文献等の評価(主要なもの)
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「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の記事における「文献等の評価(主要なもの)」の解説
鉄の暴風 注:『鉄の暴風』は1950年に出版された沖縄の戦記であり、原告は、同書に記された軍命令による集団自決は虚偽であると主張した。 『鉄の暴風』の資料的価値,とりわけ戦時中の住民の動き,非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる。『鉄の暴風』の梅澤が「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた」との記載、赤松が「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」と命じたとする部分については、これを聞いた者が十分特定されていないけれども,座間味島,渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については、この裁判で子細に認定,判示した住民の体験談と枢要部において齟齬することはなく、執筆にあたっては、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができた、多くの体験者の供述を得た、とする執筆者の見解を裏付ける結果となっており,民間から見た歴史資料としてその資料的価値は否定し難い。 母の遺したもの 注:『母の遺したもの』は座間味島の集団自決の生存者の娘の宮城晴美が著した書物で、宮城の母の手記「血ぬられた座間味島」が収録されている。原告はこの中の一部の記述をもって梅澤が集団自決の命令を発していないことの根拠とした。 (なお、宮城晴美は、原告が自らの主張に都合のよい一部だけを切り出して沖縄戦の集団自決の真実を歪めようとしていると原告に抗議し、また裁判では、被告側の証人として出廷して、座間味島の集団自決は軍の命令によるもので、座間味島の最高指揮官の梅澤の指示・命令であるとした) 手記のなかの、宮城の母ら座間味島の住民が梅澤と面会し、集団自決を申し出て弾薬の提供を求めたのに対して、それを梅澤が拒絶したくだりは、梅澤が座間味島の住民の集団自決について,消極的であったことを窺わせないではない。しかしながら、この記述は梅澤が「今晩は一応お帰りください。」と述べたことを記述するのみで、「一応」という表現が付されていることや、助役らの申出に対し梅澤がしばらく沈黙したこと,梅澤と助役らの面会後の記述で唐突に助役が役場職員に伝令を命じた部分があり、その肝心の伝令の内容が記述されていないことを考慮すると、面会の場面全体の理解としては、梅澤による自決命令を積極的に否定するものではなく、助役らの集団自決の申出を受けた梅澤の逡巡を示すものにすぎないとみることも可能である。 この場面については梅澤の陳述書があり、梅澤は「決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。」「弾薬、爆薬は渡せない」などと述べたとされるが、梅澤の陳述書の記載内容の信用性についてのこれまでの検討結果(注: 上述「宮村親書についての判断」)からすると梅澤の陳述書は宮城の母の記憶を越える部分については信用し難い。 また、手記の記載によれば、宮城の母は座間味島の集団自決の際、現場である忠魂碑前にいなかったことになる。宮城の母は、梅澤と面会した後、梅澤はもちろん集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから、直接的には梅澤の集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる。 また、手記には、宮城の母が梅澤の部隊の軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており、この記載は、日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有し、梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。 ある神話の背景 注:『ある神話の背景』は、作家曽野綾子が、1973年に出版した著作である。出版当時、マスコミで報じられていた赤松大尉と沖縄現地の人間とのあいだの集団自決をめぐる主張対立、現地の人間の主張にそっている大江の『沖縄ノート』や石田郁夫の現地ルポ等を受けて、渡嘉敷島の集団自決について現地に赴き真実を追究しようとしたとされるノンフィクションで、原告が、赤松大尉が集団自決の命令を発していないことの根拠としたものである。 『ある神話の背景』は,赤松大尉や部隊の元隊員からの聞き取りに基づく記述が大部分を占めており、赤松大尉や元隊員らが赤松大尉による自決命令はなかった旨供述したことは記述されているものの、曽野自身の見解として赤松大尉命令説を否定する立場を表明したものではない。曽野自身は、かつて参加した司法制度改革審議会において、『ある神話の背景』について説明する一連の発言の中で,沖縄の新聞記者から「赤松大尉命令説の神話はこれで覆されたということになりますが」と言われた際に「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えた旨の発言をしている。 曽野は『ある神話の背景』において,赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。そして曽野は、家永教科書検定第3次訴訟第1審において証言した際『ある神話の背景』の執筆に当たっては赤松大尉の部隊からの自決命令を住民に伝達したとされる兵事主任へ取材をしなかったと証言しているが、それが事実であれば、取材対象に偏りがなかったか疑問が生じるところである。 『ある神話の背景』は、命令の伝達経路が明らかになっていないなど、赤松大尉命令説を確かに認める証拠がないとしている点で赤松大尉命令説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、客観的な根拠を示して赤松大尉命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない。
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