさんのいやらしさ」を自覚する歳になり、他人事ではなくなってきたと述べつつ、登場人物の男性たちのキャラクターが「単純な設定」なのに比し、女性たちは「なかなかの策略家」であることも指摘している。 そしてそれは、作者・三島が、世間の「鼻持ちならない多くの女性」に対して、「あなたたち女性という存在は、清純な乙女だろうが、裕福な中年婦人だろうが、こんなに嫌らしい部分を持っているんですよ」というメッセージを、登場人物の手紙の形式に託して伝えたかったのだろうと群ようこは考察し、読み手の年齢や立場によって、読み方や楽しみ方の変化する「万華鏡みたいな本」でもあると評している。
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作品評価・研究
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「お嬢さん (三島由紀夫の小説)」の記事における「作品評価・研究」の解説
『お嬢さん』は、『永すぎた春』などと同様、昭和30年代の社会風俗小説として位置づけられている作品ではあるが、ありきたりな恋愛風俗小説とはやや一線を画している。森晴雄は、『お嬢さん』は軽い読み物でありながらも、「ものを考えない青年」である沢井への憧れや、恋敵であった浅子から、〈気取って、内攻して、インテリの誇りで自分を抑へて、まはりの罪のない人たちをみんな疑つて〉かかるような〈本当に困つたお嬢さん〉と言われるかすみに、三島の「インテリへの批判」が看取されると解説している。 市川真人は、「少女小説的なエンターテインメント」として扱われる『お嬢さん』と、「後世に残る文学作品」として語られる『宴のあと』を比較し、どちらもストーリー展開的に見れば、「エンターテイニング」であるが、その「描きうる心理の幅や深み」の差や、『お嬢さん』の楽天的なハッピーエンドと、読後に「わりきれなさ」を残す『宴のあと』とでは、「考え続けさせる熱量」が全く違うのは確かではあるとしつつも、ファッションや料理を楽しむ若い女性向けの雑誌『若い女性』掲載という条件の限定下で書かれて「通俗小説」と呼ばれる『お嬢さん』も、ただの「娯楽的なだけ」ではなかったとしている。 市川は、『お嬢さん』の設定や人物造形は「劇画めいて」見えるものの、ヒロイン・かすみの「小悪魔的な奔放さの魅力とそのじつ男性を知らぬがゆえの小心」が、結婚を境に「弱さ」へと変化し、自分で書いた創作日記の記述によって、疑心暗鬼に陥ってゆくところには、「作品内フィクションを読んだ登場人物が自身の存在に影響を及ぼす」という現代でも行われている「メタ・フィクション」の試みが見られると解説し、そうしたヒロインの心理の移行に伴い、「登場人物同士の役割が鮮やかに入れ代わってゆく鏡像的な物語構造は、単なる娯楽小説には納まりきらない」としている。そして市川はそのことを押し進めて、難解に見える小説でも、それを解読することは読者には一種の「愉楽」であり、全ての小説は何らかのかたちで読者を「エンターテイン」し、また「思弁的」でありうると考察しながら、「よしんば『お嬢さん』に紋切型の女子像しか感じられなかったとしても、ならば『豊饒の海』を書きもする三島がなぜわざわざそんな女子像を書いたか、について飽かずに考え続けることはできる」としている。 竹内清己は、『お嬢さん』の「作中の〈アメリカ人の家庭生活〉、〈ブルジョア的幸福の漫画〉が可能になった戦後日本の経済成長」と、それに対する「文学の防衛の問題」が作品から看取できるとし、「恋愛心理のドラマによる〈月並みな幸福〉の破綻、〈常識的安逸〉からの一点しての悲劇」という「虚構のプロットが読者を導く結末の予測」を裏切っているところに、三島の意図が隠されていると考察しながら、以下のように解説している。 心理的に追い詰められ一族の悲劇を引きおこそうとしたかすみは、かつてかすみと景一の新婚家庭に乗り込んできて投身自殺を試みようとした洋品店エル・ドラドオの女店員浅子の忠告によって、家出を思いとどまる。この結末を風俗小説的妥協、三島らしい観念的操作と読み取ることも誤りとしない。しかし逆に、一太郎の〈かすみも本当に幸福な結婚をしたね。あれは実に幸福な夫婦だ〉という言葉に、経済成長を生きる会社社長の楽天性に隠れたしたたかさを読み、〈人生の壊れやすい模型〉として本当は悲劇はおきていたこと、おきたと同じことが措定されていることに、かえって三島の反時代性の表出を積極的に読み取ることもできる。 — 竹内清己「研究」(お嬢さん)
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