文献記録におけるペルシャ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:41 UTC 版)
「破斯清道」の記事における「文献記録におけるペルシャ人」の解説
詳細は「李密翳」を参照 『続日本紀』には、天平8年(736年)8月、帰国した遣唐副使中臣名代が、「唐人三人、波斯人一人」と共に聖武天皇に拝謁したという記述がある。同年11月、名代ら遣唐使への叙位が行われた際に、ペルシャ人の李密翳にもそれぞれ位を授けられた。李密翳についての『続日本紀』の記載はこれのみで、その後の消息は不明である。 李密翳が聖武天皇に謁見した時からこの木簡に記された年までの隔たりは30年ほどである。渡辺晃宏は、「破斯清通は李密翳本人か、家族や従者だった可能性がある」と述べている。
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