作家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/25 16:41 UTC 版)
「キャサリン・コールター」の記事における「作家へ」の解説
書き上げた小説をシグネット社の編集者に送って3日後、同社から3冊の契約のオファーが入った。その時の作品が1978年にペンギン・ブックスから刊行された処女作"The Autumn Countess" である。1982年には、仕事を辞めて専業作家となる。それ以降、50冊以上の作品を上梓し、1988年から42週連続で『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラー・リストにランクインした。スリラー作品『迷路』(原題:The Maze )は、『ニューヨーク・タイムズ』のハードカバー部門で初めて1位を獲得、同時期には『旅路』(原題:The Cove )がペーパーバック部門で9週連続でランクインし、100万部以上が売れた。執筆ペースは、歴史ロマンスとサスペンスを1年に1冊ずつ書いているほか、イギリス摂政時代初期を舞台とした作品を長編の歴史ロマンス作品に書き直している。 執筆作業は、午前7時30分から午前11時ごろまで行っている。
※この「作家へ」の解説は、「キャサリン・コールター」の解説の一部です。
「作家へ」を含む「キャサリン・コールター」の記事については、「キャサリン・コールター」の概要を参照ください。
作家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:08 UTC 版)
小説教室の仲間に勧められ、試しにオール讀物推理小説新人賞に応募し、3回目の1986年候補になり、夏樹静子に励ましの評価を貰って、小説家への道が見え、意欲が初めて湧く。翌1987年にオール讀物推理小説新人賞を受賞し、短編「我らが隣人の犯罪」でデビューする。多岐川恭に「仕事を辞めないこと、次作が載らず、なかなか本が出なくても書き続ける、健康に注意」と助言される。長編依頼をもらい、時間拘束のきつい法律事務所を辞め、自由のきく東京ガスの集金人を2年間務める。2年半かけて1989年2月に東京創元社『鮎川哲也と十三の謎』の第5回配本『パーフェクト・ブルー』が初出版される。同年に専業作家となり、『魔術はささやく』を書き、1989年日本推理サスペンス大賞を受賞する。『龍は眠る』(綾辻行人と日本推理作家協会賞を同時受賞)などの超能力を扱った作品が多かったが、1992年に発表した『火車』は、クレジットカードローンによる多重債務問題を描き出し、山本周五郎賞を受賞した。 ミステリーではその後、『理由』で直木三十五賞、『模倣犯』で毎日出版文化賞特別賞、『名もなき毒』で吉川英治文学賞を受賞した。宮崎勤事件に触発されて書いた『模倣犯』の後で現代の闇を描くことに疲れて、時代小説やファンタジーを重点に書く。 時代小説では、江戸に住む人々の人情を描き、吉川英治文学新人賞を受賞した『本所深川ふしぎ草紙』や、超能力ものの『霊験お初捕物控』、深川を舞台にしたミステリー『ぼんくら』『日暮らし』などがある。 テレビゲームが趣味であり、PlayStation 2用ソフト『ICO』を宮部から申し出て小説化した作品がある。『ドリームバスター』、劇場用アニメ化された『ブレイブ・ストーリー』などのファンタジー小説もある。大量殺人を忌避する気持ちから2010年初めて恋愛も登場するノンミステリーの青春小説『小暮写真館』を書く。2012年、『ソロモンの偽証』が3部作、原稿用紙4700枚という超大作として話題になった。 大沢在昌の主宰する事務所の大沢オフィスに京極夏彦とともに参加し3人の共同出資の「株式会社大沢オフィス」を設立している(現・株式会社ラクーンエージェンシー)。オフィスの公式サイト名は3人の姓から1字ずつとって「大極宮」と命名した。コードネームは「安寿」。また、2005年夏公開の映画『妖怪大戦争』のプロデュースチーム「怪」の一員にもなった。
※この「作家へ」の解説は、「宮部みゆき」の解説の一部です。
「作家へ」を含む「宮部みゆき」の記事については、「宮部みゆき」の概要を参照ください。
作家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:23 UTC 版)
大学卒業後の1979年、士別市の新聞社「道北日報社」に入社した。父からは「夏休みがある」と暗に教職を勧められていたが、仕事をしながら観察力と文章力を養えるから、という理由で新聞記者を選んだ。記者として働きながら短歌や詩の創作にも取り組んだが続かず、1981年から小説を書き始め、地元の文芸誌『士別市民文芸』に56枚からなる本格的な小説「カップル・ペーパーズ」を発表した。このころから『士別市民文芸』を発行する士別市民文芸の会にも理事として関わるようになった。一時は文学活動を中断したこともあったものの、村上春樹の短編「ファミリー・アフェア」に触発され、創作を再開した。 1992年、小説「ファミリー」が三百号記念北方文芸賞に選ばれた。「ファミリー」は最終選考に残った6作品の中でA評価が一番多く、選考委員の全員一致で正賞に選ばれた。1993年には単行本として刊行され、発行した講談社は「大型新人登場!」の惹句で北村を宣伝した。「ファミリー」は1994年に道銀芸術文化奨励賞も受賞し、北村は「自らの文学を創造し得た」として高く評価された。『士別市民文芸』の活動家としては佐野良二が「ファミリー」の翌年、1993年に北海道新聞文学賞を受賞した。『北方文芸』編集人の川辺為三は受賞以前から北村、佐野の2人を「質が高い」とし、『士別市民文芸』を「市民文芸のレベルを超えている」と評していたが、両名とも受賞したことで『士別市民文芸』は道内三大市民文芸と呼ばれるようになった。
※この「作家へ」の解説は、「北村浩史」の解説の一部です。
「作家へ」を含む「北村浩史」の記事については、「北村浩史」の概要を参照ください。
- 作家へのページへのリンク