近代文化と女性
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ファッション 江戸時代までは、既婚女性は眉を剃り、鉄漿で歯を黒く染めるお歯黒を行っていた。しかし、諸外国にない野蛮な習慣という理由で1868年の太政官布告から禁止が進み、1873年に昭憲皇太后がお歯黒を終了した。西洋的な美容の専門家は明治30年代から活動がみられ、理髪師の芝山兼太郎が美顔術としてフェイシャル・マッサージを広めた。芝山はアメリカ人医師のW・キャンブルーから学んでおり、同じくキャンブルーから学んだ荘司直子や、理容館を開業した遠藤波津子らが続き、大正時代には山本久栄の女子整容大学園(いわゆる美容専門学校)、メイ牛山らの美容院設立が相次いだ。 明治維新以降、日本人の洋装化は軍服や礼服、警察・駅員・学生の制服など公的部門から始まり、特に男性の洋装化が先行した。日本の女性で初めて洋服を着たのは、津田梅子、山川捨松、永井繁子ら渡米した5人の留学生だったとされ、クリノリンのドレスだった。1884年に建設された鹿鳴館は上流社会の社交場となって国賓も訪れ、女性はローブ・デコルテまたは白襟紋服が義務づけられ、多くがバッスルスタイルのドレスを身につけた。バッスルは鹿鳴館スタイルとも呼ばれ有名になったが、ドレス一式には約400円(約300万円相当)かかるため、裕福な女性の衣服にとどまった。 一般女性の洋装は、学校の制服として始まった。華族女学校に務めていた下田歌子は、スカート型の女袴をデザインし、これが女子学生の通学服として普及していき、女袴ののちに一般女性の洋装が進んでいった。大正時代に入ると、洋服が高等女学校の制服となり、1923年に実践女学校と女子工芸学校はワンピース型のセーラー服を採用した。独身女性のあいだで洋服が増え、職業婦人やモダンガール(モガ)とも呼ばれた。他方、既婚女性や主婦では着物が続いた。1928年の大礼記念国産振興東京博覧会では、商品と同じ服を着て販売するマネキン・ガールが初めて登場し、女性の職業として広まっていった。 文学 江戸時代の女性は和歌、漢詩、俳句、物語、日記、随想などを書いていた。中でも和歌は女学校で教えられ、自己表現と社会進出に大きな影響を与えた。近代文明の事物を取り上げる新題歌や新派和歌、昭和初期のプロレタリア短歌やモダニズム短歌などさまざまな形式が流行した。詩は漢詩の他に西洋の影響で新体詩も作られるようになり、フェリス女学院の創始者でもあるメアリー・キダーに学んだ若松賤子が最初期の女性新体詩人となり、女性と男性の対等な恋愛を英詩でも発表した。雑誌『青鞜』では新しい女性の表現として詩も掲載され、与謝野晶子、高群逸枝らが活動した。 近世に筆を取った女性らは、明治になると小説の世界にも足を踏み入れる。中島湘煙は、女性初の演説や評論のほか、小説の翻案で女性小説家への道をひらいた。オリジナル作品で初の女性小説家となった三宅花圃は、鹿鳴館文化と伝統文化の対立をテーマとした『藪の鶯』(1888年)を発表し、小説家を目指す若い女性が増えた。清水紫琴は、当時は新形式だった一人称を駆使して離婚と自立を描いた『こわれ指環』(1890年)や、被差別部落の女性の差別解放を描いた『移民学園』(1897年)を発表した。そのほか、木村曙の『婦女の鏡』(1889年)、樋口一葉の『たけくらべ』(1896年)が著名である。1892年の『女学雑誌』には「今の女学生は特別に文学を好み、文学者になることを理想とする」と記されている。 日系移民1世にあたる女性たちは、日本語でも作品を残した。アメリカで発行された雑誌『在米婦人之友』(1919年-1930年)には、短歌や川柳、短編小説も掲載された。 美術 文明開化以降、日本は脱亜入欧を掲げて西洋文化を積極的に取り入れる。西洋美術への理解も文明国入りするための手段として推進された。こうした背景から1895年に黒田清輝の『朝妝(ちょうしょう)』がフランスで入賞したことは高く評価されるはずであったが、内国勧業博覧会に出展されると「芸術としての裸婦」に理解のない人びとから非難を浴びる。のちに東京美術学校が設立されると、黒田は裸体モデルの写生などを科目に取り入れて西洋芸術の普及に力を入れる。 音楽 音楽家の地位は高くなく男性がするべきではないという風潮があったために、西洋音楽は女性優位であった。1879年に日本初の西欧音楽教育機関として音楽取調掛が設立されると第一期生の過半数が女性であり、幸田延や遠山甲子らを輩出。1887年には東京音楽学校が開校し、幸田幸や神戸絢子らが留学生として海外に行く。しかし当時の音楽家は職業意識が低く、人前で演奏することを嫌がる者もいた。幸田延が作曲した『ヴァイオリン・ソナタ ニ単調』(1897年)が、日本初の西洋音楽の器楽曲となった。1903年に日本人初のオペラ『オルフォイス』が上演され、出演した三浦環は後にプリマドンナとして国際的に活躍し、プロ音楽家としての道を開いた。その他の東京音楽学校出身者としては、佐藤千夜子がラジオ歌手から日本初のレコード歌手となった。 幸田の後の世代にあたる松島彝は、日本女性初の職業作曲家として1000曲以上を発表し、代表作として知られる童謡『おうま』の他にも幅広く活動した。外山道子は、器楽曲『やまとの声』で1937年の国際現代音楽祭に入賞し、日本人作曲家として初の国際コンクール入賞者となったが、日本では話題にされなかった。宮古島出身の金井喜久子は、沖縄音楽の旋律と素材を西洋音楽に取り入れた。1944年の日比谷公会堂の「沖縄民謡による交響作品発表会」では、急に応召された指揮者の代役を金井がつとめて成功をおさめた。1931年に作曲家デビューした吉田隆子はエリック・サティに傾倒し、戦中は反戦歌を作曲して特別高等警察に逮捕された。この4名は戦後も活動を続ける。 伝統音楽の流れでは、清元連の清元お葉がジャンルとしての小唄を始めた。『散るはうき』という曲で、江戸時代からあった端唄を簡潔にしてあり、四畳半で気軽に唄えるという点が人気を呼び、戦後にも流行した。 舞台 戯曲では大塚楠緒子の習作『綿帽子』(1902年)が最初の女性作家の作品で、岡田八千代(小山内八千代)と長谷川時雨が最初期の女性劇作家にあたる。劇評では、八千代と真如(森鴎外の弟の妻である森久子)が男性多数の中で活動した。自由民権運動の中で生まれた現代劇は新演劇と呼ばれ、川上貞奴が川上音二郎とともに活動し、新演劇は新派とも呼ばれた。ヨーロッパの戯曲が入るにつれて、伝統的な舞台で女形が演じていた女性を、女性自身が演じるようになった。1911年に松井須磨子がヘンリク・イプセン作の『人形の家』で主人公を演じた際は、社会的事件ともいわれる反響を呼んだ。 1913年には宝塚唱歌隊が設立され、1914年には宝塚歌劇として初公演が行われた。当初から歌と踊りによって舞台が構成され、1919年の宝塚音楽歌劇学校の設立によって宝塚少女歌劇団が成立した。 スポーツ 女性が西洋由来のスポーツを知ったのは、一部の上流女性をのぞけば中等学校から始まった。ミッションスクールと、文部省による女学校でスポーツ導入の過程に違いがある。ミッションスクールでは女性宣教師が教師となり、宣教師の母国で女性らしいと認められたテニス、クリケット、クロッケー、バスケットボール、体操、ダンスなどが教えられた。こうした女学校を卒業した日本人の教師も教えるようになり、西洋のスポーツを知る女学生が増えていった。文部省の女学校では、1878年のリーランドによる女子師範学校での体操指導から始まった。リーランドはアメリカ式にもとづいて男子体操術と女子体操術を分け、女性に適した優雅なものとされた内容が選ばれた。リーランドの方法は、その後の体育界に影響を与えた。また、女子高等師範学校をはじめとする女学校出身の教師もスポーツを兼任で教えた。 スポーツが広まるにあたり、女性に適したスポーツについての論争がしばしば起きた。適した種目として唱歌遊戯や行進遊戯、テニス、バレーボール、バスケットボール、ハンドボール、弓道、薙刀などがあり、適さない種目として拳闘、格闘、フットボール、ラグビー、陸上競技が指摘された。こうした意見は主に男性研究者から出されて採用された。 近代オリンピックを発案したクーベルタンは当初、女性参加に否定的だった。そのため第1回の1896年アテネ大会には女性選手は参加できず、1920年代までは非公式な参加となった。日本で女性選手のオリンピック参加は1928年アムステルダム大会からで、選手43人のうち女性は陸上の人見絹枝1人であり、人見は銀メダルを獲得して日本人女性初のメダリストとなった。日本人女性初の金メダルは、1936年ベルリン大会で水泳の前畑秀子となった。 メディア 1901年から1925年にかけて発行された『女学世界』は、商業誌として成功した日本初の女性誌とされる。当時は都市部の核家族化によって主婦が増加し、他方では教育が普及した影響で女学生や経済的自立を求める女性も増加しており、『女学世界』はそれぞれの読者に応える内容を掲載した。教育の普及によって文字で自己表現する女性が増え、1908年から1917年にかけての『女学世界』は読者の投書欄が中核となった。投稿内容が自由になるにつれ読者間の交流も増え、常連投稿者から作家デビューした内藤千代子や松平鏡子のような人物もいた。女性のみの文芸投稿誌『女子文壇』も1906年に創刊され、投稿者はのちの『青鞜』へと続いていった。らいてうとの同性愛的な関係などが原因で『青鞜』から独立した尾竹一枝は、芸術誌『番紅花』(さふらん)を創刊した。『番紅花』は女性の同性愛関係を取り上げ、菅原初の小説やエドワード・カーペンターの『中性論』の翻訳なども掲載した。 成人女性に向けたいわゆる婦人雑誌は、1905年の『婦人画報』、1906年の『婦人世界』、1908年の『婦人之友』が最初期にあたり、続いて『婦人公論』や『主婦の友』などが創刊された。『婦人之友』を創刊した羽仁もと子は家計簿の普及にも力を入れ、当初の家計簿は主婦1人による記帳を想定していたが、やがて家庭全員の参加で家計簿を作るという構想をした。 治安警察法(1900年)により、女性の政治結社の加入、政談集会の参加や発起人が禁止された。メディアへの統制として、1909年に『女子文壇』『婦人画報』などが女学校で閲覧禁止となった。文部省は1913年から「反良妻賢母主義的な婦人雑誌」の取り締まりを行い、『青鞜』『女子文壇』『女学世界』などが発禁となった。発禁処分が繰り返し行われたため廃刊となった雑誌もあった。女性による女性のための文芸誌として『女人藝術』が創刊され、その後続誌にあたる『輝ク』は、当時の女性作家が多数参加するフェミニスト的な思想文芸誌となった。しかし日中戦争以降は戦争協力を訴える内容に変わり、1939年には女性芸術家の慰問組織「輝ク部隊」が発足し、同名の慰問文集を発行した。
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