作家への転進とは? わかりやすく解説

作家への転進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:29 UTC 版)

井原西鶴」の記事における「作家への転進」の解説

天和2年1682年10月浮世草子第一作好色一代男』を出板。板下西吟挿絵西鶴好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵菱川師宣変えた江戸板も出板、貞享3年1686年)には師宣絵本仕立にした『大和絵こんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された。さらに『一代男』の一場面が描かれ役者絵残っていることから、歌舞伎仕組まれたこともあるようである[要出典]。 以後、後に『一代男とともに好色物と括られる『諸艶大鑑』(1684年)、『好色五人女』(1686年)、『好色一代女』(同年)が立て続け書かれ、やがて雑話物武家物呼ばれるジャンル手を染めるうになる。この変化から、好色本禁令出たではないかという考えもあるが、『色里三所世帯』(1688年)や『好色盛衰記』(同年)また遺稿の『西鶴置土産』など好色物書き続けられているので、その説は信じがたく、またそのような禁令があったという証拠存在しない[要出典]。 天和3年1683年正月役者評判記難波の貌は伊勢白粉』を刊行現存するのは巻二巻三のみ)。貞享2年1685年)には浄瑠璃『暦』をつくる。この作品は、浄瑠璃太夫宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀竹本座揚げした竹本義太夫を潰すために、京都から一座引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴依頼した作品敗北した加賀掾はさらなる新作依頼し西鶴は『凱陣八島をもって応え対す義太夫側は当時まだ駆け出し近松門左衛門新作出世景清』で対抗今度加賀掾側に分があったが、3月24日4月27日)に火事にあい帰京したという。この道頓堀競演については西沢一風の『今昔操年代記』に記されている。なお『歌舞妓始記評林』(1775年)に「往古狂言作者には西鶴三安安達三郎左衛門金子右衛門等ありといへども」とある。これについては西鶴による歌舞伎台本残っておらず、また100年後の資料なので扱い難しいが、現存する文献証拠推測される以上に演劇界と深い関わり持っていた可能性十分に存在する。しかし、竹内玄玄一『俳家奇人談』(1816年)にある近松西鶴門だという言い伝え信じがたい[誰?]。

※この「作家への転進」の解説は、「井原西鶴」の解説の一部です。
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