小説家への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:21 UTC 版)
「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃が1888年(明治21年)に小説『薮の鶯』を出版し、33円という多額の原稿料を得たのを知っていた一葉は、明治22年頃より小説を書こうと決意する。台東区立一葉記念館学芸員の石井広士は、強度の近視であった一葉にとって、針仕事による頭痛や肩こりが酷かったことも一因と推測する。 1891年(明治24年)、数え年20歳で『かれ尾花』などいくつか習作を執筆する。同年4月15日、妹のくにの知り合いの野々宮菊子の紹介で、『東京朝日新聞』専属作家の半井桃水を訪ね、師事することになる。1892年(明治25年)3月に半井は同人誌『武蔵野』を創刊し、一葉は『闇桜』を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表した。半井は一葉を東京朝日新聞主筆の小宮山桂介に紹介する。しかし一葉の小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした一葉は落胆する。 また2人の仲を噂する醜聞が萩の舎で広まったため、中島歌子や伊東夏子に交際を反対され、6月22日、桃水と絶交。その後、一葉は上野図書館に通い独学する。田辺花圃の紹介で、これまでとはスタイルの異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を雑誌『都之花』に発表。初めて原稿料11円50銭を受け取る。このうち6円は借金の返済に充てられた。
※この「小説家への道」の解説は、「樋口一葉」の解説の一部です。
「小説家への道」を含む「樋口一葉」の記事については、「樋口一葉」の概要を参照ください。
- 小説家への道のページへのリンク