米軍介入前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:11 UTC 版)
1994年春、30人のターリバーンが地元カンダハール州の軍閥を攻撃。これが、ターリバーン初の軍事行動となった。 1994年11月、アフガニスタン第二の都市、カンダハール市を制圧した。 1995年2月、首都カーブル周辺に布陣していた軍閥ヘクマティヤール(元首相)派を破った。 1995年3月、アフガニスタン・イスラム国のアフマド・シャー・マスード司令官と和平交渉するも、決裂しカーブルで内戦再開。マスードの攻撃を受け、ターリバーンの下に逃れたハザラ系シーア派武装勢力の司令官アブドゥルアリー・マザーリーが不審死。 同月、マスード率いる政府軍がカーブルで市街戦を開始し、ターリバーンは郊外に撤退した。 1995年8月、西部ヘラート州から南部カンダハールに向けて進撃してきたイスマーイール・ハーン率いる政府派部隊を補足し勝利。追撃を続けたターリバーンはそのままヘラートを占領し、イスマーイール・ハーンはイランに逃亡した。 1996年8月、ターリバーンはアフガニスタン東部ジャラーラーバードを攻略。 1996年9月、カーブル攻略。共産党政権時代の大統領ムハンマド・ナジーブッラーを処刑。続けて、ドスタム・ラッバーニー・マスードに対し死刑を宣告。 1997年5月、ドスタム派の支配下にあったバルフ州の中心都市マザーリシャリーフを攻略中のターリバーンが、ハザーラ人やアブドゥル・マリクの反乱に遭い敗北。捕虜となった数千人のターリバーンは、ダシュテ・ライリ砂漠にてウズベク系のマリク部隊とハザーラ人の武装勢力によって集団処刑された。 1997年7月、ターリバーンはドスタム派の中心地であるファーリヤーブ州とジョウズジャーン州を西方から急襲し素早く攻略。ヘラートから東進してきたターリバーン部隊は前二州に続けてバルフ州のドスタム派を無力化した。 1997年8月、マザーリシャリーフを攻略したターリバーンは、前回の復讐のために、何千ものウズベク人やハザラ人を大量虐殺した。バルフ州のターリバーンはシーア派はムスリムではないとして、ハザラ人に改宗か死の決断を迫った。一連の出来事の中でシーア派のイラン外交官10人が殺害された。 1998年9月、ターリバーンはバーミヤーンを攻略した。 2001年3月、ターリバーンはムハンマドの偶像破壊に倣って、バーミヤーンの大仏遺跡を爆破した。 2001年10月、米国を主導とする不朽の自由作戦が開始された。 2001年11月-12月、カーブルやカンダハールといった主要都市が北部同盟軍・地方軍閥・多国籍軍の侵攻で陥落し、ターリバーン政権崩壊。
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