近代文化と女性とは? わかりやすく解説

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近代文化と女性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)

日本の女性史」の記事における「近代文化と女性」の解説

ファッション 江戸時代までは、既婚女性は眉を剃り鉄漿で歯を黒く染めお歯黒行っていた。しかし、諸外国にない野蛮な習慣という理由1868年太政官布告から禁止進み1873年昭憲皇太后お歯黒終了した西洋的な美容専門家明治30年代から活動がみられ、理髪師芝山兼太郎美顔術としてフェイシャル・マッサージ広めた芝山アメリカ人医師のW・キャンブルーから学んでおり、同じくキャンブルーから学んだ荘司直子や、理容館を開業した遠藤波津子らが続き大正時代には山本久栄女子整容大学園(いわゆる美容専門学校)、メイ牛山らの美容院設立相次いだ明治維新以降日本人洋装化軍服礼服警察駅員学生制服など公的部門から始まり、特に男性洋装化先行した日本女性初め洋服着たのは、津田梅子山川捨松永井繁子渡米した5人の留学生だったとされ、クリノリンドレスだった。1884年建設され鹿鳴館上流社会社交場となって国賓訪れ女性ローブ・デコルテまたは白襟紋服義務づけられ、多くバッスルスタイルドレスを身につけたバッスル鹿鳴館スタイルとも呼ばれ有名になったが、ドレス一式には約400円(約300万円相当)かかるため、裕福な女性衣服とどまった一般女性洋装は、学校制服として始まった華族女学校務めていた下田歌子は、スカート型の女袴デザインし、これが女子学生通学服として普及していき、女袴ののちに一般女性洋装進んでいった。大正時代に入ると、洋服高等女学校制服となり、1923年実践女学校女子工芸学校ワンピース型のセーラー服採用した独身女性のあいだで洋服増え職業婦人モダンガールモガ)とも呼ばれた他方既婚女性主婦では着物続いた1928年大礼記念国産振興東京博覧会では、商品と同じ服を着て販売するマネキン・ガール初め登場し女性職業として広まっていった。 文学 江戸時代女性和歌漢詩俳句物語日記随想などを書いていた。中でも和歌女学校教えられ自己表現社会進出大きな影響与えた近代文明事物取り上げる新題歌や新派和歌昭和初期プロレタリア短歌モダニズム短歌などさまざまな形式流行した。詩は漢詩の他に西洋の影響新体詩作られるようになり、フェリス女学院創始者でもあるメアリー・キダー学んだ若松賤子最初期女性新体詩人となり女性男性対等な恋愛英詩でも発表した雑誌青鞜』では新しい女性の表現として詩も掲載され与謝野晶子高群逸枝らが活動した近世に筆を取った女性らは、明治になると小説世界にも足を踏み入れる中島湘煙は、女性初の演説評論のほか、小説翻案女性小説家への道をひらいた。オリジナル作品で初の女性小説家となった三宅花圃は、鹿鳴館文化と伝統文化対立テーマとした『藪の鶯』(1888年)を発表し小説家目指す若い女性増えた清水紫琴は、当時新形式だった一人称駆使して離婚自立描いた『こわれ指環』(1890年)や、被差別部落女性差別解放描いた移民学園』(1897年)を発表したそのほか木村曙の『婦女の鏡』(1889年)、樋口一葉の『たけくらべ』(1896年)が著名である。1892年の『女学雑誌』には「今の女学生特別に文学好み文学者になることを理想とする」と記されている。 日系移民1世にあたる女性たちは、日本語でも作品残したアメリカで発行され雑誌在米婦人之友』(1919年-1930年)には、短歌川柳短編小説掲載された。 美術 文明開化以降日本脱亜入欧掲げて西洋文化積極的に取り入れる。西洋美術への理解文明国入りするための手段として推進された。こうした背景から1895年黒田清輝の『朝妝ちょうしょう)』がフランスで入賞したことは高く評価されるはずであったが、内国勧業博覧会出展されると「芸術としての裸婦」に理解のない人びとから非難浴びる。のちに東京美術学校設立されると、黒田裸体モデル写生などを科目取り入れて西洋芸術の普及力を入れる。 音楽 音楽家地位高くなく男性がするべきではないという風潮があったために、西洋音楽女性優位であった1879年日本初西欧音楽教育機関として音楽取調掛設立される第一期生の過半数女性であり、幸田延遠山甲子らを輩出1887年には東京音楽学校開校し幸田幸神戸絢子らが留学生として海外に行く。しかし当時音楽家職業意識低く人前演奏することを嫌がる者もいた。幸田延作曲したヴァイオリン・ソナタ単調』(1897年)が、日本初西洋音楽器楽曲となった1903年日本人初のオペラオルフォイス』が上演され出演した三浦環は後にプリマドンナとして国際的に活躍しプロ音楽家としての道を開いたその他の東京音楽学校出身者としては、佐藤千夜子ラジオ歌手から日本初レコード歌手となった幸田後の世代にあたる松島彝は、日本女性初の職業作曲家として1000曲以上を発表し代表作として知られる童謡『おうま』の他にも幅広く活動した外山道子は、器楽曲『やまとの声』で1937年国際現代音楽祭に入賞し日本人作曲家として初の国際コンクール入賞者となったが、日本では話題にされなかった。宮古島出身金井喜久子は、沖縄音楽旋律素材西洋音楽取り入れた1944年日比谷公会堂の「沖縄民謡による交響作品発表会」では、急に応召された指揮者代役金井つとめて成功おさめた1931年作曲家デビューした吉田隆子エリック・サティ傾倒し戦中反戦歌作曲して特別高等警察逮捕された。この4名は戦後活動続ける。 伝統音楽流れでは、清元連の清元お葉ジャンルとしての小唄始めた。『散るはうき』という曲で、江戸時代からあった端唄簡潔にしてあり、四畳半気軽に唄えるという点が人気呼び戦後にも流行した舞台 戯曲では大塚楠緒子習作綿帽子』(1902年)が最初女性作家作品で、岡田八千代小山内八千代)と長谷川時雨最初期女性劇作家にあたる。劇評では、八千代真如森鴎外の弟の妻である森久子)が男性多数の中で活動した自由民権運動の中で生まれた現代劇は新演劇呼ばれ川上貞奴川上音二郎とともに活動し、新演劇新派とも呼ばれたヨーロッパ戯曲が入るにつれて伝統的な舞台で女形演じていた女性を、女性自身演じようになった1911年松井須磨子ヘンリク・イプセン作の『人形の家』主人公演じた際は、社会的事件ともいわれる反響呼んだ1913年には宝塚唱歌隊設立され1914年には宝塚歌劇として初公演が行われた。当初から歌と踊りによって舞台構成され1919年宝塚音楽歌劇学校設立によって宝塚少女歌劇団成立したスポーツ 女性西洋由来スポーツ知ったのは、一部の上女性のぞけば中等学校から始まったミッションスクールと、文部省による女学校スポーツ導入の過程違いがある。ミッションスクールでは女性宣教師教師となり、宣教師母国女性らしい認められテニスクリケットクロッケーバスケットボール体操ダンスなどが教えられた。こうした女学校卒業した日本人教師教えるようになり、西洋スポーツを知る女学生増えていった。文部省女学校では、1878年リーランドによる女子師範学校での体操指導から始まったリーランドアメリカ式もとづいて男子体操術と女子体操術を分け女性適した優雅なものとされた内容選ばれた。リーランド方法は、その後体育界に影響与えたまた、女子高等師範学校はじめとする女学校出身教師スポーツ兼任教えたスポーツが広まるにあたり女性適したスポーツについて論争がしばしば起きた適した種目として唱歌遊戯や行遊戯テニスバレーボールバスケットボールハンドボール弓道薙刀などがあり、適さない種目として拳闘格闘フットボールラグビー陸上競技指摘された。こうした意見は主に男性研究者から出され採用された。 近代オリンピック発案したクーベルタン当初女性参加否定的だった。そのため第1回1896年アテネ大会には女性選手参加できず、1920年代まで非公式な参加となった日本女性選手オリンピック参加1928年アムステルダム大会からで、選手43人のうち女性陸上人見絹枝1人であり、人見銀メダル獲得して日本人女性初のメダリストとなった日本人女性初の金メダルは、1936年ベルリン大会水泳前畑秀子となったメディア 1901年から1925年にかけて発行された『女学世界』は、商業誌として成功した日本初女性誌とされる当時都市部核家族化によって主婦増加し他方では教育普及した影響女学生経済的自立求め女性増加しており、『女学世界』はそれぞれの読者応える内容掲載した教育普及によって文字自己表現する女性増え1908年から1917年にかけての『女学世界』は読者投書中核となった投稿内容自由になるにつれ読者間の交流増え常連投稿者から作家デビューした内藤千代子松平鏡子のような人物もいた。女性のみの文芸投稿誌『女子文壇』も1906年創刊され投稿者はのちの『青鞜』へと続いていった。らいてうとの同性愛的な関係などが原因で『青鞜』から独立した尾竹一枝は、芸術誌『番紅花』(さふらん)を創刊した。『番紅花』は女性同性愛関係取り上げ菅原初の小説エドワード・カーペンターの『中性論』の翻訳など掲載した成人女性向けたいわゆる婦人雑誌は、1905年の『婦人画報』、1906年の『婦人世界』、1908年の『婦人之友』が最初期にあたり続いて婦人公論』や『主婦の友』などが創刊された。『婦人之友』を創刊し羽仁もと子家計簿普及にも力を入れ当初家計簿主婦1人による記帳想定していたが、やがて家庭全員参加家計簿作るという構想をした。 治安警察法1900年)により、女性政治結社加入政談集会参加発起人禁止された。メディアへの統制として、1909年に『女子文壇』『婦人画報』などが女学校閲覧禁止となった文部省1913年から「反良妻賢母主義的な婦人雑誌」の取り締まり行い、『青鞜』『女子文壇』『女学世界』などが発禁となった発禁処分繰り返し行われたため廃刊となった雑誌もあった。女性による女性のための文芸誌として『女人藝術』が創刊されその後続誌にあたる『輝ク』は、当時女性作家多数参加するフェミニスト的な思想文芸誌となった。しかし日中戦争以降戦争協力訴え内容変わり1939年には女性芸術家慰問組織「輝ク部隊」が発足し同名慰問文集発行した

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