文献証拠
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ルーシの支配者に対して「カガン」の称号を使っている文献はいくつかあり、その多くは9世紀頃外国人によって書かれた文献であるが、11世紀から12世紀にかけて東スラヴ語で書かれた文献も3つある。 ヨーロッパではじめてルーシ・カガン国について言及したのは、フランク王国の『サンベルタン年代記』である。この年代記では、自らをルーシ(Rhos、qi se, id est gentem suam, Rhos vocari dicebant)と呼ぶノース人の一団が、838年にコンスタンティノープルを訪れたことが記されている。コンスタンティノープルから帰国の際、ルーシの人々はステップ経由ではマジャル人(ハンガリー人)に襲われる可能性があることを恐れ、ビザンティン皇帝テオフィロスの遣わしたギリシャ人大使と共にドイツ経由で帰国したという。また、帰国の途中インゲルハイム(en)という町で西ローマ皇帝(フランク王)ルートヴィヒ1世の問いに答えて、ルーシの長がchacanus(ラテン語「Khagan」、「カガン」のこと)と呼ばれていること、インゲルハイムの町より遥か北に住んでいること、また、自分たちはスウェーデン人である(comperit eos gentis esse sueonum)と述べたという。 それから30年後の871年春、ビザンツ(東ローマ)皇帝バシレイオス1世と西ローマ皇帝(東フランク王)ルートヴィヒ2世が連合してアラブ人から奪還したバーリの領有をめぐって争っていたとき、東ローマ皇帝は西ローマ皇帝に対して、皇帝の称号を不当に使用していることを非難する怒りの手紙を送った。バシレイオス1世は、フランク王であるルートヴィヒは単に国王(reges)であって、皇帝を名乗ることができるのはバシレイオス唯一人であるとした。バシレイオスはまたこうも指摘した。「各々の国にはそれぞれ最高指導者の呼称がある。例えばchaganusはアヴァール人、ハザール人、そしてノース人(Northmen、古代スカンジナビア人)の使う称号である。」これに対しルートヴィヒは「アヴァール・カガンについては知っているが、ハザールやノルマン人のカガンについては聞いたことが無い。」と返答した。なおバシレイオスの手紙自体は今日失われているが、「サレルノ年代記」に全文引用されているルートヴィヒの返信から内容を再構成することができる。このやり取りは、少なくともカガン国を自称する国がスカンディナヴィア半島にひとつはあったことを示唆している。 10世紀ペルシア出身のイスラーム地理学者イブン・ルスタ(en)は、「ルース人(al-Rūs)についていえば、彼らは一つの島(半島)に住み、その周囲は湖である。(中略)彼らにはルースのハーカーン("Khāqān Rūs")と呼ばれる一人の王がいる。」と書き残した。これについてフランス高等研究実習院のコンスタンティン・ザッカーマン教授は「イブン・ルスタは870年代の著者不明の文章を参照して記述しており、自身の参照した文献証拠の価値をより一層高めるため、そこに書かれていた支配者の称号をそのまま正確に伝えようと試みたにすぎない。」と指摘している。なおイブン・ルスタは著作の中で、カガン国はハザールとルーシの二つしかないと述べている。他の同年代のルーシについての記述はイスラームの歴史家・地理学者ヤアクービーが889年-890年頃に書いたものがあり、そこでは854年アラブに包囲されたカフカースの山岳住民が、ルーム(ビザンティン帝国のこと)、ハザールおよび サカーリバ(Saqalība/複数形 Saqlāb スラヴ)の君主(ṣāḥib)に救援を求めたことが記されている。一方、10世紀後半に書かれた最古の近世ペルシア語地理書『世界境域誌』(Ḥudūd al-ʿĀlam)(作者不明)では、ルーシの王を"Rūs-khāqān"としている。ただし、この『世界境域誌』はイブン・フルダーズベを含む9世紀の多数の情報源を元にしたものであるので、このカガンに関する記述も、同時代の政治の現実を反映しているというよりも単にルーシ初期(リューリク以前)の文書から写したものかもしれない。11世紀の中央アジアの歴史家アブー・サイード・ガルディーズィー( Abū Saʿīd ʿAbd al-Ḥayy Gardīzī )もガズナ朝のスルターン・アブドゥッラシード(在位1049年-1053年)に献呈したペルシア語の通史『諸情報の飾り』( Zayn al-Akbār )のルースの項目の中で「(ルースは)海の中に横たわる島(jazīra:または半島)であり、その島は幅3日行程長さ3日行程(の大きさ)である。全土に木々と林がある。かの地は甚だしく湿気(nam)を帯びている。(中略)彼らには、『ルースのハーカーン』( "Khāqān-i Rūs" )と呼ばれる一人の王がいる。その島は10万の人々がおり、常にこの人々は船でサカーリバ人たち(Saqlāb)への遠征(ghazw)を行っている」と言及しているが、これも他のイスラーム地理学者と同様9世紀の文献資料を元にした記述である。 なお、キエフ・ルーシがキリスト教化された後も「カガン」の称号が使われていたことを示唆する資料もある。府主教イラリオンは、1050年頃の著作『律法と恩寵についての講話』(Slovo o Zakone i Blagodati)の中でキエフ・ルーシの大公ウラジーミル1世とヤロスラフ1世をカガン(Khagan)と呼んでいる。イラリオンはウラジーミルについて「我らの地の偉大なカガン(velikago kagana nashea zemlja, Vladimera)」、またヤロスラフについては「我らの敬虔なカガン」と記述した。また聖ソフィア聖堂の北側廊下には「神よ、われらがカガンを救い給え("O Lord, save our khagan")」とあるが、これは明らかにキエフ大公スヴャトスラフ2世(在位1073年-1076年)について述べたものである。また12世紀末の文学作品『イーゴリ遠征物語』に記述のある「オレグ汗("kogan Oleg")」とは、通例チェルニーゴフ公オレグ(英語版)のことと考えられている。
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リュシテアーに関する歴史的典拠には、ローマの政治家・文筆家であったマールクス・トゥッリウス・キケロー(紀元前106年 – 紀元前43年)およびビザンツの官吏・文筆家であったヨハンネス・リュドス(リュディア人ヨハネス、490年頃 – 565年)によるものがある。 キケローはその著作『神々の本性について』(De natura deorum) においてリュシトエー (Lysithoe) をヘーラクレースの母として述べており、それによってまた彼女をゼウスの愛人であるとしている。しかしながら名前全体の正確なつづりは保存されておらず、後代の写本において語幹 Lysith- はフリードリヒ・クロイツァー(Friedrich Creuzer, ドイツの文献学者・神話学者)によって Lysithoe と補完された。 ヨハンネス・リュドスには、彼の著作『暦月について』(Περὶ τῶν μηνών) 中にギリシア神話の登場人物の系譜的注解も見いだされる。その第4巻ではヘーラクレースの7通りの異なる系図が与えられており、このうちのひとつが両親としてゼウスと、オーケアノスの娘リュシトエー (Lysithoe) とを名指している。また別の箇所ではディオニューソスが、ゼウスとリュシテアー (Lysithea) との息子と呼ばれている。リュシトエーとリュシテアーは事によっては同一視できるのか、それとも根本的に別々の登場人物とみなすべきかは、議論が定まっていない。
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