新進党時代
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1994年12月に民社党が解党して新進党の結党に参加した際に、旧民社党所属の国会議員・地方議員によって結成された。このような沿革から、連合内の旧同盟系労組(自動車総連、電力総連、UIゼンセン同盟など)を支持基盤としている。 1997年12月の新進党解党時点では旧民社党系国会議員が33名いた。彼らの進路は、以下に示すように、新党友愛に23名、小沢自由党に9名、無所属に1名と分かれた。 新党友愛(23名)伊藤英成(衆議院) 川端達夫(衆議院) 鍵田節哉(衆議院) 神田厚(衆議院) 今田保典(衆議院) 嶋聡(衆議院) 島津尚純(衆議院) 城島正光(衆議院) 高木義明(衆議院) 田中慶秋(衆議院) 玉置一弥(衆議院) 中野寛成(衆議院) 福岡宗也(衆議院) 吉田治(衆議院) 足立良平(参議院) 石田美栄(参議院) 今泉昭(参議院) 勝木健司(参議院) 寺崎昭久(参議院) 直嶋正行(参議院) 長谷川清(参議院) 平田健二(参議院) 吉田之久(参議院) 小沢自由党(9名)青山丘(衆議院) 安倍基雄(衆議院) 塩田晋(衆議院) 中井洽(衆議院) 中村鋭一(衆議院) 西村眞悟(衆議院) 鰐淵俊之(衆議院) 都築譲(参議院) 西村章三(衆議院) 無所属(1名)笹木竜三(衆議院)
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新進党時代
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1994年(平成6年)9月28日、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。海部の就任会見では、臨席した小沢に核心の質問が集中し、海部が「党首は私ですから。」「質問の順番が逆じゃないですか。」といきり立つ一幕もあった。 1995年(平成7年)7月、第17回参議院選挙で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。羽田との決裂は決定的となり、党内に更なる亀裂を生じた。 1996年(平成8年)10月20日に第41回衆議院選挙が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため、選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選した。 総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和・岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。 1997年(平成9年)、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。 12月18日の党首選挙で、小沢は鹿野を破り再選した。この党首選に先立ち、公明が次期参議院選挙を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求した。12月27日に小沢は旧公明党の参議院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。
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