米軍侵攻と民主化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 18:32 UTC 版)
パナマの民主化とノリエガ退陣を求めるアメリカ合衆国との関係は悪化したが、アメリカ合衆国は、1989年10月に発生したヒロルディ少佐ら軍の一部によるクーデターを支援せず、クーデターは鎮圧され失敗に終わった。しかし、12月20日になりアメリカ合衆国は「正当な理由作戦」(Operation Just Cause)により、米軍24,000人をパナマに侵攻させ、エンダラが大統領に就任した。三日間の戦闘で数百~数千人のパナマ人が死亡した。 1990年1月、ノリエガは米軍に投降しその後アメリカ合衆国に身柄を移送され、1992年4月にマイアミで麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた(後に30年に減刑された)。また、国家防衛軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊、海上保安隊及び航空保安隊で構成される)に再編された。 米軍侵攻後に成立したエンダラ政権では、民主主義体制の定着と国際社会への復帰、軍事政権末期に悪化した経済の回復及び軍事政権末期に悪化した経済の回復国際社会への復帰が課題となった。 1991年12月、パナマはグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカと共に中米統合機構 (SICA) 設立に関するテグシガルパ議定書に署名(批准は1996年)し、中米統合プロセスに参加することになった。また、1994年にはリオ・グループに再加盟し、さらにラテンアメリカ12カ国及びカリブ共同体 (CARICOM) 加盟国と共に、カリブ諸国連合 (ACS) を結成した。 軍事政権末期にパナマ経済は悪化したが、エンダラ政権では国際的支援による1992年の国際金融機関との債務延滞の解消、好調な建設部門等により比較的高い経済成長を達成した。しかし、失業、貧困問題の悪化から、国民の不満は高まった。 1994年5月に実施された大統領選挙では、与党アルヌルフィスタ党からアリアス大統領の夫人だったモスコソをはじめ、バヤダレス (PRD) 、ブレイズ(パパエゴロ党)、カルレス(モリレナ党)、バヤリーノ(キリスト教民主党)、ルイス(連帯党)、ムニョス(パナメニスタ教義党)の7名が立候補したが、野党PRDのバヤダレスが総投票数の33.3%を獲得して勝利し、同年9月に大統領に就任した。同時に行われた国会議員選挙でもPRDは同盟党の議席と併せ国会における過半数の議席を獲得した。 10月、国会は憲法改正法案を可決し、軍隊廃止及びパナマ運河庁 (ACP) に関する規定等を盛り込んだ憲法改正が成立した。1997年9月、新運河条約に規定された1999年12月までの米軍撤退のプロセスであるアメリカ合衆国南方軍司令部の閉鎖式が行われた。 バヤダレス政権は、1997年9月に世界貿易機関 (WTO) へ加盟する等、パナマの世界経済への統合を推進すると共に、国営電話通信会社 (INTEL) 及び国営電気会社 (IRHE) 等の国営企業を民営化し、その売却益を開発信託基金 (FFD) として運用し、さらに自由競争及び消費者問題委員会 (CLICAC) 及び公共サービス監視機構 (Ente Regulador de los Servicios Públicos) 等を設置し、国内企業の生産性及び競争力向上に努めた。 1998年8月、バヤダレスは、国民投票(形式的には大統領の連続再選を可能とする憲法改正の是非を問うものだったが、実際はバヤダレスの再選を国民に問うものであった)を実施したが、改正案は否決された。
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