新進気鋭時代
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1922年(大正11年)1月、処女出版の童話画集『ロビン・フッド』(婦人之友社)刊、ベルリンへ出発する。表現派、構成派の美術、演劇、舞踊に魅せられ学業を断念した。秋、ミュンヘンの万国美術館に2点入選する。1923年1月帰国し、直後の2月19日付『読売新聞』には早速「構成派と触覚主義―ドイツ美術界の新傾向―」を寄せた。5月、自宅の上落合にて個展「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」開催。7月の初め、門脇晋郎、大浦周蔵、尾形亀之助、柳瀬正夢らと前衛美術団体マヴォ結成。7月28日から8月3日まで、マヴォ第一回展覧会が浅草の伝法院にて行われる。7月機関誌「Mavo」創刊。 9月1日の関東大震災で都市機能の壊滅に遭遇し、バラック建築の設計にも関わった。マヴォ理髪店、バー・オララ、吉行美容室(吉行あぐりの店)などが知られ、今和次郎のバラック装飾社とともに震災後の建築界で異彩を放った。1924年?10月、映画館葵館の緞帳制作。1924年11月芸術論集『現在の芸術と未来の芸術』(長隆舎書店)刊。12月築地小劇場公演のゲオルグ・カイザー作、土方与志演出「朝から夜中まで」の舞台装置制作、日本最初の構成派の舞台装置で、村山がはじめて手がけた演劇上の仕事である。この年岡内籌子(村山籌子)と結婚。1925年7月今東光らと『文党』創刊。この頃より次第に前衛芸術運動からは遠ざかり、9月22日朝刊の『東京朝日新聞』「学芸だより」に村山のマヴォ脱退の記事がある。
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