新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:10 UTC 版)
「羽田孜」の記事における「新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ」の解説
6月30日自社さ連立政権・村山内閣が発足し、野党に転落した。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に新進党が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、小沢らの打診で副党首となった。 1995年(平成7年)12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突した。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていった。1996年(平成8年)の、第41回衆議院議員総選挙で自身は新設の長野3区で小選挙区一本で出馬し重複立候補している新党さきがけ党首で社民党・自民党推薦する井出正一に圧勝も新進党自体が敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し太陽党を結成、党首となった。 1997年(平成9年)12月に新進党が分党すると、1998年(平成10年)1月8日 に、 民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、フロム・ファイブ、民主改革連合が院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)結成。同年1月28日、太陽党、国民の声、フロムファイブが統合して民政党を結成し、代表となった。さらに4月27日には民主党、民政党、新党友愛、民改連が統合し、新・民主党が結成され、初代幹事長に就任。首相経験者の政党幹事長就任は前例がなく「羽田は首相再登板の目を覗っている」との見方もあったが、その後は事実上の名誉職である特別代表、最高顧問を歴任した。 2004年(平成16年)5月、国民年金への加入が義務付けられた1986年(昭和61年)4月から首相在任期間を含む1995年(平成7年)7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任した。 「政治家の年金未納問題」も参照 2009年(平成21年)8月、脳梗塞後遺症等の体調不安が囁かれる中、8月30日に行われる衆院選への立候補を最後に政界を引退する考えを表明した。衆院選について、「大きく考えれば、最後の選挙になるだろうというのが常識的なところだ」「後継者は党や後援会と相談して決めたい」と述べ、また長男の羽田雄一郎について周辺に「世襲は認めない」と伝え、後継として擁立しない考えを示した。 2009年(平成21年)9月16日に、民主党政権が発足し長年の宿願であった政権交代が実現された。この日国会で行われた首班指名投票では体調不良により投票箱のある演壇に自力で上り下りすることができなかったため、小沢一郎に片腕を支えられながら投票を行った(以降も投票の際、他の民主党衆議院議員が介添えをしながら行なっていた)。かつて政権交代を目指して自民党を離党した時の盟友同士でありながらその後の政局の流れで訣別した羽田と小沢のツーショットが計らずも政権交代当日に再現された。民主党代表選挙でも投票の際、登壇するのに介添えを必要としていた。 小沢との関係はかなり回復し、陸山会の土地取引に絡む政治資金規正法違反事件の渦中になる小沢に対し「俺とお前は一心同体だ、羽田グループとして全面的に支える」と明言した。また2010年9月民主党代表選挙でも小沢を支持していた。
※この「新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ」の解説は、「羽田孜」の解説の一部です。
「新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ」を含む「羽田孜」の記事については、「羽田孜」の概要を参照ください。
- 新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へのページへのリンク