新進作家へ
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翌1916年(大正5年)もたびたび投稿作が掲載され、「新潮」十二月号に『夏逝くころ』を発表したのを契機に本格的に文学に取り組む決心を固め始め、1917年(大正6年)1月に大岩尋常小学校を退職し、はじめての上京を果たした。東京帝国大学農科在学中で肥料を研究していた三兄史郎の下宿していた渋谷道玄坂に身を寄せた。少女雑誌「少女世界」に少女小説を発表しはじめる。1919年(大正8年)、日本女子大学国文科に入学。目白の春秋寮にて親友の松下文子と同室になり、以降、生涯を通じて親友となった。 1920年(大正9年)「新潮」一月号に『無風帯から』を発表した。同誌には芥川龍之介、志賀直哉、佐藤春夫らと著名作家らも名を連ねていたものの、学生でありながら「新潮」に創作を発表したことが大学に咎められ、2月に退学し、帰郷することになった。なお、この翠の退学に同情するように松下文子も退学している(のち日本大学専門部宗教学科に再入学)。同年「新潮」十二月号にて2作目として短編『松林』も発表した。1921年(大正10年)、再び上京し、松下文子宅に同居し、出版社に勤めるものの、続かず、数ヶ月で断念している。ふたたび東京生活をも断念することになったが、それでも鳥取と東京とを断続的に行き来する生活を続けており、上京時は親友松下文子のもとに身を寄せていた。この頃から頭痛に悩まされ、鎮痛剤ミグレニンを常用するようになっていった。1926年(大正15年)1月、橋浦泰雄・白井喬二・生田長江・生田春月らと鳥取県無産県人会に参加(在京の鳥取県出身者による親睦者団体である)。 1927年(昭和2年)2月、松下文子が結核のため東大小石川分院に入院し、その見舞いをかねて上京し、上落合の借家にて文子と移り住む。当時、まだ無名だった林芙美子が杉並の借家から訪ねてくるようになり、交流を重ねた。またこのころ、映画梗概『琉璃玉の耳輪』を丘路子名義で執筆しており、阪東妻三郎プロに採用され、推敲を頼まれるものの、そのままになり、映画化は実現することがなかった。1928年(昭和3年)、親友で詩人の松下文子が北海道旭川の林学博士松下真孝と結婚し、共同生活は終わりを迎える。しかし友情と交友関係は生涯にわたった。 1929年(昭和4年)、「女人芸術」八月号に戯曲『アップルパイの午後』を発表する。作品発表の場が少しずつ広がってきたものの生活は苦しく、母からの仕送り頼りの生活が続いていた。また、かねてから常用していたミグレニンの服用量が増えたため体調を崩しがちになったのもこの頃である。1930年(昭和5年)、「女人芸術」に映画評『映画漫想』を連載し、また秋以降には『第七官界彷徨』の執筆が始まったものと思われる。12月には、かねてから作品を通じて関心を寄せていた高橋丈雄との交際が深まり、その高橋らの仲間と新雑誌「文学党員」発刊の話が起こり、翠もその雑誌のために『第七官界彷徨』を執筆することになった。翌1931年(昭和6年)、「文学党員」に『第七官界彷徨』の半分強が掲載され、6月には板垣鷹穂に求められて「新興芸術研究」に全篇を掲載した。また9月、島津治子主宰の「家庭」に短篇『歩行』も発表した。1932年(昭和7年)、栗原潔子編集「火の鳥」七月号に短篇『こほろぎ嬢』、中河与一主宰「新科学文芸」八月号に『地下室アントンの一夜』発表した。特に『こほろぎ嬢』は太宰治が関心を抱き、高橋丈雄に絶賛を伝えたと言われている。作家として交際範囲も広がり、同業作家である中村地平や井伏鱒二も作品に関心を抱いて、上落合の自宅を訪ねてきたのもこのころである。交際範囲が着々と広がるもの、この秋以降、常用していた薬物により、心身ともにますます変調をきたし、幻覚症状に襲われることが多くなり、9月に至って、高橋丈雄に助けを求めるものの、病状悪化が篤く、そのただならない様子に、やむを得ず長兄篤郎へ連絡をつけ、ほぼ強制的に連れ戻されるかたちで鳥取に帰郷せざるを得なくなった。 1933年(昭和8年)7月、啓松堂より『第七官界彷徨』を単行本として出版した。当時若い世代として新進文学者であった花田清輝、平野謙、巖谷大四に新鮮な驚きをもって読まれたのもこの時である。そのとき翠はすでに帰郷していたが、鳥取でも出版記念会が催され、地元の文学関係者、新聞関係者らとともに、郷里で健康を取り戻した翠本人も主役として参加していた。ただ、この帰郷以降、表だった創作活動からは離れてしまい、東京で築いた文学活動とも永久に別れることになった。
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