神話の背景
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この物語の背景にはドーリア人の大移動があるとされる。彼らはギリシア人の1分派であり、紀元前1100年頃に北方地域から南下してペロポネーソス半島に侵入し、その地に栄えていたミケーネ文明を崩壊させた後に定住した。これを裏付けるかのように、ドーリア人の征服をうけなかったアルカディア地方にキプロス方言と極めて近い方言が残っていることはよく知られている(キプロス=アルカディア方言)。この侵入によってギリシアは紀元前700年頃までの数百年のあいだ、文字資料に乏しい暗黒時代に陥った。 この移動については古代の作家、著述家たちが伝えており、ドーリア人を率いた者たちはヘーラクレイダイで、彼らは父祖の地を取り戻すためにドーリア人の協力を得て帰還を果たしたのだとされる。具体的に帰還が果たされた時代については、たとえばトゥーキューディデースはトロイア戦争の80年後にドーリア人がヘーラクレイダイとともにペロポネーソス半島を支配したと述べ、パウサニアスはピュロスに帰国した老将ネストールの死後2世代後に、ドーリア人の遠征とヘーラクレイダイの帰還が起こったと述べている。 またドーリア人にはヒュレイス、デュマナタイ、パンピュロイの3つの部族があるが、各部族の名はヒュロスと、アイギミオスの2人の息子デュマース、パンピューロスに対応している。こうした伝承が生まれた背景にはドーリア人が特に信仰していた神の中にヘーラクレースがあり、ペルセウス王家の子孫であるヘーラクレースの伝説に結びつけることで自身の正当性を主張したことが考えられる。
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神話の背景
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「ヤム (ウガリット神話の神)」の記事における「神話の背景」の解説
神話が生まれたウガリット(ウガリト)を含む地域では、夏季には約5ヵ月間も日照りが続いて土壌が乾いて硬くなり、そこに初冬の雨が降ることで土壌が柔らかくなって次の時期の農耕が始められる。その雨が降り続く一方で海が荒れていれば、自然にできた水路が海で堰き止められて排水がなされず、農地に水が溢れて農作物をだめにしかねない。また、ウガリットは海に近い場所にあった。ウガリット人は海岸周辺にも住んで漁業を行い、また、海を越えての外国との貿易も行っていた。悪天候で海が荒れると船は出航できず、漁業にも貿易にも支障が出る。人々は、海の荒れる様子にヤムを見いだし、ヤムがこの状態を引き起こしたと考えたと推測される。そして海は冬にしばしば荒れるが、春の到来とともにまた穏やかになり、人々もいつも通りに海に仕事に出られる。人々は、季節の変わり目にバアルがヤムを倒すことで海がまた穏やかになると考えていたであろう。 また、ウガリットで見つかっている奉納物一覧表によって、海に近い町であったウガリットでは、海すなわちヤムへの祭儀が行われていたことが確認できる。そのヤムがバアルに倒されるという神話は、海に対する祭儀が次第に廃れ、代わりにバアルに対する祭儀が盛んになっていったことを表しているとも考えられるという。多くの神々が崇拝されてきた中、バアルが主神となって特別に信仰されるに至った根拠として、かつてバアルがヤムやモートを倒して上位に立ったという神話が生まれ、繰り返し語られるのである。物語は、劇として上演できる台本の形式で記録されている。
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神話の背景
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アンデス山脈の高地や海岸の砂漠地帯に発展したアンデスの諸民族は、それぞれが民族固有の神話伝承を口承で語り継いでいた。しかしインカ帝国が15世紀末頃にこれら諸民族を統一すると、インカ民族の言語であるケチュア語を普及させるとともに、国家宗教である太陽の神殿祭祀を推し進めた。各地の伝承はインカ民族の伝承や神話が入り込んで変容し、さらに民族固有の伝統が変化したり言語が失なわれたりすることもあった。 1532年から翌年にかけ、フランシスコ・ピサロらスペイン人の侵攻を受け、皇帝アタワルパを殺され首都クスコを奪われたインカ帝国は崩壊した。地元民は、戦乱だけでなくヨーロッパ大陸から入ってきた病気によって、地区によっては全滅した例もあった。さらにカトリック教会が従来の宗教に弾圧を加えた。アンデスでは文字を使用していなかったため、スペイン人に征服される前の神話伝承の記録は、こうした出来事の中で多くが失われたと考えられている。 アンデスに侵入してきたスペイン人のうちの少数や、読み書きができるメスティーソとインディオが、神話などの口承を記録した。これらは記録者の価値観によって内容が歪曲されている可能性がある。[独自研究?]たとえばワマン・ポマの記録は貴重な内容であるものの、キリスト教の影響が濃く出ているとされている。また記録者によっては、神話を聖書に沿った内容に改変したり、聖書に伝えられた出来事を重ねようとして神話を歪めたりする例もあった。[要出典]しかし、まだヨーロッパ文明の影響を受けていない征服間もない時期の記録には、インカの伝承、国家的な祭祀の様子が詳しく書かれている。
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