文献証拠とは? わかりやすく解説

文献証拠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:19 UTC 版)

ルーシ・カガン国」の記事における「文献証拠」の解説

ルーシ支配者に対してカガン」の称号使っている文献はいくつかあり、その多く9世紀外国人によって書かれ文献であるが、11世紀から12世紀にかけて東スラヴ語書かれ文献3つある。 ヨーロッパではじめてルーシ・カガン国について言及したのは、フランク王国の『サンベルタン年代記』である。この年代記では、自らをルーシ(Rhos、qi se, id est gentem suam, Rhos vocari dicebant)と呼ぶノース人一団が、838年コンスタンティノープル訪れたことが記されている。コンスタンティノープルから帰国の際、ルーシ人々ステップ経由ではマジャル人ハンガリー人)に襲われる可能性があることを恐れビザンティン皇帝テオフィロス遣わしたギリシャ人大使と共にドイツ経由帰国したという。また、帰国途中インゲルハイムen)という町で西ローマ皇帝フランク王ルートヴィヒ1世問い答えてルーシの長がchacanus(ラテン語Khagan」、「カガン」のこと)と呼ばれていること、インゲルハイムの町より遥か北に住んでいること、また、自分たちはスウェーデン人である(comperit eos gentis esse sueonum)と述べたという。 それから30年後の871年春、ビザンツ(東ローマ)皇帝バシレイオス1世西ローマ皇帝東フランク王)ルートヴィヒ2世連合してアラブ人から奪還したバーリ領有めぐって争っていたとき、東ローマ皇帝西ローマ皇帝に対して皇帝称号不当に使用していることを非難する怒りの手紙を送ったバシレイオス1世は、フランク王であるルートヴィヒは単に国王(reges)であって皇帝名乗ることができるのはバシレイオス唯一人であるとした。バシレイオスはまたこうも指摘した。「各々の国にはそれぞれ最高指導者呼称がある。例えばchaganusはアヴァール人ハザール人、そしてノース人(Northmen、古代スカンジナビア人)の使う称号である。」これに対しルートヴィヒは「アヴァール・カガンについては知っているが、ハザールノルマン人カガンについては聞いたことが無い。」と返答した。なおバシレイオスの手自体今日失われているが、「サレルノ年代記」に全文引用されているルートヴィヒ返信から内容再構成することができる。このやり取りは、少なくともカガン国自称する国がスカンディナヴィア半島にひとつはあったことを示唆している。 10世紀ペルシア出身イスラーム地理学者イブン・ルスタ(en)は、「ルース人(al-Rūs)についていえば、彼らは一つの島(半島)に住み、その周囲は湖である。(中略)彼らにはルースのハーカーン("Khāqān Rūs")と呼ばれる一人の王がいる。」と書き残した。これについてフランス高等研究実習院のコンスタンティン・ザッカーマン教授は「イブン・ルスタは870年代著者不明文章参照して記述しており、自身参照した文献証拠の価値より一層高めるため、そこに書かれていた支配者称号そのまま正確に伝えよう試みたにすぎない。」と指摘している。なおイブン・ルスタは著作の中で、カガン国ハザールルーシ二つしかない述べている。他の同年代ルーシについての記述イスラーム歴史家地理学者ヤアクービー889年-890年頃に書いたものがあり、そこでは854年アラブ包囲されカフカース山岳住民が、ルームビザンティン帝国のこと)、ハザールおよび サカーリバ(Saqalība/複数形 Saqlāb スラヴ)の君主(ṣāḥib)に救援求めたことが記されている。一方10世紀後半書かれ最古近世ペルシア語地理書世界境域誌』(Ḥudūd al-ʿĀlam)(作者不明)では、ルーシの王を"Rūs-khāqān"としている。ただし、この『世界境域誌』はイブン・フルダーズベを含む9世紀多数情報源元にしたものであるので、このカガンに関する記述も、同時代政治現実反映しているというよりも単にルーシ初期リューリク以前)の文書から写したものかもしれない11世紀中央アジアの歴史アブー・サイード・ガルディーズィー( Abū Saʿīd ʿAbd al-Ḥayy Gardīzī )もガズナ朝のスルターン・アブドゥッラシード(在位1049年-1053年)に献呈したペルシア語通史諸情報飾り』( Zayn al-Akbār )のルースの項目の中で「(ルースは)海の中に横たわる島(jazīra:または半島)であり、その島は幅3日行程長さ3日行程(の大きさ)である。全土木々がある。かの地甚だしく湿気nam)を帯びている。(中略)彼らには、『ルースのハーカーン』( "Khāqān-i Rūs" )と呼ばれる一人の王がいる。その島は10万人々がおり、常にこの人々は船でサカーリバ人たち(Saqlāb)への遠征(ghazw)を行っている」と言及しているが、これも他のイスラーム地理学者と同様9世紀文献資料元にした記述である。 なお、キエフ・ルーシキリスト教化された後も「カガン」の称号使われていたことを示唆する資料もある。府主教イラリオンは、1050年頃の著作律法恩寵についての講話』(Slovo o Zakone i Blagodati)の中でキエフ・ルーシ大公ウラジーミル1世ヤロスラフ1世カガンKhagan)と呼んでいる。イラリオンウラジーミルについて「我らの地の偉大なカガン(velikago kagana nashea zemlja, Vladimera)」、またヤロスラフについては「我ら敬虔なカガン」と記述した。また聖ソフィア聖堂北側廊下には「神よ、われらがカガン救い給え("O Lord, save our khagan")」とあるが、これは明らかにキエフ大公スヴャトスラフ2世在位1073年-1076年)について述べたのである。また12世紀末の文学作品イーゴリ遠征物語』に記述のある「オレグ汗("kogan Oleg")」とは、通例チェルニーゴフオレグ英語版)のことと考えられている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 03:17 UTC 版)

リュシテアー」の記事における「文献証拠」の解説

リュシテアーに関する歴史的典拠には、ローマ政治家文筆家であったマールクス・トゥッリウス・キケロー紀元前106年紀元前43年)およびビザンツ官吏文筆家であったヨハンネス・リュドス(リュディアヨハネス490年頃 – 565年)によるものがある。 キケローはその著作神々本性について』(De natura deorum) においてリュシトエー (Lysithoe) をヘーラクレース母として述べており、それによってまた彼女をゼウス愛人であるとしている。しかしながら名前全体正確なつづりは保存されておらず、後代写本において語幹 Lysith- はフリードリヒ・クロイツァー(Friedrich Creuzer, ドイツ文献学者神話学者)によって Lysithoe と補完された。 ヨハンネス・リュドスには、彼の著作暦月について』(Περὶ τῶν μηνών) 中にギリシア神話の登場人物系譜注解も見いだされる。その第4巻ではヘーラクレースの7通り異な系図与えられており、このうちのひとつが両親としてゼウスと、オーケアノスの娘リュシトエー (Lysithoe) とを名指している。また別の箇所ではディオニューソスが、ゼウスリュシテアー (Lysithea) との息子呼ばれている。リュシトエーとリュシテアーは事によっては同一視できるのか、それとも根本的に別々の登場人物とみなすべきかは、議論定まっていない。

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