にょにんげいじゅつ【女人芸術】
女人芸術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/23 02:11 UTC 版)
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女人藝術(にょにんげいじゅつ[1])は、長谷川時雨が主宰して、1928年(昭和3年)7月から1932年(昭和7年)6月まで48冊を出した女性の文芸・総合雑誌で、次第に女性解放の理論誌的色彩を濃くした。ほかに、ともに短命に終わった同名の雑誌2例が記録されている。
歴史と作品


前列:八木秋子、英美子、北川千代、林芙美子、長谷川時雨、生田花世、戸川静子、堺真柄ら。
後列:島本久恵、上田文子、熱田優子、神近市子、今井邦子、板垣直子、大村嘉代子、弘津千代ら。
当時「女性進出」に意欲を持っていた女流作家で、姉御的気質とも言われた長谷川時雨は、1928年7月に後進に発表の場を開き、婦人の解放を進めるため、女性が書いて編集してデザインして出版する商業雑誌、『女人芸術』を発刊した。この資金には、時雨の年下の夫で、彼女が人気大衆作家に引き上げた三上於菟吉によるものを充てた。
創刊時は、発行が長谷川時雨、編集は元島崎藤村の書生で当時新潮社に勤めていたのを引き抜いた素川絹子、印刷が生田花世、発行所が牛込区左内町(現新宿区市谷左内町)の時雨宅内『女人藝術社』だった。のち編集も時雨が兼ね、発行所は赤坂檜町(現赤坂9丁目)へ引っ越した。城しづか(夏子)、堀江かど江、望月百合子、八木秋子、小池みどり、川瀬美子らも参画した。元画家志望で、時雨の妹の画家春子の知り合いだったことで参加した熱田優子もいた[2]。
毎号の赤字は、三上於菟吉が補填した。
菊判、150ページ前後、定価は文藝春秋と同じ40銭。読者の投稿は選考の上掲載した。連載物として、時雨の回想記『日本橋』と林芙美子の『放浪記』などが記憶される。また、各地に支部を作り、名古屋の矢田津世子、広島の大田洋子、神戸の高橋鈴子が著名だった。時雨は各方面に顔が広く、梨園の関係では元六代目菊五郎夫人寺島やす、森律子、村田嘉久子なども、執筆はしないがグループに加わっていた。[2]
全48冊の総目次[3]には、年齢順に、岡田八千代、野上弥生子、神近市子、山川菊栄、三宅やす子、島本久恵、富本一枝、高群逸枝、長谷川春子、湯浅芳子、尾崎翠、野溝七生子、中条百合子(宮本百合子)、望月百合子、真杉静枝、大谷藤子、戸田豊子、平林英子、林芙美子、中本たか子、村山籌子、窪川いね子(佐多稲子)、竹内てるよ、平林たい子、上田文子(円地文子)、松田解子、矢田津世子、大田洋子、若林つや、などの執筆陣の名が載っている。そして後期には、河上肇、大塚金之助、木村毅、三木清、野呂栄太郎、小林多喜二など男性の名も見える。
1928年(昭和3年)7月の創刊号には、評論で山川菊栄「フェミニズムの検討」、神近市子「婦人と無産政党」、創作欄で平林たい子「生活」、ささきふさ「遠近」、真杉静枝「ある妻」、長谷川時雨「甘美媛」、翻訳で松村みね子訳オフラハアテイ「野にいる牝豚」、八木さわ子訳ドオデエ「アルルの女」などの他に、短歌・詩・随筆などを掲載[4]。
初期は小説・詩歌・随筆・評論などの文芸雑誌で、各界の人気者番付・恋愛座談会などの娯楽記事まで載っているが、次第に文芸欄は縮まり、左傾化して、ソヴィエトの紹介、労働運動・農民運動・国際問題の記事、読者の手記やルポルタージュが増えた。アナーキスト系の望月百合子や八木秋子と、コミュニズム系の中島幸子の論争も行われ、当時「労働女塾」を開いていた帯刀貞代のところに逃げ込んだ、吉原の娼妓として話題になった松村喬子の体験記も掲載された[5]。1930年5月号、同6月号は、発売禁止処分にされた。
昭和恐慌のさなかだった。農村は疲弊していた。安値・低品質のメイド・イン・ジャパンを造る工場では、女子工員が低賃金にあえいでいた。ソヴィエトを労働者の楽園とするような言論は、貧困層の耳に入りやすかった。『「女人芸術」はアカだ』、『買うと警察にマークされる』など言われた。講演会では監視する警官がしばしば、『弁士中止』を叫んだ。
日本橋のブルジョワの家に生まれた時雨は、政治的に無色だったが、弱きを助ける江戸っ子で、雑誌の左傾を放任した。1929年に彼女の発案で『全女性進出行進曲』を募集し、3回の募集で2800通の応募があり、2等当選(賞金百円)採用された松田解子の詞は、1930年1月号で発表され、『起て! 燃えつゝ行け /闘ひのこの日ぞ /新たなる世をはらむ /世界の母われら』などと、勇ましかった[6]。時雨はこの編集後記で「奮え、諸氏よ。我々はこの歌を高唱して怯懦なる我を追い退けよう」と書いた[7]。
1931年(昭和6年)、10月号が発禁になった。関東軍が満州事変を始めていた。そしてまた発行を続けたが、翌1932年6月号を出して突然廃刊した。印刷会社への支払いの滞りと時雨の腎盂炎の悪化とが原因だった。
7月号は刷り上がっていたが、処分されて残っていない。
その後、長谷川は雑誌『輝ク』を主宰し、輝ク会をつくって、女性文化人の結集をはかった。
ほかの『女人藝術』誌

- 1923年8月、長谷川時雨が、旧『青鞜』派の岡田八千代らと同人雑誌『女人藝術』を創刊し、平塚雷鳥、富本一枝らも加わった。第2号を出してのち、関東大震災にみまわれて終わった。編集発行人は長谷川康。発行所は、牛込区中町(現新宿区)元泉社内女人芸術社であった。時雨はこれを『前期女人藝術』と呼んでいた。
- 昭和24年1月号のみの『女人芸術』が、『女流文学者会』機関誌として鎌倉文庫から出た[8]。この『女流文学者会』は、1936年に吉屋信子、林芙美子らが結成し、鎌倉文庫が倒産した1949年から1961年までの間、女流文学者賞を出していた[9]。
出典
- ^ 女人芸術とは - コトバンク(2021年7月16日閲覧)
- ^ a b 高見順『昭和文学盛衰史』講談社 1965年
- ^ 小田切進編:『現代日本文芸総覧 補巻』、明治文献(1973年)」の、p.208 - 248
- ^ 高見順『昭和文学盛衰史』文春文庫、1987年、p.180
- ^ 高見順『昭和文学盛衰史』文春文庫、1987年、pp.190-191
- ^ 山田耕筰曲、川原喜久恵歌、日本蓄音機商会 → 『山田耕筰の遺産9』の第11曲、コロムビアミュージックエンタテインメント、COCA-13179(1996)
- ^ 高見順『昭和文学盛衰史』文春文庫、1987年、p.195
- ^ 「『新潮日本文学辞典』(1988年)」中の、小田切進:『女人芸術』
- ^ 「吉屋信子:『自伝的女流文壇史』、中公文庫(1976年)」中の、『女流文学者会挿話』
参考文献
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- 尾形明子:『女人芸術の世界』、ドメス出版(1980)ISBN 9784810701173
- 岩橋邦江:『評伝 長谷川時雨』、筑摩書房(1993)ISBN 9784480823069
- 「小田切進編:『現代日本文芸総覧 補巻』、明治文献(1973年)」の、p.678 - 680
外部リンク
女人芸術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:21 UTC 版)
1923年(大正12年)、岡田八千代との同人雑誌、『女人芸術』を出したが、関東大震災のため、2号で終わった。 1928年(昭和3年)、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上のため、商業雑誌『女人芸術』を創刊した。大衆文学に転じて流行作家になっていた三上が、費用を負担した。時雨は文化人らを招いてレインボー・グリルで創刊披露の会を開いたり、日本青年館で音楽と映画の夕べを開くなどして宣伝にも務めたが、優れた執筆陣が集まって多くの作家を生み出した。自伝的作品『旧聞日本橋』も同誌に連載されている。しかし世相のなかで徐々に左傾し、たびたび発禁処分を受け、資金に詰まり、1932年の48号目までで廃刊した。 1933年、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。今度は、タブロイド判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子 /三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎など。会員からの投稿も多かった。『女人芸術』誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。会員仲間でピクニックや観劇もした。 1936年(昭和11年)、三上於菟吉が脳血栓で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、関東軍が支那事変を始め、『輝ク』は前線の兵士や遺族、留守家族らの慰問など『戦争応援』の方向へ旋回し、1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。旋回に会員間の摩擦により、1938年には2度の休刊する。1939年(60歳)、女性の銃後運動を統率する『輝ク部隊』を結成し、慰問袋を募って送り、戦死者の遺族や戦傷者を見舞い、占領地や戦地に慰問団を派遣した。 1940年、陸海軍の資金により、文芸誌『輝ク部隊』および『海の銃後』を編んで、紀元二千六百年の前線へのお年玉とし、1941年1月にも『海の勇士慰問文集』を送った。『女人芸術』誌以来の本格的な雑誌であった。その1月から、『輝ク部隊』の『南支方面慰問団』の団長として、台湾・広東・海南島などを約1ヶ月強行軍した。その後も忙しくして、発病し、白血球顆粒細胞減少症のため8月22日早暁、慶應病院で没した。24日芝青松寺で営まれた『輝ク部隊葬』には600人が焼香、鶴見總持寺の長谷川家代々の墓地に葬られた。また『輝ク』は追悼号を出してのち、11月の103号で終刊した。
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