新進時代とは? わかりやすく解説

新進時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:17 UTC 版)

今東光」の記事における「新進時代」の解説

横浜市伊勢町野毛山伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩山奉行家系の父・武平(ぶへい)、母・綾の間の3人兄弟長男として生まれた。四男 信巳(のぶみ)は早世。しばしば文学史年譜などに「横浜市伊勢崎町生まれ」とあるが、あきらかに間違いで、現在の横浜市中区伊勢町宮崎町には、日本郵船会社NYK)の社宅があった。父武平明治元 9/4 生)は船長職の最古参で、国内五港定期航路 品川丸を経て海外航路 香取丸キャプテン務める。四男が生まれた明治40年1907年)頃、南インド・マドラスに寄港、船の修理船渠ドック入りした折、アディアールで神秘思想触れ、「神智学協会 The Theosophical Society 霊智学会とも呼称会員となる。以後胡桃船長」の異名をとるほどに菜食主義徹した有数神智学徒としても知られた。アニー・ベサントジッドゥ・クリシュナムルティ親交深め1914年ベサントクリシュナムルティ救世主として作った、星の教団 The Order of the Star in the East入会1916年来日時ラビンドラナート・タゴール知遇になったり、第一次世界大戦時に船がドイツ無差別攻撃巡洋艦エムデン追われたが、智略によってこれを回避したりした。1920年東京市本郷区西片町に「神智學協会東京ロッヂ」 を開設鈴木大拙夫人神智学者だったベアトリス・レイン(Beatrice Lane)とも交流した。母、綾は、函館遺愛女学校遺愛学院)、明治女学校学んだ才媛佐藤紅緑サトウハチロー佐藤愛子の父)とは小学校同級生だった。東光は父の転勤に沿い、幼年・少年期小樽函館横浜大阪転じ10歳より神戸で育つ。この頃神戸御影に家があり、父同士友人だった郡虎彦影響文学関心持ち永井荷風谷崎潤一郎耽読漢文長け北原白秋室生犀星文通試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部第3学年1学期終わり諭旨退学になった兵庫県立豊岡中学校転校する地元文学少女恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。こののち正規教育を受けることなく本人の記すところに拠ると以後独学」とある。 1915年上京して小石川茗荷谷伯父の家に寄食し、「太平洋画会太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い画家目指しながら文学志し東郷青児関根正二らと親交を結び、生田長江佐藤春夫紹介される東郷佐藤春夫第6回二科展油彩出品するも選に入らず絵筆を折る。またこのころ東郷とりもちで、本郷三丁目西洋料理店・燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した芥川龍之介がこのエピソードをもとに短編』を創作)。1917年11月室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」が掲載されるこの間一家神戸から東京市本郷区西片町引越し東光実家戻った1918年秋、駒込佐藤春夫宅で谷崎潤一郎遇い以後生涯、師と仰ぐこととなった谷崎非常勤無給秘書務めながら、1920年神戸時代知人(二弟の同級生池田虎雄=麗進(大阪 千日前日蓮宗 妙見宮 登山安寺)の紹介で、一高寮で知り合った川端康成鈴木彦次郎らと交友深め一高モグリ学生となり「盗講」と号し芥川龍之介勧め塩谷温博士中国古典講義聴講した1921年川端の強い推薦により、ともに第6次新思潮」の発刊同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出担当し帝大生の論文代筆引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆出目草紙」を認められ菊池寛訪問を受け『文藝春秋』創刊参画その後石浜金作らと新進作家による『文藝時代創刊参加して1924年軍艦」、1925年痩せた花嫁」などを発表1924年創刊の『苦楽』に発表した朱雀門」も高く評価され新感覚派文学運動の作家として位地を得る。 しかし、菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光正規文学士ではないという理由から執筆メンバーから外したこと、また『文藝春秋1924年11月号が掲載した文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事執筆直木三十五)に腹を立て反駁文を『新潮』に掲載したことなどをきっかけ激しく菊池寛ら「既成文壇権威」と対立し袂を別ち、『文藝時代』も脱退した文藝時代#『文藝時代創刊をめぐる騒動参照)。新潮社中村武羅夫らによる「不同調」に参加する同時に神楽坂白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊村山知義表紙画担当間宮茂輔サトウハチローらが参加し参加者プラカードぶら下げて「文党」の歌(桃太郎の節)を歌いながら街頭練り歩くなどもした。「苦楽」に掲載した異人娘と武士」は阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化され大当たりし、この縁で阪妻プロ顧問となり、一時京都嵯峨野にも住む。また関東大震災時に一緒に逃げ歩いた元帝国劇女優人妻とのちに結婚する1925年処女作品集『痩せた花嫁』(金星堂)を出版し好評を受け、雑誌からの執筆依頼増え1926年には初の新聞小説『愛経』(東京日々新聞大阪日日新聞)を連載1927年芥川龍之介自殺遭いこの頃より出家志す。また「文党」に集まっていた社会運動家影響プロレタリア文学にも関心強め新感覚派片岡鉄兵鈴木彦次郎とともに左傾」を声明し、1929年日本プロレタリア作家同盟参加作家同盟機関誌戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩百姓一揆題材にした『奥州流血録』などを発表プロレタリア大衆文学先駆的作品とされる(ただし、この著作生出仁によるものであったという説が有力)。また、映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合委員長つとめていた。しかし、妻フミ子の嫉妬極端な独占欲により文学関係者との交際妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢決定打となって次第文壇距離を置く。この時期妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地古刹天台宗 正覚蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪住職弓削俊澄僧正知遇得て非常勤私設秘書買って出た

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