新運河条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 18:32 UTC 版)
1964年の事件をきっかけとしてアメリカ合衆国政府内でも運河をパナマに返還すべきであるとの議論が高まった。1970年、トリホスは1967年の運河条約草案を破棄し、改めて新しい運河条約の交渉を開始した。1973年には、パナマにおいて国際連合安全保障理事会が開催され、パナマ運河に対するパナマの主権を認め、ヘイ・ビュノー・バリリャ条約を破棄し、パナマの主権を尊重した新条約を成立させることを勧告する決議案が提案された。この決議案は、アメリカ合衆国の拒否権発動により採択されなかったが、理事15カ国のうちアメリカ合衆国及び英国を除く13カ国の支持を得た。 また、1974年には、ヘイ・ビュノー・バリリャ条約及びその改訂条約を破棄すること、運河地域の貸与を期限付きのものとすること、新条約に規定された貸与期間満了と同時に運河地域におけるアメリカ合衆国の管理権は失効し、パナマに運河が返還されること等を内容とする新しい運河条約の原則(キッシンジャー・タック宣言)が発表され、条約交渉は前進した。 1977年に新しい運河条約及び運河中立条約(トリホス・カーター条約)がトリホスとカーターアメリカ合衆国大統領により署名された。新運河条約は、1999年12月31日までアメリカ合衆国が運河の運営・維持・防衛を行うことを規定し、アメリカ合衆国は返還まで通航料収入の一部をパナマに支払うことになった。運河中立条約は、すべての国家に運河通航権があるとしながらも、パナマ及びアメリカ合衆国が運河中立維持のため運河の防衛にあたると規定している。1979年に二つの条約は発効した。
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