近代文明への影響
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1940年代にLSDが研究目的で出回りはじめ、1950年代には精神医学やアメリカ中央情報局(CIA)による洗脳や自白の実験のMKウルトラ計画でとりあげられ、このような研究は極秘で行われていた。R・G・ワッソンがメキシコでキノコの調査をしていたときCIAの諜報部員につきまとわれるということがあり、ワッソンとホフマンによる迅速なシロシビン成分の特定がなければ公にならなかったかもしれないともいわれる。 1950年代には、アルフレッド・M・ハバド大尉が世界平和に貢献すると思い、政治家や科学者や警察など広範に赤字でLSDを配った。ハバド大尉が開発したLSDによる精神療法であるサイコリティック療法を精神科医のオズモンドが広めた。 精神科医のハンフリー・オズモンドにハクスリー自らが幻覚剤のモルモットとなることを申し出、1953年の春、幻覚剤のメスカリンによる実験が開始された。その翌年1954年に『知覚の扉』が出版され、学者一族としての観察精神と作家としての筆の確かさを下地に、神秘主義者の認識と幻覚剤による体験を絵画への言及も通して哲学的に考察した。『知覚の扉』は、60年代の意識革命の発端として評価が高く、ハーバード大学の幻覚剤の研究者であるティモシー・リアリーの意識革命の理論の素地となり、リアリーの後継的な存在であるのテレンス・マッケナにも大きな影響を与えた。同じような頃、世界中で麻薬の使用実態を調べ実際に摂取していた作家のウィリアム・S・バロウズは、友人のアレン・ギンズバーグにアヤワスカの体験について手紙を送っている。バロウズによれば中毒性の強いモルヒネや阿片を麻薬と呼んで、幻覚剤と区別し、あらゆる幻覚剤は使用者に聖なるものとみなされ宗教的になるが麻薬はそうではないとしている。 1956年、ハクスリーとの文通でハンフリー・オズモンドがサイケデリックという言葉を思いついた。翌年1957年に、精神分析学会でこの言葉を紹介した。 1959年に最初のLSDの国際会議が開かれたとき、CIAはLSDは人の精神を狂気に追いやると主張し、創造性を高めるといった心理学者による主張を否定した。 LSDは1953年に発表されたDNAの二重らせん構造の着想を与えた。LSDは、芸術家のアンディ・ウォーホルのアートにも影響を与えた。 1960年代、ハーバード大学で幻覚剤の研究を行っていた心理学者のティモシー・リアリーが、刑務所の受刑者に対して行った臨床実験では、シロシビンの摂取によって神や愛について語られるようになり対立がなくなった。ハーバード大学の研究者らは、次第にチベット仏教の経典の一つである『チベット死者の書』が幻覚剤の起こす幻覚体験のガイド本として非常に役に立つものだという見解に至り、幻覚剤を用いる内容に書き直し『チベット死者の書サイケデリック・バージョン』として出版している。この本には、ティモシー・リアリーが研究してきたセットとセッティングの理論の、幻覚剤の摂取体験に際して、幻覚剤の選択と投与量や自他の心構えと周囲の環境が重要であるということについても書かれている。1960年代には、LSDが大量に流通し幻覚体験がヒッピームーブメントの素地となっていた。こうしたムーブメントはサマー・オブ・ラブとも呼ばれる。LSDはアシッドと俗称されアシッド・ロックといった音楽シーンも作り出した。40万人を導引したロックフェスティバルのウッドストック・フェスティバルでもLSDが流通したといわれる。 1965年に、LSDを体験したオーガスタス・オーズリーは大学を中退しLSDの工場をつくり、オーズリーブルースと呼ばれるバッドマンの絵が描かれた高品質のLSDを安価を製造し世界中に流通した。LSDは1966年にアメリカの法律で禁止された。オーズリーがFBIに逮捕されると、スカリーとオーズリーの弟のティムがその意思を引き継ぎ、オレンジサンシャインという名で流通させたが、起訴されたときにはスカリーはLSDの摂取によって心が優しくなるので流通させたとし、また製造したのはLSDではなくALD52という近似の化学構造を持った物質であると主張した。 ジョン・グリッグスはティモシー・リアリーの著書を読み、永遠なる愛の共同体というLSDとマリファナを安価に流通させる組織を結成し、組織は国際的な麻薬流通組織となったが、グリッグスは猛毒のストリキニーネの混ざったシロシビンを摂取して死亡した。ストリキニーネの混じった麻薬は殺害を目的として渡されるものである。後にCIAのロナルド・スタークが永遠なる愛の共同体の代表となり、スイスの隠し金庫に稼ぎを預金していた。LSDの安価な製造法を開発し永遠の愛の兄弟団にその製造法を提供したリチャード・ケンプは、永遠なる愛の共同体の後継として1970年代にイギリスでLSDを流通させ、1970年代半ばに逮捕されたが、その裁判の公判記録によって安価なLSDの製造法が広まっていった。歌手のジョン・レノンは、暗殺される直前にCIAはLSDによってわたしたちをコントロールしようとしたが結果として自由を与えた言っている。 ニューメキシコ大学のリック・ストラスマンによれば、60人の被験者の半数近くがDMTの摂取によって地球外生物に遭遇したと主張している。テレンス・マッケナは、DMTがエイリアンと遭遇する次元を誘発すると考えていた。脳科学者でLSDやケタミンの研究を行っていたジョン・C・リリーはケタミンの摂取によって、地球外知性体とコンタクトしたと述べている。アヤワスカの摂取によって異次元に行き、体の半分が人間以外の生物であるような存在に接触するといわれる。 1970年代には、テレンス・マッケナが、マジックマッシュルームの栽培に関する本を出版し、アメリカでこうしたキノコの入手が容易になっていった。テレンス・マッケナは、リアリー本人にも「1990年代のティモシー・リアリー」と呼ばれるほどこうした意識革命の文化に影響力をもった存在になっていった。 1960年代のLSDによるカウンター・カルチャーの若者は、コンピュータや先端科学も利用するカウンター・カルチャーであるサイバーパンクへと変容していった。また、このリアリーを発端とする意識の自由を求める思想は1980年代以降も有力に機能しているとも評価されている。WIREDといった雑誌やウェブサイトでその流れが継続されている。 MDMAは視覚に幻覚はもたらさず、共感性を高めるという特徴がある。心的外傷後ストレス障害(PTSD)の患者に対して共感性を高めるといわれるMDMAを投与する治療研究が行われた。1984年頃、アメリカのテキサス州で大量生産され流通したが、同年アメリカで違法薬物に認定された。 1980年代後半より、スペインのイビサ島で電子音音楽シーンからアシッド・ハウスとしてLSDが流通する音楽シーンとしてリバイヴァルされた。MDMAは、1980年代後半のイギリスのレイヴシーンに影響を与えた。これはセカンド・サマー・オブ・ラブとも呼ばれる。LSDだけでなくMDMA(エクスタシー)の使用も増加していった。レイヴシーンはその後、アメリカの主にサンフランシスコへ飛び火した。テレンス・マッケナによれば、レイブはハイテク化したヒューマン・ビーインである。そして、2000年前後には、レイブシーンはドイツのベルリンで100万人以上が参加するラブパレードというイベントにも発展している。 1990年前後にはインドのゴアでしばしばLSDを用いて行われていたゴアトランスなどのダンス・パーティがサイケデリックトランスへと発展した。
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