モスコソ政権の成立と運河返還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 18:32 UTC 版)
「パナマの歴史」の記事における「モスコソ政権の成立と運河返還」の解説
与党PRDでは、バヤダレスが再選を目指し国民投票を実施したことから候補者選出が難航したが、当時35歳だったマルティン・トリホス(父親はトリホス国家警備隊最高司令官)が候補者に選出された。一方、野党アルヌルフィスタ党でも候補者選出は難航し、党内予備選挙でモスコソに敗れたバヤリーノがアルヌルフィスタ党を離党しキリスト教民主党から大統領に立候補した。 1999年5月に実施された大統領選挙では、野党アルヌルフィスタ党のミレーヤ・モスコソが総投票数の43.0%を獲得して勝利し、同年9月にパナマ史上初の女性大統領となった。一方、同時に実施された国会議員選挙ではPRDが善戦し、71議席中34議席を獲得した。 1999年12月14日、新運河条約に基づき、ミラフローレス閘門に設けられた特設会場において運河返還式典が実施され、各国代表の出席の下、モスコソは、カーター元アメリカ合衆国大統領と運河返還に関する文書を交換した。また、12月31日正午にパナマ運河及び運河流域がアメリカ合衆国からパナマに返還された。 運河返還後の対米関係の構築及び中米諸国との連帯がモスコソ政権の外交課題であったが、アメリカ合衆国とは運河返還に前後して経済と環境、貿易と農業、司法改革、安全保障をテーマに協議が行われた。2003年6月に訪米したモスコソはブッシュアメリカ合衆国大統領との会談で二国間自由貿易協定 (FTA) 交渉開始に合意し、2004年4月から交渉が開始された。さらに、2000年7月から12月及び2003年1月から6月まで中米統合機構 (SICA) 議長国を務め、第19回サンホセ・フォーラム(2003年5月)、日・中米フォーラム(2003年5月)等を主催した。また、中米との自由貿易協定 (FTA) を推進しており、エルサルバドルとのFTAは2003年4月に発効し、コロンビア及びドミニカ共和国とは貿易リストの拡大に合意した。 2003年11月3日、パナマは共和国100周年を迎え、世界各国から代表を招き祝賀行事が行われた。 モスコソ政権は、貧困緩和、人権擁護、社会正義の実現、環境保護を基本政策として、50億ドル以上を投資し社会政策を実施したが、有能な経済政策立案スタッフの不足、2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロを契機とする世界経済の停滞、ブラジル・アルゼンチンの経済危機等により、経済成長は鈍化し失業率が上昇した。2002年以降、開発信託基金法及び両洋間地域庁設置法の一部改定及び税制改革等を行い、また、アメリカ合衆国経済の回復、政府による投資効果(インフラ投資による建設ブーム)、港湾・通信・観光部門の成長によりパナマの経済状況は改善したが、モスコソ政権に対する国民の支持は回復しなかった。 2004年5月に実施された総選挙では、アレマン元外相を擁する与党アルヌルフィスタ党は、モスコソ政権に対する国民の支持が低いこと、エンダラ元大統領が所属していたアルヌルフィスタ党からではなく連帯党から立候補し、アルヌルフィスタ党の支持基盤が分裂したことなどにより惨敗し、マルティン・トリホスを擁した野党PRDが圧倒的勝利を収め、失業、汚職、貧困への対策を掲げた同候補が大統領に当選した。 しかし、2005年6月に制定された社会保険庁改革法により年金受給年齢の引き上げが決定されると、労働者や学生が猛反発し、各地で大規模なデモが起きた。福祉重視か福祉軽視かの二択で揺れ動くトリホス政権の基盤は揺らいでいる。 2009年5月の総選挙においては、民主変革党(CD)から立候補したマルティネリが「変革」を訴えて国民の幅広い支持を獲得し、60%もの高い得票率で大統領に当選した。年金改革や教育カリキュラム改革、都市交通問題への対処等の選挙公約を実行しつつある。
※この「モスコソ政権の成立と運河返還」の解説は、「パナマの歴史」の解説の一部です。
「モスコソ政権の成立と運河返還」を含む「パナマの歴史」の記事については、「パナマの歴史」の概要を参照ください。
- モスコソ政権の成立と運河返還のページへのリンク