にょにんげいじゅつ【女人芸術】
女人芸術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:51 UTC 版)
女人芸術(にょにんげいじゅつ[1])、当時の表記としては女人藝術は、長谷川時雨が主宰して、1928年(昭和3年)7月から1932年(昭和7年)6月まで48冊を出した女性の文芸・総合雑誌で、次第に女性解放の理論誌的色彩を濃くした。ほかに、ともに短命に終わった同名の雑誌2例が記録されている。
- ^ 女人芸術とは - コトバンク(2021年7月16日閲覧)
- ^ a b 高見順『昭和文学盛衰史』講談社 1965年
- ^ 小田切進編:『現代日本文芸総覧 補巻』、明治文献(1973年)」の、p.208 - 248
- ^ 高見順『昭和文学盛衰史』文春文庫、1987年、p.180
- ^ 高見順『昭和文学盛衰史』文春文庫、1987年、pp.190-191
- ^ 山田耕筰曲、川原喜久恵歌、日本蓄音機商会 → 『山田耕筰の遺産9』の第11曲、コロムビアミュージックエンタテインメント、COCA-13179(1996)
- ^ 高見順『昭和文学盛衰史』文春文庫、1987年、p.195
- ^ 「『新潮日本文学辞典』(1988年)」中の、小田切進:『女人芸術』
- ^ 「吉屋信子:『自伝的女流文壇史』、中公文庫(1976年)」中の、『女流文学者会挿話』
女人芸術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:21 UTC 版)
1923年(大正12年)、岡田八千代との同人雑誌、『女人芸術』を出したが、関東大震災のため、2号で終わった。 1928年(昭和3年)、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上のため、商業雑誌『女人芸術』を創刊した。大衆文学に転じて流行作家になっていた三上が、費用を負担した。時雨は文化人らを招いてレインボー・グリルで創刊披露の会を開いたり、日本青年館で音楽と映画の夕べを開くなどして宣伝にも務めたが、優れた執筆陣が集まって多くの作家を生み出した。自伝的作品『旧聞日本橋』も同誌に連載されている。しかし世相のなかで徐々に左傾し、たびたび発禁処分を受け、資金に詰まり、1932年の48号目までで廃刊した。 1933年、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。今度は、タブロイド判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子 /三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎など。会員からの投稿も多かった。『女人芸術』誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。会員仲間でピクニックや観劇もした。 1936年(昭和11年)、三上於菟吉が脳血栓で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、関東軍が支那事変を始め、『輝ク』は前線の兵士や遺族、留守家族らの慰問など『戦争応援』の方向へ旋回し、1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。旋回に会員間の摩擦により、1938年には2度の休刊する。1939年(60歳)、女性の銃後運動を統率する『輝ク部隊』を結成し、慰問袋を募って送り、戦死者の遺族や戦傷者を見舞い、占領地や戦地に慰問団を派遣した。 1940年、陸海軍の資金により、文芸誌『輝ク部隊』および『海の銃後』を編んで、紀元二千六百年の前線へのお年玉とし、1941年1月にも『海の勇士慰問文集』を送った。『女人芸術』誌以来の本格的な雑誌であった。その1月から、『輝ク部隊』の『南支方面慰問団』の団長として、台湾・広東・海南島などを約1ヶ月強行軍した。その後も忙しくして、発病し、白血球顆粒細胞減少症のため8月22日早暁、慶應病院で没した。24日芝青松寺で営まれた『輝ク部隊葬』には600人が焼香、鶴見總持寺の長谷川家代々の墓地に葬られた。また『輝ク』は追悼号を出してのち、11月の103号で終刊した。
※この「女人芸術」の解説は、「長谷川時雨」の解説の一部です。
「女人芸術」を含む「長谷川時雨」の記事については、「長谷川時雨」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 女人芸術のページへのリンク